第64話 解放
スクイズ。
高校野球においては、最も監督同士、あるいはバッテリーが読み合いを必要とする勝負。
外せばまず三塁ランナーをアウトに出来るし、成功すれば膠着していた試合を打開出来る。
ワンナウト一三塁。バッターは六番。
準々決勝までには一度もバントをしておらず、秋の大会での実績もない。
ただここでバント要員を送り出さない以上、内野ゴロで充分としているのか、しっかりと訓練はさせているのだろう。
三番打者を下げてさえ俊足の代走を出した。
つまり帝都一は、ここで確実に一点を取ってくることを選んだ。
(基本的には内野ゴロ、スクイズ、外野フライ)
既にバッターはバットを寝かせているが、これが即ちスクイズとは限らない。
スクイズにしてもファーストとサードをチャージさせてからプッシュバントで転がし、セーフティスクイズを狙ってくるか。
選択肢は色々とあるし、相手のバントの技量も問題である。
(淳のボールの性質から、ゾーン内を確認してから仕掛けてくる可能性もある)
内野ゴロでGOとなった場合は、打球によってはホームではなく、セカンドとファーストのゲッツーを取る必要も出てくる。
伝令を出してそれぞれの可能性を全て出す。選択ミスが失点につながる。
あとは相手が必ずどこかでスクイズすると考えるなら、全球外してやってもいい。
フルベースにしてしまえば、フォースアウトでホームもアウトが取れる。
ただし満塁にしてしまって七番となれば、代打の切り札的な存在が出てくるかもしれない。
(しかし初見で淳のボールをヒットに出来るか?)
フルベースにして長打が出れば、そこで試合は決まりだろう。
だが帝都一の選手を見たところ、そんな確実に長打を打てそうなバッターは存在しない。
あるいはいるのか? 実績がないだけで。
ここもまた微妙な問題だ。
残りイニングで一点を返せる自信があるなら、一点を与えてでもアウトカウントを増やし、楽な状況に持っていくべきだろう。
一点を取られたら終わりだろ思うなら、大量点の危険を冒してでも満塁策を採る。
しかしこの状況で満塁策は、いくらなんでも危険すぎる。
難しい。本当に難しい問題だ。
残りのイニングでアジャストして点を取るのは、可能性としてはそれなりに高い。
だがあちらがエースの堀田に継投してきたら、どうなるのかも分からない。
本格派の右という、一番ありふれたピッチャーではあるが、アンダースローと左のサイドスローに慣れた後では、また修正が効かないのではないか。
ボール球を三球外した。
それでもスクイズをやってこなかった。
歩かせるか? それとももう、一点を諦めるか?
一点もやってはダメな気がするのだが、それは直感でしかない。
選手たちは秦野の指示を待っている。
アウトを取ろう。
スリーボールからのストライクを、帝都一は当然のようにバントしてきた。
三塁ランナーは間に合わず、孝司は指示を出す。
「二つ!」
二塁で一塁ランナーはフォースアウト。これで一塁もアウトに出来れば、点にはならない。
だが松平は最悪でも一点という計算は立てている。
一塁を駆け抜けたバントのランナーはセーフ。
二塁でアウトに出来たというのが奇跡的だったのだ。
これでツーアウト一塁になり、下位打線でもうほとんど追加点は取られない。
だが、重い一点だ。
試合は終盤に入る。
秦野としてはチャンスが来なければどうにも手を打てないのだが、帝都一はそのチャンスを作らせない。
正確には、チャンスを確実に潰して行く。
中盤からはむしろ、確実にランナーは一人以上出している。
しかし要所を締める。
一点の差が遠い。
松平は守備陣を替えて、完全に一点を守りきる体勢に入る。
そしてピッチャーは替えない。
動くべきところでは動き、動かないところはどっしりと動かない。
ここで守りに入るのは、追加点を諦めるという消極さにも思えるが、むしろ一点を守りきるという気概を感じる。
ここは、選手起用をする監督の差だ。
試合はまだ終わっていないが、少なくとも監督対決としては、秦野は松平に負けた。
