第129話 呼吸

 試合の流れが来ない。

 先制点はセットプレイで取れたものの、上位の打線がつながって得点という、理想的な形の得点がない。

 もちろんそんな中でも点を取れたのは、喜ぶべきことである。

 だが主力が主力として機能していないのは、心理的な閉塞感をもたらす。


 我慢の時間だ。

 淡々と、一点差のままで、試合を進めていく。

 ヒットが出ても守備の力で、得点にはつなげない。

 おそらくあちらは、ユーキのスタミナを削って降板させて、継投のタイミングを狙ってきた。

 あるいはなかなか得点が入らないことで、こちらをあせらせようとしていた。

 だが秦野の指示で、あえてユーキは打たせるピッチングをしている。

 どうせいつかは、抜いて投げることを教えるつもりだったのだ。それを実戦でいきなりやらせているだけだ。

 

 無茶苦茶な指示だなと最初は思ったナインであるが、守備に意識が向いているうちに、追加点が入らないことに、あせりなどが出ていないことに気がついた。

 ショック療法の一つであるのかもしれないが、それにしても大胆すぎる。

「お前らの方が強いって、はっきり分かるだろ?」

 秦野にそう言われて実感はするが、なかなか認めにくいものである。


 ただ、実力差は確実にある。

 ユーキが二球目までは打たせる目的でゾーンに投げて、追い込んでからは三振を取りにいく。

 その空振りなり見逃しなりの三振のストレートに、反応しきれないのだ。


 ムキになって抑えにくるかと思ったら、クレバーなピッチングをしてくる。

 スタミナがユーキの弱点だと思っていた鶴橋だが、こういうピッチングに切り替えられると困る。

 先発投手を早めに交代させて、向こうのベンチをあたふたさせたかったのだが、まさか打てそうなボールまでカットしていくには、技術が足りない。

 どうするべきかは鶴橋でさえ迷うのだが、とにかくここで下手に試合を動かしたくない。

(参ったな~)

 それが正直な感想である。


 とりあえず今の鶴橋に出来るのは、動かないことだ。

 不動の姿を選手に見せて、動揺しない姿を見せる。

 下手に動いて試合を動かすと、あちらの打線も爆発するかもしれない。

 これはオカルトではなく、鶴橋の長年の直感によったものである。

 ……オカルトと言われても反論は出来ない。




 1-0のスコアのまま、試合はもう七回である。

 初回こそ心配したユーキの球数であるが、ここまで80球で完封の出来ないペースではない。

 しかし秦野は、継投の可能性は高いと見ている。


 打たれてもいいという指示は、普通のピッチャーには気楽な感じで、リラックス出来る精神的な効用もある。

 だがユーキの場合は力で相手を抑えこんで来ていたので、ランナーを頻繁に背負うという、それこそメンタルでの疲労があるのだ。

 ピッチャーの疲れとバッターの慣れから、点が入ることが多いと言われる七回。

 ここでも秦野はユーキをマウンドに送り出す。

 本人の疲労度がまだそれほどでもないと感じたのと、あとは集中力が途切れていないからだ。

「文哲、準備しろ」

 左が多いわけではない上総総合相手には、あまり山村は効果的ではない。

 そして耕作は序盤はともかく、終盤で使うにはまだ頼りないのだ。


 冷静に対応している秦野と違って、外面は冷静だが内心では焦りを感じているのが鶴橋である。

 隣の北村も感情を表に出さず、じっと試合の展開を見つめている。

 ピッチャーとキャッチャーのバッテリー、そしてお互いの監督の我慢のしあいである。

 スタミナ勝負に持ちこんで、それでもきっぱりとバッテリーに方針の転換をさせる。

 鶴橋であったら一度ユーキは外野において、終盤にまたマウンドに戻しておいただろう。

 その判断の正しさなどは証明しようもないが、出るのは結果だけで、正解などはないのだ。


 七回の表も、ユーキは抑えた。

 そしてこの裏は、九番のユーキから始まって、上位打線に戻る。

(追加点はほしいし、そろそろ継投のタイミングでもある)

