第六章 推理

 中谷高校は昼間の喧騒とは裏腹に、漆黒の闇に覆われていた。月は出ておらず、七月だというのに薄ら寒い風が敷地の中に静かに吹いている。すでに日付は変わっていて、時はまさに丑三つ時といった風である。

 その校舎の一角にうごめく小さな影があった。影は周囲に誰もいない事を確認すると、ゆっくりとその歩みを進めていく。そのまま校舎裏に回り、ゆっくりと部室棟に近づいていく。

 校舎裏で日頃から薄暗い部室棟は、この闇の中で一寸先も見えないほどの暗黒に支配されている。が、影は懐中電灯をつけることもせず、そのまま部室棟の横にある非常口のドアの前に立った。そっとそのドアノブをひねる。と、本来は硬く閉ざされているはずの非常口が何の抵抗もなく開いた。それを見届けると、影はするりとドアの中へと滑り込む。

 建物の中は非常口を示す明かりが点いている以外は完全な闇だ。その闇の中、影は手探りであるドアの前に立った。新聞部の部室である。影は一度警戒するように周囲を見回すと、懐から何かを取り出した。それは一本の鍵だった。影はそれをゆっくりと鍵穴に差し込んで回す。と、ガチャという小さな音と共に鍵はあっさり外れ、影はゆっくりと部屋の中に入った。そのまま内側から鍵を閉める。

 部屋の中も闇に包まれていた。が、影は明かりをつける様子もなく入口に立ちすくんでいる。むやみに動けない。普段から整理整頓がなされていないこの部屋は床も散らかっており、下手に動くと躓いてしまうのだ。影はそれをよく知っていた。

 影は一瞬部屋の奥を見る。すでにこの暗闇に目は慣れつつある。その目が部屋の窓にカーテンがかかっていることを確認した。日頃から部活が終了すると閉めているが、万が一の事がある。何しろ、これからやることをばれてはいけないのだから。

 カーテンを確認すると、影はようやくどこからか懐中電灯を取り出してスイッチを入れた。漆黒の部室に一筋の明かりが灯る。影は一息つくと、懐中電灯で一通り部室を見渡した。当然ながら誰もいない。影は足元に気をつけながら部室の奥へと進む。

「これさえ……これさえ処分すれば……」

 影はそう言って何かに手を伸ばそうとする。影の心臓が大きく脈打った。

 そのときだった。

 ガチャリ。遠くでドアが開く音がした。

「っ!」

 影は思わず手を引っ込め、パッと振り返った。今のは、さっき自分が入ってきた非常口の開く音である。だが、入るときに当然鍵を閉めたはず。誰も入ってこられるはずがない。

 空耳。影は一瞬そう思った。だが、廊下を歩いてくる足音が聞こえてくると、その考えも一気に吹っ飛んだ。聴き間違いなどではない。間違いなく誰かが、暗闇に包まれたこの建物の中にいる。影の心臓が、さっきとは別の意味で早く打つ。影は咄嗟に懐中電灯を消して近くの机の陰に隠れた。部室が再び漆黒の闇に落ちる。

 やがて、足音は新聞部室の前までやってきた。このまま通り過ぎてくれと影は祈る。だが、無常にも足音は新聞部室の前で止まった。しばし、不気味な沈黙がその場を支配する。

 その直後だった。ガチャリという音と共に新聞部室の鍵が回った。影の心臓が一気に跳ね上がる。誰かがこの部屋の鍵を開けたのだ。影は手を握り締め、その瞬間をじっと待つ。

 やがて、ドアがゆっくりと開き始めた。それは人が開けているというよりも、空き家のドアが風で勝手に開いていくような開き方だった。ドアは九十度近く開いたところでゆっくりと止まる。その場に緊張が走る。

 だが、誰かが入ってくる様子はない。どころか、ドアの向こうに人の気配すらない。そのまま何も起こらないまま時間だけが過ぎていく。何ともいえない不気味な沈黙だけがその場に停滞する。

 その沈黙に、ついに影は耐え切れなくなったようだ。音を立てないようにゆっくり机の間をすり抜けると、ドアの近くに忍び寄る。相変わらず人気はない。鍵が開いてドアが開いた以上、誰かがいるのは間違いないはずなのだ。もし誰もいないとなれば、怪奇現象以外の何者でもなくなってしまう。

