第135話 ベンチの中から
青森明星の戸草監督は、大学野球と社会人野球を経由した、まっとうな経歴を持つ大人である。
知的な銀縁メガネをかけているが、顔中に傷があって、どこのヤクザだよと思われる40代後半。
頭髪が少し寂しい若禿なので、スキンヘッドにしたらますます極道。
ただ息子さんは「太陽拳!」とおおはしゃぎだったそうな。
そんな人相も目付きも悪い戸草監督であるが、野球に関する頭脳は優秀である。
電車の中ではお年寄りや妊婦さんに席を譲るナイスガイで、それでも席がなければ若者に「にいちゃん、ちょっと席譲ってあげんか?」と尋ねるアグレッシブなところもある。
いい人だからこそ、悪ガキの面倒を見ることが出来る。
戸草はそんなマンガのキャラクターのような人間である。
「で、お前らこのまま負けるつもりか?」
ベンチの前で選手たちを半円形で座らせ、自身はウンコ座りの戸草である。
凶相の持ち主の選手たちであるが、戸草の持つ落ち着いた目で見られると、どこか居心地が良すぎて気持ちが悪くなる。
「キャッチャーもピッチャーも落ち着いとるけえ、そうそう振り回しとっても当たらんじゃろうが」
岸和田の言葉に、目を背けながらも否定はしない。
このままではまずい。そうは感じている。
だが具体的には何をすればいいのか。
攻撃側としては単純である。
好きなコースだからといって、ブンブン振り回していてはいけない。
おそらく好きなコースにきてもジャストミートして長打にならないのは、手元でわずかに動いているからだ。
「引き付けて引き付けて、一気に打て。ただ大振りするより、その方がちゃんと飛んでいく」
フルスイングは別にいいのだ。
だが必要な時に必要なバッティングをすること。
あと狙い球が間違っている。
好きなコースに手を出してしまうのが、今の打線の悪いところだ。
ただ普段ならばそれでも、内野の間を抜いていったり、その頭の上を越したりする。
それが野手の処理範囲というのは、やはり運も悪い。
野球には運要素がある。
だからと言って頭脳なくして勝てるわけでもないので、そこはしっかりとした判断をしていかなくてはいけない。
「好きなコースが微妙に変化するのを打っていくか、組み立ての中でストライクを取りに来る難しい球を打つか、その二つだな。とりあえずボールに逃げてく変化球にだけは手を出すな」
バッターに関してはそれでいい。
問題はピッチャーだ。
なんだかんだ言って、ボールを使った練習までは好きな福永であるのだが、地味なスタミナ増強には関心がない。
そのため今日のこの気温でも、おそらくは終盤にスタミナが切れる。
控えのピッチャーでは、左が一人いるのでそこで少し惑わすことが出来るかもしれないが、長いイニングを最後まで投げるのは無理だ。
いざとなれば福永を少し外野に置いて、体力の回復を待つということも考えないといけない。
作戦を説明するのは、福永ではなく岸和田である。
福永にはまともに言っても、どうせ従わないのだ。
そんな気の強さがここまでのピッチングをさせることになったとも言えるし、これ以上の成長には妨げになるかもしれない。
ただ今までは県大会で負けてもあっさりしていたのが、センバツで決勝まで進み、この大会が高校最後ということもあって、今までとは気合の入れ方が違うことは違う
「そのあたりの心理を上手く利用して、球数を増やさないようにするんだ。出来るか?」
「やらないと全国制覇は無理なんでしょ」
岸和田はこのあたり、非常に散文的だ。
勝つために、やるべきことをやる。
キャプテンになってから柿谷や福永以外の問題児もまとめて、秋の大会からセンバツ準優勝まで勝ち進んだのは、間違いなく岸和田の判断力と統率力が高かったからだ。
それまでも県の代表にまではなったが、あそこまで勝ち進むことはなかった。
福永の体力と、他の選手の起用が上手くいけば、などと考えてもいた。
(だけどまあ、無理だろうな)
戸草は勝つために全力を尽くす。
だが優勝には届かない。福永がこの夏の気候の中では、最後までもたないからだ。
それでも勝つために、全力を出さない理由にはならない。
(優勝以外は、全部j後悔の塊みたいなもんなんだろうけどな)
ただ、選手たちには悔いなく戦ってほしい。
岸和田が福永にいうことをきかせるのは難しくない。
