第118話 亀の歩み
キャプテンの妹であるマネージャーが、ある朝見たら選手になっていたでござる。
「な、何を言っているのか分からねえと思うが――」
「いや、ネタはもういいから」
最近は塩谷と組んでいる耕作だが、その容赦のないぶった切りかたは、かなりバッテリーとして馴染んできている。
わざわざプロテクターまでした宮武が、ちゃんと捕球しているのだ。
かなりサイドに近いスリークォーターから、けっこういいストレートを投げている。
「すげえ綺麗なフォームだけど、どっかで見たような」
耕作としてはしなやかに躍動するマナのフォームに健康的なお色気を感じてしまう。
仕方がない。男の子だもの。
ちなみに彼はこの後、ユニフォームを着た女子に対して興奮してしまうという、厄介な性癖を持つことになる。
「ちょっと腕の振りとかは違うけど、キャプテンのフォームに近いかな」
「ああ、なるほど」
宮武はピッチャーとしてのオプションは、高い順位にいない。
それでもある程度、色々なピッチャーに慣れるために、塩谷は相手を組んでいたのだ。
それにしても。
「細いよなあ」
「まあ男に比べればな」
マナはすらっとしていて、髪型も含めて中性的な要素がある。
実際に話してみると、完全に中身は女の子であるのだが。
そういうツラの綺麗な子がマウンドに立っているのは、なぜか背徳的な感じがする。
「塩谷、ちょっと代わってくれ!」
「うす」
座った塩谷に対し、宮武がバッターボックスに入る。ただしバットは持っていない。
「百間、お前も審判の位置から見てみろ」
そう言われて素直に耕作も移動する。
マナの投げるボールは、伸びる。
だがわずかに手元で、ブレたりもする。
(いいストレートだなあ)
中学軟式の頃であれば、男子のピッチャーの中に埋もれないぐらいだろう。
スピードにはさすがに限界があるのだが、何か少し、今までに見た中でも、他のピッチャーにはないものを感じる。
キレるボールだと思える。
おそらくバットを持って打とうとしたら、詰まってしまうことが多いのではないか。
「なるほど」
そんな声に振り向いてみれば、秦野が来ていた。
「宮武、正直公式戦でもそこそこ通用すると思うが、本当に投げさせる気か?」
その問いにどれだけの意味が含まれているか、宮武は分からない。
だが、何かの覚悟は秘めていた。
「少なくとも二年と一年のピッチャーの尻を叩くことにはなるし、少しでもユーキとか百間を休ませることが出来たら、それでいいとも思いますよ」
「そうだな。そのぐらいの出来ではあるが、甲子園のベンチには入れないぞ」
秦野は断言する。このピッチングが通用するのは、県大会でも序盤ぐらいだ。
シーナでも、スルーを使ってさえ、ほんの一巡まであった。
マナの投げるボールは、女子としては相当に上のレベルにあるが、ツインズや明日美はもちろん、一般人枠のシーナにさえ至らない。
「はっきり言ってシーナも、基礎体力ではぎりぎりのところでやってた。それに決勝はスタメンを外れたしな。他の部員の発奮する材料にしかならないが、それでもいいのか?」
その問いは宮武ではなく、直接マナに向けられたものであった。
「チームに強くなってほしいというのは、マネージャーとして当然思ってます」
なんともいい笑顔で言い切った。
男子と女子の間には、確実なフィジカルの差がある。
明日美のような異常な肉体のバネは、そうそうあるものではない。
ツインズだって筋力の数値をそれぞれ測ってみれば、男子を大きく上回るものでもなかったのだ。
マナは明日美よりもさらに身長が高いが、それでも男子の平均よりも小さい。
筋肉の量もずっと劣るはずだ。
男の子並に力持ちなどと言っても、それは平均的な男子のことであり、ガチで運動をしている男子には敵わない。
ただ、これは確かにカンフル剤になるのかもしれない。
秦野は監督として、チームが強くなる方法を選んだ。
