二日目 4
「ルフェーブル卿って、確かジョルジェットと先日婚約したのよね」
フランシーユは、なんどかプルミエ公爵邸で顔を合わせたことがあるセレスタン・ルフェーブルの顔を思い浮かべた。
セレスタン・ルフェーブルは長身だが近衛隊の隊士にしては痩身の青年だ。土色の髪に
アンセルムは以前「どんな良家の出身だろうと、士官学校で訓練を積んでいる間にみんな軍人らしく荒っぽくなる」と豪語していたことがあるが、セレスタンに限っては例外だった。
兄シリルほどではないが、優雅で
トラント伯爵家出身の軍人は少なく、セレスタンのように嫡男で士官学校に入った者も少ない。
机に座って勉強するよりも身体を動かす方が好きだったので士官学校を選んだだけですよ、と控えめな口調で話す彼は、とても勉強が苦手な風には見えなかった。
「あなたみたいに筋肉の鎧をまとったような体型をしていないところが陛下に気に入られたのかしら」
フランシーユがセレスタンの容姿を脳裏に思い描きながら呟くと、自分を褒められたと勘違いしたのかアンセルムが嬉しそうに表情を崩した。
(アンセルムの筋肉を褒めたつもりはないんだけど……筋肉を褒めたものとして受け取られてしまったわね)
皮肉のつもりで言ったフランシーユは、微妙な言い回しがアンセルムには伝わらなかったことを悔やんだ。
「あいつは剣を持っていないときは貴族の若様って感じで猫をかぶっているんだが、いったん剣を抜くと人が変わったように好戦的になるんだ」
「前にお目にかかった際には、そんな風には見えなかったけど」
「子供の頃、どっかの屋敷だか城館だかで俺と会って喧嘩になって、俺がセレスタンに勝ったらしい。それで、絶対に俺を打ち負かしてやると決めて俺と同じ士官学校に入ったらしいんだが……まったく覚えがないんだな、俺は」
「そう――――」
アンセルムは幼い頃から同世代の子供たちの間では一番喧嘩が強かった。
士官学校に入るまでほぼ負け知らずだった彼が、いちいち負かした相手を覚えていないのも当然だろう。
「結構根に持つ人なのね」
「あいつはやたらとしつこい。何年も前のことを、いまでもたまに思い出したようにねちねちと話を蒸し返すんだ」
「それは多分、あなたがすっかり忘れているからじゃないかしら」
「まぁ、そうだな。あいつは俺が覚えていない話ばかりするな」
軍人としての腕は確かなアンセルムだが、大雑把で過去の勝敗にこだわったりしない性格だ。
売られた喧嘩は買うが、相手を負かしたあとは自分が勝ったことを
「そのルフェーブル卿は、昨日は陛下の護衛をしていなかったの?」
「昨日は――――――…………」
腕組みをして唸りながら、アンセルムはしばらく口籠もった。
「あぁ! 昨日は午前中まであいつが護衛をしていたな! ただ、昼前から体調不良で別の隊士と交代したんだ」
「体調不良?」
「腹を下したんだ」
「まぁ――それはお気の毒に……」
「どんな体力自慢の隊士でも嘔吐下痢だけは、風邪や頭痛のように気合いと根性と筋肉で乗り切ることができない」
「でしょうねぇ」
気合いと筋肉が同列である辺りがアンセルムらしいと納得したところで、フランシーユはあることに気づいた。
