第125話 雨の日の次の日

 かんかん照りの日々から一変、雨が激しく降ってきた。

 準決勝は延期。

 畑に出るわけにもいかず、室内練習場やトレーニングルームで、地味に体を動かす。

 これが昨日なら、普通に休養日であったのに。

 運がいいのか悪いのか。だがそう言えば春の大会からこちら、雨に降られた記憶はない。

「雨の中の試合じゃなくて良かった」

 秦野はそう呟いたものである。


 雨は本来の実力以外のものを、試合の結果にもたらす。

 白富東は初めて甲子園で負けたのも、雨の日であった。

 古くは江川の時代から、投手は雨に負けてたたずむ姿が似合うのだ。

 もちろん本当に戦う選手たちは、雨など好きなはずもない。

 格上の相手に万が一を考えて戦うなら、それもありかもしれないが。


 天気予報に夜と夕方には止んで、また元の通りの暑い夏が戻ってくるらしい。

「蒸すなあ……」

 選手たちの体調管理はしっかりとしなければいけない、

 暑いからといって冷たいものを食べ、お腹を壊しては笑い話にもならない。




 耕作は室内練習場の片隅で、シャドウピッチを行っていた。

 サイドスローから、ほんの少しだけ、スリークォーターに戻す感じ。

 すると一気に球速は上がる。


 123kmがMAXなのだが、128kmまで上がる。

 ほんのわずかだが、明らかに違う。

「いや使えないだろ。135kmぐらいまで一気に上がるならともかくさ」

「一発勝負で一度だけ使えないからな?」

 将来的には、スリークォーターまで戻してもいいかもしれない。

 それで結果が出るのであれば、だが。


 つき合わされていた塩谷としては、キャッチャーだけにはっきりと分かる。

「マナちゃんのフォームの影響受けてるだろ」

「影響っていうか、あの腕の使い方、どうやったら出来るんだ? 山村さんもあんな感じだよな?」

 あれは体質だ、と言っていいのか迷う塩谷である。


 女性独自の体の柔らかさから投ぜられるマナのボールは、実際よりも体感速度はかなり速い。

 あの動きに惑わされるのだが、野球部のピッチャーの中では、サウスポーの山村の腕の使い方が、一番マナに近い。

 腕がしなるのだ。

 文哲やユーキのみならず、他の兼任ピッチャーを見ても、ああいった柔らかい腕の人間はいない。


 監督やコーチに話してみると、こういう腕の使い方は、佐藤直史に似ていると言った。

 秦野がこの白富東に来たのは、SS世代の最後の夏が始まる前。

 春季大会からその姿を見ていたが、既にピッチャーとしての基礎は完成していた。

 本人はあまり自分の才能を認めていなかったし、秦野も単純に天才とは言えないと思っていた。

 だが肉体的な素質は、確かにあったのだ。




 雨で延期なのだから、今日はゆっくりしておいてもいいだろうにと思った秦野だが、選手から質問があれば応じる。

 体質もまた才能の内と言うなら、確かに直史の腕は才能であったろう。

 ただし腕のしなりという点ならば、実は武史の方が柔らかい。

 秦野もピッチャーではないので、言葉だけでの説明になってしまうのだが、理論は知っている。


 腕をしならせるのは、そもそも体質にもよるし、人によって合う合わないがある。

 耕作の場合は、おそらく合わないタイプだ。

 故障がしにくいように筋肉を持っているが、その筋肉のせいで可動域が小さくなり、腕が加速していかない。

 ただそれでもこの短期間に、耕作の球速は安定して上がっている。


「肘を抜いてしならせる投げ方っていうのは、確かに一時期は流行してたんだよな。というか、かなり長い時期か。それこそ俺の子供の頃から」

 あの頃はそれが、いい投げ方だと思われていたのだ。

 今でもその投げ方をしているピッチャーはいるし、その投げ方が正解の体質もいる。

 だが一般的には、今はそれは故障しやすい投げ方だとも言われている。

「昭和の大投手とか、今のMLBではもう、ほとんどそっちが主流というか、そういうピッチャーじゃないと長持ちしないとも言われてるけど」

 色々なところで解説されているが、例外のピッチャーもいる。


 たとえば日本最速の上杉は、しならせない投げ方だ。

 ただ彼のピッチングの特徴は、一度ぐんと胸を張ることにある。

 そこから弓のように矢を、左手を引きつつ右腕を大きく旋回させ、トップスピードに乗せる。

 全身が完全に連動し、位置エネルギーを運動エネルギーに換えるという点では、オーバースローが球速は出しやすい。


 耕作のフォームを、スリークォーターかオーバースローにするということは、前々から考えていた。

 だが実際ところ、それは難しい。

 正確に言うと、夏までには間に合わないということだ。


 普通ならばフォームの変更などは、二ヶ月以上もかけて行うことだ。

 特に耕作の場合は、良くも悪くも固まっているフォームなのだ。

「良くも悪くも、ですか?」

「ああ、お前は失投が少ないだろ? それに疲れて制球を乱すこともない。それは強靭な足腰が、しっかりとフォームを記憶してるからだ」

 確かに耕作は抜群のコントロールというわけではないが、暴投ということもない。

 コントロールする筋肉は足りているのだ。

「そのコントロールする筋肉が強すぎて、アクセルの筋肉を止めてるわけなんだよな。ただお前のそのコントロールの筋肉は、姿勢を維持することとかについてはいい仕事をしているわけだ」