サウスポーの耕作はブルペンでマナと並んで投げると、右に立てばしっかりとそのフォームが分かる。
サイドスローに近いが、体の上下運動のエネルギーを、しっかりとボールに伝えている。
耕作の場合は前後運動がほとんどなので、上下の重力の力を活かせていない。
踏み込む前に、一度はしっかりと足を上げる。
それに腕の振りがもっとしなやかだ。ただこれはさすがに女性特有のものなのか、真似は出来ない。
山村や文哲、それにユーキの真似は、あるいはフォームからの学習は、やろうと思っても出来なかった。
しかしマナの動作からは、学べるものがある。
(マナって、腕が長いんだな)
その中ではそんな発見もある。山村も腕は長いなと思っていた。
マナがユニフォームを着て練習に参加することに、戸惑いを覚えている者もいる。
だがシニアでやっていた彼女を、知っている者もいるのだ。
「リトルでは普通にレギュラーだったしな。シニアでも二年の時には大会にも出てたと思う」
シニア組の中には、それを知っていた者もいる。
ただ話題にするにも、シニア時代は選手であったことは普通に言われていたし、女子マネには以前にもそういった選手経験者はいたのだ。
しかし、ピッチャーか。
今の一年には、確かに優れたピッチャーはいない。
ただ肩の強さならマナよりずっと強い者がいるし、ピッチャー経験者自体はいる。
だがピッチャーとしての質の高さは、マナの方が上である。
悔しかったのだ。
女だというだけで、圧倒的に体力も筋力も違ってくる。
小学校のころはどうにもならなかった技術の差が、圧倒的なフィジカル差で埋まってくる。
それに、技術差も埋まる。
サウスポーの耕作が、自分のフォームを見ながら、試行錯誤しているのが分かる。
ほんの少しずつ、亀の歩みのようであるが、彼ならばいずれ突破するだろう。現在の自分の限界を。
よく自虐的に使う農民ワードで、地味に努力を重ねて。
「う~ん、まだまだ違うな」
耕作は撮影された映像を見て、自分の頭の中の画像と重ねてみる。
左のサイドスローという自分が、もっといい球を投げるイメージ。
それははっきりと分かっているのだが、まだまだそれに一致しない。
天才が必ず持っている才能の一つは、理想的な動きのイメージを脳に描けること。
そしてそのイメージに対して、肉体を少しずつでも確実に近づけていくこと。
耕作のそれは天才レベルではないかもしれないが、全く才能がないというには、本当に才能のないレベルの人間が気の毒であろう。
「どれどれ、どんな感じ?」
マナも他人のフォームは気になる。
「これをどうしていきたいの?」
「やっぱり球速を上げる動きがほしいから、ステップかな? それとも蹴り足かな? 一度オーバースローに戻ってみるか……」
「それは夏に間に合わなくなると思うけど」
「だよなあ」
目指すべきものは分かるのだが、そこへ至る道は長い。
「マナのフォーム綺麗だから、真似したらもっといい球になりそうなんだよな」
天然の耕作は、自然とそんなことを口に出していた。
(綺麗って……いやいや、フォームのことだから)
だが、素でそんなことをさらっと言われたのは初めてだった。
マナが初めて耕作を意識したのは、この時かもしれない。
なお後に、耕作は収穫した野菜にも、美しいとか綺麗だとかいう形容詞をつけて、なんじゃそりゃと怒ることになる。
農民が収穫した野菜を美しいと思うのは当然のことであるのだが。
サツマイモの美しさというのは、一般人にはなかなか分からないものだろう。
女子の練習参加というのは、確かに刺激にはなった。
それが良かれ悪しかれ、今のままでは頂点には到達しないと考えていた秦野は、これは大歓迎の事態である。
ただやはり受験とその後のマネージャーの仕事で、体力は落ちていた。
元々白富東の全体練習は少ないが、その中でもヘロヘロになっていた。
そろそろ夏の気配が漂ってくる。
それよりも先に梅雨であるが、今年は今のところ空梅雨だ。
男子のように頭から、水道の蛇口の水を浴びる。
