一日目 2

 すべての始まりは一刻前にさかのぼる。

 初夏を迎えたデュソール王国の王都ファヴェリエでは、七日後に王宮で開催されるヴィオレーユ女王の婚約披露宴と祝賀行事の準備で盛り上がっていた。

 前国王の崩御から一年半が経過し、弱冠十五歳で即位した未婚の女王の婚約が正式に発表されるのだ。前王の喪が明けて最初の慶事ということもあり、王宮だけではなく王都のあちらこちらで女王の婚約を祝う催し物が開かれることになっている。

 プルミエ公爵家では、正式に女王の婚約者となる嫡男シリルの準備と、婚約披露宴に出席する公爵夫妻と令嬢の準備で大騒ぎだった。


「やっぱり、髪はこてで巻いてから結った方がいいかしら。でも、髪飾りはお母様からいただいたお祖母様の形見の銀のかんざしにしたいのよね」


 鏡台の前に座ったフランシーユは、母親譲りのゆるやかに波打つ蜂蜜色の髪を指先で摘まみながら侍女のニーナと相談をしていた。

 かれこれ三日は婚約披露宴に出席する際の髪型で悩んでいる。


「では、今日はまず鏝で巻いて結ってみましょう。細めに巻いた方がよろしいですか。それとも、太めに巻きましょうか」

「そうねぇ。このくせっ毛だと太い鏝で巻いた方がいいかしらね」


 普段であれば家庭教師による午後の授業の時刻だが、今日から婚約披露宴の当日までは授業が休みになった。フランシーユは婚約披露宴の主役ではないが、兄の婚約披露宴が彼女にとって初めての社交界への参加でもある。

 フランシーユの婚約者であるクレール公爵家の子息アンセルム・ランヴァンが付き添うことになっており、「もしかして婚約披露宴ではアンセルムとしか踊れないの? お兄様と踊りたかったのに! お兄様と踊れる陛下が羨ましいわ!」と言ってシリルを困らせてみたのも五日前の一度きりだ。

 あれ以来、兄の顔は見ていない。

 屋敷中が慌ただしく、フランシーユはこの三日ほど家族そろって食事をしていなかった。

 ここ数日、話し相手は三つ年上のフランシーユ専属侍女であるニーナだけだ。


「そういえば陛下はどんな髪型にされるのかしら。婚約披露宴の主役はあくまでも陛下とお兄様だから、わたしはあまり華やかな格好をすべきではないかもしれないわ」

「それもそうかもしれませんね。でも、あたくしは陛下のご尊顔を肖像画でしか拝見したことがありませんが、お嬢様と御従姉妹の間柄だけあっておふたりは似ていらっしゃいますね」

「そうかしら? でもそうね。わたしは髪の色や目の色がお母様似だから、同い年の陛下とも似ているのかもしれないわね」


 フランシーユは従姉であるヴィオレーユ女王とは数えるほどしか会ったことがない。

 先のコルネーユ王の妃が第一子であるヴィオレーユを産んで半年ほどで亡くなり、その後コルネーユ王は再婚しなかったため一人娘のヴィオレーユは王太子となった。

 半年前、ヴィオレーユの即位式にはフランシーユも出席したが、王としての重責を担って王冠をかぶる若き女王の姿が自分と似ているとはとても思えなかった。

 宰相であるプルミエ公爵が自分の息子のシリルを女王の夫とすることを早々に決めたのは、ヴィオレーユ女王を退位させて先々代の国王に容姿が似ているシリルを王位に就かせる計画がプルミエ公爵にあるのではないかという噂を打ち消すためだ。

 シリルが王配になれば世間のくだらない臆測に拍車をかけるだけではないかとフランシーユは考えたが、父の考えは違うらしい。

 現在のデュソール王国の法律では、王配は王位を継げないことになっているというのだ。

 もちろん法律は永久不変のものではないので変えてしまえば王配となったシリルが王位に就くことも可能だが、プルミエ公爵家はシリルを女王と結婚させることで王位簒奪の意図はないと恭順を示した。

 プルミエ公爵家の令嬢であるフランシーユがクレール公爵家のアンセルム・ランヴァンに嫁ぐのも、代々近衛師団で大将を務めている忠臣で王家の番犬と呼ばれてきたクレール公爵家に王家の血を少なからずくわえることが目的の政略結婚だ。

 ちなみに、将来アンセルムと結婚しなければならないことを知ったフランシーユが「あんな脳筋との結婚は嫌。わたしは大恋愛をして結婚したい」と母親に訴えたところ、「結婚してから恋人をつくって大恋愛をすればいいじゃないの。夫はひとりしか持てないけれど、恋人は三人でも四人でも作れるわ」と告げられ、そんな母娘の会話を聞いたプルミエ公爵とクレール公爵は真っ青になり、当時士官学校に入ったばかりのアンセルムは父親に命じられて休暇で実家へ帰宅するたびプルミエ公爵邸にやってきてフランシーユに贈り物を届けるという任務を嫌々こなす羽目になった。

