第128話 弱者の戦い

 野球は比較的、実力差があってもそこまで点差が広がらないスポーツだと言われる。

 だがそれが全くの誤解であるのは、今までに白富東が蹂躙してきた相手を思えば、すぐに分かることである。

 上総総合は公立の、幾つかの科が存在する高校で、かつては多く甲子園に出ていたものだ。

 そもそも千葉は私立がさほど強くもなく、いい選手がいても東京や神奈川に取られていく時代が長かった。

 そんな時代に地元の選手だけを集めて、甲子園に行っていたのが鶴橋である。


 かつて千葉県から全国制覇を成し遂げた公立があったが、あれは直前まで鶴橋が鍛えたのを、後任の監督が功績を持っていってしまったようなものだ。

 なのであの時代、プロに行った教え子は、出身校ではなく鶴橋の方へ訪れたりもしたものである。

 そして教師生活も長くなり、おおよそ限られた学校を何度も繰り返し異動したころから、私立の台頭が始まった。

 特待生だの推薦だのといって、選手を取っていく私立に対して、公立はとにかく選手の確保には遅れを取る。

 ただ実績を見て、鶴橋の下にやってくる者もいたのだ。


 あれからずいぶんと時代も変わり、経験や直感よりも、自分たちの工夫で甲子園に出るようなチームも出てきた。

 鶴橋も色々と試行錯誤をしてみたが、結局限られた条件の中では、やれることは限られていた。

 根性論は流行ではないと言われるが、そもそも技術の能力も劣った中で、まず精神的にタフでなくて、どうして恵まれた私立に勝てるのか。

 去年のドラフトでも、大学を経由したとはいえ、また教え子が一人、プロの世界に入った。

 鶴橋が聞くに、プロの世界は高校野球とはまた違った、メンタルを試される世界だという。

 言ってしまえば高校野球は、アマチュアなのだ。

 青春全てを賭けると言っても、本当に人生を賭けるわけではない。


 プロは、それで飯を食っていくということだ。

 教師であった鶴橋の立場からすると、プロになることよりも、それでちゃんと飯を食っていくことが出来るのかということの方が問題である。

 野球以外に何も出来ないような人間なら、確かにそれに賭けてみるしかないのだろうが。

 悩んだ末に出した結論は、そにかく自分に出来ることをするというだけだ。

 つまり試合に勝たせてやって、野球を強くさせてやって、プロに進むならその前に学歴だけでもつけてやる。

 いくら不安定だからと言って、逆にプロに行くななどと言うのは、人間の可能性を狭めてしまうことになる。


 細田はプロに行った。

 伏見も社会人からの声はあったそうだが、一般企業に就職した。

 あのバッテリーの将来は、ついに分かれてしまったのだ。

「全部含めて野球なんだよな~」

「何か深いこと言ってますけど、なんですか?」

「いやいや~、お前さんは賢いな~、ってこった」

 誉められてるわけではないな、と微妙に気付く北村であった。

 ただ鶴橋は露骨な嫌味などを言う人間でもない。

 しかしこの時には、思い至ることがない。


 鶴橋としても自分で気づけ、などという昔の話をしたいわけではないし、それほど深いことを言いたいわけでもない。

「プロから調査書よ~、今ではそういうの、大学時代に来たんだろ~?」

 ああそれか、と北村は思った。

「あれは少しでも可能性がありそうな学生には、たいがいどっかから一枚ぐらいは来るみたいですからね。三球団ぐらいからきたら、かなり真剣に検討されてるみたいですけど」

「で、お前さんは幾つ来たんだ~?」

「一つですよ。そもそも大学のレベルの中でさえ、俺レベルのバッターはたくさんいましたしね」

 それなりに打てて、それなりに走れて、それなりに守れる、早稲谷のキャプテン。

 球団としては単純にどこかで役に立ちそうで、そしてキャプテンということから大学とのつながりを作りたかったのだろう。

 だが細田には五球団から調査書が届いていた。


 レベルの差、というものは必ず存在する。

 あれほど人外レベルに突出した直史が、プロには行かないのだ。

 調査書などというものは、単に興味を持っているというだけであって、ドラフト指名が確約されたものではない。

 なので当初の目的通り、こうやって高校野球に戻ってきている。


 自分自身は、あの夏はやり切った。

 だが後輩の中には後悔した者もいたし、まだやりたいと思っていた者もいただろう。

 もちろんそれで、自分たちが勝ち進むことによって、他の誰かが蹴り落とされるのだとは分かっている。

 それでも、この世界へ戻ってきたのだ。

「まあ今日も、脳に汗かいていくしかないか~」

 七月26日。天気は曇り。

