五日目 4

 壁の向こう側ではアンセルムの怒鳴り声と壁を叩く音が響いている。

 暗闇の中、左腕を何者かに強く掴まれた状態のフランシーユは恐慌状態に陥り、声が出せなくなっていた。口の中が乾き、助けを呼ばなければと思うのだが、喉に力が入らない。

 自分の腕を掴んでいる者が男であろうことは、手の大きさや指の太さからわかる。

 黙り込んだまま相手はフランシーユを引っ張り、足早に歩き出した。

 なにが起きているのかはわからないが、自分が隠し通路の中にかどわかされたことだけはわかった。


(コルネーユ王の親衛隊のひとり、かしら)


 この王宮の隠し通路を知っているということは、王に近しい者と考えるべきだ。しかし、近衛隊隊長のアンセルムですら知らない隠し通路を知っているということは、前国王のそばに仕えていた者と考えるべきだろう。


(親衛隊をコルネーユ王の負の遺産と呼んだのは誰だったかしら。でも、その呼び方は間違ってはいなかったようね)


 どこに連れて行かれるのかはわからなかったが、フランシーユはなんとか状況だけでも把握しようと頭を巡らせた。

 アンセルムがそばにいない以上、相手に抵抗するすべや戦う武器はない。


(まったく、なんでアンセルムはわたしの手をしっかり握っていてくれなかったのかしら!)


 八つ当たりでしかないことはわかっていたが、フランシーユは現実逃避するようにアンセルムへの文句を頭の中で並べ立てた。


(多分、反抗すればこの男に暴力を振るわれるでしょうね。でも、ヴィオレーユ女王が反抗するなんて想像もしていないでしょうけれど)


 暗闇の中だというのに、男はまるで目の前の道が見えているように迷いのない足取りで進んでいる。

 フランシーユはそれについていくだけで精一杯だ。


(ヴィオレーユ女王ならこんなことになったら気絶しているかもしれないけれど……。あぁ、わたしも気絶してしまえば良かったのかしら? でも、気絶している間に殺されるかもしれないし、もっと酷い目に遭わされないとも限らないし、まずはおとなしくついていって、隙があれば逃げることにしましょう。それまでに近衛隊が助けに来てくれるかもしれないし……来てくれるかしら?)


 隊長のアンセルムが知らない王宮の隠し通路や隠し部屋を、他の隊士が知っているかどうかは不明だ。

 もしかしたらコルネーユ王の時代に近衛隊隊士を務めていた者は知っているかもしれないが、近衛師団に現在も所属しているかどうかはわからないし、近衛隊がどれくらいの人数を女王の捜索に割くかもフランシーユには見当が付かない。


(全員で探すわよね? こういうとき、全員で探すものよね? だってわたし、女王よね? 女王がさらわれたんだから、近衛隊だけではなく、警備兵とか近衛師団の手が空いている者も全員投入して探してくれるわよね? まさか、身代わりだからって見捨てないわよね!? わたし、公爵家の令嬢で、王族の血を引いていて、一応は王位継承順位だってお兄様の次だったわよね!?)


 前を歩く男と自分の靴音だけが響く通路は、フランシーユを混乱させるのに十分だった。


(こんなことになるって、最初からわかっていてわたしを女王の身代わりにしたわけじゃないわよね? わたしをおとりにしてコルネーユ王の親衛隊を王宮におびき寄せようとしたわけではないわよね? わたしがヴィオレーユ女王の双子の妹だろうが、従妹だろうが、わたしを見捨てたりはしない――わよね?)


