第36話 俺、優勝したら彼女に告白するんだ

 ボールの軌道は高く、完全に詰まった打球だったのに、後藤のパワーで案外飛んで行く。

 ライトのトニーは巨体ながら瞬発力は高く、そのボールを追う。

 今度はこちらが、フェンス際で振り返り、ぎりぎりでキャッチする。

 それを見てから緒方がタッチアップを仕掛けるが、トニーだって強肩だ。

 だがわずかなミス。コースのずれた送球を途中で哲平がカットして中継したが、三塁には間に合わなかった。


 白富東の表の攻撃と似ているが、ツーアウトで三塁という状況は違う。

 そしてバッターボックスには五番の真田。

 負担がかかることは承知の上で、クリーンナップに持ってきたことが活きる。

 全身バネの塊のような真田は、長打力もある。

 秦野はここで伝令を出す。




 160kmのストレートが打たれた。そりゃ後藤ならあんなに甘いところに来れば、160kmでも打てるであろう。

 ただそれでも球威は優り、フェンスの手前までしか打球は飛ばなかった。完全にはミート出来なかったのだ。

「甘すぎたなあ」

「確かに。どうしよ」

「真田、バッティングもいいんだよなあ」

 武史としては確かに深刻なのだが、絶望には至らない。

「際どいところに投げてみて、歩かせて次のバッター勝負でいいかな?」

「う~ん、それならいっそ、最初から歩かせた方が」


 そこへ伝令の佐伯がやってきて、内野陣も集まる。

「勝負か敬遠か、はっきりして投げろだってさ」

 読まれている。


 ここでふわふわと決めずに投げれば、際どいところなどには行かずに甘くなる。

 秦野としては武史だけではなく、こういう場合のピッチャーの心理状態はよく知っている。

 むしろこういう時の心理なら、淳の方が信頼出来る。

(淳に投球練習させたら、かえって気が散るかもしれないしなあ)

 去年と違って、エースがこういう最後の最後で頼りない。


 戻ってきた佐伯は、簡潔に報告した。

「歩かせるそうです」

「そうか、ちゃんと決めたならそれでいい」

 ここで頭に血が上っていて勝負を選択する可能性もあったが、今は単純に力だけで押し切ろうとした結果だ。

 真田の後のバッターもそれほど打率は悪くないし、まだ代打で使える選手はいるはずだ。

 それでも真田と勝負するよりは、危険度は低いと判断する。




 倉田が立ち上がり、球場内は溜め息に満たされる。

 一部からはブーイングが上がるが、それほど多くはない。

 真田との勝負を避けることを、仕方ないと思われているのだ。

 ここで球場の雰囲気が一気に大阪光陰側に傾けば別であったのだろうが、地元の大阪光陰と決勝で対戦しているにもかかわらず、白富東の選択を認めるということだ。

(まあ逆転のランナーを出すわけだし――)


