第60話 我慢大会

 現在の高校野球界において、防御率のいいピッチャーを100人ほど集めたとする。

 おそらくその中で一番球速が遅いのが、水戸学舎の渋江である。

 淳もそれほど速くはないが、アンダースローにしてはかなり速い。


 スピードも、コントロールも、緩急も、変化球も。

 おそらく優れているのは淳の方であるが、渋江との差はわずかなように思える。

 アンダースローのストレートの奇妙な軌道と、シンカーの組み合わせが上手い。

 そしてあとはスライダー。


 だが白富東の選手たちに、苦手意識はもうあまりない。

 春休みに入るまでに、卒業していくツインズたちに、散々投げてもらったからだ。

 どちらかというと小柄で、だからこそ強豪私立からは声のかからなかった渋江。

 それに対して淳は、強豪私立への道を蹴って白富東へきた。


 この淳のピッチングに対しても、水戸学舎の選手たちは、苦手意識がない。

 アンダースローであるだけではなく、サウスポー。

 サウスポーならサイドスローでも充分に珍しいというのに、そこからさらに打ちにくい球を投げるため、淳はこのスタイルを選んだ。

 それでもあまり効果的でないのは、水戸学舎が渋江の能力を最大限に発揮するため、アンダースローをしっかりと研究しているからだ。

 だがもちろん簡単に打てるのかと言うとそうでもなく、秋の大会もタッチアップで二点という、地味すぎる戦い方をしていた。


 淳としても、気合は入っているがそれが空回りしたりはしない。

 直史ほど極端ではないが、彼もメンタルコントロールには優れたピッチャーである。

 アンダースローの投手は基本的には、スピードで上や横から投げるのに劣る。

 だがこのフォームのピッチャーがいなくならない理由は、それだけ有効であるのだ。

 もっとも使いこなすには、正しい努力が必要になる。


 お互いにアンダースローの攻略法、あるいは弱点も分かっている。

 あえてスピードが出ない投げ方をしているということは、それだけ別の部分に力がかかっているということ。

 具体的には下半身のスタミナと安定感がなければ、アンダースローは使いこなせない。

 肩などを故障する確率は、柔軟運動をしておけばむしろ小さいのかも知れず、だがボールを積極的にカットされると、球数が嵩む。


 水戸学舎の打線に対し、淳も変化球を多用する。

 正確に言えばアンダースローから投げるストレートは、普通のピッチャーの投げる変化球に等しい。

 そして淳のボールは渋江に比べると、明らかに浮き上がる。




 案外粘られた。

 三者凡退に抑えたものの、孝司の数える球数は、この一回の裏だけで21球。

 淳は細身であるが、スタミナはある。

 直史のような馬鹿げた投球練習はしていないが、ダッシュや体幹トレーニングで、足腰は鍛えてあるのだ。

 それにこの甲子園はセンバツで、マウンドにいるだけで体力を奪われることはない。


 継投を考えなければいけない。

「球数は気にするな」

 秦野としては孝司の背中を押してやらなければいけない。

 この試合に勝ったとしたら、次の対戦相手は帝都一か横浜学一。

 どちらも正統派の、強打のチームである。

 標準的な本格派であるトニーは、その長身から投げ下ろすと言っても、それでも相性は悪い。

 淳の平均失点は、こういった強打のチーム相手にも、さほど変わらないのだ。


 全国制覇のためには、次の試合のことも考えなければいけない。

 だがそれで目の前の試合を落としてしまえば、それこそ意味がない。

 準決勝との間には、一日の休養日がある。

 そこで回復して、準決勝も投げればいい。

 だがそれとは別に、相手が慣れてきたときに、継投をしていく必要はあるだろう。


 早めに追加点を取りたい。

 そしてそれとは別に、こちらも渋江の体力を削っていく必要があるだろう。

 そんな白富東の二回の表は、三者凡退で終わった。

 だが球数は20球を投げさせた。




 削りあいになりつつある。

 淳も下半身の体力には自信があったのだが、渋江の方も負けてはいない。

 試合の流れは遅く、お互いの攻撃は粘ってランナーを出そうとする。

 タフな試合になることは分かっていたが、想像以上だ。


 イニングごとの球数が、両者共に20球前後。

 このままであると両者共に、180球は投げて完投することになる。

 アンダースローはどちらかというと、肩や肘ではなく、下半身が疲労していく。

 あれだけ低い姿勢になって、そこから地面を蹴るのだ。

 オーバースローやスリークォーターは、重力の力を使って上から投げる。

 対して重力に抗って投げるアンダースローは、このフォームを選ぶだけで、そのピッチャーのピッチングに対する信念が分かる。


 淳と孝司は、バッテリーとしてほどよく相性がいい。

 あまり相性が良すぎると、改善点が見えてこないし、選択肢が限られてくるからだ。

 これもあるぞと訴えることで、ピッチャーとキャッチャーの対話から、新しい可能性が生まれる。


 秦野は試合を見る中で、おそらく勝てるという確信が出来つつあった。

 一点差でリードしているということもあるが、水戸学舎のバッテリーのサイン交換が、雑になりつつある。

 その理由は間違いなく、球数がどんどんと増えているためだ。


 関東大会や、神宮大会では、左の梅津の登板がもっと多かった。

 しかし甲子園では、重要なところはずっと、渋江に任せている。

 目の前の勝利にこだわる。それは当然のことだ。

 しかしその先、本当の頂点を目指すなら、リスクを取らなければいけない。

 直史のように24回を投げ切ってしまう覚悟が、渋江にはあるのか?


 白富東は淳以外に、トニーが頼れるピッチャーである。

 あとはある程度点の取り合いになるなら、他のピッチャーも使える。

 以前に戦ったのに、それでも水戸学舎の渋江をここまで打ちあぐねるというのは予想外であったが、それでも想像できないことではなかった。

「相手のリードが単調になってきてる」

 五回の終わりのグラウンド整備で、秦野は選手たちに語る。

「あちらはピッチャーは渋江と心中するつもりらしいが、そのくせ球数を減らそうと、虫のいいことを考えている」

 軟投派や技巧派は、その強みを発揮するために、球数が増えることを恐れてはいけない。

 球数制限は存在するが、そこで交代ではなく、都合よく球数を減らそうと投球を組み立てる。

 ここに致命的な隙がある。

「ここからは強振でいい。もちろん打てない球は見逃していけ」




 それなりにヒットは出て、それなりにランナーを進められても、失点は許さない。

 バッテリーの息は合って、確実に相手の打線を封じている。

(それなのに、なんだ?)