 万が一のときはやるしかない。影の手には護身用に持ってきていたバタフライナイフが握られていた。影……いや、『殺人犯』はそう判断すると、覚悟を決めて廊下へと飛び出した。

 だが、そこには誰もいなかった。部屋から廊下に出て、最大限の注意を払いつつ周囲を警戒する。だが、人はおろか動くものさえ確認できない。背後に注意しながら隣の部屋の辺りまで歩いてみるが、やはり何もない。

 もはや、『殺人犯』は焦りを通り越して恐怖を感じ取っていた。こんな変な現象をまともに相手する必要はない。そう判断すると、『殺人犯』は元いた新聞部室に飛び込み、勢いよくドアを閉めて鍵をかけ、ドアの前に手近にあったダンボール箱を積み上げた。これでドアが開く事はない。『殺人犯』は息をつくと、そのまま後ずさりながらドアから距離をとる。


 まさにその瞬間だった。

「やはり、あなたでございましたか」

 『殺人犯』の後ろから、あるはずのない声がかかった。


 あるはずのない声に対し、『殺人犯』は反射的に振り返った。瞬間、声の出た方向……部屋の奥から明かりが発せられる。急に明かりを照らされて、『殺人犯』は思わず手で明かりを避けるような仕草をした。

「かくれんぼをする趣味はございません」

 相手はそう言うと、手に持っていた光源……どうやら、キャンプなどで使うランプ式のライトらしい……を手近な机に置いた。室内が不気味に薄暗い明かりで照らされる。そして、『殺人犯』は初めて相手の姿をその視界に捉えた。

「あなたは……」

 それは、昨日この部室にやってきた不気味な少女……大和日名子と名乗っていた真っ黒なセーラー服の少女であった。近くにはあの時同様の黒のキャリーバッグ。その表情は昨日同様に細目で微笑んでいる。

「大和……日名子……さん?」

「そういえば、そんな名前を名乗っていましたね。申し送れました。昨日はあのように名乗らせて頂きましたが、私、大和日名子改め黒井出雲と申します。ご訂正願いますように」

 途切れ途切れの『殺人犯』に対してそう言うと、日名子……否、出雲は笑みを崩さないまま頭を下げた。その笑顔が、薄暗い光源の下では逆に不気味さを醸し出している。『殺人犯』は背筋がゾッとするのを感じた。

「どうして、ここに……いつ、どうやって……」

 『殺人犯』は混乱していた。出雲がいつこの部屋に入ったのかまったくわからなかった。部屋を出て確認したときもドアの辺りは注意していた。が、人が入ったような気配は一切なかった。まるで闇に溶け込んでこの場に現れたとしか思えない状態である。

 だが、出雲はその問いに対して答える事なく、逆にこう聞き返す。

「私などの事よりも、あなたこそ、なぜこんな時間にこの部屋にやってきたのでございますか?」

「それは……」

 『殺人犯』は口ごもる。が、出雲は最初から『殺人犯』の答えを期待していなかったように、自分で答えを出す。

「隠しておいた殺人の証拠を持ち出すため、で、ございましょうか」

 その言葉に、『殺人犯』はサッと顔色を変えた。そんな『殺人犯』を尻目に、出雲は淡々と、しかしはっきりと言葉を告げる。

「一ヶ月前に起こった高原恵殺害事件。犯人はあなたでございますね」

 その言葉に、『殺人犯』は拳を握り締める。が、すぐにこう言い返した。

「何の話ですか?」

「……やはり、認める気はないのでございますね」

 出雲は微笑みのまま少し物悲しそうに言った。一方、『殺人犯』は不安を悟られぬようにまくし立てる。

「そもそも、あなたはなぜここに……」

「あなたがここに来たので、私の方から会いに来ただけでございます」

 そう言うと、出雲は近くにあったソファの隙間から何かを取り出した。

「失礼ですが、昨日お邪魔させて頂いた際に、盗聴器を仕掛けさせて頂きました。室内から音が聞こえましたのであなたが来た事がわかり、こうしてはせ参じた次第でございます」

