第87話 エースの矜持

 白富東のエースは、負けてはいけない。

 そんな錯覚を抱きつつ、淳は全力を尽くす。

 可能な限り点を取らせない。つまりランナーを出さない。出しても塁を進ませない。

 単純ではあるが、ピッチャーにとって最も大切なことを、淳は行っている。


 帝都一とは春以来のガチ対決である。

 センバツでは1-0で敗北し、春は4-3で勝利した。

 帝都一の堀田は、大会ナンバーワンではないかとも言われていたピッチャーだが、この最後の夏には色々なピッチャーが仕上げてくる。

 日奥第三の市川、名徳の古沢、聖稜の恩田、明倫館の寺内と、本格派にサウスポーなど、150kmを出してきたピッチャーも少なくない。

 だが意外とも言わず、一番厄介そうなピッチャーは、大阪光陰の一年坊かもしれない。


 そんな本格派やサウスポーの中で、最も技巧的であり軟投派であるのが淳だ。

 世界的にも珍しいサウスポーのアンダースローで、確実に相手をロースコアゲームに引き入れる。

 ただし春の関東大会は、かなり珍しいものであった。

 それでも三点と言われるかもしれないが、淳にとって三点を奪われるというのは、己のプライドの許容値ぎりぎりのところなのだ。


 一試合に四点取られるピッチャーにはなりたくない。

 プロにおいてクオリティスタートは六回を投げて三失点までと言うが、平均的に三点以内に相手を抑えられるなら、おそらくプロに行っても通用する。

 そこで保険をかけておくあたり、淳はやはり計算高いと言えるのだろうが。

 高卒のアンダースローというのは、いくら良くてもまずドラフトにかかることはない。

 物珍しさこそあっても、プロであれば年間に何度も対戦し、データは蓄積されていくからだ。

 その点、センバツから何度も対戦している帝都一に、自分のピッチングが通用するかどうかというのは、一つの物差しになった。


 この試合、秦野は継投で行くと言っていた。

 だが自分が徹底して抑え込めば、秦野もその判断をしないと思った。

 実際に終盤まで、さすがにランナーはそれなりに出るものの、三塁までは進まない。

 孝司と相談して、最後まで完投する覚悟もしている。

 もちろん秦野は秦野で考えているであろうから、ちゃんと交代は受け入れるが。

 自分から、交代の理由は作らせない。




 アンダースローとして水戸学舎の渋江に負け、サウスポーとして帝都一の青山に事実上負けたことは、淳個人としてはいいことであった。

 シンカーという球種を自在に操っていた渋江に、サウスポーの利点を上手く使っていた青山。

 両方の長所を、淳は引き出すことが出来る。


 元々器用で、変化球はたくさん使えた。

 ただ下手に器用すぎるがゆえに、どの変化球を基本として使うかが決まっていなかった。

 相手に合わせて変える。それがはっきりとしたのは、夏の直前だ。


 基本的には、ストレートだけである程度は打ち取れる。

 淳のアンダースローは、その柔らかさもあってか、タイミングが合わないのだ。

 これにカーブをスライダー、そしてシンカーを使う。

 沈む球は元々、アンダースローにはある程度そういう面がある。

 一応カーブは使っているが、ストレートとどれだけ差をつけられるかが問題だ。


 他のピッチャーと、どれだけ違ったピッチャーになれるか。

 そう思いながら、淳はピッチングを考え続けた。

 名門高校から誘いがかかるほどのサイドスローを、さらにアンダースローにした。

 それだけの覚悟を持って、淳は野球をやっている。




 まさか、と思っていた。

 夏の甲子園で、ある程度休養はあったとはいえ、しっかり一試合を完投したのだ。

 それをこの準々決勝でも再現するというのか。


 秦野は驚きながら、淳のピッチングを見ていた。 

 淳は敗北を知っている。そしてそこから学ぶことも知っている。

 はっきり言って秦野の中では、一番まともにエースであるエースだ。

 岩崎などはあれで、けっこううじうじしているところもあった。

 だから直史に、最後の夏のエースナンバーを譲ってしまったとも言える。

 淳なら力の差を知った上でも、エースナンバーを付け続けていたのではないかと思うのだ。


 精神力は、明らかに精神構造からしておかしな直史を除けば、一番であろう。

 無神経という意味では武史や、あっけらかんとしているアレクも強かったが。

 プレッシャーを自分の力に変えられるというのは、ピッチャーとしての才能と言える。


 このまま最後まで行くのか、と自分の判断に自信がなくなる。

 だが帝都一も、堀田の球威は落ちてきた気がする。

 七回の表裏というのは、試合が動きやすいと言われている。