 何かが危険だと、水戸学舎監督の多摩川は考える。


 相手が待球策に出ているのは分かっていた。なぜならこちらもそうしていたからだ。

 そしてポンポンとアウトが取れて、まだ反撃のチャンスはないながらも、相手のチャンスも的確に潰している。

 先頭打者を出さないということ。

 シンカーを使いながらも、スライダーやストレートをしっかりと混ぜて、狙い球を絞らせないようにしている。


 六回の表、先頭打者の悟が打った打球は大きく上がったが、センターが追いついて捕った。

 やはり一番危険なバッターだ。それを塁に出さなかったことは大きい。

 そして四番の孝司が打席に入る。


 強振。秦野は言った。

 だが渋江の遅い球は、確実に懐に呼び込んでから、踏み込んで叩かないと飛ばない。

 右打者にとっては、内に入ってくるが、それが打ち頃。

 ただし内角に入ってくるシンカーは、なかなか真芯では捉えられない。


 それは分かっているが、だからこそ狙う。

 淳を楽にしてやって、明日は一日ゆっくり休んで、そして準決勝を戦う。

 勝利のイメージが見えてきた。

 秦野の言う通り、相手のバッテリーの配球パターンが、単調になりつつある。

 あえてここから危険なところを突いてくる、攻撃的なリードが必要なのだ。




 来る。

 孝司は内角に曲がりながら落ちるシンカーに絞る。

 右手からふわりと投じられるシンカーは、スピードはそれほど大きくなく、しかししっかりと曲がってくる。

 内角一杯のゾーン内。

 右打者からカットでカウントを得るための、当てることは出来ても打ちにくい球。


 孝司は左足を引き、体を開く。

 待つ。待って、待って、待って、打つ。

 ミートポイントに、スローボールが入ってきた。

「――っ!」

 全力で踏み込んで、ジャストミート。

 高く上がったボールが、レフトの奥へと飛んで行く。


 飛距離は充分。あとはファールにならないか。

 もしも切れてしまえば、あちらは組み立てを変えてくるかもしれない。

 それでも右打者への内角のシンカーが使いづらくなれば、それでこちらも一気に有利になる。


 ボールは、レフトのポールに当たった。

 ソロホームラン。

 わずか一点だが、どうしてもほしかった追加点。

 レフトを向いたまま、ピッチャーの渋江は固まっていた。

 右打者に対しては、打ち損ねを狙うためのボールだった。

 しかし多用しすぎた。あるいはこれは、ボールに外れていく球だったら良かったのか。

 孝司はゆっくりとベースを回り、仲間からのハイタッチを受けた。




 この一点のダメージは大きかった。

 ほぼ致命傷。だがここで地獄のような選択をすれば、まだわずかながら逆転の可能性は残されている。

 水戸学舎の伝令が走り、バッテリーの間で会話がなされる。

 表情を引き締めて、集まっていた内野が散る。


「まだ諦めないか……」

 秦野としては、ここからがまた、勝つにしてもしんどいのだ。

 淳の集中力は途切れないだろうが、かといって他のピッチャーに代えるのもリスクがある。

 水戸学舎の得点力を考えると、残り四イニングで二点を取るのは、容易なことではない。

「まだ二点差じゃん。そりゃ諦めないでしょ」

 珠美の言葉の通りに、確かに本来なら諦める点差ではない。


 一点は取られてもいいピッチングが出来る。

