六日目 1

(あー、お腹空いたわ)


 真っ暗な中、左手を壁に当ててできるだけすり足で歩きながら、フランシーユは心の中でぼやいた。

 自分がいまどこに向かっているのかはわからない。

 ただ、じっとしているわけにはいかなかった。

 賊の男が紙とペンを用意し、粗末な机と椅子が設えられた隠し部屋のような場所でフランシーユに退位宣言書を書かせてから、かなり時間が経っている。正確な時間は不明だが、一刻は過ぎているはずだ。

 フランシーユが退位宣言書を書き終えると、男は宣言書とペンを回収し、そのまま隠し部屋にフランシーユを閉じ込めた。のぞき窓がない扉に鍵を掛け、靴音を響かせながらどこかへと姿を消した。

 退位宣言書をドゥジエーム大公に届けるにせよ、宰相に届けるにせよ、すぐ近くに仲間が待機している様子はなかったので、しばらく戻ってこないだろうとフランシーユは判断した。

 それで、男の靴音がまったく聞こえなくなってから、ほとんど腐りかけていた扉に体当たりをしてさびだらけになっていた鍵と蝶番ちょうつがいを壊すと、フランシーユはそのまま隠し部屋から出ることに成功した。

 まさか自分が縛られたりせず部屋に閉じ込められただけだったとは予想外だったが、賊の方は箱入り娘の女王が自分で扉を壊す力があるとは想像もしなかったに違いない。


(灯りを持ち去ったから、身動きが取れないと思ったのかしら。でも、宣言書を書いている間にあるていど周囲は見えたから、それなりに方向はわかったし、木の扉も腐りかけていたからなんとかなりそうだと思えたけど。こんなとき、ヴィオレーユ女王なら無理かもしれないけど、でも彼女だって命の危険が迫っているとなったらこれくらいはしたかしら?)


 賊は直接フランシーユを殺すことはしなかったが、隠し部屋に閉じ込めてそのまま衰弱させるつもりであることは明らかだった。女王に傷を付けてしまうとドゥジエーム大公の立場が悪くなるが、衰弱死となれば女王が隠し通路の中で迷って出られなかったと装うことができる。

 真っ暗な部屋の中に閉じ込めておけば、気が触れるなり衰弱するなりすると考えたのかもしれない。


(ヴィオレーユ女王なら、案外じっとこの部屋で耐えているかもしれないわ。環境に順応しやすい性格だと言っていたし、おとなしいからと言って繊細というわけではないでしょうし、あのお父様から女王としての仕事をするように再三言われても大して仕事をしていないんだから、それなりに根性はあるのかもしれないわ。そうでなければ、女王なんてやってられないわよね)


 女王がどれほどの重責かは、この五日間でフランシーユは嫌というほどわかった。

 いくら王家の長子に生まれ、幼い頃から父の跡を継いで王になるのだと教えられ勉強して育ったとはいえ、それなりの覚悟と気骨がなければ王は続けられるものではない。


(あの男、一日や二日は様子を見に来ないかもしれないけれど、でも婚約披露宴までに女王の死を公表して、集まった国内外の貴族や要人たちにドゥジエーム大公の即位を披露しようとするかもしれないから、半日くらいしたら一度はわたしの様子を確認しに来るかもしれないわね。披露宴の場で女王の死が確実でなかったら、退位宣言書を大公が皆の前で読み上げたとしてもでっち上げだけ思われるかもしれないし。でも、あの退位宣言書、思いっきりわたしの字で書いてやったから、多分偽物だって誰かが言うでしょうね)


 この五日間、フランシーユは常にヴィオレーユの署名の字を真似て書類に署名をし続けたが、本来のフランシーユの字とヴィオレーユの字はかなり違う。フランシーユは癖のない貴婦人の手本のような字を書くが、ヴィオレーユはいくらか子供のような癖字で自分の名前を書いていた。真似がしづらいという点では、署名としては有効だ。

 ヴィオレーユの字を知る者が見れば、フランシーユの流麗な筆跡は女王の字であるとは判断されない。

 いくら署名がヴィオレーユ・シスになっていても、退位宣言書として誰もまともに取り合わないはずだ。

 もしあの男が退位宣言書をドゥジエーム大公に届けたとすれば、大公も筆跡が女王のものではないことに気づくだろう。その後、賊の男はフランシーユが女王本人ではないことに気づき、本物の女王殺害を目論むか、先にフランシーユを始末しようと考えるかのどちらになるはずだ。

 どちらにしても、退位宣言書が偽物であると気づかれれば、フランシーユが隠し部屋で衰弱死するのを賊が待っていてくれる可能性は低い。


(自力で逃げるしかないってのはわかっているんだけど、それにしてもどちらに逃げたらいいのかしらね)


 スカートのポケットに手を突っ込み、手探りで取り出した飴の包み紙を指先の感覚だけで剥く。執務で疲れたときのため、マリアンヌが毎日持たせてくれていたものだ。


(うん。これは蜂蜜の甘い香りがするから、これにしましょう)