だが問題は、ちゃんと福永がそれを理解することだ。
「ここからは球数を制限しつつ組み立てていくからの」
「いや、ホームラン一本以外は、ほとんど抑えてるだろ」
「相手のバッターは怖くねえが、決勝まで投げていくことを考えたら、無理に力で抑えんでもええじゃろが」
遠い目標を持つことによって、目の前の問題をある程度意識しないようにさせる。
福永は単純なところがあるので、これには頷いた。
「まあ守備陣にも仕事させねえといけねえからな」
なんとか福永は納得したらしい。
六回の表の青森明星の攻撃は、下位打線の八番から。
そこを打たせて取って、九番の福永とも対決する。
強い打球だがサード正面でアウト。
つづく一番も外野フライで凡退し、とりあえず休憩明けの攻撃は、すぱっと抑えられた。
裏の攻撃は二番の宮武から。
ここもしっかりと粘っていこうと思ったが、甘く入ってきたボールを叩く。
だがミートした感触はおかしかった。
ショートゴロに終わって結果的には、球数の少ないうちにアウトになってしまった。
打席に向かってくる悟に対して伝える。
「ほんの少し変化したかもしれない。カットじゃなかった」
悟は無言のまま頷き、ベンチに戻る。
「ミスショットか?」
秦野の問いに、宮武は首を傾げる。
「ストレートを打ったつもりだったんですが、球速も少し遅かったし、インパクトの感触も変でした。ほんの少しだけ変化する球かもしれません」
「ここにきて新しい変化球か?」
秦野は首を傾げる。いくらなんでもここまで隠してきたなら、それは用意周到すぎる。
「ビデオチェックをしていたとき、少しシュート回転のかかった球があったから、それじゃないですか?」
国立はしっかりと見ていたらしい。
ただ全体に比してあまりにも少ない数だったので、偶然かと思っていたのだ。
意識してなくても、全力で投げたボールにシュート回転がかかるというのは、普通にあることである。
ただこれを意識的にしているなら、話は違ってくる。
打席の悟は慎重にボールを見ていく。
そして追い込まれた後のストレート。
(これか?)
カットするつもりだったボールを、左方向のフェアグラウンドに飛ばしてしまった。ショートゴロである。
確かに、おかしかった。
手元に来るまで見極めていたつもりであったが、実際はさらに手元で動いたというべきか。
変化量や球速から考えて、ツーシームであろう。
だがその変化は本当に微妙で、それがむしろ打ちにくくなっている。
「ほんのちょっとのツーシームだ」
「ほんのちょっとかよ、めんどくせえ」
そして宇垣は打席に入る。
ほんのわずかに動く、ビデオで見たらストレートとの区別すら付きにくいツーシーム。
スライド系の変化球しかないと思っていた福永なので、わずかでもシュート方向に動くボールは貴重だ。
それをここまで投げてこなかった。
「ある程度打たせて取る方向に、バッテリーがチェンジしたんだろうな」
秦野としてはそう思う。おそらくピッチャーの立場としては、曲がるというよりずれるといった程度のボールは、あまり使いたくなかったのだろう。
だが今までとは違う球種を一つ使うだけで、バリエーションは一気に豊富になる。
スコアを捲ってみれば、確かに終盤には三振が少なくなっている。
終盤の球威の衰えも、確かにあるのだろう。だがそれよりはこのボールを使っていたと思うべきか。
あるいは三振が奪えなくなるから、この変化球を混ぜるようになったのか。
(とにかく終盤の前、六回からこれを使わせたのは大きいな)
使っている球種が分かれば、あとはリードのパターンから読めばいい。
もう一イニングあれば、それも読みきれるだろう。
宇垣の打球はレフト方向、ファールグラウンドでキャッチされてフライアウト。
明らかにボールは、左方向に打たされている。
不快そうな顔を隠しもせず、ベンチ、に戻ってくる宇垣。
それに対してあちらのバッテリーは凶暴な悪い笑みを浮かべている。
思い通りに打ち取れて、それはそれは嬉しいのだろう。
ただ、秦野もこの程度ならばどうにかなる。
「よし、じゃあ攻撃の前までに、ちゃんと打ち方をまとめておくから、とりあえずこの回を守って来い」
回は七回の表。
甲子園のマモノが活動しやすいイニングである。
球数を使ってでも、しっかりと打ち取っていかないといけない。