 ユーキは打席において、バッターとして集中する。

 対する上総総合は、ピッチャーを相手に一息と考えて、相手の様子を観察するのを怠っていた。

 左中間を破る、ユーキのツーベースヒット。

 ノーアウト二塁という、明らかに得点のチャンスである。




 ここで点を入れないとまずいた、と秦野は思う。

 相手を0に封じ続けているピッチャーが、自らの手でチャンスを作ったのだ。

(ここは……)

 単純な送りバントでワンナウト三塁にしても、おそらくは一点が入る。

 しかしそんなバントを、鶴橋が許してくれるとも思わない。


 大石には、バントのサインを出した。

 そしてそのプレイは実行されたが、転がし方が単なる送りバントではない。

 ボールの勢いをあまり殺さず、ファーストの横を抜く。

 セカンドに転がるまでに、大石は必死で走る。


 ピッチャーがカバーに入るも、ボールが一塁に送られるまでにセーフ。

 ノーアウトランナー一三塁だ。

 ここで一点が取れないなら、それは監督の無能である。


 鶴橋としては、初球からバントをしてくるとは思っていなかった。

 だがセーフティで自分も生きるためのバントなら、何球目であってもやりやすい球をやるはずだった。

 ファースト方向への指示も、やや甘かった。

 これでは点を取られても仕方がない。


 ああいったバントまで教える余裕。

 いや、選手の能力を信頼しているから、そういった指導も出来るのか。

 鶴橋のやってきたことは、バントの精度を上げることだけだ。

 怠慢と言うよりは、まずそこを教えるしかなかった。

 根本的なセンスが、違うということもある。


 内野ゴロでダブルプレイ。一点は諦める。

 外野もやや深めに守って、一点の失点はワンチャンスで返す。

 気になるのはピッチャーを打たせて走らせて、次の回も投げさせるのかということ。

 白富東は三年に、二枚のピッチャーが揃っている。

 さすがに一年は、この一点を守るには実力が足りていないだろう。

 一三塁からなら、スクイズもありうる。

 二番の宮武はそういった小技も使えるバッターだ。


 ここでの一点の価値を、どう見るか。

 上総総合の攻撃は、残り二回。

 二点差になっても、ピッチャーが交代するならワンチャンスで逆転があるかもしれない。

 もっともそんな都合のいいことは、ほぼありえないと考えていい。

 だが宮武を確実に三振に取ったり、内野フライで抑えるほど、ピッチャーの能力が優れていない。


 ダブルプレイ。一点はやる。

 敬遠はありえない。悟に満塁で回るからだ。


 七回の疲労というのは、確かに上総総合の方にはあった。

 秦野はそれを、ちゃんと計算に入れている。

 大石にバントヒットをさせて、ピッチャーを走らせたのも、この勝負での伏線の一つだ。

(エース一人に頼らないといけないってのは、やっぱり今では無理があるんだろうな)

