第8話 背番号19
悟が背番号を獲得して、喜んだのはむしろ両親であった。
子供の頃から野球バカ。シニア時代は他の部活ということで、学校の部活では反射神経が鍛えられそうな卓球などをしていたが、悟はとにかく野球が好きだったのだ。
中学も二年になると、東京でもかなり強いシニアの四番を打っていた悟の進路は、当然ながら両親も悩むこととなっていた。
子供の頃から文化系の部活に入っていた父にとっては、体育系の活動をしていた母親に、そのあたりは似たのだと思った。
なお悟には弟がいるが、そちらはサッカーバカである。残念なことに悟ほどの、スポーツに恵まれた才能は持っていないようであったが。
なお悟は、あまり勉強が出来ない。
率直に言えばバカである。
野球選手などというのは、かなり夢見がちな将来の職業だと現実的な両親は思っていたのだが、二年生の頃からはあちこちの高校からスカウトが来るようになった。
少なくとも高校までは野球をやらせてもいいだろうと、学業の成績表を溜め息をつきつつ見ていた両親であるが、悟が三年になる前のプレイ中の事故で、歯車は狂った。
左肘の靭帯損傷は、一応保存療法、つまり安静にしていることで治るぐらいの怪我ではあった。これが断裂だと手術で二年ほど完治にかかる。現実的には再起不能である。
だが再起が可能であると言っても、最後のシーズンを完全に奪うことにもなった。
怪我をして注目度は減ったが、それでも顔を見せてくれるスカウトは何人かいたらしい。
だがこの時期に半年ほどもプレイできず、そしてそのまま引退というのは、さすがに条件としては難しくなったようだ。
同じ頃に悟の身長の伸びがほぼ止まったのも悪かった。
現代の野球では選手に求められるパワーが絶大なものであり、単純にセンスだけでは通用しないというのが一般的だ。選手の大型化はずっと続いている。
少しぐらいセンスに差があっても、身長が高ければ食わしてでかくして、フィジカルで圧倒すればいいというのは、乱暴ではあるがある程度の真理だ。
最後に父の転勤が、悟とスカウトとの断絶となった。
中学三年生、利き腕の右手は普通に使えるものの、損傷した靭帯はテーピングで固められて、ほとんど運動は出来なかった。
それでも体を動かすべく、ランニングをしたり、右手だけでボールをいじっていた悟の姿は、両親の目から見ても不憫なものであった。
だが中学三年生は、そっとしておいたらそれだけでいいという年頃でもない。
進路という問題があった。
悟は少し遠いが野球の強い公立を受けようかと思ったようだが、そこで両親は尋ねた。
野球はもういいのか、と。
商業科のある学校はそれなりに野球が強いと言っても、あくまでもそれなりだ。
そのまま野球は高校で諦めさせれば、両親にとっては現実的な進路を選択してくれるはずだったろうに。
未練がある。だがそれ以上に、怪我さえなければまだやれるという自信があった。
利き腕でない方の怪我だ。もちろん野球は両手でバットを振るので、その完治は大前提であった。
そして一つは私立を選んだのであるが、もう一つは今年から体育科を設立する学校を担任から示された。
もっとも悟が転校後はほとんど運動をしていなかったので、野球ならばこういうものも、という程度で示されたのであるが。
県立白富東高校。
高校野球の知識は悟に引きずられる程度だった両親でさえ知る、全国制覇を成し遂げた学校名である。
そういえば千葉県の高校だったなと調べてみれば、電車で一駅、歩いて15分と、自転車で気合を入れて通える距離である。
それに私立でなく公立であるのなら、正直ありがたい。
子供のためには今後も良い教育を受けさせたいと思っている親としては、教育費がかからないのはありがたい現実だ。
その学校の、20倍にもなる倍率を乗り越えて、悟は合格した。
離れていた野球が、悟の前にまた、広く長い道となって現れたのだ。
「え? 春の大会から出られるの?」
入学初日の練習から帰ってきた息子は、珍しくもニコニコと笑いながら19番を出してきたものだ。
「千葉と東京だと日程が違うんだ。それでも他のチームは普通夏がデビューらしいけど、白富東は新入生が来るまで二枠空けてあるんだって」
そしてもう一人は台湾からの留学生とのことで、歴史の長い公立は色々とやっているのかと感心したものだ。
センバツで優勝した白富東は県大会本戦からの出場で、土日に試合を行って、ゴールデンウィークの終わりに県大会の決勝までが行われる。
その後にはさらに関東大会があるのだが、これは平日開催となってしまうそうだ。
「まあ県のベスト4ぐらいまで勝ったら、あとはもう負けてもいっかって感じらしいけど」
もりもりと食事をしながら、上機嫌で悟は続ける。
「でも県内で負けたの、三年前の夏が最後って話だし」
千葉県は全国的に見れば、私立の強豪校が上位を独占するというような県ではない。