 この回の白富東の攻撃は、七番の大石から。

 バッターとしての実力はまだまだだが、塁に出れば色々と使いやすいバッターが、先頭打者として回ってくる。

 ここで出塁出来たら、白富東にツキがあるのか。




 大石は無理をしない。

 ここで自分が狙うべきは、出塁である。

 前の二打席で、おおよそ堀田の球は見切ったつもりだ。つまり今の自分では打つのは難しいと。

 だが、やや制球が乱れてきた。


 ツーストライクまで追い込まれたものの、そこからファールで粘る。

 堀田もこの回は苦しいだろう。だが打力で見るならば、この回は下位打線なのだ。

 ユーキはともかく淳はそれなりに打てるピッチャーだが、エースとしてはここは無理をする場面ではない。

 正直なところ、ユーキもバッティングセンスはあるのだが、まだ日本の変化球には弱い。

 自分が出塁しても、得点につながるのかどうか。


 そう思っていた大石は、頭部近くに投げられた球を、慌てて避ける。

 ヘルメットの縁に当たって、スコンと転がる。

 デッドボールだ。抜けた球で良かった。だが危険球である。というか、避けなかったらむしろ肩辺りで、そちらの方が良かったろうに。

 とりあえず、ランナーに出た。

 堀田は慌てて帽子を取る。握力の限界か、それともただの失投か。

 帝都一から伝令が出て、内野もマウンドに集まった。


 下位打線とはいえ、先頭打者が出た。

 八番のユーキを抑えれば、そこからは左打者が続く。青山と交代するタイミングではある。

 堀田の調子から確認するに、交代するならもうここで交代だろう。

 だが代わらない。ユーキ相手には堀田が投げる。

 これに対して、秦野もまたサインを出す。


 ユーキには送りバントはさせない。あまりバントが上手くないのだ。

 そもそも日本に来るまで、バントなどしたことがなかった。

 もちろん下手に打たせて、ダブルプレイにもしたくない。


 一塁の大石に出されたサインは、初球スチール。

 大石としてもそれに文句はない。

 今こそ守備以外で、この足を見せるとき。


 堀田の投球モーションに、牽制と投球の明確な差はない。

 だがそれでも、特徴というのはある。

 堀田は本気で牽制で殺そうとする時は、やや間を長く置くのだ。

 その間に大石は大きめのリードを取るが、牽制される前に素早く戻る。


 三度も牽制されていながら、簡単に戻る大石。

 これはモーションを盗まれているのかと、疑心暗鬼になる帝都一バッテリー。

 そしてキャッチャーに向けて投げたストレート。

 外に外したこの球を、ユーキが打ってしまった。


 広くなっていた一二塁間を抜ける。

 俊足の大石は、一気に三塁に到達。

 最も一点が取りやすいとも言われる、ノーアウト一三塁の状態になった。




「う~ん、待てのサインは出してなかったか……」

 致命的な失敗になったかもしれない伝達ミスというか、単独スチールをする時は、援護の空振りまでにしておくのが定跡である。

 ただ外の球を、打てそうだったから打ってしまった。待てのサインもなかったので。

 ユーキらしい経験不足の人間がもたらした、ありえないようなチャンス。


 ツキがある。

 こんなツキで勝負が決まってしまうのも、高校野球と言うべきか。

 だが外れたボール球のストレートを打つだけの力を、ユーキが持っていたというのも事実なのだ。


 打席には入るのは、ラストバッターの淳。

 ピッチャー専念のためにラストバッターにしているだけで、アベレージは高いミートのセンスはあるバッターなのだ。

 スクイズは、万一左手にボールが当たった時が怖い。

 左の淳から、三番の悟までは左打者が続く。

 ここで帝都一は、ライトの青山と堀田をチェンジした。

 堀田は打撃もいいので、下げるわけにはいかなかったか。


 淳に代打を出すか?

 右の久留米が、この時のためのように残っている。

 だが淳はまだ投げられそうだ。球数は100球を超えたが、衰えは見せない。


 アンダースローの場合、スタミナ切れは下半身の粘りがなくなって、コントロールに表れることが多い。

 だからまだいける、と秦野は判断する。

 だから問題はここで確実に、一点を取るにはどちらがいいか。

 淳がアウトになっても、まだワンナウト。

 問題はダブルプレイになることだが、その内野ゴロなら三塁ランナーが帰ってこれる。


 春のセンバツ、似たような場面で一点をやってしまい、それで帝都一には負けた。

 ここは立場が逆である。それに既に一点リードもしている。

 帝都一の選手が、特にピッチャーが感じているプレッシャーは、想像も出来ない。

(こういうところを抑えるのがエースなんだよな)

