五年目・春 変革の季節
第65話 もう何も怖くない
日本高校野球史上最強と呼ばれたチームの敗戦は、それなりに納得をもって高校野球ファンに受け止められた。
そもそも全国からエリートを集めまくっている私立と違い、県内限定で、しかも公立であるチームが、頂点に立ち続ける方が異常であったのだ。
負けた試合にしろ1-0というスコアで、勝った帝都一はそのまま全国制覇し、決して格を落とすようなことはない。
だが敗北した中でも、三年生は深刻な顔で部室という名のクラブハウスに集まっていた。
三年のベンチ入りメンバーは、トニー以外が全員揃っている。
このノリは、ずっと一緒に二年間プレイしてきたトニーにも分からない。
これは、日本の高校球児にしか分からない感覚だ。
「練習時間を増やしたい」
孝司が口を開いて、そう告げる。
「そうだよな」
淳が同意し、駒井や佐伯も頷く。
哲平が他の様子を伺っていると、久留米だけは頷かない。
「増やすのは、時間じゃないんじゃないか?」
その言葉に考え込み、孝司はあっさりと前言を翻した。
「そうだな」
そう、必要なのは時間ではない。
帝都一には負けた。
一点差だが、こちらは無得点の負けであった。
「打撃が問題だな」
一点に抑えた淳は悪くない。
フォアボールからのヒットという分かりやすい失投だが、それぐらいはどんなピッチャーにでもあるものだ。
ピッチャーに文句を言うのは、せめて三点は取ってからだろう。
選手にも通達されているが、高峰の後任にあの三里の国立が来るとは聞いている。
バッティング技術に関しては天才と言われていたのが、大学時代の国立だ。
秦野もちゃんとバッティング理論は分かっているが、それだけでは足りないのが今の状態だ。
いや、打撃と言うべきではないだろう。敗退した試合でも、ヒットの数自体はむしろこちらが多かったのだ。
問題なのは、得点に結びつかなかったこと。
秦野の采配のミスと言うよりは、点が取れる場面で三塁にランナーを置けなかった。
鉄砲肩だった相手のキャッチャーを考えれば、盗塁などを仕掛けるのも難しかったというのもある。
やはり、ホームランを打てなくてはいけない。
「悟に頼りきりじゃ情けないしな」
白富東には他にも、ホームランが打てるバッターはいる。
だが基本的には、長打ではなくアベレージを重視する。パワーの飛びぬけたトニーは別だが。代償に打率はやや低い。
センバツ終了後、白富東からは四人の選手が、全日本の合同合宿に呼ばれた。
淳、孝司、哲平、そして悟である。
主に三年生で構成されるものだが、他にも数人の二年生はいた。
わずかな期間だが、それなりに有意義ではあった。
一つには敵チームの人間を、味方として見る視線。
そう思うと緒方などは、むしろピッチャーではなく内野の人間のように思えた。実際に真田がいた頃は二番手ピッチャーとして、ショートを守っていたのだし。
体格は悟に似たぐらいしかないので、ショートの守備負担に耐えるだけの力はある。
だが他にも体の身長は同じでも、バッティングの技術が基礎から違うことも分かった。
他の選手と比べても、明らかに緒方の体の使い方は違う。
パッと見た感じだと、鈍重そうに見えるのだ。
もちろん実際は軽々と動いているのだが、重さを感じさせる動きの正体はなんなのか。
それにピッチングにおいては、完全に体軸がブレない投げ方をしている。
これは直史に近い投げ方だ。
「緒方って、野球以外に何かやってたのか?」
正面から尋ねていったのは孝司である。
孝司はずけずけ行くので敵も多くなるが、仲良くなれる人間と仲良くなるのは、ものすごく早い。
緒方としても別に気にした風もなく答える。
「合気道というか……正確には合気柔術なんだけど」
柔術までは知っていても、合気柔術などは知らない。
練習の合間の時間に、ちょっと試しにとやってみる。
緒方は優しそうな顔をしているが、その襟元を掴んでみると、そこから手首に手を添えられて、足もかけずに投げ飛ばされた。
柔道のように足払いや腰に乗せるのではなく、ただ足の裏が地面から離れたのである。
試しにやってもらっていたら、他の選手までやってきて、緒方は自分よりも20cmは大きな選手も、簡単に投げてしまう。
「どういう理屈なんだ」
