第63話 呪縛

 合わない。

 四回に回ってきた二打席目、悟はなんとかボールを選びランナーに出る。

 ツーアウトからではあるが、これでやっとランナーが出て、相手のパーフェクトは途切れた。

 だが次の孝司がまたフライを上げてしまい、サードがファールグラウンドでキャッチする。


 何か変だ。

 上手くタイミングを外されているのは分かるのだが、それはともかくとして何か変だ。

 ベンチに戻れば先ほどまで乗り出して試合を見ていた秦野が、ベンチにどっかと座って考えこんでいる。

「監督?」

「勝負は後半……いや、終盤だ」

 秦野は断言した。

「そこまで、どうにか二点以内で回せ。そこから一気に点を取る」

 具体的なことは言わないが、大まかな方針は決まったらしい。


 三年生にとっては、秦野は入学してからずっと白富東の監督である。

 その言葉があれば、信じられるほどの関係は築いてきた。

 守備に出る選手たちを見送りながらも、秦野は考えていた。

(影響を受けてないのは、そもそも大雑把なトニーと、あまり打撃で動こうとしなかった淳だな)

 八番に淳、九番にトニーと組んでいる今日の打線は、三人一組で点を取れるシステムだ。


 外すとしたら誰だ?

(守備力から考えて、センターラインは外したくない。ベンチメンバーから出せるのは、まずは筆頭は宮武だが……)

 おそらく一番強く影響を受けているのは、それなりにセンスのあるアベレージヒッターである駒井だ。

 他にも哲平や孝司など、打てるバッターほど逆に影響が強い。宇垣もだ。


 久留米を外すか。だが久留米は元々、パワーで無理矢理にヒットにしてしまえるタイプなので、むしろいてくれた方がいい。

 センターラインを外すのは難しいので、すると宇垣を外すことになる。

(けれど宮武にファーストの守備なんてさせたことないしな)

 守備の難易度は案外低めと言われるファーストだが、それでも守備の穴は空けたくない。

 代打を出した後、すぐに佐伯に入れ替える。佐伯はファーストも器用に守っていた。

 だが佐伯を使ってしまうと、万能タイプの守備職人はいなくなる。


 終盤、本当にそのチャンスが来たとき。

 代打を出して守備は佐伯に任せる。

 さすがにキャッチャーを替えるのはありえないが、哲平に代打を送って花沢を守備固めに使うとか、それぐらいの覚悟はいるかもしれない。

(ご機嫌な展開になってきたな)

 監督としては選手起用に采配を振るうところなのだが、この事態になってしまっている時点で、既にかなりの不利なのだ。

「そんなにヤバイの?」

 珠美が小さな声で聞いてくるが、秦野は素直に頷く。


 白富東が青山を打てない理由。

 それは青山が左のサイドスローという希少なピッチャーだから、ではない。

 問題はバッターの方にあった。

 しかしそれを指摘しても、おそらくは無駄である。

 むしろかえって、さらに調子を崩していくだろう。


 気付けばやりようがあったのだ。

 帝都一の強さの分析に頭を費やし、自軍のチームの調整を怠っていた。

 淳や孝司を中心に話し合っていたので、大丈夫だろうと思っていたのだが。


 いや、やはり無理だ。

 少なくとも練習では関係なかったのだから、この甲子園という舞台をも含めた作用である。

 水戸学舎の渋江の、とんだ置き土産だ。

 選手層の厚い帝都一などだったら、ごっそりとポジションを控えにすることも出来たのだろう。

 だが白富東ではそうはいかない。




 そして帝都一のエリート打線は、徐々に淳に合ってきている。

 おそらくこのままだと、大量失点はしないまでも、何点かは取られる。

 淳はそういうタイプのピッチャーなのだ。

(淳も代える必要があるか……)

