第152話 自分の仕事
ワンナウト一二塁から、ランナーを三塁に進めてまで、バッターとの勝負を避けた。
先頭の竹園はそれだけ今日も打っているので、そういう判断なら従う。
耕作はただひたすら、サイン通りに投げるマシーンになる。
打たれても打たれても、なんだかんだ言って野手の正面に飛ぶというのは、よくあることなのだ。
二番バッターが内野フライでアウトになりこれでツーアウト。
あと一つアウトを取れば、ベンチに帰れる。
それも無失点でだ。
そんな欲を出したのが悪かったのか。
三番の北野も、危険なバッターのはずであった。
上山は満塁だが歩かせてもいいぐらいのコースを要求したのだが、さすがにここで耕作のコントロールも甘く入り、それを痛打する。
ライト線を破り、長打となる。
ライトの塩崎からはダイレクト返球、中継には肩の強いファーストの宇垣が入った。
ランナーが二人帰ったが、三人目の帰還は阻止。
だがこれで二点が入り、9-9の同点となる。
八回の表で、ようやくまた追いついた蝦夷農産。
だが秦野は、追いつかれたこと自体は問題にはしない。
秦野が見ていたのは、打たれた耕作の表情である。
こういう時、おおよそのピッチャーは虚脱してしまうことがある。
だが耕作は唇を噛み締めていて、力を失ってはいない。
(続投だ)
(マジですか)
ユーキを抑えに使うというのは、試合前からの作戦通りである。
だがせめてこの状況なら、山村をマウンドに戻した方がいいのではないか。
あるいは悟に投げさせたほうが、球自体は速い。
だが秦野は、あと一つのアウトを求める。
これは甲子園の決勝であって、一年のピッチャーに経験を積ませるような場面ではない。
それでも監督がそう指示を出せば、その範囲内で最善を尽くすしかないのか。
ここまで勝ち残ったのなら、優勝したい。
そしてユーキが投げれば、この場面はどうにかなると思うのだ。
そんな上山は、マウンドの耕作を見る。
満塁から長打を打たれ、二点を取られたのにもかかわらず、目が死んでいない。
上山がもし逆の立場なら、絶対に心は折れている。
まして自分の代わりはいるのだ。なのにマウンドに立ち続ける意思がある。
なるほど、こいつはピッチャーだな、と上山は思った。
耕作にしてみれば、それほど特別なことではない。
折れてしまうような繊細な神経では、大地や天候、太陽と戦う農家はやっていられないのである。
戦う相手がはっきりしていて、自分のやることも分かっているなら、こんなに楽なことはない。
状況に対して諦めないマインドと、どうしようもないことはあっさりと忘れるメンタルが、上手く調和している。
そんな耕作の投げた球は、またも外野に飛ばされたが、センターの正面でアウト。
スリーアウトで八回の表が終わる。
秦野としては確かに、あの場面でユーキを送ってもよかった。
だが既にランナーがいる状態では、あまり継投をしてこなかったのが秦野である。
もしユーキが崩れたら、山村か悟あたりになげさせるしかない。
それでも結局追いつかれたのは、監督の判断ミスといってもいい。
八回の裏は白富東もラストバッターからの攻撃で、上手くいけば悟にまで回る。。
だが蝦夷農産も押さえの関口にピッチャー交代である。
ストレートのスピードは一番速いのだが、それでも白富東を抑えるのは難しい。
ワンナウトランナー一二塁となって、三番の悟である。
悟は打席に入って、守備のポジションを確認する。
深く守った内野と外野は、悟の打球速度を計算してのものだろう。
ただこれなら普通のヒットなら打てるのではないか。
あちらの攻撃は残り一回で、こちらはユーキを出すのだから、この回に一点を取れば、勝てる確率はかなり上がる。
ワンナウトだからダブルプレイだけは避けて、飛ばしていくことを考える。
しかし悟であっても、打率10割を打っているわけではない。