柔道ならまだ分かるのだが、ちょっと上半身を押したり引かれたりしただけで、足の裏が地面と離れる。
まあ場合によっては、指が腕を抑えていて、無理に立ったままでいると痛いということもあるのだが。
わらわらとコーチまでやってきて、楽しそうに緒方に投げられるという不思議な光景が出来た。
「お前ひょっとして、無茶苦茶喧嘩強いのか?」
色々と状況にもよるが、一対一で戦った場合、投げ技はかなり強力である。
特に相手が受身の取り方を知らず、下が固い地面であった場合。
体重60キロの人間が肩からコンクリートに落とされるというのは、60キロの重さがあるハンマーを、それなりの速度でぶつけるのと同じぐらいの威力がある。
だが緒方は首を振った。
「僕は子供のころ怖がりだったから、怖いと思った時にすぐ逃げられるように、心構えを持つために習ったんだ」
「お前のピッチングとかバッティング、体格の割りにパワーが凄いと思ったけど、関係あるのか?」
「あるみたいだね。ただ説明は僕も出来ないけど」
この経験が、白富東のメンバーの印象に残った。
なぜなら多くの選手たちの中で、緒方とほとんど体格の変わらない悟が、投げられずに片膝を付いただけで済んだからだ。
新入生の中に、剛速球が投げられる即戦力があるとは聞いている。
だがそれはフィジカルの即戦力であって、野球IQはまだまだ低いとのこと。
孝司は部員全員を代表して、何か新しいものがこのチームには必要だと秦野に訴える。
秦野としても、その意見には同意であった。
元々素材においては、白富東には、全国制覇を必ずするおいうほどの突破力はない。
それでもセンバツの試合では、トーナメントの組まれ方によっては、優勝の可能性はあったのだ。
だが、これ以上に何をすればいいのか。
いや、やろうと思えばいくらでもやることはあるのだが、白富東の限られた練習時間の中では、やれることは選択してやらないといけない。
「それなら、あれをやってみてもいいかもね」
この春から野球部の新部長に就任した国立は、四月一日から着任している。
色々と引継ぎをしていたのだが、この話題には口を出してきた。
「あれって?」
秦野としては、国立の秘密の一つが明かされるのかと、少なからず興味がある。
「素振りだよ」
国立の言葉は、秦野も孝司も困惑させるものであった。
三里高校の設備は、白富東ほどに充実したものではなかった。
それでも国立は大学時代の研究と、自分の経験則、そして自分だけがやっていたことからある程度の独自の練習を生み出した。
それが素振りである。
もちろん素振りなどはどこでもやっている練習であるが、国立の素振りは野球ではない。
剣道である。
「経験上、効果があるのは自分で試して分かってたんだけど、なんで効果があるのかは分からなかったんだ」
そんな国立の指導であるが、なんとなく秦野には分かる。
足運びと、重心の移動だ。
国立の素振りと、野球部員の素振りとの大きな違いは、腰の重心の移動である。
滑るように動く国立に比べると、他の皆は腰が上下する。
その中で上下があまりしないのは、悟、淳、孝司あたりである。
「ハイスピードカメラで確認すると、スラッガーでもアベレージヒッターでも、共通していることが一つある。それは視点の移動が少ないこと」
「ああ、イチローだけは別のあれか」
あと大介も、無理な体勢から打てば変化する。
そういったのは天才か異常者なので、凡人が真似してはいけない。
バッティングは前に踏み込むが、前足を突っ張ってそこで体を止めて、残った軸足から体を回転させて打つ。
この時に踏み込みすぎると顔が大きく上下にぶれて、スイングスピードこそ速くなるものの、ミートすることは難しくなる。
大切なのはピッチャーを見る目が、両目ともちゃんと水平であること。
このための一つの指示が、顎を引けというものである。
踏み込んではいても頭の位置は前後せず、その固定された視点から見れば、しっかりとボールは追える。
動くボールを動きながら打とうとすれば、それは難しい。
単純に言えばそれだけの話で、だがボールを打つためには自分も動かなければいけないわけで、そこでどれだけ視点を動かさないかで、ミート力が変わるわけだ。