チャンスが来るのを待つのではなく、積極的に動いていくべきだった。
序盤から渋江を体験していない選手に交代。
(いや、それも無理か)
白富東のベンチメンバーで、打撃にそれなりの期待が持てるのは、宮武、文哲、石黒ぐらいであるが、スタメンと替えてまで使うほどかと思うと疑問符がつく。
それに守備力の低下は、序盤からは避けたかった。
相手のミスを期待するか、こちらの一発を期待するか。
だが甲子園で狙って本当に一発を打てるなど、大介ぐらいのものだ。
桜島のような極端なバッティングをしていれば別なのだろうが、ホームランにならない限り、どんな打球でもアウトになる可能性は残る。
四巡目の打線は、確かに青山には合ってきている。
しかし確実にミートするのは、まだ難しい。
選手層が厚くなったとはいえ、甲子園での超強豪相手に代打に出せるようなバッターは、ポジションのコンバートなどをしてスタメンで使っている。
そして普段は打撃に期待できる選手ほど、渋江のピッチングの影響がまだ残っている。
秋に負けた借りを返したのはいいが、思い込みが強すぎた。
本日二本目のヒットを打った悟。
そこで秦野は、最後の手を打つ。
打席の孝司に対しては、とにかく強攻。
初球を振りぬいて、打球はレフトに飛んで行く。
風が出ていた。
浜風が打球を流して、ファールスタンドに入る。
惜しい。強引に決めにいって、わずかに決まらない。
だがこういう流れの中では、点は入らないものなのだ。
最後には高く上がったレフトフライでアウト。
かなり微調整は出来てきたし、右だったので期待したのだが、やはり単純に打っていくだけではダメか。
だが孝司でダメなら、他のバッターだってダメだろう。
五番の駒井も倒れて、六番の久留米。
幸い悟は二塁まで進んでいたので、ここでタイムリーが出れば一点が入る。
久留米はパワー任せなバッティングをするので、あまりスイングの影響が出ていない。
右打者というのもポイントは高い。
最終回は下位打線からなので、ここで決めなければおそらく終わる。
そしてサードゴロで、一塁アウトになった。
「一塁は駆け抜けろって言ってるのに……」
ヘッドスライディングした久留米であるが、完全に間に合っていなかった。
終わりが近付いてくる。
敗北の音が聞こえる。
応援の中に悲痛な声が混じり、それでも味方の勝利を願う。
「代打」
大石を替えるのはセンターの守備範囲が狭くなって危険だが、ここで追いつけなければもうどうしようもない。
気合を入れて宮武がベンチから出る。
だが松平も動いた。
青山に替えて堀田。
こちらが動くのを見てから動いてきた。
もっともそれでも、選択肢はなかったわけだが。
本大会ナンバーワン投手ではないかとも言われている堀田。
前の回あたりからキャッチボールを始めていて、いつ交代してもおかしくないとは思っていた。
ただ今日は全く打ててない大石を、替えないという判断はなかった。
宮武も入学以来、白富東の環境で鍛えられている。
だが帝都一のエースの球に迫るのは難しく、粘ったが三振となった。
八番の淳は打撃も期待できるピッチャーであるが、浅い外野フライ。
ツーアウトで最後の打者となるのかトニー。
四連覇だ。過去になかったことだ。
甲子園に出て、ベスト4だ。誇っていい成績だ。
だが、そこで満足出来ない者もたくさんいるのだ。
最後の打球は大きなセンターフライであった。
ゲームセット。1-0にて、白富東のセンバツは終わった。
敗者にもインタビューがある。
わずか一点に抑えながらも、一点も取ってもらえなかったピッチャー。
「自分も、打順の中の一人でしたから。チャンスのところで回ってきて、点を取れませんでしたから。最初にフォアボールを出したのも自分だし、そこでエースが一点も取られなければ、試合は負けないんです」
中盤からは何人もランナーを出しながら、先頭打者だけは確実に切ってきた帝都一。
そのために前のイニングでは、調整のためにフォアボールでランナーを出すところさえあった。