「っ!」

 『殺人犯』は小さく呻く。まさか、そんなものを仕掛けられているとは考えていなかったようだ。

「犯人ならば必ずここにやってくる。そう考えて罠を仕掛けさせて頂きましたが、見事にはまったようでございますね」

「罠……」

「今日、警察がやってきたのは偶然ではございません。私が、警察が動くように仕向けさせて頂きました」

 とんでもない事を淡々と言うと、出雲は呆気に取られている『殺人者』に対して続ける。

「昼の捜索で、警察はいずれここへの家宅捜索をするつもりだと息巻いていたはずでございます。犯人はこの場に警察の捜査が入らない事を確信し、ここに証拠を放置していると私は考えていました。ゆえに、もし警察の目がここへ向けば、犯人はここに隠していた証拠を処分しにかかるだろう。そう考えて、あえて警察を動かした次第にございます」

 もっとも、あなたには何を言っているのか意味がわからないでしょうが、と出雲は付け加えた。

「そして、その行動……すなわちこの部屋にある証拠の隠滅に移った人間こそ、まさしくこの事件の犯人。そう考えての罠でございましたが……大当たりでございますね」

 そう言うと、出雲は相手に対して真正面から言葉で切り込んだ。

「今、この場にいるという事。それこそが、あなたが高原恵殺害の犯人である何よりの証拠でございます」

 そう言うと、出雲はいつの間に手に持っていたのか、机の上に置いてあったライトを掲げてその光を相手に向ける。そして、その光に照らされた人物の名を告げた。


「そうでございましょう? 中谷高校新聞部二年生、橋中詠江さん」

 『殺人犯』……橋中詠江は、驚愕覚めぬ表情のまま、出雲を呆然と見つめていた。


 出雲と詠江は、薄暗い新聞部室で互いに対峙していた。詠江は制服姿のままで、普段の清楚な表情はどこへやら、ジッと出雲を睨んで反撃の機会をうかがっている。闇の中、殺人犯同士の二人だけの推理勝負が始まろうとしていた。

「あなたは……何者なんですか……」

 告発後、詠江が最初に発した言葉はそれだった。

「自己紹介は済ませたはずでございますが」

「正体を聞いています。あなたは、なぜこんな事を……」

 だが、出雲は相手のペースに乗らない。

「質問をしているのは私でございます。あなたは、私の告発を認めるのでございますか?」

 その言葉に対し、詠江は一瞬口ごもったが、すぐにこう言った。

「そんな事……ありえないじゃないですか」

 それは、出雲に対する真っ向からの挑戦だった。

「ありえない、とは?」

「私には高原さんを殺害する動機も、そのチャンスもありません。だから、ありえないんです。警察もそれで納得しているはずです」

 いつの間にか、詠江は普段通りの温厚な喋り口に戻りつつあった。衝撃から回復して、落ち着きを取り戻しているらしい。それだけ、彼女は自分の犯罪に自信を持っているようだった。

「高原さんが殺されたのは午後六時十分から午後七時の間とニュースで言っていました。その時間、私にはアリバイがあります。それは、昨日の話であなたにもよくわかっているはずです」

「電車に乗っていた、ですね」

 出雲は別にひるむ様子もなく答えた。

「私は江崎さんと別れた後、荻窪駅を午後六時半頃に出た電車に乗って、午後六時五十分頃に東中野駅の改札を出ています。これは定期券の記録から明白な事です。そこから十分で現場までたどり着く事はどうやってもできません。つまり、私に高原さんを殺す事はできないんです。これが、私が犯人ではない何よりの証拠ではありませんか?」

「……そのアリバイ、崩せると言ったらどうなりますか?」

 勢い込んで語る詠江に、出雲は冷や水を浴びせるように明言した。

「そんな事、できるわけがないじゃないですか。まさか、推理小説みたいな時刻表トリックでも使ったというつもりですか?」

「そもそも、あなたのアリバイは他の四人に比べて不自然なのです」

 出雲は一方的に推理を告げる。

「新聞部の他の四人のアリバイはすべて対人アリバイ……自分以外の誰かと会っていたというタイプのアリバイでございます。この場合、アリバイが嘘だとすれば、考えられる可能性は死亡推定時刻が嘘なのか、共犯者がいるか、あるいはアリバイの関係ない遠隔殺人かのケースに限られます。ですが、今回はすべて当てはまりそうにございません。対して、あなたのアリバイだけは対人的なアリバイではなく間接アリバイ……『定期券』という状況証拠からアリバイが成立しているに過ぎません。元々、この種のアリバイは対人アリバイに比べてもろいのでございます。何しろ、証拠がアリバイを示しているだけで、誰も本人を見ていないのでございますから」