だがチーム数自体は多く、そこで勝ち抜くのは大変だ。
もっともSS世代以降、千葉県は白富東一強と言われてたりもする。
全国制覇をするようなチームで、一年からベンチメンバー入りというのはすごいのではないかと、野球にそこまで詳しくない両親でも思うのだが、悟としては手放しに喜べるものではない。
「やっぱガチガチで上手い人多いんだよ。同じショートやってる一年も、そいつは背番号もらえなかったけどかなり上手かったし、二年のショートの人もすんげえ上手いし」
だが背番号をもらったのだから、試合で使ってもらえる機会はある。
「つーかエースのタケさんの球がすんげえの。ほとんど見えないっていうか、残像が残る感じ。気が付いてたらミットの中に入ってるって」
一応当てることは当てられたが、シニアではありえなかった球速である。
現時点で日本の高校生で最速と言うか、プロまで含めても日本人ならば10人もいないであろうストレート。
あんなもんが打てるわけねえと同学年が洩らしていたが、悟はなんとか当てることは出来た。
キャッチャーの倉田曰く、まだ八分のストレートを。
あのストレートを打てるバッターがいるというのが信じられないのだが、確かにセンバツではホームランを打たれているのだ。
甲子園は化け物たちの集う舞台だ。
もっとも初見で武史のボールに当てた悟は、秦野からかなりの高評価を得ているのであるが。
シニアの頃からは想像もしていなかった高校野球。
一度は諦めた甲子園という舞台は、とりあえず今年は先輩の力で連れて行ってもらえそうだ。
だが打撃力と走力を考えれば、出場の機会を期待してもいいだろう。
わくわくして眠れなかった次の日であるが、悟は練習に参加出来なかった。
いきなり一人、病院送りなのである。
別に怪我をしたわけでもなく、部長の高峰が付き添って、わざわざ東京の大学病院までやってきたのだ。
そして全身くまなく、古傷から骨格、CTスキャンまで撮影される。
その後には全身にべたべたと何やら貼り付けられ、よくテレビなどで見るような様々な計測がされるらしい。
他には画面を見てライトを目で追ったり、純粋な身体測定に、体力測定などもされる。
「あの、先生、これっていったいなんなんですか?」
おそらく他の高校でも、ここまでの精密な検査はしないと思うのだが。
「私も専門ではないんだが、体質や遺伝子的形質、骨格などから最適の体の動きを計算し、一番体が成長しやすい練習メニューを作るんだ」
悟の常識の範囲を超えた話である。
高峰としても、ここまでのことをやるのは今年からである。
なんでも秦野がセイバーと交渉し、資金などを出させたそうだ。
新一年の入ってくるタイミング。ただ文哲はもう既にチェック済みで、他の一年は揃ってから改めて計測するらしい。
二三年が既に色々と試していたものをさいしょからやってしまい、この一年からは入学から全てのメソッドを取り入れるらしい。
その理由としてはふるっていた。
「ただの強豪校になりかけているからだって」
秦野の言葉の意味を高峰は分からなかったし、悟もさっぱりである。
だが言われてみればそう考えられなくもないのか、と思わないでもない。
これまでの白富東は、言うなれば頭のいい選手しかいなかった。
単なるフィジカルエリートを育てていくのは、白富東の方針ではない。
結果的にいい素材が集まったのは、留学生を除けばほぼ偶然と本人の選択だ。
それに本当のトッププロになれるような選手は、頭がいい選手か運がいい選手のどちらかになる。
この中の運が悪い選手を上手く育てるのが、今年からの目的である。
運が悪い選手。
それはたとえば、怪我さえなければ、という選手のことだ。
「俺みたいな?」
「試合中のアクシデントはどうしようもないけど、練習中に故障する選手がいるだろ」
「まあ、キャンプ中にどこそこを痛めたとか、よく聞きますよね」
「じゃあ怪我をする理由はなんだ?」
「……俺の場合は無理なプレイだったけど、練習中ってことはアップ不足とか、投手なら投げすぎとか?」
「それもあるが一番簡潔に言うと、負荷のかけすぎだな」
肉離れ、炎症など、全てはやりすぎである。
日本のスポーツにおけるトレーニングは、いまだに時間や量が多いことがいいと考えている者が多い。
技術的なことは量である程度は身に付く。問題は技術のついでに体力まで増やそうとすることだ。
考えてみれば分かるのだが、試合中にボールを処理することはどれぐらいあるのか。
比較的多いショートでも、20まではないだろう。
内野ゴロになったら確実に送球された球を捕るファーストであっても、一試合にやはり20はないはずだ。
そしてまた一試合の内に、守備範囲をぎりぎり抜けるような球がどれだけあるか。
それよりは正面から数メートル以内の強い球をキャッチし、ファーストに正確に送球する練習をした方がいい。
なので白富東は、キャッチボールの時間はかなり長い。
