第89話 前日は雨
準決勝は、なかなか予測のつかないものになる。
順当であれば多くの野球雑誌やスポーツ紙がS評価する、白富東と大阪光陰の決勝になるだろう。
だが桜島の打線爆発は、ちょっとやそっとの戦力差など意味をなさない、勢いを持っている。
大会屈指の好投手と言われていた、聖稜の恩田を打ち崩し、ここまで勝ち進んできた。
相手は甲子園常連どころか、この10年ほどはほぼベスト8以上に顔を見せる大阪光陰である。
もっとも大阪光陰も、一番強かったのは去年だと言われている。
その大阪光陰に勝った白富東も、一番強かったのは去年だと言われているが。
戦力はダウンしたと見られているが、どちらのチームも期待の一年生ピッチャーがいる。
その第一試合は、桜島有利に試合は進んだ。
大阪光陰の先発蓮池から、二本のホームランを含む四点を奪ったからだ。
しかし相変わらずピッチャーの運用が雑と言うか、打てない者はいらないという偏重具合。
点を取っても取り返しての展開で、大阪光陰はなんとかついていく。
そして蓮池の球威が落ちた中盤、緒方がマウンドに登る。
素質的には蓮池の方が上なのだろうが、経験や繊細さでは緒方の方が上である。
変化球を上手く使ってゴロを打たせ、それをアッパースイングで掬い上げようとすると、ストレートで空振りを奪える。
終盤には逆転し、そこからまた追いつかれる。
だが最後まで、緒方がブレなかった。
6-5というぎりぎりのスコアで、大阪光陰がサヨナラ勝ちしたのである。
大阪光陰相手ならば、計算の出来る試合になる。
だがチーム力ではもちろん桜島より上で、監督の采配も大阪光陰の方が細かい。
豪打爆裂の桜島であっても、淳のピッチングとの相性は悪いと思うので、やはりそちらが勝ち上がってくれた方が良かったか。
などと考える秦野であるが、これから白富東は準決勝の試合なのである。
だが秦野は、相手のスタメンを見て拍子抜けしていた。
先発がサウスポーエースの古沢ではない。
打撃にはあまり期待出来ない選手ということもあり、打線にも入っていない。
「故障ですかね」
「まあ、球数は確かにいってたからな」
それでも球数制限には引っかからないはずのペースだった。
しかし球数を守っていれば、壊れないというわけでもない。
そもそも直史のように、あまり力を入れて投げない投手にとって、球数制限で制限されなければいけないほどの疲労はたまらない。
極端な話、キャッチボール300球をして、壊れるかということだ。
たとえば淳なども、肘や肩が限界を迎えるより早く、足腰に限界が来る。
そういう投げ方のアンダースローをしているのだ。
白富東も淳の疲労を考え、ユーキを先発に持ってきた。
準決勝まで進み、相手も強くなってくれば、経験がものを言う。
だから本当のぎりぎりになれば、文哲か山村を出して、トニーを最後に使う。
エースがいない名徳であるが、それでも150km近いストレートを投げる本格派がいる。
しかしそういう分かりやすい本格派は、白富東の得意とする相手である。
初回から先制点を奪い、常に先手を打っていく。
エースでないピッチャーには、気の毒なことである。
だがエースがいないのならば、二番手こそがエースにならなくてはいけない。
一つのチームに責任感の強いピッチャーを二人作るのは難しいが、名徳のような名門なら、それをしなければ勝てないのだと分かっているだろうに。
ユーキの集中力が乱れたところで、一点を返された。
だが冷静にアウトを先に取っていって、ビッグイニングを作らせない。
もっとも白富東側も、打線爆発という感じではないのだが。
それでもユーキを先発に使っていたことで、打線を打力集中で組むことが出来た。
そしてユーキが予想以上に疲労していないことには驚いたが、ここからは継投でつないでいく。
名徳もそれなりに左バッターが多く、その場面では山村を使った。
そして短いイニングを投げさせた後は、文哲のコンビネーションで相手を封じる。
文哲もストレートは140km近く出るようになっているし、コントロールという点では淳よりも精密かもしれない。
それでも一点を取られて、トニーを投入する。
一日を休んだ淳は、ほぼ回復しているとは思う。
だが念には念を入れて、ここはたっぷりと休んでもらう。
明日も一日の調整日があるので、完全に回復するだろう。
エースを失った名徳は、7-2で敗れた。
古沢の故障については、インタビューでも言及される。
本人は何も言わなかったが、今日のキャッチボールで全く球に力がないことに、キャッチャーが気付いたのだ。
名徳の芝監督は、判断を間違えなかった。
古沢が投げれば、勝てたかもしれない。
秦野としては可能性の話なら、確かにありえたと思う。
だがもしも得点がこれだけ取れていなければ、継投も考えただろう。
結局は、タラレバの問題なのだ。
聞く限りでは致命的な故障ではないので、上の世界でまた頑張ってほしい。
白富東が勝てたのは、運と言うよりは相手の不幸であった。
だがこれで、明後日の決勝に全てを賭けることが出来る。
「つーかまた大阪光陰かよ!」
誰かが言った。誰が言ってもおかしくないことを。
おそらくあちらも、特に木下監督は、同じことを言っているのではないだろうか。
夏、つまり三年にとっては最後の甲子園が、三年連続で同じカード。
三年前にも準決勝で当たっている。
あの試合は直史が準決勝で無理をして、決勝で投げられなくなったため、春日山に負けたという側面が強い。
