第37話 君に届け

 大阪光陰の、最後となるかもしれない九回の先頭打者は、一番の毛利。

 白富東のマウンドは、エースの佐藤武史。

(思えば兄貴の方は、変なやつだった)

 最後の夏の甲子園の本戦まで、エースナンバーを付けないピッチャーであった。

 そのくせやってくれたのは、夏の大会連続の、ノーヒットノーラン扱いのパーフェクト。

(こいつは、あいつより、下だ!)

 真ん中高めのストレートが、さらに浮いた。

 バットに触れることすらなく、キャッチャーミットに突き刺さる。


 ストレートの威力は凄い。それは認める。

 だが大阪光陰は、あの上杉からだって点数を取り、甲子園を制覇したのだ。

 速いだけのピッチャーに、抑えられるわけにはいかない。


 二球目、アウトローを振り遅れてファール。

 三球目、チェンジアップが外に外れる。


 四球目。

(来る)

 ストレート、高めに浮いている。

 振り切ったバットに、ボールは当たらなかった。




 九回の裏で、161kmが出た。

 あるいはここまで温存していたのか。

 真田はもう、握力がなくなっていたのに。

(こいつ、いったいなんなんや)

 大阪光陰木下監督は、相手のピッチャーの理不尽さを感じざるをえない。

 確かに球速は上杉の方が上だ。

 だが上杉でも、最終回に最速を出したことはなかったはずだ。

(いや、あったか)

 あれはプロ入りしてからの試合。

 白石大介との対戦試合。最後に170kmを出して、日本最速を更新したはずだ。


 去年の大阪光陰より、今年の大阪光陰は少し強い。

 そして去年の白富東より、今年の白富東はかなり弱い。

 そのはずなのに、現実では大阪光陰は追い詰められている。

(真田に頼りすぎたんか……)

 たった一つの失投が、この試合を決めるのか。

 ようやく佐藤家の次男の球を、捉え始めたというのに。

 それでもまだ上があり、毛利が三振した。


 二番の明石は、大阪光陰打線の中では、最も三振しない選手だ。

 打率や長打力ではなく、ピッチャーにとって一番嫌なことをしてくれるバッターだ。

 プロ向きではないかもしれないが、一発勝負のトーナメントでは、この明石のプレイが終わってから見れば勝敗を決めていたということも珍しくはない。

 初球からいきなりバントの姿勢を見せて、すっとバットを引く。

 ファーストとサードはいいが、ピッチャーがほぼ棒立ちだった。


 ボールを受け取った武史は、帽子とグラブを腋に挟み、パンパンと自分の頬を張る。

 気合を入れるためではない。意識をしっかりと保つためだ。

 哲平が取ってくれた、真田の失投からの一点を、無駄にするわけにはいかない。


 二球目、先のバントの幻影に怯えてか、わずかに球威の落ちたストレートを、明石は叩く。

 三遊間。サードは間に合わない。ショートがかろうじて止めたが、投げられる体勢ではない。

「曽田さん!」

 グラブトスされたボールを、素手でキャッチした曽田は、すぐさまファーストへ。

 際どいタイミングだったが、コールはアウト。




 ツーアウト。

 優勝まではあと一つ。

 バッターボックスへ向かおうとする緒方に、次の後藤が肩を叩く。

「監督からの指示だ。たぶんもうストレートのMAXはない」

 確かに今のボールも、球速表示は154kmだった。

 体力切れ? だが球数はまだ120球ぐらいだったはずだが。


 だが監督の言うことは信用出来る。

(そういえば、完投している試合は少ないのか)

 緒方はそう思ったが、木下の指示はそこからの結論ではない。

 明石がバントをする姿勢を見せたことで、武史の中にそれへ対策するための、リソースを割く必要が生まれた。

 フィールディングに注意を割けば、ピッチングの方へ全力を出すことを、無意識にセーブしてしまう。


 思えば、初回からそこも攻めるべきであった。

 強くなった大阪光陰と、弱くなった白富東と考えて、自分に都合のいい試合展開を考えていたのか。

 木下は反省する。どれだけピッチャーに信頼が置けても、三点は取るのが監督の仕事だ。

 プロ野球の最優秀防御率の選手を見れば、おおよそが二点前後。

 実戦には小数点以下はないことを考えると、やはり三点は必要なのだ。


 あと一人となった白富東バッテリーであるが、よりにもよって最後の打者がこいつか。

(ホームラン打たれたこと忘れてねーぞ)

