第108話 タフネス

 生まれつき優れた素質を持っている人間はいる。

 それを否定するのは、それこそ現実が見えていない、幸福な人間だけである。

 幸運な人間もいる、

 生まれつきではないにしても、ある程度の素質を伸ばせる環境にあった者だ。


 つまり、耕作のように、ひたすら下半身を鍛えることが、生活の中で成されていた者である。

 農家の仕事を続けていれば、いくら機械化しようと、細かいところは人間の手が入る。

 その中で耕作の掌は分厚くなり、足腰はしっかりと鍛えられて、サイドスローで投げやすくなった。

 ただ案外柔軟性はなかったので、そこからが課題ではあったが。


 MLBのピッチャーなどを見ると、上半身はゴリゴリのマッチョでありながら、下半身は細いピッチャーもいる。

 下半身の筋肉が必要ないのかと言うと、もちろんそんなことはない。

 ただ必要なのは瞬発力だ。短距離走の選手を見ると、明らかに上半身にも筋肉はついている。

 

 耕作の身体能力などをチェックしたところ、やはり本格的にスピードを求めるならば、オーバースローに戻した方がいいという結果は出た。

 しかしスピードだけを求めるならば、いくらでも140kmは投げるピッチャーが、全国にいるのが現在の高校野球だ。

 必要なのは個性。

 一年の夏から公式戦に出るのが、高校のピッチャーの一般的なものとする。

 それが同じチームと三年間に、何度対戦することか。

 その希少性が、慣れないうちは打てない。




 ベンチの中で秦野は、かなりご機嫌であった。

「あいつ、すげえピッチャー向きだな」

 それもピッチングのスタイルにジャストフィットしている。

 農家の後継ぎだなどと言っていたが、まず地味な練習を当たり前のように行っている。

 繰り返し繰り返しの、そういった作業を流さない。


 あとは足腰であるが、ピッチャーに求められる、しなやかな動きはお世辞にもない。

 ただ今どきは珍しいような、がちっとはまってそこから放り投げるように、体の横幅をしっかりと使っていく。

(この冬を鍛え上げて、どうにか130kmが投げられるようになったら)