「珍しいタイプのピッチャーへ、選手の対応が遅れたというのはあります。かれど中盤以降は、どんどんとランナーは出ていた。それを決定的なチャンスと出来なかった。守備でのフォローも出来ず、責任は重く感じています」
秦野としても、敗因ははっきりとしているものの、それをわざわざ説明することはない。
松平は向こうで、会心の笑みをいかつい顔に浮かべていた。
散々ここ数年は負けてきただけに、喜びも大きい。
帝都一は満塁のピンチまで迎えながらもそこを乗り切ったのだ。
サードベースを踏ませるまでに、ツーアウトを取っておくという、当たり前のことが徹底できた。
だが1-0という結果はおかしかった。勝つとしたら、3-2ぐらいになると思っていたのだ。
それは白富東が予想以上に調子を崩していたのと、そして結局淳のことを完全には攻略出来なかったことを示す。
どこか一箇所が違えば、結果は逆転していた。
秦野としては一歩踏み込みが足りず、松平としては最後まで受けきった。
ある程度の力の差はあるかもしれないが、本来なら充分に挽回できたほどの差。
だがこれで、白富東は覇権を失った。
バスの中でも、口は重たい。
そして宿舎に戻ってきて、帰りの準備をする。
「試合、どうなったかな」
誰かが呟いてテレビをつけると、大阪光陰が勝っていた。
3-1という数字で、これでこれまた因縁の、帝都一と大阪光陰の決勝となる。
決勝を前に、甲子園を去るのか。
なんだか不思議な感覚があるが、たった二つのチームを除けば、全てのチームがそうなのだ。
「夏だな」
ぽつりと淳が呟いた。
「ああ」
孝司が同意し、他の皆が頷く。
今日は負けた。それはもうどうしようもない事実だ。
だがまだ、高校野球は終わっていない。
高校野球の最後の夏。そこを勝って終われるのは、当然ながら一チームだけ。
そこへ向けて、これから準備を整えることになる。
白富東の連覇は四で止まった。
ここからまた栄光の道を歩いていくのは、難しいことは間違いない。
だがそれでも、あと一度の機会がある。
選手たちの顔から、戦う意志は消えていない。
むしろここからが、本当の戦いになる。
センバツベスト4。
それは立派な成績であるし、卑屈になる必要はない。
だが、もっと最後まで勝てたはずだ。
それは選手たちだけではなく、監督の問題も含む。
白富東の一行は、静かに宿舎から去っていった。
この年のセンバツを制したのは、帝都一。
決勝の大阪光陰との試合は、延長にもつれ込んだ2-1というスコアでの勝利となった。
大阪光陰が緒方一人に投げさせたのに対し、帝都一は二番手とエース二枚で継投させたことが大きかったのか。
たとえ準決勝で敗退しても、白富東の強さに疑いはない。
敗北してからが、本当の戦いになる。
それが春のセンバツである。
地元に戻った白富東の選手たちは、暖かく迎えられながらも、選手たち自身が厳しい表情を崩さなかった。
そしてその中で、秦野は難しい顔をする。
「普通は負けるものですからね」
そう言って迎えてくれたのは、今年度から白富東にやってくる元三里の監督である国立。
ここにも一つ、敗因はあったのかもしれない。
高峰は異動のため、甲子園には付いてきていなかった。
代わりの教頭は忙しい中事務的な手続きをやってくれたが、それでも高峰のような、慣れた手順であったわけではない。
出発直前までは高峰から話を聞いていたし、選手たちの細かいところまでをチェックする余裕はなかった。
秦野としてもコーチ陣は他にいるとは言え、バッティング技術の高度な部分までは教えられていない。
基本的には守備やバッテリー、そして作戦が中心だ。
だが国立は、まさにそのバッティングの部分を教えられる。
最後の夏までは、もう四ヶ月を切っていた。
×××
次話より新章始まります。五年目・春 変革の季節 をお楽しみください。
球数制限問題について、とてもいい元プロのお話があったので。
ttps://www.youtube.com/watch?v=4k9u3W5jOb4
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