関口の投げたスプリットを、ダウンスイングで打った、強烈なゴロは三塁線を抜けるかと思ったが、サードのグラブにギリギリで収まる。
それをそのままサードベースを踏んでフォースアウトにしたが、一塁ランナーの宮武は無事に二塁にまで進んだ。
ツーアウトにはなったが、まだランナーは二人いる。
そしてバッターボックスには、長打の打てる宇垣。
大歓声の中で、バッターボックスに入る。
ここで打てば、おそらく試合が決まる。
打てなければひょっとしたら、またユーキからさえ、一点ぐらいは取ってしまうのが蝦夷農産だ。
変に力を入れすぎることなく、宇垣は打席に入る。
長打が出ればいい。だがシングルでも二塁ランナーはツーアウトだから自動スタートが切れるので、ホームにまでは帰ってこれるかもしれない。
悟が打ち損じたスプリットだけは注意して、宇垣は狙い球を絞る。
一点が入れば、蝦夷農産に対しては圧倒的に心理面では優位に立てる。
ユーキをここまで温存したことで、延長戦まで視野に入れた試合展開となるのかもしれない。
もしそうなら秦野の判断は、結果的に正しかったと言うべきか。
だが前の二点がなかったら、九回の表を抑えて勝っていた。
仮定の話は今は意味がない。
宇垣は目の前の一球に集中する。
内野は深め、外野は浅めで、バックホーム体勢だ。
欲張らずに、自分の出来るバッティングをする。
追い込まれる前に手を出して、高めのボール球。
だが打球はセカンドの頭を越えて、ライト前へ。
宮武は三塁を回るが、これはギリギリのタイミングだ。
中継を経ずに戻ってきたボールの方が早い。
キャッチャーの追いタッチが宮武の背中を叩いて、コールはアウト。
9-9の同点のまま、最終回の攻防に入る。
ランナー二人を出した時点で悟に回った時は、勝ったなとも思った秦野である。
だが現実はそう甘くはなく、主砲である三番と四番がヒット性の打球を打っても、守備陣の好プレイと外野からの好返球によって、点が入らなかった。
ただ蝦夷農産の抑えである金子は、それほど恐れていたピッチャーではない。
今の攻撃は、はっきり行って運とタイミングが悪かった。
白富東もここで、抑えのユーキを投入する。
蝦夷農産も打順は五番からで、良くも悪くもない。
「三人で終わらせよう」
上山の言葉に、無言で頷くユーキである。
ユーキもまた、プレッシャーには強いというか、感じないタイプだ。
アフリカやアメリカにいた頃は、日常の中にもっと危険があった。
だが日本では、そもそもの治安が良すぎるのだ。
環境の変化によって培われたユーキのメンタルは、この大舞台でも揺るがない。
五番から始まるこの回、ツーシームを主体のピッチングで三人とも内野ゴロで始末する。
白富東最速とはいえ、傲慢にストレートだけで抑えようとすることはない。
これもまたユーキの、ピッチャーとしての特徴だ。
九回の裏がやってきた。
白富東の攻撃は、五番の上山から。
ホームラン一発でサヨナラであり、そうでなくてもキャッチャーでありながら上山は、かなりの俊足だ。
先頭打者として出したくないと、蝦夷農産は考える。
だが確実に三振を取ることは難しい。なのでやはり、スプリットを上手く使っていくしかない。
上手く打たせて取りたい。何より長打は警戒で、低めを攻める。
低めだろうなと上山も分かっていた。
初球から振っていって、センター前に抜ける。
ノーアウトでランナーは一塁。
六番の塩崎に求められるのは、最悪でも進塁打。
だがこの後の七番にユーキが入ってしまっていることを考えると、それ以上を求めてしまう。
八番は花沢、九番は山村と考えると、得点するには代打を使う必要があるだろう。
あるいは花沢がスクイズを決められる状況に持っていくか。
延長に入った時のために、ユーキ以外にも念のため、山村は残しておきたい。
ベンチから出せるサインなど、最悪でも進塁打、ぐらいしかないのだ。
右方向に打つ。
塩崎はそれだけを考えて、打席に入る。