 しかしその時には、もう秦野はいない。


 サッカーが野球よりもはるかに脆弱な資本で、日本の各地でクラブが誕生した理由。

 それはチームの選手をユースなどの時から、しっかりと抱えているからだ。

 アメリカのプロスポーツのように、もちろんクラブ間の移籍はある。

 しかしチーム自体はその地元に、しっかりと根ざしたものがあるのだ。

 若い選手が育っていくのを見守る。

 そんな土壌が、サッカーというスポーツのシステムに根ざしている。


 それに比べると日本の高校野球は、ここまでの市場規模を誇りながらも、儚い。

 わずか二年半にも満たない間に選手は完全に入れ替わり、育てていくのをずっと続ける。

 そういう状況を見て、しかも勝利至上主義とも言えるアマチュアスポーツを見て、なぜ日本で野球が衰退したかを、結論付ける者もいるのだ。




 そんな指導者の悲しみなど知らず、耕作は順調にピッチングを続ける。

 左のサイドスローなど、コントロールとまともな変化球があれば、それだけで連打は食らわないものなのだ。

 もちろん限度はあるが、ある程度の失点は覚悟している。


 五回が終わって5-3とリードしている。

 球数はそろそろ80球であるが、まだまだスタミナは大丈夫そうだ。

 野球は瞬発力のスポーツだと言われていて、実際にスタミナよりも回復力の方が必要だとも言われる。

 だがここまでのレベルの相手に投げて、全くピッチングのペースが変わらないというのは、それだけ持久力や耐久力、あるいは一種の鈍感力まで持っていると言うべきか。


 なんと言えばいいのだろう、これは。

 高校生になって初めての大会で、既にベスト8まで試合は勝ち進み、相手は甲子園にも行ったことのある名門。

 プレッシャーをあまり感じないのか、それともそれに耐えられるのか。

 とりあえずこいつは、精神的にも肉体的にも、タフな人間であることは間違いない。


 そして上山が報告してくる。

 こっそりと、聞こえないように。

「本人に自覚があるのか分からないですけど、スロースターターです。球威が落ちないどころか、段々と増してきています」

「なんじゃそりゃ」

 球速がはっきりと上がるわけではないのだが、ずっしりときていたボールが、ぴゅっと来るようになってきている。あくまでも上山の感覚的なものだ。

 80球投げてそれだと言うなら、武史以上のスロースターターだ。

 確かにこれまでは、もっと短いイニングだったか。


 いや、考えてみればそうだ。

 上級生との試合でも、慣れたかなと思ったところからも、いまいち連打で点が取れなかった。

 練習では投げ込みよりも、フォーム修正にリソースを割いていたから気がつかなかった。

 どこまで投げられるのか、ここで試してみるか。

 ブルペンとマウンドでは、投げるために必要なスタミナが全く違うのだ。




 少しずつリードは広がっていくのだが、なかなかコールドの点差にまではならない。

 それは自分が打たれているから、仕方のないことではあるのだ。

 七回が終わって9-5と、わずかに差は広がっている。

 ここからピッチャーが交代して抑えて、一気にコールドの差まで持っていくのが、これまでの白富東であった。

 だが春季大会は、とにかく日程がつまっている。

 ピッチャーがもつのなら、最後まで完投して欲しい。

 それはチーム事情的なものもあるが、勇名館相手に最後まで完投できたら、ピッチャーにとっての自信にはなるだろう。


 そのバックを守る守備陣としても、頑張らざるをえない。

 元々武史はともかく、直史も淳も、打たせて取るというのがメインのピッチャーだったので、守備はずっと鍛えられている。

 今は三年の文哲も山村も、やはり打たせて取ることの方が多い。

 もっとも文哲は計算しているが、山村の場合はそれが限界とも言える。

 左打者の多いチームには、横の変化も多いカーブが使えて、かなり有利に投げられるのだが。


 やたらとヒットは打たれて、もう12本。

 それでも守備の堅さもあって、リードは常に保っている。

 勇名館としても中盤には捉えきると思っていたのに、結局終盤までずるずると投げ続けている。

 完全に無名の一年生で、それも左のサイドスローという以外は、球速もそれほどではないし、変化球も想定内だ。

 物珍しくはあるが、勇名館の打線であれば、打ち崩せると思っていた。


 いや、実際に打ち崩しているのだ。

 だが点を取っても、一気に大量点が入らない。

 鈍いのかと思えるほどの、精神的なタフさである。


 よくもまあベンチは我慢するなと思うのだが、それはマウンドの耕作が一番感じている。

 ただキャッチャーの上山は、すごいなと思っている。

 ボールは確かに、落ちていない。

 150球を投げているが、耕作は硬球を握ってから、まだ一ヶ月ほどのピッチャーなのだ。

 軟球よりも重い硬球を投げるのは、肉体に負担がかかる。

 だが投げれば投げるほど、良くなっていくというイメージがある。


 どういうことなんだ、と上山も首を捻るのだが、とにかくスタミナがあって、肩が暖まるのが遅いということなのか。

 スロースターターは武史もそうであったが、あれは50球目ぐらいからは良くなって、そして150球も投げたら落ちていったものだ。

 上昇曲線は確かに緩やかなものになったが、全く落ちない。

 勇名館の選手は、戸惑いを隠せない。

 ただひたすら、スタミナだけで投げてくるように思える。

 だがボールの打ちにくさはなんなのか。




 九回、球数は170球に突入。

 だが球威は全く落ちない。

 スコアは10-5で、ほぼ勝敗は決まっているように思える。

 しかしどうしてここまで、一年生のサイドスローが打てないのか。


 キャッチャーの上山には分かった。

 球速はもうさすがに上がっていないのだと思う。

 だが球威が増している。

(理屈が分からない)