 縦にも横にも大きくないが、ホームランを打ってくる長打力がある。

 全身の筋肉を、連動させるのが上手いのだろう。ピッチングにもそれが出ている。


 大阪光陰は今年のスタメンは三年が多く、おそらく来年は今年ほどには強くないと言われている。

 だが実際のところは分からない。特にこの緒方という選手は、体格は悟に似ているのだが、長打力は悟よりもさらに高そうだ。

 倉田のリードは緒方に対して、高めの釣り球を使っていこうといもの。

 武史は頷いて、大きく足を上げる。


 球速157kmのインハイへのストレートを、緒方は初球から振りぬいた。

 打球は飛距離充分、スタンドに入る。ただし三塁側のファールスタンドだ。

 大阪光陰のスタンドからは落胆の、白富東からはアンドの、溜め息が洩れる。

(マジかこいつ)

 ボールがいまいち走らないということを除いても、軽々とあそこまで運ばれてしまった。

 むしろもう少し球速が上であれば、ホームランになっていただろう。


 いきなりストレートが通用しない。

 確かに今の球は、イマイチ指のかかりが悪かったが。

(電池切れって感じはしないぞ)

 球審から新しいボールをもらった武史は屈伸をして肩をぐるぐる回す。

 その動作を見て、バッターボックスの緒方は、武史が明らかに全力を出し切れていないと確信する。


 倉田としても同じことだ。武史は平常心ではない。ボールは確かに、伸びが少ないと感じる。

(ストレートが通用しないのか? なら……)

 高速チェンジアップを外に外した後に、内角にツーシームを要求する。

 150kmを超えるムービングファストボールを、緒方は振り切る。

 今度もさっきよりははっきりとファールと分かるが、レフトスタンドへの飛距離は充分だった。




 投げる球がないのでは。

 武史としてはMAXのストレートが通じないので、どうにかして変化球で打ち取りたいのだが。

 投げる球を二連続で特大のファールにされれば、ピッチャーとしては投げられる球が限られてくる。

 武史の場合は、試合の後半になればまずストレートで三振を取ってきただけに、ここでストレート以外を使うのが怖い。

(歩かせた方がいいんじゃないか)

(う~ん)

 そしたら後藤に回り、ホームランを打たれたらサヨナラである。


 甲子園の決勝での、逆転サヨナラホームラン。

 史上に一度しかないそれを、倉田はちゃんと憶えている。

 なにせそれを食らったのは、二年前の白富東であるからだ。

 ベンチの方を伺うが、秦野としてもここは勝負してもらうしかない。

(ホームラン打たれても一点差だぞ)

 ただ武史のボールの勢いが、弱くなっているのはベンチからも分かる。

 単純に球速のMAXが出ていないのだ。


 いくら秦野でも、ここで淳に代えるという選択肢はない。

 だが明らかにバッテリーは迷っている。三度目のタイムを使って伝令を走らせる。

「いっそのこと真田まで三人歩かせてもいいってさ」

 それもまた、思い切りがよすぎるが。


 確かに単純にバッターの能力を考えれば、真田までとその後では、格段に危険度が違う。

 ただホームランを打たれてもまずは同点のこの状況で、エラー一つで同点から逆転というリスクを背負う必要があるのか。

 緒方には確かに苦手意識があるが、そこまでして避けた方がいいのか。

 最善の選択ではないだろうが、あまりにも弱気すぎるのでは。

 しかし秦野も言うからには、それぐらいの極端な手段を取ってもいいのかとも思う。


 ベンチの中で秦野は、ここで逃げたら淳に交代だと覚悟していた。

 思い切って投げれば、武史のボールがまともにスタンドインするはずもない。

 たとえ取られてもまだ同点。もし敬遠をするなら、そこから後藤と真田を避けた方がいいだろう。三塁にランナーがいないという状況を作れる。

「淳、ブルペン行け」

 上山と一緒に、淳はベンチを出る。




 周りから見たらあと一球なのだ。

 しかし武史としては、そのあと一球が限りなく遠い。

「じゃあ際どいところに投げまくって、スリーボールになったら歩かせるってことで」

 武史がそれで納得しようとした時、プーと楽器音が白富東の応援席から鳴った。

 楽器演奏は攻撃側だ。そう思ってスタンドを見れば、トランペットを片手に持ったイリヤがいる。

 あいつはもう、トランペットは吹けないはずだったのでは?


