第61話 連覇の呪縛

 九回裏、得点差は二点。

 こういう場面では秦野は、もちろん交代などはさせないが、交代させたらどうなるだろうかとは考える。

 球数は159球だが、アンダースローの疲労度はコントロールに表れる。

 下半身で粘って投げる投法であるから、小手先でのコントロールが利かないのだ。

 この試合自体は、おそらくもうこのまま決まる。

 ピッチャーの淳の気迫が、水戸学舎の選手を上回っているのだ。


 なんだかんだ言いながら、高校野球は気合と根性で勝ちあがることもある。

 頭では完全に合理的な練習やトレーニングが有効だと分かっているのだが、それでも最後の最後は、精神論になってくる。

 日本の根性論とはまた違う、メンタルコントロール。

 直史や淳は、それに長けた選手だ。

 球威で押す武史やトニーよりも、二人の方が上だと秦野が判断するのは、そのメンタルの部分である。


 最後までブレないメンタル。それは根性論などとは全く別の次元で、高いレベルのスポーツには必要なものである。

 アンダースローというよりにもよって珍しい投法を選択した。

 ただでさえ有利な左のサイドスローから、さらに珍しい存在へ。

 淳のこの変わっていくことを恐れない精神性を、秦野は高く評価している。


 ワンナウト。


 逆に直史は、変化を恐れる人間であった。

 正確に言うと、自分の責任を強烈に自覚している人間であった。

 引退してから大学に入るまで、勉強をしつつ肉体改造をして、三年の夏よりも球速を上げてから。大学へと行った。

 あいつはおかしすぎる。


 ツーアウト。


 秦野はわずか五ヶ月弱ほどしか指導していないが、そもそもあいつらには指導など必要だったのだろうか。

 秦野が赴任する直前に、監督なしで、正確にはマネージャーが監督兼任で、センバツを制覇し優勝したのだ。

 ジンを中心に直史と大介のいたあのチームは、間違いなく高校野球史上最強のチームであったろう。

 そしてあの二人を知る世代は、もうこの三年生しかいない。


 ラストバッターの打った球は、ピッチャーゴロに。

 淳がそれをキャッチしようとして、転んだ。

 だが手は伸ばして、転がすようにファーストにボールを送る。

 それはぎりぎりで間に合って、スリーアウト。

 だが淳は倒れたまま、ふくらはぎを押さえている。

 秦野は思わずベンチを飛び出していた。




 下半身の酷使。

 そう言うとなんだか変な意味に聞こえなくもないが、ただ単にふくらはぎが攣っただけであった。

 もちろんそこまで無理をしたということでもあるのだが、マウンドから降りる時に足を突っ張ってしまったのが問題だったらしい。

 全く怪我でも何でもなく、ただの疲労だ。

 実際に、ちょっと時間が経過すれば、普通に歩けるようになってはいた。

 ただ今日一日はもう安静にとのことだが、言われなくても一試合を投げぬいたピッチャーが安静にしないわけがない。


 宿舎に帰ってきた白富東の面々は、おおよそがテレビを前に甲子園を観戦している。

 神奈川の横浜学一相手に、帝都一の堀田は、二安打無失点の完封で勝利する。

「つえ~な~」

「でも神宮では水戸学舎に負けてるんだよな? スコアある?」

「待て待て。ええと……スクイズとゲッツー崩れからの得点で2-1か。ほとんどうちと同じぐらいの展開だな」

 横浜学一も弱くはなかったのだが、四点を奪われていた。

 堀田はこの春の段階で、既に150kmを出している。

 トニーもMAXは152kmを記録しているが、あまり安定して150以上は出せない。


 秋の新チームの時から、帝都一は強いと言われていた。

 それでも水野がエースを張っていたのは、安定感の違いと言われている。

 だが秋の都大会を制し、そして神宮でも準優勝したこのチームは、確かに強い。

 早大付属も日奥第三も、都大会ではあっさりと負けていたのだ。


 なんだか今日の水戸学舎戦でやり切った感じになってしまっているが、明後日はこいつらと決勝進出を賭けて戦うことになる。

「普通に強敵だな」

「ここまでの試合もかなり危なげなく勝ってるからな」

 さて、その次の試合は明倫館と花咲徳政の戦いである。

 結局戦うことはなかったが、秋の時点では優勝候補の対抗と言われていたのが花咲徳政だ。

 なお本命と言われた白富東と共に水戸学舎に破れ、あの時は大穴がもっていったと言われたものだ。

 その大穴は、結局神宮まで制してしまったわけだが。


 花咲徳政もいいピッチャーがいるのだが、明倫館はとにかく隙がない。

 そして相手の隙を見つけたら、そこを一気に突いていく。

 わずからなエラーから出たランナーを活用して、二点を先取した。

(だけどチーム全体としては、前ほどの脅威は感じないな)

