第110話 肉体改造

 球数制限がうるさく言われる昨今であるが、たとえば日本における本格派と技巧派の、二大巨頭はどう考えているのか。

「160kmを普通に投げられるまで鍛えておけば、毎日それを100球投げても疲れんだろう」

「全力を出さなくても三振や凡打は取れるし」

 両者ほぼ同じ意味のことを仰っている。

 つまり大切なのは球数ではない。

 どれだけ負担がかかるぐらいの、本気の球を投げるかだ。


 限界に近い170kmのボールを投げれば、30球投げただけでも限界になる。

 スルーばかり投げていれば、20球ぐらいで指先の感覚がおかしくなる。


 一律で球数を制限するのは、はっきり言って意味がない。

 プロだって普段通りに投げていて、突然に故障することはあるだろう。

 かと言って無視していれば甲子園で700球とかを投げて、潰れる原因になったりもする。

 だけど甲子園で超人レベルまで投げていたピッチャーが壊れたのは、大学時代のはずであるが。

 つまり明確は基準などはなく、人間によって耐久力は違うし、抜いた球でも打ち取れるピッチャーはいるのである。


 試合で、この間まで軟式で投げていた一年生が、硬球で180球以上を投げてきた。

 決勝戦にて勝利を収めた後、チームのことは秦野やコーチに任せて、千葉にあるセーブ・ボディ・センターを耕作と共に訪れた国立である。  

 自分の膝を診て貰って、まだプロを目指せるよなどと言われもしたが、学生時代の本格的な体作りは、もうさすがにしたいとは思わない。

 スポーツマンの国立であるが、結婚してからは少し体重が増えたのだ。


 トレーナーの告げた言葉は驚きであった。

「おそらく遺伝的な特異体質ですね。肉体もですが集中力も、普通の人間の三倍以上の時間が続いて維持出来ています」

 肉体だけではなく、脳もそんな状態にあるのか。

 確かに最後まで、失投と言えるような失投はなかったが。


 決して器用な方ではない。

 だが入学から着実にフォームを微調整して修正し、コントロールはよくなってきている。

 これだけ安定して投げられるのなら、球速のMAXがそれほどでなくても、計算したピッチングが出来る。

「下半身の安定感は素晴らしいですね。体幹も鍛えられているようですし。野球以外にも足腰を使うスポーツをされていたのですか?」

 いえ、農作業です。


 農家というといまだに、力作業が大変だというイメージがあるだろう。

 確かに細かいところでは力仕事だが、中腰にならずに済むように、様々な機械は発明されているし、それによって作業は効率化されているのである。

 収穫や出荷の繁忙期は確かに忙しいが、そこはアルバイトを雇って人では確保する。

 それなりの給料が出せるぐらいには、利益はしっかりと出ているのだ。

 農閑期などは昔は出稼ぎに出ていたこともあるらしいが、今は年末や年度末に役所の仕事に従事したり、農地の整備をしたりする。

 朝は早いが昼前に戻ってきて夕方まではのんびりし、そこからまた日が沈むころまで働く。

 就業時間を考えれば、超ホワイトな職場である。

 ただし繁忙期を除く。


 何より農家は第一次産業なので、絶対に国からの補助が出る。