 そう言われても耕作にはピンとこない。

 何より彼は、そう特筆するほどコントロールがいいわけでもない。確かに悪くはないが。


 秦野の言葉によると、空間を認識する力は、やはり視力による視界から作られる。

 耕作はやや乱視ということもあり、そこが空間を把握する上で、弱点になっているらしい。

 だからとにかく投げて、体に憶えこませないとうけないということだ。

「本当なら選手の希望はなんでも聞いてやりたいんだが、さすがに今から夏の戦力に手を加えるのはリスクが高すぎるからなあ」

「あの、俺本当に、甲子園も出るんですか?」

「まだ決めてない、と言うのも嘘っぽいよな。怪我でもしない限りは、お前は甲子園用の戦力だよ」


 秦野としては、最後の夏になる。

 甲子園優勝監督という肩書きを、三度も付けてくれたチームでの、最後の夏。

 それはおそらく、選手以上に愛着がある。


 本当ならば、春のセンバツで契約は終わるはずであった。

 それを夏まで延ばしてもらったのは、秦野の方から言い出したことだ。

 高校野球は、夏で終わらなければいけない。

 その感覚が、秦野の中にもあった。




 サイドスローを、オーバースローかスリークォーターに戻す。

 元々はたいして速度も出ていなかったから、角度をつけるために選んだサイドスローだ。

 ただそれは筋肉の出力を上手く活かせていなかったからだ。

 正しい球速の上げ方を知れば、130kmちょっとまでは上げられるだろう。

 それが秦野の言葉であった。


 ただ戦力としては、サイドスローのままの方がいいかもしれない。

 球速を取るか、平均からの逸脱を取るか。

 それを考えれば、いちがいにどちらとも言えないのだ。

 ピッチャーには球速よりも必要なものがある。


 夕方で雨は上がり、宿舎の中に布団を敷いて、野球部は眠りに就く。

 周囲にそこそこ畑などもあるこの宿舎は、扇風機を使えば夏でも、それなりに快適に過ごせる。

 冷房で体を冷やさないようにと言われるが、耕作としては色々と考えてしまう。


 今さら130kmに手が届いたとして、それで打たれないはずもない。

 耕作がエースなチームなど、とても甲子園には行けないだろう。

 だが二番手投手としてなら、確かにいてほしい存在なのである。

 現在では四枚目のピッチャーであるが、それでもある程度は必要とされる。

 おそらく甲子園でも投げることになるのだろう。


 甲子園。

 高校球児、いやそれ以下でも野球をしている人間なら、必ず一度は思ったことがあるだろう。

 甲子園に行きたいと。

 ただしその甲子園のマウンドの上で投げる、自分の姿は思い浮かべられない耕作である。

 まだ、あと二つある。

 大きいか小さいかもわからない、その二つの試合。

 それを前に、耕作はあっさりと夢の世界へ旅立って行った。




 台風一過というわけでもないが、わずかな湿り気を空気の中に残し、今日もまた暑い日である。

 延期された準決勝は、マリスタにて今日行われる。

 天気予報にも問題はなく、今日と明日で全てが決まる。


 対戦相手はトーチバ。東洋名和大学付属千葉高校。

 この10年間の間に千葉県では、白富東に次いで二番目に、甲子園に行った回数の多いチームである。

 試合はマリスタで行われて、三万人の大観衆が、ほぼ席を埋めている。

 SS世代からその次の年の夏ぐらいまでにかけては、完全に満席になっていたものだ。

 それでも座席が全く足りなかったものだが。


 スーパースターたちは去っていった。