 鼻先で飴の臭いを確認してから口の中に飴を放り込むと、普段なら菓子であっても食べながら歩くのは淑女として行儀が悪いと言われるが、誰に見られるわけでもないからとフランシーユは歩き出した。

 蜂蜜の甘味が口の中に広がり喉を通ると、それだけで身体が温まるような気になる。


(甘い物を食べると気持ちが落ち着くわ。まったく、なんでアンセルムはこんなに美味しい物を嫌うのかしら。飴のひとつやふたつ食べたところで、筋肉が溶けるわけではないのに)


 次第に暗闇に慣れてきたが、周囲の様子は見えない。

 手袋越しに触れる壁の感触から、石壁であることがわかる。初夏だというのに、肌に触れる空気は冷たい。ここでじっとしていると、風邪を引きそうだ。

 水音はしないので、かつては酒蔵か食料保存庫として使われていた場所なのかもしれない。そうであれば、フランシーユが退位宣言書を書かされた部屋の扉にのぞき窓などがなく、扉の鍵も簡素なものであった説明が付く。

 ここはかつて人を閉じ込めるために作られたのではなく、貯蔵庫として利用するための場所だったのだ。

 宮殿を拡張するうちに厨房から遠かったり、倉庫の広さが足りなくなったりして、この地下を利用しなくなったのだろう。


(なんか臭いけど、ねずみとか蝙蝠こうもりとかの糞尿の臭いかしら)


 埃や黴の臭いに混じって、あちらこちらから異臭が漂っている。

 暗くてなにも見えないのが幸いだが、時折動物のカサコソと動く足音や、羽ばたく音が響く。


(小動物がいるということは、出入り口があるということのはずよ。鼠や蝙蝠は病気を媒介すると言うけれど、靴で糞を踏んだくらいで病気になったりすることはないし、蝙蝠はずっとこの暗闇に籠もっているわけではなくて外に食事に出たりするはずだから、外に通じているはずよ。大丈夫。わたしはこの地下迷路のような場所で衰弱死したりしないから)


 頭の中の知識を総動員し、繰り返し自分に言い聞かせながら、フランシーユは歩き続けた。


(わたしの人生でこんなにお腹が空くなんてこと、これまでなかったような気がするわ。飴をなめて空腹を紛らわす羽目になるなんて、考えもしなかったわね)


 飴は疲れを癒やすための物だ。

 女王として政務を執っている間は、すこし空腹になっても「お腹が空いた」と言えばすぐに軽食と飲み物が運ばれてきた。どれもフランシーユが食べきれない、飲みきれないほどの量があり、好きな物を選ぶことがあった。

 プルミエ公爵邸での生活でも、なんらかの罰として食事や間食を抜かれるということはなかった。

 クレール公爵家ではアンセルムとジョルジェットが大喧嘩をしたと言って罰で夕食がなしになった話を聞いたことがあるが、フランシーユは兄と喧嘩をするというよりも自分の意見を主張して兄になだめられることが多かった。


(そうだわ。ここを抜け出したらなにをするか考えておきましょう。もしヴィオレーユ女王が戻っていなかったら、わたしは女王として近衛隊に女性隊士を採用するよう将軍に命令して、ジョルジェットを隊士にしてもらわなくっちゃ。ヴィオレーユ女王って同世代の貴婦人たちとの付き合いがほとんどないから、王宮で女王主催の茶話会もたまに開くべきよね。まったく、なんだってヴィオレーユ女王は人と交流するのが苦手なのかしら。大臣たちと近衛隊の隊士だけに囲まれていたって楽しくないでしょうに。仕事関係以外での付き合いといえば、お兄様と、あとたまにお母様くらいじゃないかしら。別にわたしだってたくさん友人がいるわけではないけれど、ヴィオレーユ女王は女王なんだからもう少し広く浅い交友関係を築くべきよね。あと、女王の軍服を着て近衛師団の視察にいかなくちゃ。そのときにジョルジェットの入隊を提案すれば、将軍だって嫌とは言わないでしょう。だって、夜中にアンセルムのところに押しかけてきて女王に謁見したいと言うくらいですもの)


 クレール公爵の性格を考慮し、フランシーユは計画を練った。

 暗闇の中を歩いているので、目は前を向いているが、いくらでも考えを巡らすことはできた。


(わたしがここを出たときにヴィオレーユ女王が姿をくらましたままだったら、わたしは本当にお兄様と結婚しなければならないのかしら。でも、わたしがヴィオレーユ女王の双子の妹というのはちょっとうさんくさい話なのよね。そういえば、ばあやの話では、わたしが生まれたときにお父様は「こんな天使みたいに可愛い娘が十数年後にどこかの男と結婚して自分の手元から離れていくことを想像するだけで、涙が出る」とか言って親馬鹿全開で泣いていたって言ってなかったっけ? 自分の娘でなかったら、あのお父様がそんなことを言ったりしないわよね?)


 ひとまず自分が知る限りの情報を組み合わせ、フランシーユは自分なりの答えを出そうとした。

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