 上総総合の先攻で、試合は始まる。




 秦野と国立が鶴橋との会合で学んだのは、弱者の戦術である。

 相手よりもそれぞれの要素は劣っていて当たり前。

 だが自分たちの一番強い部分で、相手の一番弱い部分を攻めれば、勝機は見えてくる。


 しかしこの組み合わせで、負ける要素があるのだろうか。

「強いて言うなら、こちらの油断を誘うか、思ったほどの点が取れないことで、こちらをあせらせるぐらいかな」

 文哲が準決勝で消耗しなかった以上、一番安定感のあるピッチャーも使える。

 そして先発は、作戦などが一番使いにくい、単純なパワーピッチャーのユーキである。


 鶴橋は公立校が強くならないと、私立校も強くならないと言っていた。

 私立校が甘く見て勝てるような公立校ばかりだろ、千葉県全体が強くならないと。

「けど体育科は、むしろ弱くなるかもなあ」

 そんなことも言っていた。


 上総総合のというか、鶴橋の考えていることは、早々に分かった。

 待球策だ。

 一回の表、ランナーは出さなかったものの、20球を投げさせられている。

 小さな構えからミートを重視したヒッティングで、ファールボールを打つ。

 ただそれが上手くいかずにフェアグラウンドに転がったり、際どいところには手が出ずに、見逃し三振になったりもしている。


 今日は雲もあって、直射日光は強くない。

 それでも夏のマウンドは、ピッチャーの体力を奪っていく。

 ユーキは一年の時と比べると、球速などのスペックはかなり上がった。

 しかし投手陣が豊富であったこともあり、基礎体力の中でもスタミナの部分は、最初の冬は重点的に鍛えたりはしなかったのだ。


 秋からはそれで困ったことになるかなとは思っていた。

 だが投手の枚数の多いこの夏に、ユーキの体力を削っていくのか。

 あるいはユーキが純粋なパワーピッチャーなだけに、攻略が一番難しいと判断しているのかもしれない。

 白富東はピッチャーの枚数が多いのと、一年の耕作に経験を積ませるため、かなりのイニングを投げさせてきた。

 耕作は除くとしても、二人のリリーフがいるわけだから、そうそうピッチャーのスタミナを削るという作戦は、上手くいかないと思えるのだが。


 そうは思うが、秦野は先発はユーキでない方が良かったかな、とは思う。

 正解は試合が終わってから分かるものなのだから、この時点での迷いは禁物だ。




 球数を多くさせる待球策を、上総総合がどれだけ徹底出来るか。

 あるいは途中で一度、ユーキを外野で休ませるという考えもある。

 だがこの初回の攻撃で、先制点が取れれば、かなり有利に試合は運べる。


 昨日も最後まで投げきった上総総合のエース。

 あのレベルのサウスポーなら、白富東の打線であれば、普通に打ち崩せるはずなのだが。

 しかし先頭の大石に対し、上手く投げられたカーブが、打ちそこないの打球となった。

 セカンドゴロでまずはワンナウト。

「カーブか……」

 ベンチからははっきりと分からないが、かなり大きく変化したようである。

 少なくとも昨日の試合では、そんなに使ってはいなかったと思うが。


 まさか、とは思うが。

「この決勝のために、温存していたとか?」

 国立が口にしたが、秦野は首を振る。

「もしそうだとしても、あんまり意味はないな」

 そこまでして勝ちたいのかとは思うが、あくまでも奇襲にしかならないだろう。


 かつて大介以外にも左のバッターは、真田のスライダーが全く打てずに翻弄された。

 だがそれはスライダーが効果的であるということもあるが、それ以上に真田のスライダーであったからだ。

 同じことが、細田のカーブにも言えると、その細田を育てた鶴橋は、よく分かっている。

「カーブを気にしたら負けだな。あれはあくまでも囮だ」

 それが秦野の見解である。


 白富東の上位打線は、大石、悟、宇垣と、確かに左バッターは多い。

 だがそれだけで攻撃を封じられるはずもないし、なんなら全て見逃してもいい。

 二番の宮武の打球もまた、ほぼヒット性の打球ではあったが、サードの正面であった。

 打球の角度が足りていないが、それぐらいなら普通にあることだ。

 そして悟の打撃が、高く上げすぎて外野フライになるというのも、普通にあることなのだ。


 上山にあせらないようにと声をかけ、二回の守備に送り出す。

「カーブ自体は別にそんなたいしたことはないんだが、あの爺さんがそこまで小手先の技術を使って、こちらを封じようとしてくるとはな」

 そちらの方が恐ろしいのだ。




 名将の最後の輝きとでも言おうか。