 ここで今日行われるのは、ひたすら全力な高校球児たちの、甲子園を賭けた戦いである。

 

 白富東はもう、この夏の大会は四年連続で優勝している。

 だがだからと言って、この夏も甲子園への切符が用意されているわけではない。

 去年と比べて、明らかにピッチャーもバッターも、レベルは落ちている。

 今年よりも強かった去年でも、甲子園での優勝は出来なかったのだ。

 ただ去年の決勝は、優勝してもおかしくないほどの戦力は揃っていた。


 SS世代は、全国制覇が現実的な戦力であった。

 その次の年も、全国制覇をしても、全くおかしくはない戦力であった。

 しかしその次は、全国制覇を狙える戦力で、最後にはあと一歩が足らなかった。

 今年の戦力は、全国制覇を狙うには少し厳しいか。


 そんな戦力の中、トーチバに対して先発のピッチャーは文哲。

 台湾からの留学生である彼は、実質的には今の白富東のエースである。

 そのピッチングの精度と、メンタルの動揺しないところは、秦野の信頼も厚い。


 一回の表には、トーチバの攻撃を三者凡退で切る。

 当然ながらその裏は、白富東の最強戦力である悟に、打順が回ってくるのだ。




 初回の攻撃、先頭打者の大石は、慎重に球を見ていく。

 この最後の夏、試合が進むごとに、大石のバッティングは凡退が少なくなってきた。

 あるいはこれは、慎重さと引き換えに、思い切りの良さが消えているのかもしれない。

 だが少なくとも今は、それがいい方向に働いている。


 フルカウントまで粘ったあとの、内野の間を抜けるヒット。

 なんだかんだと言いながらも、最後の夏に向けて、選手の意識は勝手に変わってきたと思う。

 これが高校野球だな、と秦野は感慨深く思う。


 ランナーを一塁に置いて、二番バッターはキャプテンの宮武。

 初回からどうしてくるか、白富東を見る上では、重要な局面。

 これまでの試合であれば、もし白富東が送りバントをする場合、打者はしっかりと死んで、ランナーを送ってくる。

 それならそれで、ランナーを進めても宮武をアウトに取れるなら大きい。


 宮武は打率もいいが、それ以上に出塁率がいい。

 粘れるバッターなので、それがアウトになってくれるなら、対戦相手としてはありがたいぐらいなのだ。

「もちろん単なる送りじゃないんだけどな」

 ベンチの中で呟き、秦野は試合を見守る。

 宮武はバントの姿勢をしながらも、なかなかバントはしてこないのであった。


 相手のバッテリーが苛立ち、カウントもフルカウントにまでなってしまう。

 このカウントからならば、ストライクゾーンに投げないことには、フォアボールになって自然とランナーは溜まって進んでしまう。

 悟の前にその状況は、問題だろうというのがトーチバの考えだ。

 しっかりと投げて、アウトを取る。

 一塁が空いていたら、歩かせてもいいのだ。


 フルカウントからバントをして、それを綺麗に成功させる。

 ランナーは二塁に進み、そして三番の悟である。

 だがトーチバはそれに対して、即座に申告敬遠をした。

 ブーイングまでは飛ばないが、溜め息が洩れる白富東の応援スタンドである。


 ただ、そういうことをすると、怖いバッターが次にいるのだ。

 四番の宇垣の打率や長打率は、悟が敬遠された直後の打席だと、格段に跳ね上がる。

 一回の裏から、いきなり見所の多い試合となった。

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