第24話 彼女の最後の

 マリスタに向かう選手の中で、さすがに一年生たちは緊張の色を見せる。

 秦野としてもこの決勝で、一年生に何かを期待するわけではない。

 悟以外は上級生でスタメンを固め、ピッチャーも武史を先発させる。

 ここまでほとんど投げていない武史に、疲労などが溜まっているはずもない。


 秦野にもプレッシャーはある。

 勝てるかどうかではない。

 勝たなければいけないのだ。

 勝って当たり前なのだ。


 トーチバは強豪校であるため、逆にそれだけデータも集めやすかった。

 あらゆる分野を比較してみたが、白富東が負けるわけがない。

 だがその、負けるはずのないチームが負けるのが、高校野球でもあるのだ。

 もちろんそんな不安な様子を、他の誰にも見せるわけにはいかない。

 おそらく娘の珠美には見透かされているかもしれないが。

 母親に似て、勘の鋭い娘なのである。


 プロ球団の優勝決定戦でもここまで過密になるかと思えるほど、スタジアムは超満員だ。

 構造上の限界を考えながら、立ち見の客さえ現れている。

 白富東は先攻である。

 トーチバはベストメンバーで組んでいるが、つまりそれは昨日延長まで投げたエースを使っているということだ。

 完全に疲労の抜けてある武史と、投げ合いで勝てるわけがないと思うのだが?


 秦野はこそこそと倉田の隣に座る。

「おい、何かタケのやつ、様子がおかしくないか?」

「あ、やっぱりそう思います?」

 倉田は心配性のキャッチャーなので、武史の様子にちゃんと気付いている。


 いつも他人事のように試合に挑むエースが、真剣な顔をしている。

 もちろんこれまでに武史が、真剣になったことがなかったわけではない。

 だが今日の武史には、それに加えて緊張があるようにも見える。


 マイペースであるのは、突出した野球選手にとっては強みである。

 秦野が知る限りプロ野球やMLBの選手でも超一流などという選手は、他の選手と同じことはやっていない。

 だがこの二人が想像しているようなこととは、はるかに違う次元で、武史は決断していた。

 なんだかんだ言いながら、自分はあと一歩を踏み出せない人間なのだと思う。

 それは兄が長男として、責任の重いことを引き受けていてくれたからだ。

 あとは妹たちによって、いくらかは女性不審気味でもある。


 だが、決めたのだ。

(甲子園で優勝したら神崎さんに告白する!)

 お前はあだちマンガのキャラか、というぐらいに野球に恋愛を絡めている武史であった。




 メンタルの変化が、そのプレイ内容にどれだけ影響を及ぼすか。

 武史の場合は、悪いことではない。

 先発として投げている間は、楽器演奏の応援は攻撃側となる。

 だがスタンドから聞こえてくる応援の歌は、イリヤが作曲したものなのだ。


 思えばイリヤも不思議な人間である。

 武史が出会ったのは、あの高校生活最初の日。そしてツインズにとっても、家族以外ではほとんどいない特別な人間になった。

 元は直史のことが気になって入学したのだが、武史とは、人間と人間としての相性がいい。

 鳴り物での応援が禁止されている守備側の応援であるが、イリヤの歌は武史のメンタルを、そしてメンタルを背景としたメカニックを安定させる。


 自分はイリヤのことを、女として好きなわけではない。

 もちろん健全な男子高校生であるからには、性欲の対象とならないでもない。

 だが明白に、女性として意識する存在と出会って気付いた。

 イリヤは特別な人間だ。しかしそれは自分にとってだけでなく、多くの人にとって特別なのだ。

 その中で、イリヤはツインズや武史を特別視している。一番は直史だろうが。


 夏の炎天下のスタンドで、決して体が強いわけではないイリヤが観戦している。

 ツインズたちは今年も変わりなく踊っている。なんでも事務所からは、あまり日焼けをしすぎないでほしいと言われているらしいが、あの二人はあまり日焼けしない体質なのだ。

 帽子を被って水分を片手にしたイリヤは、大きな声を出すことはなく、ただずっと見守っている。

 まっさらなマウンドに立ち、武史は倉田のミットに、投球練習を開始した。




 最後の夏だ。

 それは三年生にとっては、当たり前のことである。

 学生生活はまだしばらく続くが、イリヤとしてはこの夏が終われば、あまりもう高校生活に意味はない。

(頑張って)

