第137話 そしてまたどこかで

 ワンナウトランナー一三塁。

 内野ゴロを上手く転がされたら、その時点でサードランナーがつっこんで試合は終わる。

(さて、お前らはどう考える?)

 わざわざ代打を出してきた白富東相手に、ここで採るべき手段は一つしかない。

 満塁策だ。

 一点を取られても二点を取られても、とにかくサヨナラになるのだから、ホームでもフォースアウトが取れる満塁に、しない理由がない。

 ランナーが一二塁ならもちろん違うが、既に三塁にランナーがいるのだ。

 冷静に考えれば、ごく普通に思いつくというか、思いつかなければおかしい。


 指示は出さない。

 ここで普通に気付いて、その選択肢に進め。

 そのぐらいのことが出来ないのであれば、どのみちこの先には勝ち進んでいけない。

 おそらくベスト8までは進めるだろうが、そこまでだ。


 全国制覇に必要な分の、戦力が足りていないのだ。

 だからこの大会の間に、一気に成長する必要がある。

 試合を勝ち進む中で、勢いをつけなければ最後までは届かない。


 だが岸和田はベンチを窺うでもなく、そのまま座った。

 合理性ではなく、感情を取ったのか。

 それで福永が力を振り絞り、バッターでアウトを取る覚悟を決めたのなら、それは間違いだと言ってやれる。

 そういった選択肢を取っていいのは、本当にここまで全力を尽くしてきた人間だけだ。

 世界はそう都合よく、福永を中心に回っているわけではない。


 代打で出た石黒の構えは、あまり大きくない。

 スクイズ警戒のサインを出したが、そこまで気付くならどうして満塁策に気付かないのか。

 戸草が出せば、それで済む話でもある。

 だが、自分たちで気づけ。




 初球のアウトローに対して、石黒はバットを寝かせた。

 スクイズ。ファーストとサードがチャージしてくる。

 だがゾーンから外れた球に対して、石黒はバットを引く。

 三塁ランナーの悟も、ややベースから離れたものの、スタートは切っていない。


 セーフティスクイズか。

 確かに上手く転がされたら、それでも決まるだろう。

(チャージしまくってミスさせる。もっと突っ込んで来い)

 岸和田は守備陣にサインを送って、福永にもサインを送る。


 低めに投げて転がされたら、セーフティスクイズならホームで間に合うかもしれない。間に合わないかもしれない。

 だがそこで一つに絞るべきなのか。

 バントの姿勢からバスターでもされたら、内野の頭を越えていく可能性がある。

(ストレートを高めに投げて、内野フライで殺そう)