 出雲は詠江を見ながら言う。

「つまり、この『定期券』を崩せさえすれば、その瞬間にあなたのアリバイはないも同然になるのでございます。これが崩れれば、あなたには午後六時半から七時の間に三十分もアリバイがない時間が生まれるのでございますから」

「……ご高説はともかく、現実に定期券の記録は私が電車に乗った事を証明しています。高校生の私に、定期券の磁気情報を操るなんて不可能です」

 詠江は首を振った。だが、出雲は追求をやめない。

「磁気情報は本物でございましょう。ただし、この定期券を使ったのは本当にあなただったのでございましょうか?」

「……どういう意味でしょうか?」

「定期券はいちいち身分を確かめるものではありません。つまり、別にあなたが定期券を使わなくても、誰か他の人が定期券を使って荻窪駅から東中野駅へ向かえば、記録を残す事はできるはずでございましょう」

 詠江は呆れたように頭を振った。

「私に共犯者がいたというつもりですか? そんな人間がいるなら今すぐここにつれてきてください。警察も、そんな共犯者はいないと判断したからこそ、私のアリバイを信用する気になったはずです」

 だが、自信満々に反論する詠江に対し、出雲もまた小さく首を振った。

「下手な誘導は逆に見苦しいですね」

「何の事でしょう?」

「共犯者などいません。この事件はあなた一人が計画し、実行したものでございますから」

 ただし、と出雲は言い添える。

「他人を利用した計画であるのは、間違いございませんが」

「言いたい事があるなら、はっきり言ってもらえませんか?」

 詠江が少し苛立たしげに言う。だが、出雲はそれに対してあくまで涼しげに言った。

「そうでございますね。例えば事件当日、あなたが自分の定期券を誰か別の人の定期券とこっそり入れ替えていたとすればどうでございましょうか」

 その一言に、詠江は押し黙った。

「その人物が、あなたがアリバイを主張する行動を取れば、何もしなくともあなたの定期券に問題の磁気情報が記録されるはず。あとはその定期券を再び入れ替えて、取り戻した定期券を警察に提出すれば、本当はないはずのアリバイが証明される次第でございます」

「そんな都合のいい人がいるわけ……」

「例えば、あなたがいつも面倒を見ている江崎コノミさんはいかがでしょう」

 詠江の表情が変わった。

「江崎コノミさんはあなたと一緒に荻窪駅の改札に入り、あなたと別れた後はあなたと同じく六時五十分頃に東中野駅の改札を出て駅前の塾に行っています。つまり、仮にあなたの定期券をコノミさんが使ったとすれば、あなたの説明するのと同じ磁気情報が記録されるはずでございましょう」

 出雲はジッと詠江を見据えた。

「あなたはまず、部活の段階でコノミさんの定期券とあなた自身の定期券を入れ替えたのでございましょう。そして、荻窪駅であなたはコノミさんの定期券で改札に入った。このとき、コノミさんはあなたの定期券で改札に入っているはずでございます」

「定期券にはそれぞれの名前が書いてあるはず。すぐにばれると思いますけど」

 詠江が反論するが、出雲は一蹴する。

「定期券の名前など普段は見る事などしません。ましてその定期券がIC式の接触型だったとするなら、そもそも定期を見ずに改札を通過する事の方が多いはずでございましょう。つまり、定期券が別人のものであっても、ばれる心配はまずないという事でございます」

 出雲は話を元に戻す。

「さて、あなたは改札でコノミさんと別れて電車に乗ったと言っていますが、実際は別れた後そのままコノミさんの定期券で荻窪駅の改札口を出たはずでございます」

「何のために……」

「現場まで戻り、高原恵さんの殺人を実行するため、でございましょう」

 出雲は事も無げに言う。

「別れた直後にすぐ駅を出たとすれば、そこから死亡推定時刻まで約三十分、あなたにはアリバイのない時間帯が発生いたします。これだけ時間があれば、現場まで戻って殺害を実行する事が可能でございましょう。つまり、あなたのアリバイは成立しないのです」

 だが、出雲の鋭い糾弾に対し、詠江はさらに反論を重ねる。

「待ってください。荻窪駅からここまで歩いて二十分はかかります。一方、警察の人が言うには高原さんの殺害には最低十分はかかるそうです。それ以外にも五分程度は余計にかかるはずですから、そうなると実際の殺害時刻は六時五十五分から七時過ぎ。あまりにもギリギリ過ぎませんか?」