「あ~っつ~]
そんな風に呻きながらも、ユニフォームの胸元から空気を入れる。
おい、やめてさしあげろ。
思春期の野郎共には、水滴をキラキラと輝かせる女の子などというのは、一発で恋に落ちる存在なのだ。
そんなマナの存在は、まさに鷺北シニアにいた時代のシーナと同じもので、だからこそ彼女は姫であったのだが。
(う~ん、変な展開になったりはしないかな。ちょっと注意しておかないと)
秦野はさすがにもう枯れかけているが、国立はまだまだ若いので、選手たちの気持ちに近い。
これで部内で恋愛などやられては、絶対に風紀が乱れる。
部内恋愛禁止などというのは、本当に上手く考えたものである。
それに今のところは、いい影響の方が大きい。
まさか女子より先にダウンするわけにはいかないと、男の子たちは限界に挑むように必死になっている。
国立の見る限り、本当に男子と混じって甲子園でプレイしたシーナに比べると、技術は粗いものがある。
それにあの頃はまだ、ポジションが固定されていなかった。
内野の守備に関しては、男子のフィジカル差も加えると、とてもスタメンの取れるようなレベルではない。
だが、確実にピッチャーにはいい影響を与えている。
カチコチに固まっていて、安定はしていたが伸び代が見えなかった耕作のフォームに、柔らかさが出てきた。
少しずつだが、着実に。
来年も再来年も、この野球部はあるのだから。
毎年ほぼ恒例となっている、帝都一との練習試合。
週末に行われるそれは、帝都一のグラウンドで行われるものではない。
今年は松平監督も危機感を感じているらしく、なんと帝都大において行い、大学のチームとも練習試合を組むそうだ。
ありがたいことに、白富東もそのご相伴に預かることとなる。
「大学かあ……」
六大学の東大以外では、選手のほぼ全員が甲子園経験者か、それに準ずるレベルのはずである。
秦野はありがたいと思ったが、国立としては微妙である。
帝都大学は国立の母校でもある。
だからおおよそのレベルは分かるので、今の白富東では、おそらく勝てないだろうなとも思う。
もちろん事前に情報を収集し、選手の分析もして、奇策や奇襲を駆使して、ひたすらに勝利だけを目指すなら可能性はなくもない。
だが漫然と試合をするだけでは、おそらく圧倒的なパワーに押し流されるだけだ。
それでもまあ、その圧倒的な力を体験するというのは、貴重な体験ではあるのかもしれないが。
「国立先生の考えていることは分かりますけど、勝ちに行きますよ」
秦野はそう豪語する。
さすがにそれは無理ではないかと思うのだが、秦野は既に準備している。
かつての教え子であるジンからもらった、現在の帝都大のデータ。
映像や数値評価なども含めて、これがあれば勝てるかもしれないというものだ。
夏を控えて選手たちに与えてやりたいのは、圧倒的な自信だ。
最後にはある程度の追い込みもかけるが、それだけでは足りない。
強烈な成功体験が、高校生を一気に強くするというのは、国立もこれまでに何度も見てきた。
それは確かにいい考えだ。
たとえ負けるにしても、いい勝負さえ出来たら、あと一歩を求めてさらに練習に励むモチベーションにはなる。
それに投打の要を考えると、確かにデータでこちらが圧倒的に有利であれば、勝てないわけでもないと思う。
少なくともユーキのピッチングは大学野球でも普通にエースレベルであるし、文哲や山村も控えにはいてもおかしくない。
それに悟ほどのバッターは、大学でもそうそういないはずだ。
格上相手。久しぶりのことだ。
「どうせなら早稲谷とやってみたかったですね」
「いやあそこからは一点も取れないし、打線も抑えきることは出来ないからな!?」
「もちろん冗談です」
そのあたりの計算は、冷徹に行っている秦野であったが、国立の冗談は冗談に聞こえなかった。。
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