 相続においても税制においても優位なのだ。

 それに何より食費がかからない。

 自前で作っている野菜に加えて、米も肉も物々交換で手に入る。

 まあさすがに冷蔵などは限度があるため、一度は現金化しなければいけないわけだが。

 それでも祖父の時代までは、全く金がかからなかったとか、戦後の食糧難の時には、色々な貴重品が手に入ったとか、そういう話も聞く。


 ただ、それでもデスクワークに比べれば肉体労働だろうと言われたら、それはそうだと言うしかない。

 だが適度な運動は健康にいいと言われているではないか。

 農家のいう適度な運動は、それ以外から見ればけっこうな重労働だったりするのだが。

 そこは漁業と同じである。




 遺伝という先天的なものに加え、農家という後天的な環境が、耕作の肉体を作った。

 ただその下半身は強靭であるが、柔軟性にはやや欠ける。

 堅い下半身をがっちりと固めて、そこから投げるようなイメージが耕作にはあるのだ。

 下半身の関節をもっと柔らかく使えば、球速は増す。

 上半身の筋肉も、実用的ではあるのだが、野球のピッチング向きではない部分の筋肉も付いている。


 はっきり言ってしまえば、耕作の農業で鍛えられた体は、確かに足腰の柔軟さと粘りには驚異的と言える。

 だが上半身は、肩の駆動域がやや狭い。

 だからこそオーバースローではなく、サイドスローが向いていたということなのかもしれない。

 あとは今の投げ方で、どこに負荷がかかっているか。

 そしてどこを鍛えれば、球速のアップにつながるのか。


 耕作のフォームをチェックしていくと、やはり独特のものがある。

 肘を抜くような動作が、比較的少ないのだ。

 肩は筋肉のせいで動きにくいせいか、逆に壊れにくくなっている。

 それでも肘を曲げて腕を撓らせるため、そこそこ肘には負担がかかっている。

 だが一度伸ばした肘を、畳んでから振りぬくというのは、どうしても必要な動作だ。

 これを禁止してしまっては、球威がごっそりと落ちていく。


 耕作の場合は勇名館との試合で、九回を投げきったことで、逆に駆動域が広がったのではないかとも思われた。

 そんな駆動域が広がるなど、限界を超えて関節を動かしているということで、普通ならば方に負荷がかかって故障の原因となる。

 だが耕作の場合は、全く異常は見られなかった。

 肉体の生来の、そして生活の中で得た耐久力が、まだまだ潜在能力を引き上げているのだろうか。


 何をすれば、とりあえずはいいのか。

 国立としてはこんな感じのピッチャーは知らないので、さすがに尋ねるしかない。

「とりあえずはインナーマッスルを強化していくのと、ウエイトですね。それと並行してストレッチを」

 肩の駆動域をもっと広げれば、それだけ加速の距離が取れる。

 そうなったら肘への負担は変わらずに、速い球が投げられるようになるわけだ。




 帰りの車の中、国立は無言である。

 穏やかな人間ではあるが、課してくるトレーニングはそれなりにキツめなため、微笑む鬼と一年生は呼んだりしているが、確かに耕作にとっても練習とトレーニングのメニューはハードだ。