「荻窪駅から学校まで律儀に歩く必要はありません。堂々と自転車でも使えばいいだけでございます」

 出雲は事も無げに答えた。黙り込む詠江に対し、出雲はさらに推理をぶつける。

「別に誰かが見ているというわけでもないのです。あらかじめ自転車を駅前に駐輪しておいて、改札を出た後はそれを使いさえすればここまで十分で戻れます。それが面倒なら手近な放置自転車を勝手に使うという手もありましょう。これなら特に問題ないはずでございますが」

「それは……」

「殺害現場は工場の近隣……おそらくは工場の敷地内そのものか、隣接するこの校内のいずれかでございましょう。これについては後ほど考察しますが、とにかくあなたはそこにいた被害者を殺害し、その後遺体を工場で首吊りにして自殺に見せかけた、といったところでございましょうか。もっとも、警察が即座に捜査本部を立てた事を考えれば、かなり稚拙な自殺偽造工作だったようでございますが」

 出雲の言葉に、詠江は一瞬顔を引きつらせる。が、出雲は気にする事なく言葉を続けた。

「なぜ被害者が現場にいたのかについては考えがございますが、これもとりあえずは置いておきます。いずれにせよ、殺害さえしてしまえば、後の工作はある程度時間はかかっても問題ございません。そしてすべてが終わった後、再び自転車で荻窪駅まで戻って今度こそ電車で帰宅すれば、一連の犯行は完了でございます」

 出雲の糾弾はさらにエスカレートする。

「そして事件翌日、あなたは部活のために学校に登校し、そこで事件発覚のために部室で待機を命じられています。そして、そのときの取り調べの際にあなたは警察に『自身の定期券』を提出し、例のアリバイとなった記録が確認されるに至ったのでございます。つまり、その時点で定期券はすでに元の持ち主の元に帰っていた。おそらく、部室待機を命じられてから取調べが始まるまでに、あなたは隙を見て同じ部室にいたコノミさんの定期券をと自分の定期券を再度入れ替えたのでございましょう。これにてあなたの『アリバイ』は無事に証明され、一連のアリバイ工作は完成するのでございます」

 そして出雲は微笑んだ。

「いかがでございましょうか、これであなたのアリバイは崩れたと考えますが」

 出雲の指摘に、詠江は唇を噛み締める。

「新聞部に在籍している人間のうち、アリバイを崩す事ができるのはあなただけ。ならば結論は明白でございます。高原恵さんを殺害したのは、あなたなのです」

 だが、詠江はなおも諦める様子はない。

「証拠はありませんよね。あなたが言っているのはあくまで想像。私がそんな定期の入れ替えをした証拠はないはずですし、仮に入れ替えをしたからといって、それが即殺人犯につながるはずもありません。第一、なぜ新聞部の人間が犯人なんですか。警察の言うように、犯人は悪質な通り魔かも知れないじゃないですか」

「あくまで、定期の入れ替えを認めない、と?」

「もちろんです」

 だが、出雲はその言葉に小さく笑った。

「その言葉、墓穴を掘りましたね」

 そう言うと、出雲はポケットから何かを取り出した。それは、一枚のカードである。

「コノミさんの定期券でございます」

 その言葉に、詠江の顔色が変わった。

「何で、それがここに……」

「彼女が帰宅する際に、少々お借りさせて頂きました。それはともかく、江崎コノミさんのアリバイは新聞部員の中でも一番確定的なものでございます。彼女は荻窪駅の改札から入った後、友人と一緒に東中野駅まで行き、そこで改札から出て塾に行っています。これは第三者の証言による明確なアリバイです。ゆえに、警察もこちらの定期券の磁気記録はわざわざ調べていません」

 出雲は手に持った定期券をクルクル回しながら言葉を続ける。

「本来ならこの定期券にはコノミさんが当日動いた通りの記録……つまり、あなたと同じ午後六時半頃に荻窪駅の改札を通り、午後六時五十分頃に東中野駅の改札を抜けた記録が残らなければおかしいはずでございます。ですが、先程の推理が正しければ、この定期券はあなたが使っていた事になります。その場合、この定期券にはあなたの行動……荻窪駅の改札に入った直後に、再び同じ荻窪駅の改札から出たという、本来のコノミさんの行動とはかけ離れた奇妙な記録が残っているはずでございましょう」

