二日目 3

 王の執務室から近衛隊のとんしょまでは四半刻、というのが宰相の説明だったが、歩き慣れないフランシーユにはほぼ半刻かかる道のりだった。


「よ、ようやく着いた……」


 正午前の初夏の眩しい日差しの下、帽子をかぶっているとはいえ歩いているとうっすらと汗ばむ陽気だ。

 とても散歩とは呼べないような距離を履き慣れない靴で歩いてきたフランシーユは、屯所まで足を運んだだけで視察という口実で執務室を抜け出したことを後悔しはじめていた。


(帰りも同じ距離を歩かなければいけないのね)


 女王としての威厳はヴィオレーユの身代わりである以上必要ではないが、貴婦人たるものいくら暑いからといってだらしない振る舞いをするわけにはいかない。

 背筋を伸ばし、視線を正面に向けつつ、手にしていた扇で顔を仰ぐ。


「日陰がないわね」


 辺りを見回しながらフランシーユは息を吐いた。

 目の前にはだだっ広い訓練場があるだけだ。

 さんさんと日差しが降り注ぐ中、二十名ほどの隊士たちが簡素な服装でたんれんいそしんでいる。


「あっちが隊舎だ。行ってみるか?」


 アンセルムが指で示した方向は、訓練場のはるか彼方にあった。


「……いいえ。ここでいいわ」


 帽子のつばを指先でつまんで日差しを避けながら、フランシーユはこれ以上歩きたくないと暗に匂わせた。


「あれ? 隊長? どうしたんですか。十日間ほどは宮廷の方に詰めてるって言ってませんでしたっけ? その方、どなたです?」


 アンセルムの姿に気づいた訓練場の隅で武具を運んでいた隊士のひとりが、元気よく駆け寄ってきた。

 見た目は十四、五歳といったところなので、士官学校を卒業せずに入隊したのだろう。

 貴族の子弟なら王立士官学校に入って軍人への道を進むが、士官学校に通えない庶民でも近衛師団に入ることはできる。滅多にあることではないが、功績を挙げれば幹部になれないこともない。本当にまれなことではあるが、まったく昇進の道がないわけではないのだ。

 なので、毎年開催される近衛師団の入団試験には地方から大勢の受験者がやってくる。

 顔にそばかすがたくさんあるこの少年は、口調に訛りがあるので、多分王都出身ではないのだろうとフランシーユは判断した。

 プルミエ公爵邸にも、地方からやってきた使用人がたくさんいる。

 主にはプルミエ公爵領の領民たちだが、他の地域からやってくる者も雇うことがある。

 王都から出たことがないフランシーユは、そんな地方からやってくる使用人たちの話を聞くのが好きだ。


「どなたって、


 フランシーユよりもすこし背が低い少年を見下ろしながら、アンセルムが言い聞かせるように答える。


「え? 陛下? この地味な方が!?」


 見習いの少年が素っ頓狂な声を上げる。


「ランヴァン卿――――(あの失礼なやからって)」


 目を細めたフランシーユが後半は唇だけ動かしてアンセルムに伝えると、殺気を感じたアンセルムが慌てて少年の頭を押さえつけた。


「女王陛下に対して不敬だぞ! いますぐびろ」

「え? えぇ!? まさか本当に女王陛下ですか!?」


(地味で悪かったわね! わたしだって、好きでこんな服を着てるわけじゃないのよ!)


 明日にでも女王の衣装部屋の衣装を総入れ替えしてやる、と決意を固めながらフランシーユは少年を無言で睨む。

 女王がわざわざ近衛隊の屯所まで視察に訪れたというのに、敬意を払わないどころか、まったく信じていない態度も気に入らなかった。


(この王宮は一体どうなっているのよ! 近衛隊なのに女王の顔を知らないの!? 本物を見たことがなくても、立派な額縁で飾られた女王の肖像画くらいは見ているでしょうに! なのに、王を護る近衛隊の下っ端隊士にこんなにも軽んじられる女王って、どういうことよ!? ヴィオレーユ女王は即位してから本っ当に近衛隊の視察を一度もしていなかったってこと!?)


 従姉への怒りで身を震わせながら、フランシーユは扇を強く握りしめた。

 その気配を察したアンセルムは、見習いの少年の頭を押さえつけてさらに下げさせてから「全員集合させろ」と命じた。


「さっきの奴は見習いだから、ヴィオレーユ陛下の顔を知らないだけだ」

「そのようね。肖像画も見たことがないようね」

「陛下の肖像画はあまり出回っていないからな。陛下の顔は王宮内でも広く知られてはいないんだ」

「引きこもっているから!? それとも、女王は常に正装して王冠をかぶって玉座に腰を下ろしているものとでも思っているのかしら。っていうか、この服装が女王らしくないのかしらね!? もっと威厳があって派手な服にするべきかもしれないわよね!? この格好ならこのままお忍びで城下に出ても誰にも気づかれないわよね!?」

