第66話 若葉のころ

 桜は早々に散ってしまったこの年の春、普通に新学期が始まった。

 白富東高校の新入生の内、体育科が30人である。なんだか知らないが、枠が減った。

 そのうちの六人がスポーツ推薦であるのだが、この年の最大の目玉はそこにはいない。


 日本の高校の入学式という、これまでに経験したことのない雰囲気の中で、ユーキはわずかな微笑を浮かべている。

 基本的には楽天的と言うか、その事物をそのままに捉える。

 無駄に期待も悲観もせず、ただそのままを受け止める。


 とにかくニコニコしていた彼を、体育館の入学式からずっと眺める視線が一つ。

 同じく入学式に出席していた彼女に対しては、多くの視線が集中していた。

 日本にはほとんどアジア系しか住んでいないとは聞いていたが、ここまで極端だとは思わなかった。

 ところどころ茶色い髪はいるが、ほぼ99%ぐらいは黒髪である。


 壇上を見る限りにおいては、アジア系の人間しかいない。

 それもおそらく、全員が日本人なのだろう。

 アメリカにしろアフリカにしろ、どこかに必ず白人がいた環境で育ってきたので、かなり緊張する。

 ユーキの方は違和感なく、この場に溶け込んでいるが。


 多くの国において、異邦人は自分が異邦人であるというように感じるという。

 だが日本だけは例外で、自分が日本人ではないことを思い知らされるそうな。

 ユーキはアフリカの大自然の中でも、ニューヨークの雑踏の中でもユーキであった。

 だが彼女は、日本では異邦人だとはっきりと感じる。


 入学式を終え、各教室に向かう。ユーキと同じクラスでないのは仕方ないが、彼のフォローがないのは厳しい。

 彼女は、少なくともこの文化圏では、人見知りになってしまう。




「聖サラです。日本語の会話には全く問題ありませんが、読み書きは少し苦手です。主にアフリカで育ちました。よろしくお願いします」

 ほほう、という溜め息が周囲から洩れた気がする。


 血の繋がりはない、聖勇気の同い年の妹。

 赤毛と表現した方が良さそうな茶髪に、うっすらとそばかすがあるが美しい容姿。

 今年の帰国子女留学生枠のもう一人である。


 ホームルームが終わると、当然のように周囲は彼女に群がる。

 白富東に集まる生徒は、好奇心が多い者が多いのだ。

 なぜかと言うと、伝統的にそうだからとしか言いようがないが。


「ねえねえ、アフリカのどこに住んでたの?」

「タンザニアとかコンゴとか、中央アフリカあたり」

「親の仕事? なんで日本語上手いの?」

「ええと、義理の両親が日本人で、家庭では日本語を使っていたから。仕事は動物の行動研究をしてるの」

「なんか家庭環境複雑? 触れない方がいい」

「大丈夫。単に両親が亡くなって、今の両親に引き取られただけだから」


 それなりにハードな背景はあるのだが、周囲は変な遠慮はしない。

「すると留学生枠? 今は両親はどうしてるの?」

「留学生。両親はアメリカとアフリカを行き来してて、あの、一度に質問は一つにして」

 ういうい、と頷くが、無関心な者もいれば、全力で興味を示して来る者もいる。

「そしてそれからは紹介合戦になるのだが、一度に言われても憶えきれないのである。


 そんな中、向こうからひょこっと兄の顔が見える。

「ちょっと待って。ユーキ、何?」

「僕は野球部を見に行くけど、サラはどうするのかなって」

「ああ、野球。入部することに決めたの?」

「お願いされてるしね」

「待って。じゃあ私も行く。ごめんなさい、また明日」

「ねえねえ、そちらの人は?」

「兄よ。それじゃね」




 廊下を歩くユーキは、自然とサラに歩調を合わせる。

「人気者だったね」

「日本って本当にアジア系以外の人間がいないのね」

「アフリカだって僕たちの周り以外は、ほとんどアフリカ系だけだったよ」

「そういえば……アメリカがむしろ特殊なの?」

「人種の坩堝だしね」

「ルツボ? 難しい言葉?」

「色々な人種が集まっているってこと」


 会話はほぼ支障のないサラであるが、ユーキほどには堪能ではない。

「野球……日本では女子は分かれてるの?」

「まあ普通に分かれてると思うけど」

 ユーキはのほほんとした笑みを浮かべて、玄関から外へと出て行く。

 野球部のグラウンドは、以前に一回来たので知っている。

「そんなに楽しみ?」

「野球だけじゃないよ。日本に三年間もいるんだよ? 楽しまなきゃ損じゃないかな」

 ユーキはどんな時でもポジティブだ。サラがどちらかと言うと怒りっぽいのとは対照的に。