 もっとも、アンセルムはいつも面倒くさそうにプルミエ公爵邸を訪れていたので、フランシーユの印象が良くなることはなかった。


「来年は若様が陛下とご結婚されて、お嬢様も再来年には嫁がれるのですから、今度は若様のお子様とお嬢様のお子様が同じ頃にお生まれになってご結婚されるということもあり得ますよね!」

「そ、それはどうかな」


 ひとまず自分の結婚に関しては考えないようにしているフランシーユが、二種類の鏝を握ってひとりで盛り上がっているニーナの意識をなんとか自分の髪型に引き戻そうとしていたときだった。


「フラン。ちょっといいかな」


 部屋の扉を軽く三度叩いて入ってきたのは、婚約披露宴の準備で妹よりも多忙なはずのシリルだった。


「お兄様。どうなさったの?」


 振り返ったフランシーユは、兄が地味な外套を羽織っていることに首を傾げた。

 まるで市街にお忍びで出かける王子様のような装いだ。


「父上から、急ぎ王宮に出向いて欲しいと知らせが届いたんだ。母上と、フランも一緒に」

「わたしも?」

「そうだよ。ニーナ、急いでフランの支度をしてくれ。あまり目立たない服装で頼む」


 珍しくあせった様子でシリルは侍女に指示をした。


「どうしてわたしが王宮に呼ばれるの?」


 王都のプルミエ公爵邸で箱入り娘として育ったフランシーユは、自分が王宮に行かなければならない理由が思いつかなかった。


「理由は、王宮で父上から聞けるはずだよ」


 シリルの口調は優しいが、わずかに苛立ちが見え隠れしていた。

 フランシーユの前でこんな風に兄の態度が荒れるのは珍しい。


(よくわからないけれど、嫌な予感しかしないわ)


 ニーナによって身支度を調えられながら、フランシーユは不安を募らせた。


(まさか、陛下とお兄様の婚約が白紙になったとか、お父様が政敵に足をすくわれて宰相の地位を追われそうになっているとか……)


 自宅では愛妻家で娘を溺愛する親馬鹿なヴィクトラン・ガヴィニエスだが、王宮でのプルミエ公爵はこうかつな宰相としてらつわんを振るい次々と政敵を蹴落としていることを、フランシーユは知っている。

 公爵邸を一歩出れば父に恨みを持つ者やあだなす者がたくさんいるから、とフランシーユは幼い頃から不要不急の外出を禁じられていた。

 アンセルムの妹でフランシーユの数少ない友人であるジョルジェットによれば、昨今の貴族の子女は王立や私立の女学院で学ぶのが一般的だそうだが、フランシーユは自宅で家庭教師から勉強を教わっている。しかも内容は兄シリルとほとんど同じもので、女学院に通うジョルジェットが読み書きと簡単な演算以外は刺繍などの裁縫、音楽や絵画、舞踏などしか習っていないのとは大違いだ。

 父親は「知識はどれほどたくさん身につけても邪魔になることはない」と諭され、母親からは「教養がある淑女は殿方にもてるのよ。素敵な恋人と出会って大恋愛をするためにもお勉強をしましょうね」と励まされたので、頭脳派として王家に仕えるプルミエ公爵家の教育方針は、代々武闘派として名を馳せているクレール公爵とは違うのだろうていどにフランシーユは考えた。

 兄は父のような冷酷さや老獪さはないが、冷静に状況をかんできる官僚としての才能はある。父と異なり利他主義で温和な性格のため敵は少ないが、まったくいないわけではない。特に、女王の婚約者として内々に決まっている現在、プルミエ公爵家と利害が一致しない反宰相派の貴族はシリルだけでも王宮から排除しようと画策している。


(お父様が敵に負けるなんて考えられないから、やっぱりお兄様の立場が危ういってことかしら。でも、お兄様が陛下と結婚しなかったら誰が陛下の夫になるのよ! お兄様ほど王配として陛下に寄り添うにふさわしい人はいないのに! だって、王家の血を引くお兄様はほぼ王子様で、中身は本当に王子様なんですもの! こんな素敵なお兄様との結婚を断るなんて、陛下はなんてもったいないことをなさるのかしら!)


 母マリアンヌは一足先に王宮で行っていたので、フランシーユはシリルと一緒に馬車に乗ることになった。

 珍しく険しい表情で黙り込んでいるシリルを見て、フランシーユは女王が官僚の誰かに言いくるめられて婚約を破棄すると宣言したに違いないと勝手に想像して王宮までの道のりをひたすら悶々と過ごした。

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