 スピンが増しているのは体感できる。

 おかげでサイドスローから投げる、ナチュラルな変化が鋭くなっている。

 このクセ球が勇名館にビッグイニングを許さない、根本的な理由だろう。

 クセの変化のせいで、普通のストレートのはずが打ちにくい。

 ある程度振り切るのではあるが、ジャストミートが続かずに、連打の得点が続かない。


 特に七回以降は、得点が入らない。

 この最後の回も、ヒットは打たれるのだが、ランナーを進ませても着実にアウトを重ねていく。

 点差があるので打っていくしかないのだが、最初からもっと着実にランナーを溜めていくべきだったのか。

 打てないピッチャーではなかった。

 だからもっと、何か対策はあったはずなのだ。


 勇名館の古賀監督が、そんな感じで後悔の中で悶えているが、耕作は知ったことではない。

(最後まで投げていいのか)

 まあ投げられなくはないのだが。


 最後の打者も内野ゴロに打ち取り、ゲームセット。

 白富東は県大会ベスト4進出を決めた。




 九回を投げて184球、12安打、エラーも一つで五失点。

 無名の一年生に負けた記憶が、またも古賀監督のトラウマとなる。

 だが白富東の首脳陣は、これまた不思議な感覚である。


 普段はやらないアイシングを、耕作にはさせた。

 肩が熱を持っているのは確かだったからだ。

 もちろん準決勝には投げさせないが、なんというか、評価に困る投球内容だった。


 奪三振はたったの三つ。

 打たせて取ると言うよりは、打たれて取るという方が正しいであろう内容。

 ただ、フォアボールが一つもなかった。

 打たれても打たれても、肉体が疲れない以上に、メンタルが疲れていない。

「百間、今日はもうノースローで、ゆっくりしろよ」

 そんな当たり前のことを、秦野も言うしかないのである。


 投げれば投げるほど、球速はともかく球のキレが上がっていくピッチャー。

 武史に似ているが、あれは球速も上がっていったのだ。

 それに12本のヒットと言っても、守備が悪ければもっとヒットになっていた可能性も高い。

 とりあえずは、球場を後にするメンバーである。


 休日であるので、応援に来てくれていた同高生たちがいる。

 野球部の試合を楽しむのは、白富東の学生の、基本的な習慣の一つになっているのだ。

 左のサイドスローが最後まで投げて、守備の力で支えて、打線で上回った。

 普通に見ていれば、そういう試合に見えただろう。

 一年生が一人で投げ切って、凄かったと思う。


 だが学校に戻り、生徒たちをさせた後、秦野と国立はクラブハウスの機材を操作する。

 本日はコーチもお休みであるため、二人で分析するのである。

「これ、ひょっとしたらもっとスピード出せるんじゃないですかね?」

「やっぱりそう思うか」

 それが二人の出した結論の一つである。


 キャッチボールを500球続けても壊れない。

 かつて直史が言っていたことだが、これはその極端な例の一つではないだろうか。

 球数が増えるごとに内容が良くなっていくのだから、スタミナは間違いない。

 あとはどうしてそこまで、体が球速をセーブしているのかということだ。


 よく分からない。

 今のところはそう結論付けるしかないが、おそらく球速がもっと出るはずなのだ。

「それにしもフォアボールなしってのが……」

 秦野としては気になるのは、むしろそちらの方である。

 三年の正捕手がリードしたから、そして点差もリードしていたからとは言え、先に点を取られながらも、どうやったらあそこまでゾーンで勝負出来るのだ。

 配球の中で、もちろんボール球を要求したこともある。

 しかし点を取られても返せる自信のあった上山が、最後にはゾーン内で勝負させた。

 そこにしっかりと球を投げ込んできたというのが、どういう精神性を持っていれば、出来るのかが分からない。


 メンタルもそうであるが、足腰も安定していた。

 精神的にも肉体的にも、とにかくタフなピッチャーなのだ。

 プロに行けるとか、すごいエースになるとか、そういうタイプではない。

 だが淡々と、投げ続けていくことが出来る。

「もう一度しっかり、分析してもらう必要があるな」

 県大会が終われば、関東大会までの間に、それを調べる時間はある。

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