 秦野は結局、一点を許してしまった。

 だが松平は前進守備をさせる。


 一点にこだわる。絶対に追加点を許さないという攻めの姿勢。

(淳には下手に打たせたくないんだよな)

 秦野は普通にヒッティングの指示を出すが、ここでダブルプレイは避けたい。

 外野フライを狙ってほしいが。


 内野フライ。下手に塁に出て走ってもらうより、単純なアウトの方がまだマシか。

 そしてここで動く。

「久留米」

「うす」

 左の青山に対して、宇垣の代わりに右の久留米を出す。


 ここが最重要ポイントだ。

 久留米は内野ノックを受けてはいるが、ファーストのポジションはそれほど上手くない。

 そもそもファーストというのは、技術的には難しくないが、判断の量は多いのだ。

 もしここで塁に出たら、佐伯と交代だ。


 粘って、どうにかして塁に出るよりは、最低でも右方向に内野ゴロを打つ。

 ここで追加点を取る。

 帝都一は続いて前進守備だが、久留米には下手に色気を出さず、ゴロを打ってもらうことを徹底する。




 ワンナウト一三塁。

 アウトカウントは増えたし、ダブルプレイを取れたらそれでホームのアウトはいらなくなる。

 いっそのこと塁を埋めるかという選択もあるが、1-0で負けているのに、三点目以降の点を取られそうな状況にするのはまずい。歩かせたら、今日の先制弾を打っている哲平になるのだ・

 出会い頭の一発と違い、結果的にヒットエンドランとなったこの回の攻撃の方が、流れ的に帝都一には悪い。


 攻撃的な守備。

 ここは気迫で一点もやらないと示す。

 対して久留米は、それ以上の気迫で返す。

 変に力などは入れない。いや、別に入れてもいいのだが。

 大切なのは、打点をつけること。ヒットでなくてもいい。なんなら外野フライでもいい。


 そう思った三球目、特大のフライが上がる。

 レフト方向。高く上がりすぎて、外野は軽くファールゾーンで追いつくが、捕らない。

 そこで捕っていたら、大石が簡単にタッチアップを決めていただろう。

 この程度の冷静な判断力は残っている。

 

 カウント的には追い詰められて、ピッチャーはまだ二球ボール球を使えるという場面。

 久留米はフォアボールだけは選ばない。もし満塁にしてしまうと、大量点の可能性は上がるが、フォースアウトでホームでアウトが取れる。

 ヒットか、ゴロか、外野フライか。

 際どいボールには全て手を出してカットしていく。

 技術的にはともかく精神的には、白富東で一番粘り強いバッターは久留米だろう。

 バッティングセンスがないと思っていたが、そこからここまで成長するのが高校生なのだ。


 青山のボールが外角ボールゾーンから、ぎりぎりストライクに変化してくる。

 これも久留米はカットする。

 カーブは低く外れた。そこまで明らかなボール球なら、あえて打つ必要はない。

 カウントを悪くすれば、追い込まれるのはピッチャーの方だ。

 そしてゾーンから外に逃げていく球も、カットしてファールにする。

 逃げないし、逃がさない。

 平行カウントからで、バッター有利とも言われるが、あと一つボール球を投げられるのだ、ピッチャーは。

 キャッチャー後逸や暴投でも点がはいる場面で、バッテリーは無難な選択肢がどうしても浮かんでしまう。


 粘った八球目は、やや内に入ってきた。

 やや沈むそのボールは、カット気味のスライダー。

 久留米はそのボールを、全力で掬い上げた。


 ボールはセンター方向へ、少なくとも浅いフライではない。

 だがセンターは一度かなり後退する。

 キャッチした後に助走から、ホームへと返球するためだ。

「走らせろよ!」

 三塁のコーチャーに入っている小枝に対して、声をかける秦野。

 ここでタッチアップしなかった場合、ツーアウト。

 どんなアウトでも構わない場面。バッターは哲平。

 おそらく左の青山から、クリーンヒットを打つのは難しい。


 前進してきたセンターがボールをキャッチする。

「GO!」

 小枝の合図で、大石はスタートした。


 センターの助走のついた返球。中継はいらない。

 この距離で、このスピードで、タッチアップは無理だったか。

 ホームに突っ込む大石は、しかし成算がある。

 返球されてきたボールは、わずかに大石より早いか。

 しかしタッチにきたミットを、大石は飛びあがって回避した。

 やってる競技を間違っていると言われそうなジャンプ。

 着地した右手がホームを叩き、審判は手を横に広げた。

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