「……その格好のままでも、いまの女王陛下はかなり威圧感を漂わせているからただものではないことは気づかれると思うし、君はかなり然としてると思うが」


 なぜか、アンセルムの『』という一言が『』とは違う意味を含んでいるようにフランシーユには感じられたが、面倒だったので追求するのはやめておいた。


「明日は軍服を着てくることにするわ! 衣装部屋の隅に、確か女物の軍服があったはずよ!」


 デュソール王国国王は国軍の総帥でもあるので、女王用の軍服も用意されている。

 フランシーユが知る限り、ヴィオレーユ女王が軍服に袖を通して人前に出たことはないので、多分女王用軍服は仮縫いの際に女王が着たあとはそのまま衣装部屋に放り込まれた状態に違いない。


「陛下が軍服を着て宮殿内を歩いていたら、戦争が始まると勘違いする連中が続出するぞ」

「わたしに似合うと思うのよね」

「似合う似合わないの問題じゃない。普段の陛下を知る奴らは、陛下がおかしくなったと思うだろうな」

「真面目に女王の仕事をしてるだけなのに!?」

「ヴィオレーユ女王は真面目に仕事をする王ではない、というのが宮廷人たちの共通認識だ」

「そっちの方がおかしいわよ!」

「そう思うのは少数派だし、女王が政務に消極的である方が都合が良い連中も王宮にはわんさかいるんだ」

……?」

「女王陛下に積極的に仕事をして欲しいと考えている宰相閣下は少数派だ」


 アンセルムの説明に、フランシーユは顔を顰めた。


「そうなると、わたしが散歩と息抜きをかねて近衛隊の視察にやってきたことそのものが、女王に仕事をしてほしくない派にとっては都合が悪かったりしない?」

「するだろうな」

「――――あなた、そこまでわかっていて、わたしをここに連れてきたわけね」


 王宮内の詳細な状況を知らないままアンセルムに誘われてのこのこと遠路はるばる訓練場まで歩いてきた自分のかつさに、フランシーユは内心舌打ちした。


「宰相閣下だって、女王に仕事をしてほしくない派を刺激したくてたまらなかったんだ。だから、お前がここに来ることを反対しなかった」

「でしょうね。汗をかきながらここまで歩く羽目になったわたしが一番損をしているような気がしてならないわ」


 フランシーユの気持ちが苛立つのは半分暑さのせいだが、事情を説明されないまま宰相の手の上で踊らされているような気がすることもしゃくだった。


(もうすこし慎重に状況を見極めてから行動した方が良いのでしょうけれど、そういうのは私の性に合わないのよね。それに、どうせお父様のことだから、残り六日間でなんとか宮廷内で暗躍している自分の政敵を表に引きずり出してやろうと考えているんでしょうから、悠長に女王に仕事をしてほしくない派の動向を探っている暇もないでしょうし。女王陛下があと六日で戻られなかったらまた事情は変わるでしょうけれど)


 そもそも、ヴィオレーユ女王が即位して以来、一年以上なにも対策を採ってこなかったのだ。まったく、ということはないだろうが、宰相はほとんど仕事をしない女王や政敵たちを放置してきた。

 それを、いくら女王が仕事熱心になったとはいえ、たった六日ほどで片付けられるわけがない。


(お父様がなにを企んでいるのかはわからないけれど、わたしって完全におとりなんでしょうね。女王に仕事をさせて宮廷内に波風を立たせて、これまで様子見の方針だった連中を動かしたいんでしょうね)


 女王が執務室で書類の山に埋もれていたり、視察という名目で散歩がてらに近衛隊の屯所へ足を伸ばすだけで政敵がおびき出せる見込みがあるのだから、宰相は内心喜んでフランシーユが女王の格好で宮殿内を徘徊することを認めたのだろう。

 となれば、宰相がフランシーユにさせたかったのは主に書類への署名ではないということになる。


「そういえば、陛下には常に護衛官がついていたのよね? いまのわたしみたいに」


 王宮には様々な身分の者が出入りしており、宮殿内の女王の行動圏内でも王侯貴族や使用人、出入りの商人などの姿を見ることができる。

 絶対君主であるはずの女王だが、彼女にとって必ずしも宮殿内が安全というわけではない。

 私室と執務室、庭を散歩する際も、近衛隊士が女王のそばに護衛として付き従っているのが普通のはずだ。


「護衛がついているにはついていたが、常にすぐそばについているわけじゃなかったな。陛下は軍官が武器を持って自分のそばをうろつくのを嫌がられていた」

「え? そうなの? じゃあ、アンセルム、いますぐわたしから離れて!」

「いや、もう遅いだろう。執務室からここまで、ずっと並んで歩いてきたぞ。道中の目撃者はそこそこいると思うぞ」


 アンセルムは、今更という顔でフランシーユを見つめる。


「陛下が軍官を嫌っているという話は昨日聞いたけど、そんなに遠ざけていたなら遠ざけていたと最初から言ってよ!」

「俺は遠ざけられていたが、セレスタンは十歩ていど背後を歩いていても許されていたな」

「セレスタン? ルフェーブル卿のこと? トラント伯爵家の?」

「そう。そのセレスタンだ」


 アンセルムが頷くと、フランシーユは扇で顔をゆっくりと扇ぎながら「ふうん」と呟いた。

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