七日目 1

「お嬢様。そろそろ起きてくださいませ。もう午後ですよ。お支度に取りかかりませんと、婚約披露宴に間に合いませんよ」


 困った様子のニーナの声が耳元で響き、フランシーユが面倒臭そうに目を開けると、そばかすだらけの侍女の顔が見えた。


「おはようございます、お嬢様」

「おはよう…………ここ、どこ?」


 寝転がったままフランシーユは首だけ動かして寝室を見回した。

 内装から、プルミエ公爵邸の自分の部屋ではないことだけはわかった。


「王宮です。お嬢様、お屋敷を出られてからずっとここにいらしたんですか?」

「ん? あ――――えぇ。そうよ」


 五日間ほど寝起きしていた女王の私室ではなかったことを確認し、フランシーユはまだ疲れが残る身体を寝台に横たえたまま気怠げに答えた。

 窓掛けカーテンが開けられ、大きな両開きの硝子窓からはよく晴れた空から降り注ぐ眩しい午後の日差しが差し込んでいる。

 女王の寝室よりも明るい花の意匠の壁紙に、寝台の天蓋は薄紅色の蝶の模様が織り込まれた異国風の布で覆われ、大きな花瓶には黄色い菖蒲あやめの花が飾られている。

 昨夜は蝋燭の灯りだけだったので気づかなかったが、女性が寝泊まりすることを意識した華やかな部屋だった。

 寝室にはニーナ以外の人影はなかった。

 女官の姿もないので、自分がこの王宮で女王の身代わりを務めていたのは夢だったのだろうか、と昨日までの出来事を一瞬疑ったほどだ。


「ねぇ、ニーナ。今日は女王陛下とお兄様の婚約披露宴?」

「そうですよ。あたしはお嬢様のお支度のためにこちらに呼ばれたんです。お嬢様がお屋敷に戻ることができないからって言われて、ドレスから靴から宝飾品から、ぜんぶ持ってきました」

「そうだったの。それは、ありがとう」


 どうやら自分がヴィオレーユ女王の身代わりをしたのは現実だったらしい、と納得しながらようやく上半身を起こした。

 両足は丸一日歩き回ったせいで筋肉痛だったし、昨日は一度軽く食事をしただけなので空腹だった。まだ眠り足りないのか頭がぼんやりしたし、疲労が抜けきっていないので着飾って兄の婚約披露宴に出席する気力が沸かなかった。


「いまからお食事をして、入浴していただいて、お支度を始めればなんとか間に合いますよ」

「そう? でもなんか、出席するのが億劫になってきたわ」


 フランシーユが面倒くさそうに言うと、ニーナが驚いた様子で目を見開いた。


「今日の婚約披露宴はお嬢様の初めての社交界じゃないですか! お嬢様、あんなに楽しみにしていらしたじゃないですか! すっごい気合いを入れてドレスを仕立てて、奥様から青玉サファイヤの首飾りを譲っていただいて、靴だって刺繍がとっても豪華ですし、あたしはお嬢様の髪を巻くためにこてを五種類用意したんですよ!」


 まるで婚約披露宴の主役はフランシーユだと思っているくらいに張り切ったニーナが訴える。


「だって、疲れているんだもの」


 ぼやきながらフランシーユはまた寝台の上に倒れ込み、枕に顔を埋めた。


「なんかこう、やる気が出ないのよね」

「この間までは、お嬢様は女王陛下に負けないくらい目立ってやるって気概にあふれていましたよね? もしかして、女王陛下のお衣装をご覧になったんですか? お嬢様のドレスよりも立派だったんですか!? あ、でも、一応主役は女王陛下ですから仕方ないといえば仕方ないですよね」