 倉田に向かって投げた敬遠のボールは明らかに、バットが届くコースであった。

 秦野は思わず立ち上がったが、そこから何か指示を出す間などない。

 真田は腕を伸ばして、その棒球を打っていた。

 サードの曽田の頭の上を越える打球。

 緒方がホームに帰ってくる。鬼塚が素早く捕球するが、もちろんホームは間に合わない。

 一塁を回った真田が次の塁を伺うが、さすがに間に合わないホームに無駄に投げることはない。


 同点だ。

「何やってんだ……」

 さすがの秦野も怒りが沸騰し、そしてそのままゆっくりと呼吸をして平静を保つ。


 もう一度伝令を出す。

 この回二度目の伝令で、とにかく状態を戻す。

 ただ戻ってきた佐伯は、案外バッテリーは動揺していないと報告してきた。

 実際に後続は絶って、ベンチに戻ってくる。

「どっちのミスだ?」

 ここで怒鳴りつけるタイプの指導をしてこなかったことを、秦野としてはミスだったかなと思わないでもない。

「俺っす」

 やはり武史の方であったか。

「大丈夫か? 集中力か? 体の方じゃないよな?」

「油断です」

 大きく溜め息をつく秦野であった。


 武史の両肩に手を置く。

「ちょっと踏ん張ってみろ」

 そして力をかけるが、大丈夫だ。揺らぎはしない。

「勝つ気はあるんだな?」

 こくこくと頷く武史である。

「じゃあお前がこの試合に勝つためのモチベーションはなんだ?」

 普通ならこんなことは聞かないが、ここで確かめておかないと、この先が怖くて使えない。

「いや、個人的なことなので、あんまり関係ないかと」

「采配を執る監督を安心させろ。いいから言え」

 武史としてはあまちにも個人的な事情なので、他の者に言うのや嫌なのだが。

「俺、甲子園で優勝したら、彼女に告白するんだ……って」

 呆れるあまりに、秦野は声が出てこない。


「お前、告白して甲子園に応援に来てもらうって言ってなかったか?」

 鬼塚の言葉通りである。

「県大会に入ってからは、甲子園行きを決めたら告白するって言ってなかった?」

 倉田も相棒のことだけに、珍しくこういったことは記憶している。

「いや、それでフラれたら、ショックでまともなピッチング出来なくなるかなって」

 ヘタレここに極まれりであるが、周囲からすれば「マジかこいつ」となる。

「大丈夫だって。あのハーフの子だろ? クォーターだっけ?」

「え、タケ先輩とイリヤってそうなんすか?」

「いや、イリヤじゃなくてほら、聖ミカエルの」

「こいつらは知らないよ」


 元々あまり厳粛ではなかった白富東の甲子園ベンチが、桃色の空気に染まる。

「タケ~~~」

 それを許す秦野ではない。

 武史にはやはり、プレッシャーをかけるしかない。

「ここで負けたらかっこ悪くてとても告白なんて出来ないよな! そんでここまでしないと告白出来ないなら、もうお前には一生彼女なんて出来ねえよ!」

 肩にかけていた手にさらに力を入れる。もちろん左肩ではなく右肩に。

「だから、絶対に勝て!」

「つーかタケ、ネクストだぞ」

「あ、じゃあ行ってきます」




 メットとバットを持ってネクストバッターサークルに向かう武史を見送り、どっと疲れる秦野である。

「あいつ大丈夫なのか? 俺らが水島野球してる中で、一人だけあだち野球してねえか?」

「あだち野球でも、あそこまでゆとり恋愛はしてないと思いますけどね」

 ゆとり恋愛。倉田もなかなかに辛辣である。


 試合は終盤になるにつれて、点差が互角であれば後攻が有利になってくる。

 この八回と九回、このままなら九回はアレクからの好打順。

 ただ真田を相手にしては、左打者は圧倒的に不利なのだ。


 アレクの強引な振り子打法モドキも、悟の奇襲的な一打も、もう一度は通用しないだろう。

 武史の球威もこの終盤で160kmなど全く衰えていないように思えるが、後藤の一打のようにヒットになってもおかしくない打球はある。

 これだけ苦しい展開であると、勝負を決めるのはエラーなどと判断ミス、そして一発となる。

(こりゃ延長に持ち込んだほうがいいのか?)

 大阪光陰の弱点と強いて言えること。

 それは真田に比べると、二番手の緒方ではかなり落ちること。

 あとは真田の体力の問題だ。故障明けからは仕方がないにしても、延長戦などに投げたという記録は残っていない。


 案外真田も、限界は近いのかもしれない。

 だが去年の夏は15回を投げぬいたのだ。春からは少なめに使われていると言っても、他の部分を鍛えるのを疎かにするような人間ではない。

(九回の前に、あちらの八回の裏があるが……)

 守備固めの選手を出しているだけに、ここでの得点はあちらも難しいだろう。

 同じように下位打線で、九回は先頭の毛利からとなるのかもしれない。

(後藤と真田には回したくないな……)

 三番の緒方で切らないと、そこで終わる気もする。




 八回の表と裏が終わり、両チーム三者凡退。

 いよいよ試合はラストイニングに入ってくる。

 白富東は先頭がアレク。

 一度は変則的なフォームでヒットを打っているだけに、大阪光陰のバッテリーも油断はしない。

 内野安打になりそうなサードゴロを処理してワンナウト。


 二番の哲平は、今日はいいところがない。

(でも俺が出たら、ゲッツーにならない限りは右の鬼塚さんに回る)

 悟の打席で二塁に進めたら、鬼塚のヒットで帰って来られるかもしれない。


 何が何でも出る。

 その気力でスライダーは見逃し、他の球種を狙っていく。

 だが追い込まれる。ここで使ってくるのはカーブかストレートか。

(カーブならカット出来る)

 そこに投げられたのは、棒球だった。


 おそらくスライダーが抜けたのか。甘く入ってきた内角の球に、鋭くバットを叩きつける。

 いい手応え。これは外野を越える。

 センターがバックする。その間に哲平は走る。

 まだセンターはバックする。行ける。三塁までは行ける。


 大歓声の中で、サードコーチャーの佐々木が両手をぐるぐると回していた。

 振り返った哲平が見たのは、センターフェンス前で膝をついた毛利の姿。

(入った? ホームラン?)