 だが水戸学舎は連打で点を取るチームではないが、隙を見せればそこに付け込んで来る。

 油断はならない。


 戻ってきた孝司に、秦野は語りかける。

「基本的にはこれまでと同じだが、ここからは一点を取られても優先するアウトが出てくるからな」

 孝司は頷く。


 同じ一点であっても、意味や価値の違う一点がある。

 ここでの追加点は正直なところ、三点ぐらいの価値があると言ってもいい。

 チャンスを作り出し、堅実に一点を取っても、まだ追いつけないという二点目だ。

 水戸学舎の得点パターンを考えれば、チャンス二回で二点を取るのが現実的だ。

 しかしチャンスを二回も作り出せるものだろうか。


 おそらくこれで勝った。

 しかし勝ったと思って気を抜くと、そこから逆転が始まるのが甲子園である。

 あとは重要なのは、淳の球数が増えすぎないこと。

 スリーアウトになって守備に散るナインに、秦野は告げる。

「これまでよりも打球が飛んでくるぞ。全部アウトにしてやれ」

 それだけの守備は鍛えてきたはずだ。




 水戸学舎は左バッターが多く、足を計算に入れて作戦を考える。

 なので出塁率はともかく、OPSはそれほど重視しない。

 バントで送って、ランナーが二塁に行ってからが勝負。

 そんな水戸学舎を相手に、白富東のバッテリーは、変わらないピッチングを続ける。


 点差が開いたからといって、雑なピッチングになどならない。

 球数を使ってでも、しっかりとバッターを打ち取っていく。

 淳はグラウンドピッチャーになるので、どうしてもゴロが多くなる。

 比較的三振も奪えるタイプの組み立ても出来るのだが、それでも守備の堅実さを前提条件に組み立てている。


 この試合はつまるところ、どれだけ息を止めて我慢していられるかの戦いであった。

 水戸学舎はそれに負けたということだ。

 秋には勝ったのに、どうしてここでは負けたのかというと、もちろんチームの成長ということもある。

 あとは連投への不安や、甲子園でのプレッシャーなど、様々なことが言えるだろう。


 だが一つ、確実なことがある。

 この甲子園での大舞台では、水戸学舎よりも白富東の方が、強かったということだ。


 水戸学舎のバッテリーも、追加点は許さない。

 球数はやはり増えていくが、慎重に大胆に、リードはまた巧みになっていく。

 そして淳は、これまでしてきたことを、最後まで遣り通せばいい。


 九回の裏、水戸学舎の最後の攻撃。

 点差は変わらず2-0で、淳の投球数はここまでに、159球となっていた。

 だが淳は肩や肘を気にすることもなく、普通にマウンドに歩いていく。

「甲子園のマモノ、今日は出る気配はなさそうだな」

 そう言ったら出てくるのがマモノであるのだが、油断しない謙虚なバッテリーと、堅実な守備陣を相手には、マモノも遠慮してくれるのだろう。


 最後の一イニング、ピッチャーの交代も考えたが、ここで試合を動かしたくない。

 淳と孝司もいい感じのままだ。

(勝ったな)

 二点目が入った時点で、何かもっと水戸学舎は動くべきだったのだ。

 だがとにかく先頭打者を出さない粘りのピッチングが、水戸学舎を封じたのだ。

 逆襲が、完成する。

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