 球威に頼った組み立てになるが、代打でいきなり出てきた選手なら、どうにか通用するはずだ。


 高めで浮かせるという案は悪くなかった。

 だがこの追い詰められた場面で、岸和田も状況を都合のいい方にばかり考えている。

 石黒はむしろ、その高めを待っていたのだ。


 バントの構えに、チャージしてくるファーストとサード。

 石黒のバントは強く、そのファーストの頭の上を越した。

 滞空時間が長い。

 ピッチャーの福永は、マウンドからその小フライをキャッチに向かう。


 その移動と、バントした石黒との移動が交差する。

 激突はしなかったものの、石黒の動きに気を取られて、福永のグラブはボールに届かない。

 打球は地面にバウンドし、石黒は福永を避けたために転倒し、ボールはセカンドが取ったが、もうホームには間に合わない。

 ボールを手の中に持ったまま、悟がホームベースにスライディングするのを見た。

 審判の手は横に開いた。


 サヨナラだ。ゲームセット。




 今のは良かったのか。

 石黒はバントを打ち上げたが、それを捕球しようとした福永と交錯しそうになり、結果的には守備妨害にも似たプレイに見えた。

 だが石黒はあくまでファーストを目指しただけであるし、その走塁範囲も間違いない。

 故意に守備を妨害したとは言えないし、打球にも触れていない。


 わずかにわだかまりは残る。

 だが青森明星の戸草は、全く動かなかった。

 今のはどのみち、判定が覆ることはない。

 それに判定が変わったとしても、ホームを踏んだ悟が三塁に戻されるプレイでもなかった。

 つまり、負けは負けだ。


 整列し礼をしたが、青森明星のメンバーは、白富東とも目を合わせようとすらしなかった。

 ただ岸和田だけが、キャプテンとして宮武と握手した。

「またどこかで」

 岸和田の言葉に、宮武は頷く。

 野球をやっていれば、またどこかで会うこともあるだろう。

 高校野球はこの一瞬だけのものだが、野球をやり続けるのは人によって様々だ。

 大学でもプロでもプレイしなくても、どこかでは出会うかもしれない。


 春のセンバツ準優勝の青森明星と、ベスト8の白富東。

 どちらかというとやや白富東が上と言われていたこの大会初日の第二戦目は、九回の裏のサヨナラで白富東が勝利した。




 ベンチに戻った青森明星のメンバーは、沈黙したまま荷物を片付ける。

 春はここで、最後まで戦った。

 夏は初日で全てが終わった。

「土、どうするよ……」

「別にいらねえべさ」

「いらんのじゃったら、普通に入れてもよかろうが」

 わずかな会話も、事務的なものであった。

 この年の三年生は、そういうものであったのだ。


 戸草はその中で、不満そうな顔をしている者たちを見つける。

 今はまだ、敗北したという事実に打ちのめされている。

 応援団への挨拶も、岸和田だけがしっかりとしていて、他は頭を下げただけの放心状態だった。

 これからインタビューを受け、宿舎へ帰り、敗北の実感が湧いてくるのだろう。

 そして三年生は、ただ負けただけではなく、高校野球が終わったことも。


 バスの中でも、沈黙は続いた。

 福永の寝息が聞こえる。涼しい冷房の中で、疲れが出たのだろう。

「……帰ったらどうすんべえ」

「あ~、進路かあ」

「何も考えてなかったべさあ」 

 腑抜けた声が、わずかずつ洩れてくる。


 負けたのだ。

 おそらく負けることの実感を、これまでどういうものなのか、想像すらしていなかった。

 去年の三年生たちが負けた時は、長い夏休みの練習に、さんざん愚痴をこぼしていた連中が。

「やりようによっては勝てた試合だったな」

「んなこと言うても、もう終わった話じゃろが」

「二年はまあ、帰ったら監督と話せばよかべさ」

 ぼんやりとしている。そしてそれも無理はないなと戸草は思う。


 野球しか出来ないやつらが何人もいる。

 そいつらの中の何人かはこれで、もう野球を引退することがある。

 これまで生活の中心にあったものを失って、どうやって生きていくのか。

 戸草は教師ではないが指導者なので、その先もある程度考えていかないといけない。


 接戦だったし、見せ所のある試合であった。

 誘いのあった大学やプロに進める者もいるだろうし、これから大学のセレクションを受けるという道もある。

 あれは夏休み中なので、早く準備をしないといけない。

 また大学にまでは行きたくないと思っていても、社会人という道もある。

 まだ野球に関わる気があるなら、それはまだ戸草の教え子ということだ。


 青森明星の甲子園は終わった。

 だが夏はまだ終わらない。




 どうにかこうにか勝った、と言える試合であった。

 先制点を許したのは、相手のチームが乗ってきたらまずいと思ったが、上手く上山と文哲のバッテリーはその勢いに乗らせなかった。