 だがそれも、やるとすれば終盤だ。それにやはり、トニーよりは淳の方が、帝都一相手には相性がいいはずなのだ。

 今はこの不調なまま、試合を流していくしかない。そして終盤の攻撃は、本当に賭けになる。

「言わなくていいの?」

「言ってどうにかなるもんじゃない。逆に他の全部にまで悪影響が出る」

 打撃にスランプはあるが、守備や走塁にスランプはないと言うが、実際のところおは守備にだって不調はある。

 普段どおりに出来ないことが、一番多い守備のエラーとなる。

 ここではこれ以上に選手の、心理的な負担を増やすべきではない。


 珠美もまた、白富東は甲子園では勝つ姿しか見たことがない。

 だが父の言っていることは、かなり切実であるということは分かった。

 自分の言葉が鍵となって、秦野が原因を特定できたということは大きい。

 しかしそれを、すぐここで活かすことは難しい。


 勝負するのは終盤。

 そこまでをどうにか最小失点で乗り切る。




 白富東の選手たちが、自分たちの不調に気付いていない。

 正確には不調が不調だと気付いていない。

 それを反対側のベンチから、帝都一の松平は見つめている。


 当初は前面に出て試合をじっくり見ていた秦野が、今は座ってじっとしている。

 ここで泥縄の対処をするのではなく、考えながら見定めている。

(若いのに辛抱強いな)

 そうは言っても秦野とて、40歳は越えているのだが。

 還暦越えの松平から見たら、たいがいの監督は若い。


 そして松平は、勝つために容赦はしない。

 もちろんダーティプレイなどは行わないが、この場合は一言囁くだけでいい。


 フォアボール二つを選ばれた以外は、ノーヒットの青山。

 これに対して、三打席目の宇垣の打順が回ってくる。

 苛立ってはいるが、判断力は保っている。

「なんで打てないのか不思議か?」

 宇垣は無視する。下手に反応すると、審判の心象が悪くなる。

「お前ら、昨日の水戸学舎との試合で、スイングが崩れてるんだよ。監督は何も言わねえの」

 宇垣の体がピタリと止まり、視線がキャッチャーの方を向く。

 だがキャッチャーはそれ以上は何も言わない。


 宇垣は表面的な動揺こそ抑えたが、内心では思考がフル回転する。

 打ちにくいピッチャーだと思っていたが、単にこちらのスイングがおかしいだけ?

 確かに前の試合は、作戦方針もあって、必死であの妙な軌道のアンダースローについていった。

 普段とは違うスイングではあったかもしれない。だがその次の日には、普通にバッティング練習はしていたのだ。

 単にこちらをイラつかせようとしているだけだ。

 いつも通りに打っていけばいい。


 いつも通り?

 いつも通りのスイングが、今日は出来ているが?


 泳いだスイングで内野ゴロを打ち、宇垣はベンチに戻る。

「監督! 俺らのスイングっておかしくなってませんか!?」

 大声でそれを聞くなと、と思った秦野であるが、答えないわけにはいかない。

「おかしくなってるぞ」

「昨日の水戸学舎の影響だって!」

「キャッチャー囁いてきたか。その通りだ」

 秦野は余裕の表情を崩さない。ここではそれが一番マシな対処だと分かっているからだ。


 宇垣も少し落ち着いたようで、それでもベンチに聞こえる声で尋ねる。

「なんで、教えてくれなかったんすか」

「一つには、試合が始まるまでは分からなかったこと。もう一つは、指摘してどうにかなることじゃないからだ」

 そう、これが、教えても教えなくても問題、ということなのだ。

「いつものスイングとか、自分のスイングを見失ってるとでも言われたか? その通り。俺も試合が始まってしばらくは気付かなかった」

 バッティングは繊細なものである。

 わずか数ミリという違いで、結果は完全に変わってしまう。

 その微調整を試合の中でも出来るのは、相当にセンスの優れたバッターだけだ。


 ここまで知られては仕方がない。

 秦野は指示の裏にあったことまでを説明する。

「水戸学舎戦、お前らはアンダースローの球に粘っていって、あの標準から外れた球に慣らされすぎたんだ。それでもバッティング練習では問題なかったのは、それが今までの普通だったからだ」

 そう、普通の環境であれば、水戸学舎以前に戻れた。

 だがここは甲子園なのだ。

 一日の休養日があったにも関わらず、渋江のピッチングに対応するよう、体が慣らされてしまったのだ。


 ベンチの中から音が消えるが、秦野はあえて静かな声で冷静に聞こえるように告げる。

「別に珍しいことじゃない。お前らだって渋江を攻略しかねてたけど、後半にはアジャストしてただろうが。今の左のサイドスローにだって、終盤は打てるようになってるはずだ」