 すぐ道を一つ挟んだところにある野球部グラウンドだが、撮影用カメラを持ったマスコミが来ている。

 去年までと比べると、圧倒的に少なくなったものだが、それでも取材は多いのだ。

 今年のセンバツ、遂に覇権を手放した白富東であるが、ちょっと調べれば指導陣の入れ替えは分かる。

 大学時代にはプロからも注目されていた国立が、白富東に異動してきたのだ。

 今度は挑戦者となる白富東に、どんな新戦力が入ってくるのか。

 マスコミだけではなく、ご近所さんの応援団も興味津々なのだ。




 秦野は教員でもないので、普通に新入生たちをグラウンドで待っていた。

 今年も春の大会には、新入生でも活きがいいやつはベンチ入りさせるつもりである。

 まあ事前から目をつけているのは、一人だけであるのだが。


 集まってきたユニフォーム姿の一年生は20人ほど。

 スポ選組の中でも特に成績の突出していた二人は来ている。

 あとの一人はどうなのかと思ったら、のんびりと制服で女連れでやってきていた。

(能力と素材は間違いないけど、変なところで軋轢が生まれると嫌だな)

 そう思いながら秦野は声をかける。

「ようし、まずは最初から野球部入りを決めてる者と、まだ考え中の者、あとはとにかく見に来ただけという者」

 秦野はバットを杖のように持ちながら説明を始める。

「うちのチームは完全実力主義で、実力があったら一年の夏どころか、今月下旬から行われる春の県大会からさえ、一年生を使っていく。今日は主に見学をさせる予定だが、参加したい者は練習に参加していい」


 秦野の説明を聞きながら、サラはユーキに問いかける。

「今日から練習出来るんだって」

「らしいね。でも今日は道具も持ってきてないんだ」

 マイペースな兄は、やはり日本でもマイペースのようだ。


 白富東は先日まで行われていたセンバツで、決勝まで進むことなく敗北した。

 そんなことを説明していく秦野であるが、それはおおよそ誰もが知っていることである。

「ねえユーキ、日本って野球は強いの?」

「そうだね。アメリカのメジャーリーグに選手を輩出してるし、ハイスクールの世界大会では去年二位だったから、弱くはないはずだよ」

「一位はどこだったの? ステイツ?」

「そうだね。でももう一つ前の大会では、ステイツに勝って優勝してる」

「へえ、人口はチャイナやインドよりもずっと少ないわよね?」

「けれど野球は一番人気らしいよ。スポーツでもサッカーより人気があるらしいし」

「アメリカでもサッカーはあんまり人気はなかったわね」


 そんな言葉をかわしながらのんびり見ていた聖兄妹であるが、上級生たちも集まってきた。

 100人近い人数だが、プレイヤーはそこまで多くないらしい。

「マネジメントみたいなグループもあるみたいだし、サラも特にやることがなければそこに入ってみたら?」

「そうね……」

 とりあえず今日はのんびり見ていればいいかと思っていた二人だが、そこへ秦野が声をかける。

「Hey ユーキ! Come On!」

 首を傾げたユーキは、特に疑問もなくグラウンドに入っていく。




 秦野にとっても、ユーキは見かけは日本人だが、メンタリティは違うという特殊な存在だ。

 そしてこれまでの助っ人外国人に比べると、野球への興味は格段に薄いのだ。

 これを野球愛に染めて、出来れば手駒にしたいというセイバーの要望は、けっこう無茶ではないのかとも思う。

「野球部にはもう入部することは決めたのか?」

「はい。あと妹がマネジメントのグループに入るかもしれませんけど、何かセレクションみたいなものはありますか?」

「妹……。ああ、聞いてるが、経験は?」

「ありません。そもそもどういうことをするのかも知りませんけど」

「う~ん……本当は部活説明でそのあたりのことは話すし、それから決めてもいいとは思うが、まあとりあえず見学しておくか。お前はもう練習に参加出来るのか?」

「初日から参加出来るとは思ってなくて、何も準備はしてません」

「なんかあの女にしては迂闊だな」

 秦野はそう思ったが、セイバーはセイバーでそれなりに忙しいのである。

「まあ最初は見ていたらいいさ。明日からは参加でいいのか? 今日は一応いろんな説明はあるが」

「特に用事もないですし、身の回りも片付きましたから」


 ユーキは制服のまま、他の制服組とも離れて見学をすることになった。

 まあそれはそれでいいとして、スポ選組では他に二人、かなりいい素材が入ってきたのである。

(大井と塩野か。どちらも外野ってのは将来的には困るけど、来年はポジションが空いてるな)