 だが次の日には残らない。

 アップとダウンを念入りにしているからかもしれないが、白富東の練習は、とにかく効率を大事に考えている。

 多い人数をサブグラウンドまで使って、上手く鍛えているのだ。

 選手一人一人、それこそ一年生であっても、しっかりとメニューを組み立てる。

 なのでどうにかこうにか、こなせてしまうのだ。


 国立としてはこの沈黙の中、話すことはある。

「私が三里の監督をしていた頃に、星君という生徒がいたんだがね」

「あ、知ってます。甲子園にいったアンダスローの人ですよね?」

「ああ。彼は120kmも投げられなかったけど、今でも大学で野球をしていて、プロのスカウトも少し注目しているんだ」

 まだまだ先のことである。星はまだ三年生。

 大学を卒業する頃に、どういうピッチャーになっているか、

 それを待ってみなければ、本当にドラフトにかかるかどうかなど分からない。


 ただ、スカウトの目を引いたのは確かだ。

 まだ公式戦には出ていないが、練習試合ではマウンドを経験している。

「アンダースローは球速が全てでないし、これは百間君の考えにもよるんだが」

 教師にさえ略されている耕作である。

「君は野球で上に行く気はあるのかい?」

「いえ、俺は家業を継ぐ予定ですから」

 このあたりは耕作もブレない。


 高校野球をするものが、全てプロを目指していたり、大学でも野球をやろうと考えているわけではない。

 むしろ圧倒的に、高校で野球は終わりという人間の方が多いのだ。

 ただ、大学でもやるだけはやる、という程度で野球部に入る者は、それなりに多い。

 高校時代の全てを賭ける一発勝負のトーナメントとは、大学のリーグ戦は違う。

 だいたいは一部と二部、あるいは三部までに分かれていて、それなりに勝ったり負けたりするものだ。

 六大学の東大などの例外はあるが。


 ただ耕作はもっと先を考えている。

「俺はもっと、畑を大きくしたいんで、大学は本格的に経営と農業の勉強したいんですよね」

 直史や、あるいは明倫館の村田のように、将来の志望は決まっている。

 村田は高校で野球はやめた。耕作も高校までだ。

 直史だってとてもそうは思えないが、勉強の余暇で野球をやっているのだ。


 国立としては、生徒が皆、野球を続けることがいいとは言わない。

 嫌いになってやめるよりは、いい思い出となっていてほしい。

「百間君の家は、何を作ってるんだい?」

「うちは主に野菜なんですけどね」

 そして語りだしたら止まらないあたり、国立が野球を好きなように、耕作も農業が好きなのだ。

 いや、好きとかどうかではなく、その道に取り込まれていると言うべきか。


 生まれて、そして育っていく中で、自然とやりたいことが分かっている。

 これはすごく、幸福なことである。

 耕作の前にある道は、しっかりと歩んでいけば、いずれは何かが見つかる道だ。

 野球がなくても野球人以外は生きていけるが、食べ物がなくなれば人は生きていけない。

 ある意味ではしっかりと地に足をついた、将来を考えている耕作であった。




 高校を卒業したら、もう野球は見るだけという人間がいても、それはおかしくはない。

 そういったファンもいてこそ、野球界は成り立つのだから。

 ならばこの高校時代を、最大限輝くものにさせてやりたい。


 秦野は夏で白富東を去る。

 耕作を最後まで見るのは、国立の役割となる。

 だが秦野も、才能の片鱗を見つければ、それを埋もれさせたくないとは思うのだ。

「三年の夏までに、130kmを投げられるようにしたいな」

 左のサイドスローでそこまでの球速があり、そして効果的な変化球もあれば、相当に高校レベルなら通用するピッチャーになるはずだ。


 今後球数制限は、現場の意見を無視して、どんどんと厳しいものになっていくかもしれない。

 だが高校野球なら、それも仕方がないと思うのだ。秦野も国立も、アマチュアの選手が練習や試合などで、二度とプレイできないようになってしまうことなどは望んでいない。

 現場をあえて無視して規制しなければ、話が進まないということはある。

 ただ、耕作の素質は時代を間違って生まれてきたなと思うのだ。

 球数制限などない時代であれば、千葉の県大会が進むにつれて、チーム数の多さもあって消耗戦になる。

 そういう状況でこそ、耕作の才能は輝いただろう。


 だから、体を変えなければいけない。

 投げられる球数は減ってでも、球速自体を上げる。

 それだけの負荷に、おそらく耕作の体は耐えられるのだから。


 才能があるからと言って、望まぬ道を歩く必要はない。

 人間は、才能があればその才能の奴隷となるべきだと考える人もいるが、本当の才能などはやってみないと分からない。

 耕作の場合は耐久力は優れているものの、肝心の技術と出力の絶対値が低ければ、どの道プロなどでは通じないのだ。


 才能というものは、本当に残酷なものである。

 ある程度の才能があっても、その上のステージに進めば、それはありふれたものになっているかもしれない。

 そしてそれでもまだ上に行き、その才能で食っていくことが出来るようになりそうでも、事故や故障でその道が閉ざされることはある。

 国立は野球が大好きだし、素晴らしいものだとは今でも思っている。

 だが怪我で挫折したからこそ、他の道もあるのだと示したいのだ。


 関東大会が迫っている。

 三年生にとっては、最後の夏の前哨戦。

 そう、今年もまた、最後の夏を迎える者たちを、最大限に強くしてやる。

 そして試合に勝たせてやることが、指導者の役割である。

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