 出雲は定期券を回すのをやめ、詠江を見つめる。

「現実としてコノミさんは実際に荻窪駅から東中野駅を電車で移動し、定期券を使っていた事実を第三者に目撃されています。ゆえに、彼女の行動を覆す事はできません。にもかかわらず、定期券の記録が矛盾しているとなれば……これはもう、事件当夜に定期券が入れ替えられていたという何よりの証拠になると思われます。少なくとも、定期券の入れ替えに関してはこのコノミさんの定期券の記録を確認すれば充分に立証できるのです」

 青ざめる詠江に対し、出雲はなおも言葉で攻めかかる。

「さて、定期券の入れ替えは立証できました。では、誰が入れ替えをやったのか。また、入れ替えられた定期券は誰のものなのか。そもそもこんなアリバイトリックが有効に作用する人間となると、その数は限られましょう。まず肝心の定期券を持っていない自転車通学組は省かれ、また二つの定期券の荻窪駅入場時刻は同一のはずでございますから、この条件に合致する定期券は同時に入場したあなたのもの以外にありえません。つまり、入れ替えられた定期券の相手はあなたの定期券なのです。また、コノミさんと同じ時間、同じ電車で帰宅をするあなた以外にこんなトリックを仕掛ける意味はございません。ゆえに、入れ替えトリックを実行したのもあなた以外にありえないのでございます」

 出雲は詠江を見据える。詠江は思わず顔をそらした。

「そして、あの日、わざわざこんなトリックを実行する理由など一つしかございません。すなわち、高原恵さん殺害のアリバイ作りでございます。すでに事件当夜にあなたとコノミさんの定期券の入れ替えが実行され、その犯人があなたである事は、あなたが否定しようがしまいが理論的に実証されました。そこであなたにお聞きいたします。高原恵さん殺害が目的でないとするならば、あなたはなぜこんな定期券の入れ替えなど実行したのでございましょうか?」

 詠江はしばらく奥歯を噛み締めて何かに耐えているようだったが、やがてこう呟いた。

「……わかりました。確かに私は定期券の入れ替えをやりました。それは認めましょう」

 そう言ってから、詠江は決然とした表情で言葉をつなげる。

「ただし、あくまでも悪戯目的です。それ以上の他意はありません。信じてください」

 あくまで殺人は否定するようだ。出雲もゆっくりと身構える。

「定期券の記録を調べれば、あなたの動きも出てきますが」

「確かにあの日、私は江崎さんと別れてすぐに荻窪駅の改札を出ました。でも、それは駅前の本屋に寄るためです。もちろん証明はできません。でも、アリバイがないだけですぐに殺人犯だと断定もできないはずです」

「これだけ怪しい動きをしておいて、まだ自分が犯人でないと言い張りますか」

「だからこそ、次の日に慌てて江崎さんからこっそり定期を取り返したのです。変な事で疑われたくありませんでしたから。それでアリバイが証明できたのですから、世の中何がどうなるかわかりませんね」

 詠江は白々しくもそう言う。

「そもそも、私には高原さんを殺す動機はありません。私が犯人だというのなら、犯行の決定的な証拠と、動機を示してください」

 静かに、しかしどこか勝ち誇ったように言う詠江に対し、出雲はしばらく黙っていたが、やがてこう宣言した。

「いいでしょう。あなたが望むのでしたら、私も最後まで付き合うといたしましょう」

 詠江の虚構のアリバイは崩された。だが、二人の推理勝負はまだ始まったばかりである。


「さて、あなたの犯行の証明を行う前に一つはっきりさせておきたい事がございます。すなわち、高原恵さん殺害の本当の現場はどこなのか」

 第二ラウンドの口火を切ったのは出雲だった。

「遺体の状況などから、現場が発見場所である工場もしくはその周辺である事はほぼ間違いありません。これについては私も警察と同じ考えでございます。では、具体的にどこなのか。実は、これこそが私が、事件が通り魔の仕業ではないと考える根拠でございます」

 出雲の言葉に対し、詠江は背後に隠したままのバタフライナイフを握り締める。そんな詠江の様子に気づいているのかどうか、出雲は言葉を紡ぎ出していく。

「警察の記録によれば、被害者の死因は絞殺。その凶器は未だ発見されていません。また、被害者の遺体の様子からかなり抵抗したと考えられていて、先程も申し上げたように殺害までには十分程度の時間を要したと考えられています。ここから殺害現場の条件が浮かび上がって参ります。すなわち、被害者が呼び出しや自らの意思で来てもおかしくなく、なおかつ十分以上争っていても第三者に気づかれないような場所でございます」