 悟たちの世代は、とにかく内野で使える人間が多すぎるのだ。


 敗戦の後なので仕方がないが、今年の白富東の上級生は、多かれ少なかれ殺気立っている。

 去年の秋までとは、雰囲気が違うのだ。

 威圧されている新入生はいるが、別に練習メニューがいきなり過酷なものにはならない。

 準備運動をたっぷりとして、柔軟とストレッチとアップに時間をかける。

 そしてとにかくキャチボールである。


 だいたい肩の強さを見ながら、その相手を変えていく。

 そしてコントロールには注意しながらも、前後に動きながらのキャッチボールを行う。

 捕って、素早く握り、正確に返す。

 そんな基本のメニューだが、間を空けずにどんどんと行う。

 野球はつまるところ、どれだけボールに触っているかが問題だ。

 ボールは友達ではないが、とにかく慣れていないとどうしようもない。


 ある程度のアップを終えると、技術的な練習に入る。

 内野と外野に分かれてノックをしたり、あるいはバッティングの方へ行ったり。

 一箇所に集まるのではなく、グラウンドとバックネット裏も使って、効率よく練習量を増やす。

 ノックなども前の動きに合わせて自分も動き、止まっている時間は短い。


 この中で、国立のノックの上手さが際立つ。

 秦野も相当にノックには自信を持っていたが、これほどバウンドと飛距離を上手く調整出来るのは、国立以外には見たことがない。

 ショートバウンドのバウンド直後に捕るのが一番イレギュラーの影響を受けないわけだが、そのバウンドの量が丁度良いのだ。

 セイバーが手配したノックのコーチよりも上手いのだから、さすがドラフト候補だっただけのことはある。




 技術的な練習をした後は、体力的なトレーニングだ。

 普通は逆じゃないのかと思う新入生もいたが、トレーニングでボロボロに疲れた体で、ちゃんと技術が身に付く動きが出来ると思うのか。

 勉強でも同じだが、頭を使うことは先にする。

 集中力がなくなって、とにかく記憶するだけの勉強は後にする。

 ただトレーニングも、どこを意識するかなどは重要なのだが。


 白富東の練習時間は短い。

 だが休憩を最低限にし、練習メニューとメニューの間の休みがほとんどない。

 上級生などは待ち時間があると、その間に自重で筋トレなどを行っていたりする。


 自分で考え、自分で動く。

 それが白富東の、変わらない理念である。

「まあ一年生で今日は見学だけの者も、いつでも入ってきていいからな。はっきり言って一般的な野球部より、七割ぐらいは効率よく上手くなれるから」

 秦野の言葉はハッタリであるが、七割という奇妙に中途半端な数字が、逆にリアリティを持っている。


 新しい戦力は入ってきたが、春の大会に出ることは難しいだろう。

 だがベンチ入りメンバーを、一人は作りたい。

 そして夏まで。特に甲子園までに、新しい戦力を育てる。

 ピッチャーかバッターのどちらかに一枚、強力な力が加われば、帝都一に勝てる。


 センバツは、運も悪かった。

 次は必ず勝つという信念は、選手以上に監督が持っている。

 来年の夏まで秦野は監督の期間を延長したが、正直この夏に勝てないと、来年はさらに投手力が落ちると思うのだ。

 それにキャプテンシーの問題もある。孝司には哲平が補佐役についていて、エースである淳との関係がいい。チームが上手くまとまっているのだ。


 この三年生たちが引退した場合、協調性に乏しい宇垣と山村、特に宇垣がどういう動きを示すのか、それが秦野は心配なのだ。

 もっとも秦野自信は、国立という強力な味方を得て、指導陣は強化されたと思っているが。


 夏の予選まではもう四ヶ月を切っている。

 実質そこまでに鍛えられなかったら、甲子園でメンバーを入れ替えるのは難しい。

 新しい戦力が飛び出てくるか、ここから急成長する者がいるのか。

 一番スペックの高そうな新入生は、かなり今までとは勝手が違うようだが。


 高校野球として、当たり前のこと。

 甲子園出場。そしてその先へ。

 秦野が目指すのは、常に頂点である。

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