第93話 燃え尽きる

 ワンナウト二塁。バッターは緒方。

 長打力は四番と五番に劣るが、打率ではチームでも蓮池に続く二位。

 そして決勝打や、得点圏にランナーがいる時の打率は、極端に高くなる。

 重要な場面で自然とゾーンに入れる。それが緒方という選手である。


 九回の表で、2-2の同点、ワンナウト二塁。

「敬遠して塁を埋めるとかは?」

「ない」

「ないね」

 珠美の質問に国立まで断言して、秦野は続ける。

「ここで逃げるようなら、淳はプロでは絶対に通用しない」

「ナオ先輩とかタケ先輩なら?」

「あいつらなら、むしろ勝てる算段があるからこそ、歩かせるのもありだな」

 緒方以外のバッターなら、打ち取れるという絶対の自信。

 それがあるならあっさりと避ける精神性を、佐藤家の長男と次男は持っている。


「そもそも三番を歩かせて四番と五番で勝負ってのも意味分からんだろう」

「そうかなあ。でも、あの人打ちそうだけど」

 珠美は直感的に判断しているが、それが間違っているとも思わない秦野である。

 緒方の持つ、何かこう、運命的なもの。

 それを打ち破れるのは、おそらく淳であろうという予感。


 秦野としても、もう采配の微妙なところは分からない。

 最後の最後には選手に託すしかないという、監督としては情けなく、そして羨ましくもある領域。

(全力を出し切れ)

 ベンチの中の秦野は、ただ立って見守るだけ。

 監督などと言っても最後には、選手たちを見守るだけだ。

 もしも選手がこちらを見てきたら、どっしりとした姿を見せるのだが。




 緒方がかすかに肩で息をしている。

 淳よりもはるかに多い球数を投げてきて、もう限界が近いのだろう。

 延長に持ち込めば勝てるか?

 そんな考えを払って、孝司はこのバッターを打ち取ることに集中する。


 淳もまた、バッターに集中する。

 しかし頭の冷えている部分が、現状を正しく分析する。

(三盗あるよな?)

(出来なくはないか)

 蓮池の俊足は、もう充分に分かっている。


 ワンナウト二塁なら、まだいいのだ。

 だがこれが三塁であると、タッチアップでも一点が取れる。

 二塁のままなら、ライトの深いフライでも、三塁に進まれるだけ。

 もちろんそこから暴投などしたら一点は入るが、タッチアップの可能性に比べるとはるかに少ない。


 淳がサウスポーというのも、やや不利に働く。

 左利きのピッチャーは普段ランナーを背負うことが多い、一塁をよく見ることが出来る。

 だからサウスポーからは盗塁しにくいとうい者もいるし、実際に淳も一塁ランナーにはあまり盗塁させることはない。

 だがこれが二塁ランナーになると、話は変わる。


 右利きのピッチャーにとっては、一塁ランナーを背中で感じることは難しい。

 それよりは少し首を動かせば姿が見える、二塁ランナーの方が動きを見やすいのだ、

 しかしこれがサウスポーになると、二塁ランナーの進行方向の三塁側にまで顔を動かさないといけないので、かなり牽制も難しくなる。

(初球外してくれ)

(分かった)

 淳は緒方から逃げるつもりは全くないが、戦略的なピッチングでカウントが不利になれば、しっかりと歩かせる覚悟はしている。


 初球、淳は外に大きくボールを外した。

 そしてそれを捕球した孝司は、勢いよく二塁ベースに送球する。

 蓮池も素早く戻っていたのでアウトには出来ないが、その肩の強さとコントロールは見せ付けた。


 確かに走れれば走ってやろうかと考えていた蓮池であるが、かなりタイミングは微妙だと感じた。

 どちらかというとモーションの大きくなるアンダースローなのに、クイックは速い。

 それにタイミングもずらしてくるので、走りにくいことは間違いない。

 ベンチを見れば、指示は「動くな」。

 蓮池はリードは取るが、盗塁をしかけようとは思わない。

 傲慢な蓮池が、チームメイトを信じた。




 緒方と淳、エース同士が、ピッチャーとバッターとして対決する。

 スコアリングポジション。少ないチャンスをものに出来るかどうかで、おそらくこの試合は決着する。

 淳はセットポジションから、クイックで投げる。

 アンダースローのクイックであるが、これが案外洒落にならないほど、タイミングが取りにくい。

 特に淳の場合は腕が長く、どこからボールが出てくるか分からない。

(外野はやや前。クリーンヒットじゃ帰って来れないか?) 