 出雲はそう言って条件を示すと、推論を続けていく。

「遺体発見現場となった工場は、そう言った意味では確かに最適の場所でございましょう。不審者が恵さんを強引に工場の敷地内に連れ込み、そこで殺害を行った。このような警察が考える筋書きも一見すると成立するように思われます。ですが、実はこの推論には大きな穴が存在するのでございます」

「そんなものがあるわけ……」

 詠江は反論しようとするが、出雲はそれを遮ってこう言った。

「ここで少し別の話をいたします。そもそも、恵さんが現場近くまで戻ってきた理由は何だったのでしょうか。根本的に、そこが問題なのでございます。その日、恵さんは夕食を作るためにまっすぐに家に帰っていたはず。そんな彼女が、工場近辺で殺害されている事自体が不思議なのでございます」

 出雲は不意に三本の指を示した。

「可能性は三つでございます。一つは彼女が何らかの理由で自主的に戻ったというもの。二つ目は帰宅途中に何者かに誘拐されて強引に連れ込まれたというもの。三つ目は何者かに呼び出されて戻ってきたというもの。現段階での警察は第一の可能性を採用し、忘れ物を取りに学校まで帰ってきたところを不審者に無理やり工場へ連れ込まれて殺害されたと見ています。無理もございません。発見された彼女の携帯電話及びその通話機記録からは、呼び出すような内容のメールや通話は見つかっていませんし、仮に通り魔の犯行だとするなら殺害現場はあの人気のない工場以外にありえませんから。まさか第三者がまだ生徒のいる校内に被害者を連れ込んで殺害をするなどできません」

 ですが、と出雲は言葉をつないだ。

「本当に他の可能性はないのでございましょうか。確かに、第二の可能性については、犯人が誘拐後に被害者をわざわざあの工場まで連れて来る意味合いなどありませんし、この可能性はないと判断しても差し支えはないと私も思います。問題は第三の可能性です。これについて少し考えていきたいと思います」

 出雲はさらに言葉を畳み掛ける。

「恵さんが第三者に呼び出されたのだとすれば、この場合の犯人は通り魔などではなく知り合いである可能性が非常に高くなります。父親と夕食の約束をしていた彼女が、何の関係もない第三者の呼び出しに応じるとは思えないからです。また、恵さんが戻った原因が呼び出しだった場合、いくら知り合いの呼び出しでもあのような廃工場へ直接呼び出す事はできないでしょう。あまりにも怪しすぎますから。したがって、さっきとは逆にこの場合の現場は遺体発見場所の工場ではなく、彼女にとって身近な場所になります」

 そう言いながら、出雲は論理をつなげる。

「つまり、この恵さんがなぜ現場に戻ってきたのかという議論は、犯人が通り魔なのか顔見知りなのか、そしてさらに本当の殺人現場はどこなのかという問いに同時に答える事になるのでございます。要するに、この三つの疑問は論理学的につながっている。自主的に戻ったのならば犯人は通り魔で現場は工場。呼び出されたのなら犯人は顔見知りで、現場は工場以外の彼女が呼び出されても不審に思わない場所、といった具合です。そして、警察は前者の前提で一ヶ月に渡って捜査をしたにもかかわらず、未だ犯人に到達できていません」

「……つまり、あなたは警察と違って、恵さんが誰かに呼び出されたと考えているわけですか?」

 詠江の問いに、出雲は頷いた。

「でも、その根拠は? さっきおっしゃったように、携帯やメールにそれらしいものはなかったはずです。そう言い切る事は不可能では?」

 だが、出雲はそんな反論に対し、出雲は悠然と推論を働かせる。

「さっきも述べたように、被害者が戻ってきた理由、犯人が顔見知りかどうか、現場がどこか、という三点は論理的につながっています。これを逆に言えば、現場が工場でないことがわかるか、あるいは犯人が顔見知りかどうかわかりさえすれば、必然的に被害者が呼び出されたのかどうかもはっきりするのでございます。そこで本題です。あの工場は本当に殺人現場だったのか。また、犯人は顔見知りではなかったのか。検討すべきはこの二点でございます。そして、あの工場が実際の殺人現場でない事は、実は簡単に立証ができます」