その思いが強すぎたのか、先頭の二番打者にはフォアボール。
そしてバッターボックスに入った三番は、バントを仕掛けてきた。
送りバントではない、自分も生きるバント。
だがフィールディングのいい文哲はこれを、しっかりと一塁でアウトにする。
ランナーが一気に三塁まで進むような奇襲もなく、ワンナウトで四番の柿谷に回った。
一塁が空いているので、歩かせようと思うなら歩かせてもいい。
ただし五番の岸和田もいいバッターであるし、同点の七回でもう一人ランナーを出すというのはどうなのか。
ここまでだな、と秦野は判断する。
イニングが進むごとに、ちゃんと準備はさせていた。
ピッチャーは文哲に変わってユーキである。
精密なコントロールと配球の文哲に比べると、パワーで押すタイプ。
だがカットとツーシーム、そしてチェンジアップに、新しくカーブなどの変化球を揃えている。
速球を持つピッチャーであるが、ここはパワーで押す相手ではない。
マウンドの上では秦野の指示を受けて、上山と会話する。
速球派を出していながら、あえて変化球を見せる。
さて、上手くいくのだろうか。
投球練習も終わり、柿谷へ投げた初球。
打った当たりは大きかったが、完全にライト方向へと消えるファールであった。
そこからもまた、ストレートを投げるユーキ。
だがボール球を二球見極められて、その後に投じたのはチェンジアップ。
今度は逆に、レフト方向にファールの打球が切れていく。
ここまでストレートとチェンジアップを見せてきた。
普通なら他の球種で、目線を誘導するだろう。
指示を全く無視しているバッテリーに、秦野は苦笑いである。
実際にバッターと対決すれば、バッテリーにしか分からないものがある。
それにここまでの組み立ては、悪くはない。
アウトローにカットボール。ぎりぎりのところから、ゾーンの外にわずかに変化する。
これを柿谷は見送って、フルカウントになる。
アウトローに逃げる球を見せれば、次は内を攻めてくるのか。
ただ柿谷は内角には強いのだ。
それでも投げるボールは、内角へのストレート。
柿谷のスイングは、わずかにボールにかすっただけに終わった。
四番を三振に取る、いい感じの入り方である。
ここはまだツーアウトであり、バッターボックスには二番目に厄介なバッターである岸和田。
こいつも地方大会ではホームランを打っており、それでいて打率もいいという面倒なバッターだ。
ムービング系の変化球で、ファールを打たせてカウントを稼ぎ、そして今度はチェンジアップ。
バットの先がボールに当たり、ピッチャーゴロでスリーアウト。
魔の七回を、白富東は継投で乗り切った。
そして今度は、青森明星が裏を守る番である。
白富東の攻撃は、五番の上山から。
秦野ではなく国立から、しっかりとシュート回転の打ち方は教えてもらった。
もっとも別に、たいした技術が必要なわけではない。
普通のピッチャーであれば、カットとツーシームを投げる者は、それなりにいるのだ。
変化球をカットしていって、ストレートを待つ。
このピッチャーは難しい場面では、ストレートを投げたがる。
そしてキャッチャーは手綱を握り過ぎない。
追い込んでからのストレートは、ここまでに比べて明らかに球威が落ちている。
上山のピッチャー返しはその頭の上を抜け、ほとんどライナーでセンターのグラブに収まった。
ワンナウトであるが、変化球は普通にカットして、ストレートを狙い打ちした。
飛んだコースが悪かったが、ストレートの対策はしっかりと出来る。
九回の裏までには、もう一度クリーンナップに打順が回ってくる。
その時が勝負だ。
「あっちも下位打線だが、油断するなよ」
守備に就くナインを送り出し、秦野は向こうのベンチを見やる。
「有利ですが、押し切れませんね」
「我慢比べだが、確かに有利だ」
国立とは、この状況を俯瞰で見ている。
持っているピッチャーと、その消耗度。
バッターとその打順。
あちらはもう、ランナーを出さなければクリーンナップに回らない。
こちらは九回の裏には確実に回る。
そこで一気に決められなければ、また勝負の天秤は向こうに傾くのかもしれない。
最後まで油断できない。
緊張感のある、いい試合になった。
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