「ルフェーブル卿は昨日、お腹の調子が悪くなるまでは陛下から十歩ほど離れた場所に控えていたってこと? つまり、陛下の姿が見える場所で護衛をしていたってこと?」
「多分。たいていは執務室の中まで入って護衛をしている」
「でも、昨日はお腹が痛くて陛下のそばを離れたのよね。そのあと、別の隊士が護衛をしていたけれど、陛下が昼食後に執務室に入ったのちはその隊士は一緒に執務室に入らなかったってこと?」
「そういえば――そうなるな。詳しくは確認していないが」
フランシーユの質問に、アンセルムは頷く。
「妙じゃない? 昨日、ルフェーブル卿が都合良くお腹が痛くなったおかげで、陛下はほんのすこしの間とはいえ執務室の中でひとりになり、その間にどこからかやってきた協力者の手を借りて執務室から抜け出して駆け落ちしたってことになるわよね。ルフェーブル卿のお腹が痛くなったのはまったくの偶然、かしら?」
「最初から仕組まれていたってことか?」
「そうでなければ、それなりに厳しい警備の目をかいくぐって駆け落ちするなんて無理よね」
執務室から警備兵、女官、侍従の全員が出て行き、ほんのすこしの間でも女王がひとりになったというのは考えにくい。もちろん、女王がひとりになりたいと言って人払いをすることはあるだろうが、女王の私室で彼女がひとりになるのならともかく、官僚たちが出入りする執務室でひとりになる理由はない。
しかも、政務に消極的な女王が、執務室にひとりで籠もって考えなければならないような案件もないのだ。
官僚たちと喧嘩をして全員を追い出したというなら状況としてはありえるが、これまで聞いてきた女王の性格上、そのようなことが起こるとは考えにくい。
「ルフェーブル卿は腹痛で女王から離れたのよね。女王の護衛は普段はひとりなの?」
「いや。常にふたりは陛下のそばにいる。セレスタンが陛下の近くに、もうひとりはすこし離れた場所で警備をしていたはずだが、セレスタンが持ち場を離れたあとにもうひとりの隊士がどこで警備をしていたかを確認する必要があるな。確か、ラコートだったはずだが、あいつは熊だから……」
アンセルムが眉を
「熊? 熊みたいな大きな人ということ?」
「見た目がほぼ熊だ」
熊のような男という表現がフランシーユには理解できなかった。
熊の
「――――ちょっと想像できないけれど、つまりはルフェーブル卿ほど陛下のそばで警備はしていなかったということね」
ラコートという人物の見た目がほぼ熊で、女王の好みの容姿ではなかったことだけは理解できた。
状況としては、偶然にせよ必然にせよ、昨日の時点でヴィオレーユ女王はひとりになれる機会があり、置き手紙を残して協力者と一緒に執務室を抜け出したということは間違いないようだ。
(ルフェーブル卿が近くにいる間に置き手紙を書いていたのかいなかったのかは、さすがにルフェーブル卿に尋ねてもわからないでしょうね。女王の背後を護っていたわけではないし、彼女の手元を見ていたわけでもないでしょうから。でも、ルフェーブル卿が執務室から去ったあとに置き手紙を書くだけの時間があったのかしら。別の近衛兵がすぐに入ってくることだって考えられるから、いくら相手が熊みたいだから視界に入れたくないと言ってすぐに追い出したとしても、協力者が入ってきてから一緒に出て行くまでに置き手紙を書く時間はないわよね?)