「白石なんかは鬼のように守備範囲が広かったけど、ぎりぎりのボールに追いついてアウトにするよりも、他の選手ならぎりぎり追いつくところを簡単に追いついて、正確に一塁でアウトにするプレイが多かったからな」
具体的な名前を上げられると、分かりやすい。
トレーニングというのは、やればやるほどいいものではない。
たとえば今ではトレーニングの常識となっているウエイトだが、あれは少ない回数を重い負荷で行って、その後の超回復で筋肉を肥大化させるものだ。
超回復に必要な時期にさらに負荷を与えてしまっては、トレーニングの効果がないどころか、筋肉にダメージを与えてしまう。
これが故障の原因、つまり負荷のかけすぎである。
「でも強豪校とかはがっつり練習してますよね?」
「あれはそもそも負荷に耐えられる選手ばかりを集めてるからだな。それでも効率的に筋力などは鍛えられてないんだが」
そこで高峰は苦笑する。
「強く見せかけるだけのチームがする、代表的な練習を教えてやろう」
本質的に理系人間な高峰は、こういった理論は大好きである。
「全員が一糸乱れない足の幅やリズムでグラウンドを回ってるチームは、間違いなく本来のポテンシャルを発揮していない。
悟にしてもシニア時代、全員でのランニングはやったことがある。
いやどんな強豪にしても、全員でランニングぐらいはするのではないか。
それに呼吸を合わせてやるというのも、ごく普通に指導されていた。
「全員が完全に同じような動作をするというパフォーマンスではあるが、それで野球が上手くなったり、何かのトレーニングになるのか?」
悟は答えられない。ランニングは普通にメニューにあったことだし、さすがにそこに疑問を抱くことはなかった。
「ただのランニングならまだいいんだが、全員でそろえて、しかも必要以上に足を上げたりしていると、負荷がかかって故障の原因となる。あと体の動かし方が下手になる」
今のプロ野球選手だって、もちろん優れている選手は多いが、単純に古い指導で壊された才能はそれ以上にいるだろう。
壊れなかった選手が指導者になっているから、その間違った指導が残っているわけである。
選手としての才能と、コーチとしての才能は全く別と考えるMLBに、追いつけないのも当たり前と言える。
しかし前監督はここまでのことをして、いったい何が目的なのか。
公立のチームにこれだけの手間と人をかけていた、いったい何が得られるのか。
「それはまあ分からないが、日本の野球の進歩を考えていることだけは間違いないな」
人生を何周か出来るほどの莫大な資産。
それを持ちながらも、ただ遊び呆けているだけにいかないのが人間である。
その後も悟はバッティングホームの計測や、動体視力の計測、送球の動作や捕球の動作など、色々なことを計測されていった。
このあたりは病院ではなく、大学のスポーツ運動施設を利用している。
ちなみにここで明らかになるのは、絶対的な身体的才能の差である。
才能に違いと言うが、実際にはその肉体が、そのスポーツに向いているか向いていないかが分かる。
だがプレイスキルというのはフィジカルに依存するものでもない。
そういうことを聞かされると、悟としては気になることが聞きたくなる。
「白石さんは俺より小さいのに、なんであんなに飛ばせるんですかね」
悟も全く長打が打てないというわけではないが、ホームランはかなり難しい。
体の小ささを言い訳に出来ないのは、甲子園のホームラン記録を塗り替えたスラッガーが教えてくれる。
「あいつはちょっと特別なんだ。他の人間が一つ持ってたら凄い要素を、何個も持ってる人間だったから」
だからこそ金属バットを使ったとは言え、甲子園の場外まで飛ばしたのだ。
プロになってオープン戦などでは甲子園球場でホームランを上段まで打っているが、今のところ場外は出ていない。
金属バットを使えば場外まで飛ばせるプロもいるのかもしれないが、少なくともいまだに他の達成者はいない。
「白石にしても、一年の春にトラッキングの計測を受けてフォームを修正してからは、ホームランの飛距離が伸びたからな。水上ももっと飛ばせるようにはなると思うぞ」
悟はいわゆる、攻走守に肩もそろったプレイヤーだが、打力の内では打率こそ高いものの、長打は少ない。
シニア時代には三塁までランナーがいたら、ほぼ確実にヒットを打って一点を取っていたが、高校レベルでは小手先のミートだけでどうにかなるような投手ばかりではない。
長打が必要だ。悟の体格では難しいのかもしれないが、悟よりも小さくて軽い選手が、軽々とホームランを打っているのだ。
体質だの計測だの効率だのと散々言われたが、悟にとって重要なことはただ一つ。
プロに行けるほどの打撃が手に入るかどうかである。
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