 たったの一音を出しただけで、もう肺が悲鳴を上げる。

 イリヤは声でも、音でもなく、彼女にとってはあまり重要度の高くない、視覚情報で武史に訴えかける。

 右手の中指を立てたサイン。

 それからすぐに背中を見せて、自分の席に戻ろうとする。

「あいつ……」

「後で注意されるかなあ」

 倉田は少し気が紛れたかな、と思った程度であるが、武史にとってはそうではない。


 イリヤが励まそうとしてくれているのは分かる。

 ただ彼女は、世間一般のやり方は嫌いであるのだ。いつだってそうだ。

 音楽があれば世界中と戦えると思っている傲慢な少女は、自分が目をつけていた少年の脆弱な精神に、失望のサインを送っただけである。

「モト、ここで終わらせる」

 武史の覚悟が決まった。

「ホームラン打たれたら、そこから二人歩かせて後続で勝負。そんでいいだろ」

「分かった。元々延長になったらこっちが有利だと思ってたしね」

 倉田としては武史が開き直って投げられるなら、それが一番いいのだ。


 席に戻って知らん顔をしているイリヤ。

 武史はそのイリヤを横目で睨んでいたが、視線を切って倉田のミットに集中する。

 どうせ打たれることも計算の内に入れるなら、高めに浮いた球で勝負すればいい。

(こいつで終わらせる)

 ゆっくりとした動作で足を上げて、ぎりぎりまでゆっくりと溜めて、そこから爆発させる。


 インハイ。ストレート。

(打てる!)

 緒方のスイングは空を切った。

 明らかなボール球。しかし緒方は確信してバットを振ったのだ。

 ストライクバッターアウトで、ゲームセット。

 応援席を見た武史は、そこで親指をサムズアップしているイリヤの姿を見つけた。




「さーせんっしたっ!」

 ぶるぶると涙をこぼしそうになりながら、緒方はベンチの前で頭を下げる。

「162kmだもんな。最後の球が一番速いって、やっぱあいつもおかしいだろ」

 真田は優しく声をかけて、後藤も無言で緒方の頭をぽんぽんと叩いた。

「整列や。最後まで、きっちりとな」

 木下の声に、大阪光陰のベンチから選手たちが出て行く。


 白富東と大阪光陰の戦いは、センバツでは3-1で白富東が勝ち、この夏では2-1で白富東が勝った。

 春夏連覇で、去年から数えたら史上初の四連覇である。

 神宮などでは別であったが、甲子園では無敗のチームだったのだ。


 162kmも、助っ人外国人も、あのチームからは抜けていく。

 それでもスタメンが多く残るチームであるが、化け物の突出度合いは、さらに小さくなっていく。

 左打者のくせに真田から打った一年は危険だが、チームとしての総合力では、今度こそこちらが上になるだろう。


 甲子園の決勝後に流れる、四度目の白富東の校歌。

 その中で武史は、思考の空白状態にあった。

「これで告白できるね」

 倉田にそう囁かれても、かなりの間があってなんのことだか分からなかったものだ。


 ああ、そうか、

 優勝したのか。

 けれど、これでいいのか?


 校歌斉唱が終わり、応援席へ向かう。先に目に入ったのは兄と、その隣の恵美理の姿であった。

 恵美理の膝にはトランペットのケースがあるが、彼女は今日は演奏していなかった。

 イリヤが彼女の楽器を使ったのか?


 へらへらと笑いながら、イリヤは小さく手を振っていた。

「これじゃダメだ」

 武史は口の中で呟く。

 これは自分の力の優勝ではない。

 思えば一年生の時からずっと、自分はイリヤの掌の上で転がされている。

 だがもう、イリヤを見返すような舞台はない。 

 少なくとも武史にとっては、神宮での大学野球も、その先にあるかもしれないプロ野球も、甲子園に比べればどうでもいいことだ。


 まだ足りない。

 女に尻を叩かれて、ようやく一球だけ投げたようなものだ。

(俺はまだ限界じゃねーぞ)

 試合は終わり甲子園を制覇したというのに、今更本気の闘志に火が点く武史であった。

 この、まためんどくさく本気を出すのが下手くそなエースの限界は、やはりまだ誰も知らなかったのだ。




   四年目・盛夏 収穫の季節 了



×××


 次章「四年目・晩夏 継承の季節」


 今回は第四部大学編の44話とリンクしております。

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