 それが秦野の判断である。


 明倫館はセンバツに初出場したその年に、大阪光陰を破って白富東と決勝を戦った。

 その後もほぼベスト8の常連ではあり、とにかくチームとして強い。

 だが選手の質自体は、小粒になっていると思う。

 破天荒な高杉や、堅実で冷静な桂、そして不言実行の村田がいたあの年が、やはり一番強かった。

 その後もさらに一点を追加し、花咲徳政の攻撃は完全に封じ、3-0で準決勝に進出した。


 残りの一試合は、大阪光陰と桐野との対戦だ。

 純粋に選手のパフォーマンスでは、大阪光陰が圧勝するだろう。

 しかしチーム力ではどうなることか。

 桐野はだいたい守備と走塁のチームであり、相手を撹乱することに長けている。

 だが大阪光陰の木下監督も百戦錬磨。そうそう相手に合わせて戦うとは限らない。


 大阪光陰の緒方は、バランス良く成長していると言っていい。

 この試合でも140km台前半のストレートを中心に、緩急をつけて相手打者を打ち取っている。

 機動力が自慢の桐野であるが、大阪光陰も守備などは、徹底的に鍛えられている。

 そうなればあとは、自力の違いだ。


 緒方はいい選手だが、本質的にはピッチャーではないな、と秦野は思う。

 一年の夏から真田の球を受けていた木村が、上手くリードしているのだろう。

 もちろんコントロールと、単に球速ではない球質もいいのだろうが、ショートを守りながら打者に入っていた時の方が印象は強い。

 真田投げられなかった去年のセンバツ決勝を思うと、まだそれほどの脅威となるピッチャーではないと思う。


 2-0という緊迫した試合で、大阪光陰が勝利した。

 これでベスト4に残ったのは、白富東、帝都一、明倫館、大阪光陰の、代わり映えしない面子である。

 もっとも四年も前を思えば、白富東と明倫館など、全く意識されていなかったチームなのだが。




 準決勝の対戦相手は帝都一。

 戦いなれた相手ではあるが、去年の秋からずっと、今年の帝都一は強いと言われている。

 150kmを投げてくる堀田の他にも、いい選手が揃っているのだ。

 春の関東大会では何度も対戦しているし、練習試合もそれなりにこなしている。

 だが甲子園での対戦となると話は違う。


 それに懸念事項もある。

 淳の疲労だ。


 足はただ攣っただけであるし、明日は一日の休養日がある。

 結局180球を投げて完投したわけだが、アンダースローの選手はとにかく下半身を鍛えている。

 秦野の目から見ても、問題があるとは思えない。


 ただ、万一のことも考えないといけない。

 明日の休養日、淳はノースローだ。

 だが練習で体を動かすことはある。むしろ適度な運動は疲労の回復にはいいのだ。

 その調子を見てから、先発やオーダーをどうするか考えればいい。


 そして今夜は徹夜で、帝都一の分析だ。

 相手を丸裸にした上で、明日には選手たちに、攻略法を伝えなければいけない。

 だがまずは、飯だ。

 食うものを食わなければ、体も回復しない。

(ぶっちゃけ純粋に戦力だけを見るなら、大阪光陰より帝都一の方が強そうなんだよなあ)

 秦野としては、気が抜けるはずもないのだ。




 柔軟とストレッチを念入りに行った後、淳にはゆっくりとジョギングを行わせる。

 調整のためのメニューだ。普段はむしろジョギングなどさせない。

 淳としても秦野の意図は分かるだけに、軽く息が乱れない程度に終えて、あとはまた体幹トレーニングなどを行う。


 水戸学舎の渋江は、好敵手であった。

 勝てたのは本当に、甲子園での試合経験の差であったと言える。

 水の中でもがき苦しみ、先に顔を出した方が負け。

 そんな試合を、甲子園でしてきたかどうか。


 やはり白富東に進学して、間違いはなかったと思う淳である。

 他のチームには直史はいなかった。

 武史などもポテンシャルはとんでもないが、あの直史の持つ、エースとしての絶対的な信頼感はなかった。


 あの人は、負けない人だ。

 高校二年の春のセンバツで負けてから、三年の終わりまで、公式戦全てと選抜された国際大会でさえ、直史は負けなかった。

 純粋に実力だけで、あそこまでのことが出来るのだろうか。

 もちろん技術の極みともいえるピッチングが、素晴らしいことは分かっている。

 だがそれを言うなら、パワーの極みの上杉が、甲子園では一度も優勝できなかったりしている。


 直史は大学に行った。

 自分も大学には行くつもりであるが、果たしてどの選択が正しいのか。

 早稲谷に進めば既に、直史たちが敷設してくれた道がある。

 あの傍にいて、学べることはまだ多いだろう。それにマスコミやスカウトの注目度も高い。


 だが、離れるべきなのかもしれない。

 自分が成長するためには、確かに周囲に強い選手が集まり、その中で切磋琢磨していくというのもありだろう。

 しかし、これからずっと強い、あのチームと対戦することを考えてもいいのかもしれない。

(かといって東大はさすがにないけどな)