 だが力んで打てば、イージーなゴロやフライになりそうな気がする。


 淳が投げ、緒方が打つ。ファール。

 淳が投げ、緒方は見逃す。ボール。


 アンダースローという分かりにくい軌道ではあるが、それでもいい加減に慣れてきた。

 だが確実に打てるかと言うと、変化球が難しい。

 右打者の緒方に対して、淳はシンカーを効果的に使う。

 かつて白富東が水戸学舎に破れた後、淳はシンカーを磨いた。

 右打者に対しては、サウスポーのシンカーは逃げていく球だ。

 ストライクゾーンを横切っても、キャッチする位置でボールと判定されたりする。


 そう、ストライクになるとは限らないが、それでも見逃せるのか。

(シンカー)

(シンカー)

(シンカー!)

 あえて線ではなく、点で打つ。

 腰を入れて、しっかりと。


 淳の投げたシンカーは、ストライクゾーンを通りながら逃げていく。

 それを追いかけた緒方のバットは、ボールを高く打ち上げた。




 センター方向。追いかけるのは大石。

 打球から目を切り、ほとんど勘に従ってバックする。

 そして振り返ると、打球はドンピシャ。

 ダイビングキャッチで、それを捕る。


 この時、蓮池の動きに誰も気付いていなかった。

 そもそも抜けていれば、ハーフウェイで待たなくても、余裕で帰る自信があった。

 大石が打球をキャッチした瞬間、二塁からタッチアップで進塁。

 大石はグラブの中の球を掲げる。


 余分な動きだ。ささやかなことだが、明らかなミス。

 しかしそれを指摘する者はいない。

 蓮池が三塁も回った。

「ボール! バック!」

「バック!」

 気がついたのはやはりキャッチャーの孝司であったが、蓮池のベースランは芸術的。

 センターからショートを中継され返ってきたボール。蓮池はわずかに回り込み、ミットを回避する。

 指先でホームベースにタッチした。


 セーフ。二塁からの、三塁を一気に蹴った、ホームに帰ってくるタッチアップ。

 キャッチしてすぐに戻せば、ホームまでは踏ませなかったかもしれない。

 そもそも周囲の指示も遅かったかもしれない。

 だが大石のダイビングキャッチは、確かに超ファインプレイだったのだ。


 さすがに息を切らした蓮池が、ベンチに戻ってくる。

 バシバシと背中や胸などを叩かれる中、彼は大きく右拳を上げた。




 3-2とスコアは変わった。

 ホームランで先制され、ホームランで逆転し、タッチアップで追いつかれ、タッチアップで勝ち越された。

 まさにフライボールのみによる得点。

 もちろん走塁や送りバントはあったのだが、初回の先頭打者ホームランといい、間違いなくこの試合のMVPは蓮池であろう。

 だが、それをアシストするチームメイトがいた。


 蓮池は孤独をもう感じない。

 結局は犠飛でアウトになり戻ってきた緒方とも、抱き合って喜ぶ。

 クリーンヒットではないが、確実に隙を見逃さない、ありえないほどの隙をこじ開けたプレイ。

 スリーバントからのバントヒット、送りバントでの二塁進塁。そして犠飛でのタッチアップ。

 全て犠打で、ノーアウトのランナーをホームまで帰した。

 もちろん蓮池の選択が正しかったのもあるが。


 延長になったら負ける。

 見た目よりもずっとタフな緒方が、もう肩で息をしているのだ。

 自分がリリーフしてもいいが、この試合では失敗する気がする。

 だから、ここで決めるしかなかった。


 蓮池は野球の経験は少ないが、本質的な運動における、センスには満ちた存在だ。

 タッチアップで一気に二塁から帰ってくるのは、ツーランスクイズなどと同じように、ないわけではない。

 だが咄嗟にそれを自分で思考し、決断できるのだ。


 これは勝てると、木下は思った。

 だがその耳元で、蓮池は言った。

「緒方さん、握力もうほとんどないっす。リリーフの覚悟しておきます」

 試合はまだ、決まっていない。




 ランナーのいなくなった状態から、淳は崩れずに次の打者を打ち取った。

 九回の表に、あんな形で一点。

 完全に、流れはあちらに行ったように思える。


 だが、甲子園にはマモノが棲む。

 九回の裏は白富東も、一番打者からの好打順だ。

「宮武、代打行くぞ」

 秦野は宇垣の打席を確認もせず、全力で点を取りに行く。


 思えば哲平の怪我のこともあり、運は向こうにあったのかもしれない。

 だが最後の一押しは、人間の手によるものだ。

 そして緒方の球威は、明らかに衰えている。

 ブンブンと振り回すタイプの多い白富東の下位打線から、三振を奪えなかったのだから。


 もうそちらも限界だろう。引導を渡してやる。

 あの一年にリリーフしたところで、悟がホームランを打ってサヨナラだ。

 そんな覚悟で打席に入った宇垣を、11球も使って緒方は打ち取った。

 あと二人。


 白富東に負けたあの夏から、挑戦者に戻った大阪光陰。

 三年連続で、夏の決勝を戦うという因縁。

 二度負けた。

 二度あることは三度あるのか、それとも三度目の正直か。


 代打の宮武も粘ったが、九球でアウト。

 しかし二人で20球も投げさせた。

 よくも木下も、ピッチャーを代えないなと思う秦野である。

 ここまでくれば体力ではなく、気力の勝負だとでも言うのだろうか。


 あと一人。

 だがそんな重圧の中、悟は平静を保って打席に立つ。

(打てる)