「陛下のドレスは見たけど、わたしの方が派手だったわ」


 先日試着した女王の衣装を思い出し、フランシーユはため息をついた。

 この数日で仕立屋は女王の衣装を多少華やかに飾り付けをしているだろうが、フランシーユのドレスに比べればやはり豪華さに欠けるように思われた。


「見たんですか!?」

「見たわよ」


 見たというかフランシーユが試着したのだが、そこまで詳しくニーナに話すことはできない。


「お嬢様って、王宮でなにをしていたんですか?」


 ニーナはなにも事情を聞いていないらしく、不思議そうに尋ねた。


「旦那様や奥様だけでなく、若様もお嬢様もずっとお帰りにならないので、お屋敷ではみんなが心配していたんですよ?」

「わたしは別に王宮で遊んでいたわけではないわよ。お父様のお仕事を手伝っていたようなものね」

「旦那様の!? それはすごいですね!」


 さすがお嬢様、と尊敬のまなざしでニーナはフランシーユを見つめる。


「お父様に毎日すっごくこき使われていたんだから」

「でも、旦那様のお仕事ということは、国のお仕事ということですよね?」

「まぁ、そうね」


 国政関係の書類にひたすら署名をするだけの仕事だが、確かに国の仕事ではある。

 フランシーユが連日大量の書類に署名を書き続けたので、これまで滞っていた公共工事などが一気に動き出したことは間違いなく、昨夜も父が土下座しながら二年以上放置されていた案件も片付いた、と喜んでいた。

 二年以上前の事案となるとコルネーユ王の治世だ。

 王が仕事をしないのはヴィオレーユ女王だけではなかったのか、とフランシーユは呆れ返ったものだった。


「お嬢様もいずれは王宮で旦那様のお仕事のお手伝いをされるのですか?」

「わたし? まさか」


 王宮で仕事をすることなど考えたことがなかったフランシーユは首を横に振る。


「でも、旦那様がお嬢様にお仕事のお手伝いを頼まれたってことは、旦那様がお嬢様の力を必要とされたってことですよね。一回きりってことはないですよね」

「一回で十分よ。お父様の手伝いって、本当に大変なんだから」


 朝から晩まで椅子に座って、机の上に積み上げられた書類の山に署名をしていくという単純作業を続けなければならないのだ。この苦行は最初は七日間という話だったのでなんとかこなせたが、いくら署名をしてもいっこうに目の前の書類が減らないのはかなり苦痛だった。


(国王ってけっこう大変だってことはわかったわ)


 書類に署名をするだけが王の仕事ではないが、王が仕事をしないからといって代理を用意して署名をさせるという奥の手を宰相が使ったのは、よほどのことだったはずだ。


「お嬢様は結構楽しんでいらしたんじゃないんですか?」

「なぜそう思うの」


 ニーナの指摘にフランシーユは不満げに顔をしかめた。

 彼女はなにがあったのか知らないから気楽に言えるが、日頃仕事などしていない有閑貴族のフランシーユにはかなりの激務だった。これなら、図書室に籠もって一ページ目から眠気をもよおす数学の専門書を読んでいる方が楽なくらいだ。


「だって、面白くなかったり嫌なことだったら、お嬢様はすぐになんでも放り出してやらなくなるじゃないですか。いくら旦那様に強制されたからって、何日も旦那様のお仕事をお手伝いしてたってことは楽しかったんじゃないですか?」

「楽しいというか……ま、刺激的ではあったわね」


 別に、だからずっと女王の身代わりを続けていたわけではないが、と思いながらフランシーユが答えたときだった。


「フランシーユ、起きていますか?」


 コンコンと扉を叩く音が響き、寝室に着飾ったマリアンヌが顔を覗かせた。


「お母様。おはようございます」

「おはよう、フランシーユ。まだ起きたばかりだったのかしら?」


 寝間着姿のまま寝台の上にいる娘に目をやり、マリアンヌは微笑んだ。


「はい」


 フランシーユは大きく頷いたところで、母の背後に人影があることに気づいた。

 女官のお仕着せではなく、仕立ては良いが地味な衣装を身に纏った自分によく似た容姿の令嬢だ。


「あ……!」


 ニーナがすぐに相手が誰であるか察し、深々と頭を下げた。


「起きたばかりでごめんなさいね。陛下があなたと話をしたいとおっしゃるのだけど、今日はこの後、陛下もわたくしもあなたも忙しくなるから話をする暇がないでしょう? だから、いまからほんのすこしだけ陛下とお茶でも飲みながら話をしてはどうかしらと思って」

「…………ごきげんよう。フランシーユ殿」


 マリアンヌの後ろからおずおずと現れたヴィオレーユ女王は、うつむき加減にちらちらとニーナの存在を気にしながら小声で挨拶をした。


「ヴィオレーユ陛下。ご尊顔を拝する機会を――」


 相手が女王なので、疲れているからといって寝台の上から挨拶をするわけにはいかない。

 寝間着のままであることはどうしようもないが、フランシーユは寝台から滑り降りると優雅にお辞儀をした。


「堅苦しい挨拶は無用です」


 ヴィオレーユはフランシーユの言葉を遮って、囁くような声で早口で告げた。

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