 せめて少しの間でも、休ませてやれる控えがいればとは思う。


 宮武は早打ちもせずに、じっくりとボールを見ていく。

 もし自分がアウトになっても、悟には回る、

 そこで敬遠をするとしたら、宇垣。宇垣を敬遠しても上山。

 長距離砲二人を相手にして、抑えられるレベルのピッチャーではない。

 だが、ここで決まる。


 宮武の打球は、全く文句のつけようのないライト前ヒット。

 そしてこれで、二点目が入った。




 負けたな、と鶴橋は悟った。

 クリーンヒットで間違いの起きようのない追加点。

 そしてランナーはまだ一二塁で、バッターは三番の水上悟。


 ここを歩かせても、怖い四番と五番が待っている。

 宮武でダブルプレイを取れなかったのが、一番大きかった。

 せめてフライアウトなどで凡退させていれば、わずかに可能性は残っていただろう。

 だが一点が入り、二点差。

 そしてここで打順には、全国レベルでドラフト注目されている三番。


 鶴橋はそれでも、最善を尽くすための采配を取る。

 必要なのはもう、試合に勝つことではない。

 敗北をどう受け止めるかだ。


 地方大会で五割を打っているバッターでも、打ちそこないというのはある。

 上手くカーブを使えば、確率論だが凡退になる可能性はある。

 もちろんそんな都合の良すぎる展開があるとは、鶴橋も信じてはいない。

 だが監督は、チームの中で最も、勝負を諦めてはいけないのだ。

 敗北を確信するのが、一番早かったとしても。


 カーブを、上手く左バッターの膝元に。

 そのボールはゾーンの中に入っていなかったが、悟は強打した。

 打球はあまり上がらず、しかし伸びてライトフェンスの最上段を直撃。

 二塁ランナーはホームへ、一塁ランナーは三塁ストップ。

 三点目が入り、まだワンナウトも取れていない。

「打たせていくぞー!」

 それでもエースは声を上げる。

 一番折れてはいけないのが、エースの条件である。




 今日もまた、一つのチームの夏を終わらせた。

 ただ一つを除いて、他の全てのチームが、この夏には敗北を経験する。

 最後まで終わりたくない。誰だってそう思うはずだ。

 あるいは優勝するチームの選手でさえ、そう思うのか。


 秦野には、監督としての経験しかないから、その感覚は分からない。

 だが勝つごとに積み重なっていくこれは、重りでもあるし、あるいは爆発するためのガソリンであったりもする。

 感傷はともかく、これで甲子園出場が決まった。

 10季連続、まさに千葉県においては一強とも言える、大記録である。

 だがこれでも、全国制覇には手が届くかどうか分からない。


 SS世代の頃よりも、年々弱くなっている。

 そういわれ続けていながらも、もちろんあっさりと負けてやるわけにはいかない。

 インタビューを受けて、選手たちと共に学校に戻る。

 そして校長を筆頭に、全職員が祝いの言葉を述べてくる。


 ああ、また今年も、あの甲子園に行けるのか。

 試合を決めた直後よりも、こういった時間で、実感するものなのだ。

 今年も甲子園に行ける。あそこで戦えるのだと。




 秦野と鶴橋、敗者と勝者に分かれたふたりは、居酒屋で向かい合わせの席に座っていた。

 祝勝会に出る役は国立に任せて、人生と野球道の先達と杯を重ねる。

「お前さんよ~、今年で終わりだってな~」

「そうですね。次はシニアのチームを教える予定です」

「そう言ってよ~、またこっちに戻ってくるんだよな~」

 鶴橋は負けていても、なんだかご機嫌である。


 今日のチームからは、将来プロにいけるような選手は出ない。

 可能性というものも、鶴橋は感じない。

 それでも色々と、振り返ることはあるのだ。

「今日の試合よ~。何か勝てる策はあったかよ~」

「まあユーキ相手に待球策を取られた時は、少しあせりましたけどね」

「あれはな~。すぐに対応してきて、可愛げがねえな~」

 おそらく上総総合が白富東に勝つには、いくつもの条件を重ねていく必要があったのだろう。

 だがその全てが、相手のミスか運に頼るものではなかったのだろうか。


 やはり、なんとしてでも二点目を取られるまでに、同点に追いつかなければいけなかったのだ。

 あるいはあの下位打線で一点を取られたことが、既に敗北の原因になっていたのか。

 至らないことばかりである。

 それでも、と思うのだ。

 何か成功していれば、甲子園に行けたのではないかと。


 秦野としては、自分はいいとこ取りだな、と感じている。

 来年から、正確には秋から、白富東は一気に弱くなる。

 今年のスタメン、それに今日のスタメン、ピッチャーのユーキ以外が三年生だった。

「まあ、お前さんと飲むのも、これが最後になるかもな~」

 鶴橋の年齢でそういうことを言われると、違う意味で捉えてしまいかねない。


 県大会が終わった。

 千葉県はかなり早い部類であり、ここからどんどんと代表校が決定していく。

 そしてあの灼熱の甲子園で、球宴が開かれるのだ。

 それまでにやらなければいけないことは、まだ色々とある。

 何よりもベンチメンバーを決めるのが、既に決めてはあるのだが、発表するのに胃が痛い。

「俺もよ~、あと一回ぐらいはよ~、甲子園に行ってみたいよな~」

 そんなことをいう鶴橋であるが、行こうと思えばいくらでも、県内の私立から声がかかっているはずなのだ。


 どこまでのことがやれるか、秦野には分からない。

 だがあるいは自分にとっても、これが最後の甲子園になるかもしれないのだ。

「まあ今回はとにかく、がむしゃらに勝ちに行きますよ」

 ビールを何杯も飲みながら、秦野は近い未来に思いを馳せる。

 甲子園。

 今から行くぞ、まってろよ、と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る