 もちろん鶴橋は年の割には元気であり、まだまだ勇退するつもりもない。

 だがそろそろ選手ではなく、監督も育てないといけないと思っていたのだ。

 自分の後任者というだけではなく、半世紀近くにも及ぶ、この指導者としての経験。

 単なる野球の技術だけなら、最新の科学的なものでいい。

 だが強豪私立が同じように、効率的に科学的なトレーニングを整えれば、スカウトと練習環境の段階で、やはり決定的な差がついてしまう。


 大切なのは、野球というのがどういうスポーツなのか理解すること。

 技術と能力を高めるだけではなく、相手の想像の裏を書き、そしてこちらは冷静でいられる精神構造を持つこと。

 精神論で根性論なわけではなく、日々の練習によって、その力を身につけなければいけないのだ。


 そういう前提があった上で、作戦を立てる。

 しかし白富東もあっさりと、その程度の策は見抜いてくるだろう。

 その中の一つが、パワーピッチャーであるユーキに、打たせるピッチングをさせることである。


 打たせると言うよりは、打たれると言った方がいいのか。

 ゾーン内で勝負しつつ、どうにか前に飛ばせそうなボールをコントロールしてくる。

 そんなボールを打ったとしても、狙ってヒットに出来るわけではない。

 上総総合には、狙ってホームランを打てるようなバッターはいないのだ。




 白富東はユーキに、あえてある程度は打たれるピッチングをさせる。

 守備の力は白富東だって、上総総合に全く劣ってはいないのだ。

 打ちにくいところに、ちゃんと球をコントロールする。

 それでそれなりにアウトが重なっていくのが、世の理というものである。


 白富東にあって、上総総合にないもの。

 それは圧倒的な打撃力である。

 もちろん上位打線は強力であるが、下位打線も多くは三割を超えている。

 そんな打線を相手に、上総総合のエースがどれだけ戦えるか。


 そして平均的な部分で戦えば、当然ながら白富東に分がある。

 鶴橋はそれを承知の上で、作戦を続行させる。

 とにかく上総総合にとって、一番厄介なピッチャーはユーキなのだ。

 それ以外の者であれば、まだしも作戦が立てられる。

 ユーキが九回を投げきったという試合は、強豪相手ではなかった。

 だからユーキが疲れて、継投するタイミングで、どうにか一点は取りたい。


 そんな思惑があったとしても、やはり普通に鍛えたチームが、普通には強いのである。

 先制点を上げたのは、白富東である。

 それも注意していた上位打線ではなく、分析も後回りにした下位打線の活躍である。

 まあ最終的には、大石のタッチアップとなる打球が必要だったわけだが。

 う~むと腕を組む鶴橋である。

 チャンスにおいてはしっかりと、それぞれのバッターが条件をそろえられる。

 そこで点が取れるのが、やはり甲子園の上位で争ってきた実力と言うべきか。


 試合の展開の大枠は、おおよそ鶴橋の想像していた通りである。

 ロースコアゲームに持ち込まないといけないし、そのためには向こうのピッチャーに、気持ちのいいピッチングをさせるわけにはいかないのだ。

 だが粘らせるぐらいならと、ユーキをあえて雑に投げさせている。

 打てそうな球であり、それにバットを振ってみれば、確かに前には飛ぶ。

 だが外野の前までクリーンヒットというのは、それほどないことである。


 ピッチャーの実力的には、力ずくでもユーキはアウトが取れる。

 それでもこういったピッチングを指示するというのは、甲子園よりももっと向こうの、来年の体制までも見ているように思える。

(ピッチャーだけはしっかり、丁寧に作ったもんだがな)

 上総総合が甲子園に行っても、上位進出とまではいかないのは確かだ。

 使えるピッチャーが一枚というのは、よほどの抽選に運がないと、三回戦までが原因であろう。

 だからといって、もっと勝ち進めそうなところに、譲るわけもないのだが。


 三イニングが終わって、スコアは1-0で白富東のリード。

 充分な健闘であるが、白富東の打線が、このまま沈黙したままでいいのか。

 秦野は慎重に上総総合のベンチを見て、鶴橋とめが合ってしまったりする。

(何を考えてるのか分からないけど、決勝はコールドがないしなあ)

 マウンドに送るユーキに対して、特にかける言葉はない秦野だ。

 そしておそらく淡々と、アウトを取ってきてくれるだろう。


 試合はこれから中盤に入る。

 勝負の天秤の傾きは、まだほんのわずかなものである。

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