それなりに足の速い上山だが、下手に打ってダブルプレイになる確率はある。
塩崎はこの場面で、プレッシャーを無視できるような性格はしていない。
関口の決め球はスプリット。
ただし確実にこれで三振が取れるとか、それほどのレベルの変化球ではない。
(弱気になるな)
低めに決まったゾーン内のボール。この初球は打てた。
ただ打っても、内野ゴロになっていただろう。
一度打席を外して、二度素振りをする。
重要な場面だ。チャンスではあるのだが、下手をすれば一気にダブルプレイにもなりうる。
延長になっても10回の表は、蝦夷農産は下位打線からだ。
もっとも白富東も下位打線からになる可能性があるので、たとえ点が入らず残塁になったとしても、ヒットを打っておくにこしたことはない。
(これが最後の打席だ。悔いがないように)
そしてやや高めに入ったストレートを、塩崎はセンター返しにした。
センターが前進してくる。打球はライナーともフライトも言いがたい。
これはひょっとして、センターがダイレクトに捕ってしまうのでは。
上山はそう考えると、進むことも残ることも出来ない。
ぎりぎりのところで落ちたが、すぐにセンターはそれを捕球する。
そこから走り出した上山だが、センターはセカンドに送ってアウト。
いい当たりであったのに、むしろそれが仇になった。
ワンナウト一塁で、状況はやや悪化。
バッターがユーキなので、当たればそれなりに飛ぶのだが、打率や出塁率はそれほど高くない。
秦野としては難しいところだ。
関口の持ち球がスプリットであることを考えると、内野ゴロを打ってしまう可能性は高い。
そこでダブルプレイになると、打順も進まない。
10回の裏に上位に回らなければ、蝦夷農産の下位打線の攻勢に負けることもありえる。
秦野の出したサインは、送りバント。
そしてさらに勝負を賭ける。
代走として、足の速さだけなら悟を抜いて最速の長谷を使う。
ユーキはしっかりとバントの練習はしているため、これは成功する。
俊足の長谷が、二塁のランナー。
そしてバッターは八番の花沢。
ここでも秦野は札を切る。
元々怪我をするまでは、スタメンでセカンドを守っていた石黒。
甲子園でも結果を残して、ここで代打に送られる。
九回の裏、同点でツーアウト二塁。
代打は地区大会でも甲子園でも結果を出している、切り札とまでは言わないが、絶対に甘く見てはいけない打者。
蝦夷農産バッテリーはバッターに集中。
秦野はここで、初球にスプリットを使ってくることに賭ける。
代打で出てきた結果を残している打者に、初球からストレートは投げにくい。
変化球で入る。おそらくはゴロを打たせられるスプリットで。
バウンドするほどの落差はない球だが、それでも捕球はしにくい球だ。
だから秦野が長谷に出したサインは、初球スチール。
こんな機会が、あるかもしれないとは思っていた。
だから長谷にはランナーコーチをさせていたし、これまでの試合でもピッチャーのフォームを散々に見せてきた。
(行けるか?)
(行きます)
バッターに集中した関口は、一応はクイックモーションでは投げてくる。
だが長谷はここまで、甲子園では一度も出ていない。
なので三盗という選択が思い浮かばなかったのか。
足が上がった瞬間、長谷はスタートした。
リードはそこそこであったため、あまりバッテリーは意識していなかった。
本当に足を使ってくるなら、先に二塁へ盗塁してから、三塁への送りバントだと思ったのだ。
低めのボール球。キャッチ。右打席の石黒が邪魔。一歩移動して送球。
わずかの差で、長谷の足の方が早い。
ツーアウトランナー三塁。
クリーンヒットでなくても、サヨナラのある状況。
決勝はいよいよ佳境を迎えていた。
×××
本日は群雄伝を投下しています。
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