 暗闇の中、フランシーユは全身の血の気が引くのを感じた。

 恐ろしいのは目の前を歩く男なのか、それとも自分をヴィオレーユ女王の身代わりに仕立てた父親なのか、ヴィオレーユ女王を探しに行くと言って自分の前から姿を消した兄なのか、自分を護ると言いながら賊にやすやすと出し抜かれたアンセルムなのか、もしくはこの親衛隊を操っているかもしれないドゥジエーム大公なのか。


(しっかりしなさい、フランシーユ・ガヴィニエス! わたしはプルミエ公爵の娘で、ヴィオレーユ女王の従妹で、王位継承権だって持っているのよ! わたしのような恵まれた立場の者が、こんなところで賊に襲われて短い人生を終えるわけがないじゃないの! わたしはアンセルムと結婚して、いずれはクレール公爵夫人になって、この国の社交界の頂点に立って、百歳まで面白可笑しく楽しく刺激的な人生を送るって決めてるじゃないの!)


 フランシーユは繰り返し自分を鼓舞した。

 そうしなければ、男に引っ張られているとはいえ、足がもつれていまにも倒れてしまいそうだった。

 どれくらい歩いたのか、ようやく男が歩くのをやめたのは、狭い通路を抜けた先だった。

 そこも薄墨を流し込んだように暗い場所だったが、壁にところどころ燭台が設置され、臭いがきつい粗悪な獣脂蝋燭に炎が灯されているのか見えた。

 埃と黴の臭いが漂い、空気が澱んでいることがわかる。

 ほとんど小走りになりながら男に引きずられるようにしてたどり着いたフランシーユは、荒い呼吸を繰り返しながら周囲を見回した。

 振り返った賊は、さきほど窓から飛び込んできた男と同様に覆面で顔を隠していた。

 薄暗い中で、双眸だけがフランシーユを射殺すように輝いている。


(ころ、さ、れる?)


 ゆっくりとフランシーユの顔を覗き込んできた男は、表情をこわばらせるフランシーユを見下ろすと、満足げに目を細めた。

 まるで目的の獲物を捕まえた獣のようだ。


「女王。あんたには退位宣言書を書いてもらう。自分は退位し、王位はドゥジエーム大公に譲ると書くんだ」


 男は子供に言い聞かせるように、しわがれた声で告げた。


「あんたをただ殺しただけでは、大公が王に指名されるとは限らないからな。俺たちが女王を襲撃したことはばれている。あんたの死体が出ても、大公や公子を次の王にしようと言う奴はほとんどいないかもしれないが、女王が次の王に大公を指名すれば、無視できないはずだ」


 怯えるフランシーユに向かって、外国鈍りがある抑揚で男は言った。


「コルネーユ王の親衛隊を継いだドゥジエーム大公が、次の王にふさわしい」


(この男も元親衛隊の隊士なのね)


 風貌は野盗のように汚れており、とてもほんの数年前までこの王宮で王の親衛隊隊士としてもてはやされていたとは思えない。


(こんな連中が自分のところに集まってきて、大公は嬉しいのかしら?)


 ドゥジエーム大公がなにを考えてコルネーユ王の親衛隊を受け入れたのか、フランシーユにはまったく理解できなかった。

 異母兄への憧憬か、元親衛隊隊士たちへの哀れみか、打算か。

 いずれの理由にせよ、目の前の男がドゥジエーム大公を王位に就けようと思いついたのは、大公が元親衛隊隊士たちを自分の親衛隊として集めたからだ。

 目の前の賊の目的が大公の意思に沿ったものであるにせよ、反したものであるにせよ、この男は自分たちが国王の親衛隊に返り咲けると勝手に期待している。いかに無謀な計画であるにせよ、自分たちが動けば結果がついてくると妄信している。


(危険なやからだわ。でも、いまこの男を刺激したところでわたしが怪我をするか殺されるか、どちらにしてもわたし自身が危ない目に遭うだけよ)


 全身から酒の臭いを漂わせ、血走った目でフランシーユを睨む男は、女王が自分に逆らうことを許さない気迫にあふれていた。

 その狂気じみた目つきに、フランシーユは背筋がぞっとするのを感じた。


「退位宣言書を書け。いいな?」


 男はフランシーユの腕を強く掴み、逆らえば腕の骨を握りつぶすといわんばかりの勢いで命じる。

 仕方なく、フランシーユは黙ったまま首を縦に振った。

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