 あの未成熟なチームを思えば、むしろ一回戦で当たれたのは幸運であったのかもしれない。

 夏の甲子園を勝ち進めば、チームは一気にその力を爆発させることがある。

 準々決勝あたりで当たれば、消耗しているから楽だと考えたが、あのチームと実際に対戦してみたら、それは浅薄な考えだと分かった。


 とにかく勢いで勝つチーム。

 それが勢いに乗る前に当たったので、勝てたという部分が大きい。

 インタビューでもとにかく、バッテリーと守備を誉めた。

 エラーもなく打たせて取ったので、点差を離されることなく同点に追いつけたのだ。


 ユーキへの継投も、不安がなかったわけではない。

 だがその不安を払拭してくれたのが、来年のエース様である。

 一回戦で厳しい相手と戦い、そして勝利した。

 二回戦までには回復出来るから、経験値を多くした状態で次の試合に挑める。


 宿舎に戻って、まずは着替えてこの日の最終試合を見る。

 勝った方が二回戦の相手だ。

 地元兵庫の帝都姫路と、高知の瑞雲との対決。

 帝都大学の付属校はいくつかあるが、間違いなく一番強いのは、そのお膝元の帝都一である。

 本当に中学の時から期待されているエリートは、よほどの事情がない限りはそちらに回される。

 特待生でない一般入学や、地元を離れられない事情などがあると、こちらに回されるというわけだ。

 それでもチーム数の多い兵庫の代表なので、弱いわけはない。

 私立でも地元出身の選手が多いので、それはもう大変な応援となるわけだ。


 そんな戦力以外のところを見れば、帝都姫路の方が有利にも思える。

 だが高知の瑞雲は、それと互角以上に戦う。

 まだ新設されてそれほどの年数も経過していないのに、高知県では完全に二強。

 名門の座に胡坐をかいていたチームに対して、様々な改革をした瑞雲は、むしろ甲子園の出場成績では、この数年リードしている。




 そして瑞雲が勝った。

 主導権を渡さない試合運びで、4-2という無難なスコアでの勝利。

 ただ事前の情報でも分かっていたことだが、試合を見ても確かなことは感じる。

 勝てない相手ではない、ということだ。


 風呂を浴びて食事をして、さてミーティングである。

 まずは今日の反省であるが、特にこちらにミスと言えるほどのミスはなかった。

 ホームランで一点を取られたものの、その後に出たランナーも容易には進ませない。

 球数は使ったものの集中力を保って、七回まで投げた文哲は、自分の役割を果たしたと言っていい。

 そしてユーキもピンチをしのいで、向こうの打線を封じ込めた。


 むしろ反省すべきは、あちらの方であろう。

「監督、どうして最後の九回裏、向こうは満塁策を使わなかったんでしょう」

 代表して宮武が質問するが、どうやら大浴場でもその話はしていたらしい。

 他にも何人かが頷いて、そういえばそうだな、という顔をする者もいる。


 秦野としても、あの場面はよく意味が分からなかった。

 こちらがわざわざ代打まで出したのだから、一点取られれば終わるというあの場面、満塁にしない理由がない。

 こちらの代打を空振りさせた上に、フォースアウトに出来る状態になったのだから。

 国立とも話していたのだが、おそらくこれかなという程度にしか推察出来ない。


 満塁策は、間違いなくあの場面での最適解だ。

 それを選ばなかったのは、選手たちに全てを任せたのか。

 だがまともな監督なら、あの場面で采配を放棄するなど考えられない。

「つまり、分からないんだ」

 秦野の返答に、がっくりとくる一堂である。


 ただ、一つだけはっきりしていることはある。

 青森明星は最適解を選ばないチームであり、そしてそれゆえに敗れたということ。

 強引に理由を出すとしたら、エースがバッターと勝負したがったというぐらいか。

 だがそれもベンチから申告敬遠を出せば、それでどうにでもなったのだ。


 エースの福永と、四番の柿谷、そしてキャッチャーの岸和田。

 あの三人はプロ注の選手であり、おそらく上でも野球をやるだろう。

 この夏こそ一回戦で敗北したものの、センバツでは準優勝に輝いたのだ。

 そこまでのスペックはあるのだから、素質を見込んで指名というのは充分に考えられる。

「明日は三回戦で当たるかもしれないチーム二試合を見たら、グラウンドで練習するからな。今日はゆっくり休め」

 瑞雲と戦っても、おそらくは勝てると思う。

 青森明星に比べれば、チーム力では確かに下なのだ。

 だが今日の青森明星の動きに不自然なところがあったように、甲子園では何が起こるか分からない。


 ともあれ初日に行われた初戦。

 白富東は苦戦しつつも一回戦を突破した。

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