近衛隊の隊士は公式の場で女王のそばを護る役目が多いため、容姿と家柄も重視される。
アンセルムのように家柄、実力共に優れている者、セレスタンのように家柄と容姿で認められている者、貴族の出身ではないが実力と容姿で選ばれる者などが集まっている。
ラコートという隊士は熊のような容姿ということだが、家柄と実力が優れているので女王の護衛を任されているのだろう。
(見た目と実力が比例するわけではないけれど、どうしても近衛隊は見た目に重きを置かれてしまうから、ラコートという隊士が女王の好みではないという理由で遠ざけられても仕方はないのでしょうね。でも、ヴィオレーユ女王が自分で計画して置き手紙を書いたり、ルフェーブル卿がお腹を下すように仕組んだりすることは難しいでしょうから、協力者が全面的に計画を立てて実行したと考えるべきだわ)
訓練場のあちらこちらから駆け寄ってくる隊士たちの姿を眺めながら、フランシーユは思考を巡らせた。
(計画は実行に移す一日や二日前に立てられたものではないはずだわ。もっと前から、ヴィオレーユ女王の駆け落ち計画は進行していて、当日の護衛の担当や、女王の予定などを全部考慮してあったはずよ。置き手紙だって何日も前から用意されていて、協力者が執務室に残していったと考えるべきでしょうね。だって、もし執務室の机の
執務室の清掃は補佐官の仕事だ。
王宮内の清掃を担当する使用人たちはたくさんいるが、国家の機密書類が大量に積まれている国王や宰相の執務室には使用人たちを入れないようにしている、と昨日フランシーユは宰相から聞いたばかりだった。
(誰が協力者にせよ、女王の行動や王宮内の人の動きを熟知していなければ計画は立てられないわよね? でも、陛下にそこまで協力する親しい人がいたのかしら)
いまフランシーユが一番疑問に感じていることは、女王の協力者という存在だった。
宰相やアンセルムの話を聞く限り、ヴィオレーユ女王には親しい友人がいない。
従妹であるフランシーユと疎遠だっただけではなく、他の王侯貴族の年が近い令嬢たちとも付き合いがなかったという。
彼女の周囲にいたのは宰相を筆頭に官僚、女官、護衛の近衛隊士たち、補佐官、侍従といった家臣ばかりだ。
(一応『駆け落ち』ってことになっているのだから、協力者は男性だと考えるべきなんでしょうけれど、陛下がシリルお兄様以外の男性と親しくなる機会ってほとんどないわよね? お兄様はよく王宮に出向いて陛下とお茶をしたりはしていたようだけど、陛下がお兄様以上に誰かと親しくなる機会なんてあったのかしら? 中庭を散歩していて、誰かが陛下を待ち伏せしていて話しかけてきたとしても、散歩の際も護衛は付いているんだから、誰にも知られずに協力者と親しくなるなんて難しいわよね)
考えれば考えるほど、フランシーユにはヴィオレーユ女王の駆け落ちの謎が深まっているように思えた。
宰相やアンセルムの話をまとめると、ヴィオレーユ女王は王位を継いでも政務に消極的だったことがわかる。父親の後を継いで仕方なく王冠をかぶっているが、できることなら誰かに国王失格の烙印を押してもらい王座を奪って欲しかったのかもしれない。それがなかなか叶わなかったので、王宮から姿を消したのだというところまでは理屈が通る。
ただ、今回失踪する手段となった『駆け落ち』はヴィオレーユ女王ひとりでは実行できない。
『家出』をするにしても女王という立場と王宮という場所柄、ヴィオレーユ女王がひとりで行方をくらますことは困難だが、『駆け落ち』を宣言して出て行ったということは、自分にはシリル以外の結婚を考えている男性がいるということをはっきりと明かしていることになる。つまり、ヴィオレーユ女王はひとりではない、ということだ。
(どこの誰ともわからない相手と駆け落ちをすることで王位を捨てて、お兄様との婚約を破棄して、陛下はこの先どうするつもりなのかしら)
行方不明のヴィオレーユ女王を探しに出かけたシリルが手がかりを掴んでいるのかどうか、フランシーユに知るすべはない。
ただ、シリルだって闇雲にヴィオレーユ女王を捜索しているわけではないはずだ。
ヴィオレーユ女王の失踪が国家機密である以上、女王の肖像画を持ち歩いてしらみつぶしに「このご婦人を見かけなかったか」と尋ねて回るわけにはいかないが、なんらかの手段はあるはずだ。
(親しい人なんていないように見える陛下の協力者、ねぇ)
ヴィオレーユ女王の境遇に同情した女官や侍従がいたとしても、協力者として動くことは難しいように思われた。
(……わからない部分が多すぎて、状況の整理がしづらいわ)
フランシーユは白い雲が棚引く青空を見上げながら、この広い空の下のどこかにいるに違いないヴィオレーユ女王のことを考えることを中断した。
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