これをマジモノの天才は、途中までの打球の軌道でその後を判断して、視点を動かしながらもそのボールがくる軌道を見切ってしまうのだ。
確かに完全に手元まで来てからでは、振り遅れるのも当然の話である。
そしてこれは、ピッチャーにも同じことが言える。
別にわざわざ素振りをするまでもなく、バッターは視点の固定はしていたし、ピッチャーも重心の平行移動はしていた。
ピッチャーにおいてはそれが、力を無駄なくボールに伝えることになるからだ。
ただ下手に意識しすぎると、それでコントロールが悪くなってしまう。
体幹を鍛えて体軸を身に付け、プレイの中で行う。
そのための一つの手段として、剣道の素振りもあるぞという程度だ。
実際に国立の素振りを、激しく面を打ちに行く動作を見ても、腰の位置がほとんど移動しない。
わずかな移動は、あるが、逆にその時は頭の視点が上下移動していない。
つまり腰の移動によって、視点の上下移動を消しているのだ。
練習法などというのは、いくらでもある。
問題なのはどの練習が自分に合っているか。それを見つけることだ。
よく色々な練習方法に手を伸ばすのではなく、ある程度一つのことをやってみるべきだとも言われるが、秦野も国立もこれには反対する。
一通りやってみて、どれにも手応えを感じないなら、何か一つに絞るべきだろう。
だが色々とやってから一つのことに手応えを感じたなら、それを改めて一生懸命やってみればいいのだ。
自らの成功体験を絶対視し、それを押し付ける指導者。
基礎的なことであれば、ある程度それは共有するべきなのかもしれないが、指導者は必ず、自分の教えていることが正しいのかどうか、常に怖れを持っていなければいけない。
自信満々に言われてそれを間に受ける者もいて、そして成功することもあるのだが、指導者は外面をどう見せていても、内心では自分を疑わなければいけない。
そうでなければそれはスポーツではなく宗教になってしまう。
誰もが身につけるべき基礎はある。いや、身につけた方がいい基礎と言っておくべきか。
だがその基礎を身につける方法さえ、人によって効率は違う。
バッティングにしても、皆の知る中で最も究極のバッターに近い大介は、かなり独特の技術を持っている。
重くて長いバットを使い、筋肉はスピードをつけるためと、バットを保持するためのもの。
重いバットにはそれだけ力が乗せやすく、スイングスピードとの兼ね合いでもって、バットの重さは変えるべきだ。
現在ではバットは軽いものを、しならせるようにして打つというのが常識になっているが、大介の考えは違う。
ただ大介はそうやっているのだが、どうしてそれで上手くいくのかは、本人にも分かっていない。
体勢を崩しながらでもミート出来るのは、おそらく空間認識能力が優れているのだろうが。
白富東の野球部は、甲子園の決勝を見た翌日から、早速動き始めた。
それがあっという間にこのように、今までと違うことをやることにつながる。
ただ剣道の素振りに関しては、あまり効果を実感出来る者は少なかった。
打席の中での前後移動は、基本的にわずかに踏み込むだけだ。
学生時代から剣道をやっていた国立だからこそ、それを上手く他のスポーツに落としこめたのだろう。
しかし数人は、確実に実感する者がいた。
一人は孝司で、明らかにミートの瞬間のグリップが上手く利くようになった。
打球が今までよりも、明らかに遠くに飛んで行く。
そしてもう一人はトニーである。
パワー自体はあったのだが、ミート力が確実に改善された。
またピッチャーでは山村が、これで少し球速が上がった。
それまでも同じことは言われていたのだが、上手く体に染み込まず、他の方法を考えていた。
だがこれでしっかりと、ボールに力が伝わるようになった。球離れがよくなったのだ。
ほんの少しとは言っても、わずか数日で効果が出れば、それは大きなものだと言える。
白富東は覇権を奪われた。
だがそれは、また挑戦者の資格を得たということでもある。
上手くなるための試行錯誤。それを恐れずにやっていくしかない。
もはや守るものなど何もない。
今から、これから奪いにいくからだ。全てを。
そして入学式。
白富東は新たな戦力を迎えることになる。
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