 プロへ進むつもりの淳ではあるが、自分の限界を確かめる必要がある。

 対戦相手のデータが、高校野球とは違う大学野球で、自分が通用するか。

 蓄積したデータの中で勝てないなら、プロに進むことは不可能だ。

 淳が高卒プロ入りを全く考えない理由である。


 だが、こんなことを考えるのは気が早すぎる。

 まずは明日の、帝都一との戦いを考えなければいけない。




 秦野の分析による帝都一は、この数年では最強のチームであるということ。

 それは甲子園を制覇した、本多が一年だった時のチームよりも強いであろうと言われている。

 堀田の他にもエースクラスのピッチャーを揃え、長打を打てるバッターをクリーンナップに揃え、リードオフマンもいる。

「おそらく、今年は大阪光陰より強い」

 秦野ははっきり言ったし、それは事実であるのだろう。


 大阪光陰は優勝こそしなかったが、おそらく去年が一番強かった。

 もちろん加藤と福島のダブルエースを擁していた年も強かったのだが、プロに四人も送り出したというのは異常である。

 それに比べると緒方と木村のバッテリーを中心としているとは言え、今年の大阪光陰はやや小粒である。

 もっともあのチームであれば、また新入生に即戦力の大物がいたりして、一気に夏には強くなってくるのかもしれないが。


 決勝よりも準決勝の方が厳しい。

 それが秦野の出した結論である。


 白富東は現在、甲子園を四連覇している。

 他の全国大会である神宮や国体は負けているが、それらは別にどうでもいいのだ。

 甲子園で勝つことが、高校野球の価値だというのは、現在の単なる事実である。

 白富東だけが、甲子園を連覇する権利を持っている。


 奇跡のように続いてきたこの勝利の記録。

 これを途切れさせたくはない。




 連覇への意気込み。

 準決勝を前にして、そんなことを秦野は聞かれたりする。

 だがそんなことを聞かれても、どうにも答えられるものではない。

「優勝への自信なんて、今までもずっとありませんでしたよ。ただ、最後まで勝とうという気持ちがあっただけで」

 だいたいこんな感じの答えになる。


 正確に言うと、一年目だけはかなり確信があった。

 このピッチャーとこのバッターを揃えて、それで負けるというのは何かの間違いだとさえ思えた。

 実際にそれで優勝出来たのだが、去年の連覇だってかなり怪しいものだったのだ。


 春は真田が故障してなければ、おそらく負けていただろう。

 夏も最後まで勝負は分からなかった。とにかく左殺しの真田が強すぎた。

 今年はもう真田はいないが、その分こちらの戦力も落ちている。


 練習を終えて、明日のスタメンを発表する。

 およそ今までと変わらず、そして先発は淳だ。

「正直なところ、戦力の分析では向こうの方が少しだけ上だ」

 だがその差は、覆せる程度のものだ。

「選手の交代もそれなりにあるかもしれない。ベンチは盛り上げていけ」

 短いミーティングを終えて、そして夜を迎える。




 監督専用の部屋に、珠美はやってきていた。

 そして開口一番に尋ねる。

「明日は勝てないの?」

 父親の様子から、敏感に珠美はそれを感じ取っていた。


 秦野は変に誤魔化すこともなく、目を細める。

「厳しいことは確かだな。だがそれほどの差はないと思う」

「でも監督が勝つつもりでないと、チームは勝てないよ」

 珠美の言葉は正しい。


 勝つつもりはある。全力を尽くすつもりだ。

 だが勝利への確信が抱けない。

 もちろんこれまでもそんな相手はいくらでもいたが、帝都一はここまでの試合が危なげがなさすぎる。

 おそらく去年の神宮で負けたことで、かえって強くなったのだ。


「煙草がほしいな……」

 昔は考えがまとまらず苛立つと、煙草をくわえて煙と共に迷いを吐き出していたものだ。

 だが今は、その迷いから勝ち筋を見つけなければいけない。


 勝負師の目をしている。

 ギラついた父の目に、珠美は少し怖くなるが、同時に頼もしくも思える。

「禁煙してるの、何かのジンクス?」

「いや、単に日本では肩身が狭いだけだけどな」

 こんなささやかなやり取りで、秦野はわずかに余裕を取り戻す。

「勝つための鍵は分かってる。あとはそこが上手く機能するか……」

 厳しい戦いになることは間違いない。

 だが諦めるほどのことでもないのだ。


 甲子園、準決勝前の夜のことである。

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