 今までにも甲子園では、二本のホームランを打ってはいたが。

(俺が決めたのか? 俺が?)

 ゆっくりとベースを回りながら、踏み忘れだけはないように一周する。

 ベンチの前まで戻ってくると、手荒い歓迎を受けた。




 九回の表に、点が入った。

 左打者で、ここまでは完全に抑えられていた哲平が。

 まさかのホームランとは言わない。打率と足が目立つが、哲平にも長打を打つ力はあったのだ。

 真田の失投とも言える、おそらくは抜けた球。


 マウンドに内野が集まり、短い受け答え。

 木村がベンチにサインを送り、木下が交代の指示を出す。

 ピッチャーは真田に代わって緒方。

 真田はレフトに入り、ショートへベンチからの選手が入る。

(握力か? 指先の感覚か?)

 真田の下半身は全くまだ疲れていなかった。

 そこへあのボールとなれば、おそらくは抜けたスライダー。それに木村の手を握っていた。

 決勝はそれなりに球数が多かったから、それにこれまでは要所でしか投げていなかったスライダーを、前のように多用していた。

 あとはこの決勝戦の雰囲気の中では、体力も減っていっていたのだろう。


 故障ならばベンチに引っ込めるが、外野に移動したということは、疲労と考えた方が間違いない。

 バッティングの方をまだ期待されているのだ。

 九回の裏に二人ランナーが出れば、真田の打席になる。

(もう一点取れるか?)

 緒方とは初対戦の悟であるが、真田に比べればずっとマシな相手だ。


 だが緒方も成長している。

 悟に対してはコントロールで攻めてから変化球で内野ゴロ。

 そして四番の鬼塚である。


 もう一点入ったら決まる。

 九回の裏は毛利からだ。一人出れば後藤に、二人出れば真田に回る。

 武史の八回のピッチングは落ち着いて見ていられたが、最終回はどうなるか。

 プレッシャーとはこれまで全く無縁の武史であったが、この状況ではそれがプラスに働くかマイナスに働くか。


 鬼塚の打った当たりはセンター前に抜けた。

 しかし続く孝司がショートフライで、スリーアウトチェンジ。

 点差は一点だ。

 ソロホームランで同点になる。大阪光陰で高い長打力を持つのは後藤と、やや落ちて真田、毛利、緒方の三人。

 そして粘られて塁に出てくるようなのは明石か。


 ネクストにいたのでプロテクターを着けきれていない倉田に、秦野は声をかける。

「倉田、タケのメンタルに気をつけろ。これまでロクにプレッシャーを受けたことのないやつだが、それだけにここでプレッシャーがかかるかもしれない」

「分かりました」

 装着を手伝いながら、さらに秦野は続ける。

「強気と思考放棄は違うからな。忘れるな」

「はい!」

 そして倉田はグラウンドへ。投球練習をしてから、武史へ駆け寄る。


 秦野の目から見ても、武史の体力はまだ残っている。

 三つのアウトを、どう取れるか。

 あちらも一番から五番までは、代打の出しようがない不動の打順だ。

 ただ武史のフルパワーに、あちらも慣れつつある。


 武史のパワーの上限はまだあるのか。

 あったとして、相手はそれにアジャストしてこないか。

 九回の裏。

 おそらく追いつかれるまでであれば、真田を引きずり落としたこちらが勝つ。

 大阪光陰は追いつき、サヨナラまでを一気に決めるつもりで襲い掛かってくるだろう。

(頼むぞ)

 ベンチの前まで出て、秦野はしっかりと見守る

 考えてみれば去年の夏の、どれだけ楽であったことか。

 いや、違う意味でのプレッシャーは大きかったが。


 先頭打者の毛利が打席に入り、プレイが始まる。

 この裏だけで決まるかどうか、物語の結末はまだ誰も知らない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る