「ピッチャーが交代になったら?」

「それが堀田なら、それこそ一番あるタイプの右ピッチャーだろう。つまるところこの試合は、ピッチャーに慣れるのに、いつもより時間がかかる試合だってことだ。だから攻撃の勝負は終盤だと言ったわけだな」

 即効性の解決方法はない。

 ただ、いつも通りの攻略と同じだ。

「下手に口を出さなかったのは、変に意識して守備に影響が出るのが嫌だったからだ。お前らなら試合が終わるまでは対応出来るよ」


 秦野のそれはロジックではなく、監督の態度の落ち着きにより、ベンチ内を沈静化させた。

 下手に考えすぎることは良くない。

 言ってしまえばそれだけのことである。


 白富東ナインは落ち着いた。

 むしろあちらはキャッチャーの囁きで、こちらを揺さぶろうと必死なのだ。

 なにしろヒットこそ打ってはいるものの、淳を攻略出来ていないのは、あちらも同じなので。

 そして次の回、悟が右中間を割るツーベースヒットを打って、ノーヒットピッチングを粉砕した。




 点の入らない、それでもそこそこランナーは出る、緊迫したいい試合になった。

 悟がヒットを打った後も、連打がなくランナーは三塁で残塁。

 三巡目であるが、まだ白富東のバッターは調子が上がってこない。


 説明は嘘ではないが、本当でもなかった。

 白富東の準々決勝のバッターは、おおよそがスイングを崩されている。

 それからいつものスイングに戻すのは簡単ではないし、さらに左のサイドスローを攻略するのも難しい。

 試合中に微調整するには、どうしてもセンスがいる。

 ただ白富東の中で、そこまでの微調整が利くのは、どうやら悟だけなのか。


 この試合も待球策を取るべきだったか、と思わないでもない秦野である。

 だがそうすると向こうも同じことをする可能性が高く、あちらがエースの堀田に投げさせるのは、こちらがトニーに投げさせるより、信頼感は上であろう。

 昨日の練習で、徹底的にバッティングを戻せば、ここまでの苦戦はなかっただろう。

 しかしバッティング練習の時点では、ここまでの影響が出るとは思わなかった。


 右のアンダースローの中でも、特に渋江のボールは打ちにくい。

 そこから左のサイドスローになったのだから、アジャストするのはさらに大変なのだ。

 悟はどうやらそれを完了したらしいが、その後が続かない。

 ひそかに期待していた久留米も、外野フライで倒れてしまう。




 今日も我慢大会かと思っていたところで、淳が先頭打者をフォアボールで出す。

 その次の打者にも制球定まらず、ボール先行の後にヒットを打たれる。

 ノーアウトで一二塁という、この試合では最大のピンチである。

「伝令出さなくていいの?」

「やらないといけないことは、ちゃんと分かってるさ」

 ベンチをアテにすることはなく、淳と孝司はわずかに言葉をかわし、集まりかけた内野も散っていく。


 やるべきことははっきりしている。

 あとはそれを、どのぐらいの精度で成せるかだ。


 次のバッターには内野ゴロを打たれ、ゲッツーは成立せずに一三塁にランナーが残った。

 ワンナウトでランナーが一三塁。

 攻撃も守備側も選択肢が多くて、一番点が入りやすい状況とも言われる。

 ここで松平は三塁ランナーに代走を出した。


 内野ゴロ、タッチアップ。

 どちらでも点を取っていく。

 あるいはスクイズか。

 淳のボールはスクイズが絶対出来ないというほどの、極端な空振りを取れる球はない。


 ここでの一点は痛い。

 だが致命傷にはならない。

 それでも重い一転になることは分かっている。

 内野は浅めに守り、外野はタッチアップを防げるほどの位置。

 ただあちらは甲子園でもここまで、盗塁を二つ決めている走塁のスペシャリストだ。

(難しい判断だぞ)

 ここはベンチの監督よりも、選手たちの嗅覚の方が確かかもしれない。

 だがここは、高校野球の監督ならスクイズを選択するだろう。

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