 ホームランになるかどうかは分からないが、緒方のピッチングにはかなり慣れてきた。

 最後の打者になるかもだとか、とにかく出塁するだとか、そういうことは考えない。

 ただ、反応で打つ。


 投げられた球には、伸びがない。

 右中間を大きく割る打球。三塁を窺った悟だが、二塁でストップ。

 ライトの蓮池から三塁に、レーザービームの送球がなされた。


 ツーアウトながら、ランナーは得点圏の二塁へ。

 まだ終わっていない。

 そしてバッターはこの試合、ホームランを打っている久留米。

「久留米!」

 ベンチから秦野は声をかける。

「素振りしろ!」

 緊張していた久留米は、何度か素振りをしてから打席に入る。


 悟の打球は、ホームランになってもおかしくなかった。

 だが緒方のボールに球威がなくなっていたのが、むしろ良かった。

 あと一mmでもボールの下を叩いていたら、おそらくホームランになっていた。




 こんな状況で、自分に回ってくるとは。

 久留米は大きく深呼吸する。

 マウンドの上の緒方も、明らかに息が乱れている。

 こんな状態でも代わらないのか。

 白富東なら淳がこんな状態になれば、トニーと代えているのではないか。


 誰にもこのマウンドを渡したくない。

 そんな気持ちは全くないが、誰かに代わってもらうという考えも、全く浮かばない緒方。

(ここで、燃え尽きる)

 その気持ちで、久留米に対して第一球。

 ストレートに、力が戻っている。

 久留米はそれを打ったが、打球は真後ろに飛んだ。


 二球目のカーブはボール球。

 そしてチェンジアップを打ったが、大きなファールがスタンドに入る。

 追い込まれた。

 久留米は一度打席を外す。


 この打席に、全てを賭ける。

 最後は際どい球も、必ず振る。

 打って、勝つ。

 再び打席に入ると、マウンドの上の緒方は、蒼白な顔色になっている。

 苦しいのは、向こうも一緒だ。

(際どいのも、打っていく)

 全力で振るのだ。


 振りかぶった緒方の、勝負球はアウトローへのストレート。

 それを、見逃すことはなく、久留米は打った。

 インパクトの瞬間、ボールを砕くつもりで。

 この日が、久留米にとって、人生最高の日。

 想いを込めて、バットを振り切る。


 高いボールだ。しかし伸びる。

 低めの球なので、意図せずにアッパースイングになった。

 打球には上手くスピンがかかっている。思ったよりも伸びるはず。


 センターは追うが、これはフェンスにまでは届く。

「どけえええぇっ!」

 叫ぶ蓮池が、センターを追い抜いていく。


 センター寄りの右中間。打席はフェンスを越える。

 だが蓮池は190cmの長身で、ジャンプ力は一mを余裕で超える。

 フェンスの上にまで、そのグラブは伸びた。

 肩から落ちた蓮池は、痛みのあまり体を丸める。

 夏の大会の緒方の消耗と、この時の蓮池の怪我が、大阪光陰が国体の一回戦で敗退する理由となる。

 だが、左手のグラブの中には、しっかりとボールが入っていた。




 スリーアウト。ゲームセット。

 終わった。

 白富東の、長い長い夏が終わった。




 蓮池は肩を押さえて、ようやく立ち上がった。走ることも出来ない。

 センターに肩を借りて、ようやく戻ってくる。

 両軍のベンチから選手たちが出て、整列する。


「あの二点は、お前のホームランなんだぞ」

 滂沱の涙を流す、男泣きの久留米に、孝司は声をかける。

 マウンドから降りてくる緒方がつまづいて転び、キャッチャーの助けで立ち上がる。


 終わった。負けた。

 終わったのだ。負けたのだ。

 悔しさとか、辛さとか、そんなものを淳は感じない。

 負けた実感が、まだ湧かない。

 むしろ二年生の方が、感情を露にしているかもしれない。

 もちろん久留米のような例外もいるが。


 むしろ勝った大阪光陰の方が、感情の爆発で泣いている者は多い。

 試合中はクールを気取っていた蓮池も、影響されたのか涙ぐんでいるし。

 負けたら、泣くこともできないのかな、と思った。

 決勝まで進んだことで、ある程度やりつくせたのか。


 足首に氷を巻いた哲平も、他のメンバーの肩を借りて整列した。

「ゲーム!」

 主審の手が上がる。

 甲子園の、夏が終わった。

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