それがなかったら普通に、白富東が勝っていただろう。
八大会のうち、四大会で同じカードによる決勝。
春のセンバツも白富東が決勝に進んでいれば、同じカードであった。
そしてこの大会には、白富東の夏三連覇がかかっている。
現在の体制になってから、夏に三連覇したチームは存在しない。
そもそも去年の夏までの、四連覇すらないのであるが。
センバツと違って、最後の舞台にまでは来れた。
あとは全力を尽くして、優勝するだけである。
調整日で休養のその日、雨が降った。
試合に何か影響はないかな、と思うぐらいの雨であったが、甲子園のグラウンド整備業者の技術は、世界的に見ても間違いなくトップだと言われる。
おそらく明日は、ベストコンディションのグラウンドでプレイが出来るだろう。
明日は降水率は0%になっている。
夕方になると、雨もやんできた。
夜になれば雲も晴れて、それなりの星空が見えてくる。
珠美はマネージャー室にて託されたノートに、今日の休日の部員たちの馬鹿話を書いていく。
あの人から預かったこの記録は、当然誰かに引き継がないといけない。
別にマネージャーでないといけないとは限らないし、なんだったら部長に引き継げばいいのだ。
だがこれは、やはり選手と同じ目線で見られる人間に、託していくべきだと思う。
「珠美さん、食事はどうするの?」
マネージャー用の部屋で頭を悩ませていた珠美に、サラが声をかけてくる。
彼女は自前で同じ宿に泊まって、ユーキの試合を見ているのだ。
彼女の顔を見て、珠美は思う。
白い軌跡は、野球にほとんど興味のなかった少女が、書き始めたものである。
自分のように男に混じって、野球をやるような人間が書くのは、ちょっと最初とは趣旨が違うのではないか。
そんなことを考えると、サラに託すのがいいのではないかと思える。
ただサラに、しっかりと日本語の文章が理解出来るのか。
頭がいいのは間違いない。それは話していても分かる。
だが本質的には、彼女はネイティブの日本人ではない。
「サラ、これ読んでみる?」
「白い軌跡、ですか?」
「正確には続編なんだけど」
白い軌跡は、SS世代の優勝で物語を終えている。
だからこれは、本当はそれに似た何かでしかない。
だがこのチームを、ずっと記録を残していきたいというのは、多くの人が願っていることなのだ。
ノートに書かれた、それをサラは読んでいく。
「どうして今どき紙に書くんですか?」
「それは推敲の跡を、残しておくためよ」
書いてみて珠美も分かったのだが、他人に見せる文章を書くのは難しい。
瑞希の書いたそれは、事実を率直に書きながらも、その中に熱気が感じられた。
単純に、文章を書く才能があるのだ。
「誰かにこれを引き継いでほしいんだけど、出来ればむしろ、野球に詳しくない人がいいからさ」
「そうなんですか?」
サラは首を傾げたが、珠美の言葉は本心である。
野球を詳しく知っていれば、当たり前のことへの興味が薄れる。
どこかわざとらしい文章になってしまうのを、必死でこらえて事実を書く。
「サラ、書いてみる? なんなら他のマネージャーとも共同で構わないけど」
「私がですか? なぜ私を?」
「さっきも言ったとおり、むしろ野球に詳しくない人の方が、色々と調べるからいいと思うんだよね」
それを聞いてサラは、考えておきます、と答えた。
三年間。
正確にいえば、二年と五ヶ月弱。
この時間は、高校球児にとって、他の何物にも変えがたいものなのだろう。
家で徹夜で、色々と調べている父の姿を、珠美は良く知っている。
自分が卒業した後も、夏までは父は指揮を採るという。
次の三年が引退するまでだ。
それを自分が見るのは難しい。
白富東をと言うよりは、父の姿を誰かに、書き残しておいてほしかったのだ。
父の、かっこいい姿を。
もちろんそれは、娘のわがままではあるが。
高校野球の監督として、父は色々なところに呼ばれることがある。
出来るだけそれは謝絶して、常にチームのことだけを考える。
仕事に生きると言うよりは、野球に生きている父。
だが春からは珠美は、母のところに行く予定だ。
父も、次の就職先は決まっていると言っていた。
親子三人で暮らすというのは、珠美がずっと願っていたことである。
けれどそんな理想的な未来を前にして、今はとにかく寂しい。
甲子園。
この球場に、どうしてここまで人は魅了されるのであろうか。
もっともあの騒々しい先輩たちは、舞台を変えてもお騒がせ者らしいが。
明日で終わる。
高校野球は、事実上明日で終わる。
国体なども残っているが、それはもうオマケのようなもの。
明日がクライマックスだ。国体はエンドロールの風景に過ぎない。
卒業までには秋の大会があって、そしてセンバツの出場校も決まる。
年々戦力は低下するなと父は言っていたが、来年だってきっとこのチームは強いのだ。
「雨、やんだな」
窓から庭を見てみれば、バットを振っている三年がいる。
こういった光景も、もう見ることはないのか。
そして受験があると思うと、途端に嫌な気分になる。
白富東は進学校なので、夏から追い込みは激しい。
本当なら机に向かう三年生が、それでも応援に来てくれたりするのだ。
勝ってほしい。
選手たちのためにも、父のためにも、自分のためにも。
そして応援してくれる人のためにも。
夜が更ける。そして眠りがやってくる。
目が覚めたら、甲子園最後の日がやってくる。
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