 声には出さずに、武史を見つめ続ける。


 イリヤにとって武史は、特別と言うよりは不思議な存在だ。

 自分の音楽が他人の精神をかき乱してしまうことを、イリヤは知っていた。

 だがそれがここまで通用しない相手がいるとは、思ってもいなかったのだ。


 直史のピッチングを見るために、人生の寄り道をしたつもりであったのだが、生涯の親友にも会えたし、面白い人間にはたくさん会えた。

 肺の半分を失って、歌を奪われて、半ば絶望していたイリヤが、今はこうして、灼熱のマウンドに立つ選手を見つめている。

 正直なところアメリカにいた頃は、スポーツにはあまり興味などなかったのだ。

 だが日本のアマチュア野球は特別だった。

 特に高校野球が特別だった。


 あの古い、しかしどこか神殿のような荘厳さも持つ球場で、野球をやるために日本中から高校生が集まる。

 そしてそこで人生を燃え尽きさせてもいいというほどのプレイをする。

 特に夏は祭りだ。

 高校を卒業したら東京に住み、おそらくもう甲子園には行かないだろう。

 舞台が同じでも演者が違えば、それはもう違うものになる。

 そうは思いつつも、後輩たちにはまた面白そうな選手がいるが。




 マウンドの武史は初回から飛ばしていく。

 156kmが初回に出て、スタンドをざわめかせる。

 三振を一つ奪うごとに、球場が揺れる。

 直史や大介のように、武史にも力がある。

 おそらく自身で思っているよりも、もっと大きな力が。


 武史は高校を卒業したら、東京に行くと言っていた。

 兄と同じチームで、また投げることになる。

 あの二人が投げるのなら、そのチームは負けないだろう。


 また一つ三振が記録され、それまでよりもはるかに大きなざわめきが、球場を満たした。

 そしてパチパチと拍手が鳴らされる。

 球速表示に出た、161という数字。

 イリヤが野球自体にはそれほど詳しくなくても、それがすごいということぐらいは知っている。


 試合の流れは早い。

 白富東は打線がつながって点を重ねていくが、基本的にはすぐにイニングが交代していく。

 連なっていく0の表示。

 途中では大きな溜め息が洩れて、武史はバツが悪そうに帽子で顔を隠した。

(可愛い)

 武史に行ったことは嘘ではない。

 イリヤにとって武史は、確かに恋愛感情とはちょっと違うものを抱く存在である。

 だがそれでも、あの逞しい腕になら抱かれてもいいと思ったのだ。


 気を取り直して武史は、また投げ始める。

 試合の終盤につけて加速していく。

 そしてまた三振を取るごとに、大きな歓声が上がる。

 振られるのはKという字を記した小さな旗。

 ピッチャーという花形の中でも、特に華々しい奪三振。

 武史はそれをずっと重ねていく。


 考えてみれば三年生にとっては、これが千葉で行う最後の試合だ。

 プロにでも進めば別なのだろうが、ほとんどの者にとってはこれが最後の地元での試合なのだ。

 相手も必死だ。白富東の強力打線を抑えようと、内野は強い打球に飛びついていく。

 ファインプレイの間のわずかな隙に、白富東は攻撃を加えて点を取っていく。


 そして武史は0の数字を重ねていく。

 回が終盤になるほどストレートの最高速は安定し、160台を連続で叩きだす。

 さらに曲がる球を使って、ストレートだけに絞らせない。

 胸元に投げられたら、腰が引けてとても打てたものではない。

 特に左打者にとってそれは顕著なようであった。




 終わりが近付いてくる。

 攻撃はともかく、守備はほとんど武史の独演会のような、三振の嵐。

 直史もこんなに三振は取らないし、取れない。

 ただ投げるだけで相手を封じられるピッチャーが、どれだけ強いことか。


 バントヒットを狙っても、バットが弾かれてしまう。

 それほどまでに球威が、他のピッチャーとは隔絶している。

 途中にはお茶目なミスもあったが、それでも試合の趨勢に惑いはない。


 ベンチで密かに心配していた秦野などは、拍子抜けした思いである。

 これだけ隙がなく、制圧的なピッチングが出来るほど、武史は試合を支配するタイプのピッチャーだったろうか。

(少なくとも今日に限って言えば、ナオ並みか)

 守備の点では秦野は、全く何も指示をする必要がない。


 マウンド上の武史は、黙々と投げている。

 時折変化球も混ぜるが、基本的にはストレートを、アウトローとインハイの二つに投げ分ける。

 ツーストライクまで追い込んだら、もう一歩だけ肩を強く振る。

 肩周りの筋肉が連動して、そこからバックスピンがかかっていく。

 ただし軌道は、地面の近くから。


 白富東の側は、七点を取った。

 集中打と言うよりは、トーチバも必死で守る中、犠打や犠飛も使った、大味ではない野球だった。

 そして九回の表、トーチバの最後の攻撃を、武史は三振を奪って行く。

 最後にはまた160km。

 三球三振で、試合は終了した。


 打者29人に対して、四球が一つ、キャッチャー後逸が一つ。

 取ったアウトのうち23個が三振で、残りの五つが内野フライであった。

 28のアウトを取る必要があったのは、ナックルカーブを倉田が後逸してしまったからである。正確にはこれは三振ではあるがアウトではない。

 そんなこともあったが、試合は終わった。

 誰の目から見ても、圧倒的な内容であった。

(これがちゃんと出来るなら、プロでも通用するだろうに)

 秦野は今更ながら思った。




 参考記録ではない、初めての本当のノーヒットノーラン。

 武史はこの記録を土産に、最後の甲子園に挑むことになる。

 これは新聞の記事にも当然ながら掲載され、全国の野球関係者が目にすることになる。


 多くのチームの監督は「また上杉みたいのが……」などと呟いて諦めた。

 しかし逆に敵愾心を燃やす者もいた。


 三年生にとっては最後の夏。

 下級生にとっても、二度と同じものはない夏。

 比較的早く決まった千葉に続いて、ライバルたちが名乗りを上げていく。

 となりの東東京では、参考記録ながらコールドでのパーフェクトピッチをした水野。

 関西では最大のライバルと言われる大阪光陰で、真田が順調に復活していた。


 部長の高峰は慣れたもので、壮行会などの手配をしていく。

 だがその中に、武史の姿はなかった。

 もちろんちゃんと秦野になどは伝えていたのだが、完全に私用によって、武史は千葉から姿を消したのである。


 それと同じ頃、埼玉県では女子高校野球の選手権が行われる。

 参加校が増えてきたため、今年からは地方大会も行われ、16チームが選出されて試合が行われる。

 その16チームの中に、聖ミカエルの名前はしっかりとあったのである。

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