「どうやって……」

「ポイントは彼女を吊るし上げていたロープでございます」

 出雲は難なく言った。

「警察の検視の結果、あのロープは凶器ではなく自殺のために偽造されたもので、実際の凶器はあれよりも細い紐状のものである事が判明しています。警察はこの二種類の索状痕から事件が自殺ではないと判断し、殺人事件として捜査を始めました。しかし、この時点でおかしいのでございます」

「どこがですか?」

「なぜ、犯人は凶器をそのまま使わず、わざわざ別のロープで自殺偽造を行ったのでございましょうか」

 まさに根本的な問いだった。

「はっきり言って、あの場でわざわざ二種類の紐を使い分ける必要性などまったくございません。普通に考えれば、凶器の紐をそのまま自殺偽造に使っても何の問題もないはずでございます。むしろそうした方が、索状痕が一致する分、自殺偽造としてはメリットがあるはず。にもかかわらず、犯人はわざわざ凶器とは別のロープを使った。犯人の行動としては不可解でございます」

 出雲は少しずつ推論を縮めていく。

「さらに言えば、あのロープは元々現場にあったものです。つまり、工場が現場であってなおかつ犯人が自殺偽造を最初から狙っていたとするなら、いかに手元に凶器として都合のいい紐があったところで、最初からあのロープを凶器に使うのが自然というものでございます。ところが、犯人はなぜか別の凶器を使った後、偽装のためだけにロープを使っています。こんな二度手間をする必要性などまったくないにもかかわらず、です」

 出雲は詠江を見ながら結論を告げる。

「この矛盾を解決する理論は一つだけでございます。すなわち、実際の犯行現場は工場ではない別の場所だった。そして、実際の凶器はその犯行現場にあったもので、なおかつ犯行現場がどこであるのかを特定できてしまうものだった。犯人としては実際の犯行現場がばれることは避けたい。ゆえに、凶器をそのまま証拠偽造に使用するわけにはいかず、偽装自殺の現場である工場にたまたまあったロープを使用するしかなかった。こう考えると、メリットがないのに二種類の紐を使い、なおかつ最初からロープを凶器として使用しなかった理由が明確に説明できるのでございます。以上から、あの工場が実際の犯行現場ではなかった事は明確な事実であると判定できます」

 詠江は何も言えない様子だった。出雲の理論が正しい事は認めざるを得なかったからだ。

「そして、あの工場が現場でない以上は、先ほどの理論から『犯人が通り魔である』という推察が根本から覆るのでございます。なぜなら犯人が通り魔だった場合、あの近辺で犯行現場になりうるのはあの工場しかありえないからでございます。すなわち、犯人は顔見知りでございます。では、実際の犯行現場はどこなのか。少なくとも自殺偽装現場である工場に近く、なおかつ犯行現場が露見するような『紐』が存在する場所という事になります」

 そう言うと、出雲はチラリと背後に視線をやった。

「そう、例えば、そこにある冊子をまとめている紐などが最適でございますね」

 その言葉に、詠江の肩が明らかに大きく震えた。それを見逃す出雲ではない。

「この紐、新聞部が購買委員会に頼んで特別に注文している代物だそうでございますね。ならば、こんなものを自殺偽造に使えば、あっという間に犯行現場が露見してしまいます。その紐が凶器であるなら、先程の犯人の行動にも、納得がいくのでございます」

「それはつまり、この新聞部室が本当の現場だというのですか?」

 出雲は頷いた。

「そして、新聞部室が現場であるならば、その条件に当てはまる人間は限られるはずでございます。なおかつ、先程の理論から、犯人は顔見知りでございます」

「……新聞部の部員、しかいないですね」

 詠江もそう認める他なかった。

「その通り、でございます。以上より、現場が新聞部室であり、なかつ犯人が顔見知りの新聞部員である可能性が立証できました。さて、残るは被害者がなぜここへやってきたのか、でございますが、実はこれも新聞部室が現場だと判明した時点で比較的容易に立証できます。問題は、部室の鍵でございます」

 出雲の言葉に、詠江は怪訝そうな表情をする。

「すでに部活は終わっていたはずでございますので、当然ながらこの部室の鍵は閉まっています。部室の鍵を管理しているのは校舎の事務室。つまり、鍵のかかった部室にくるならば事務室で鍵を借りなければなりません。ところが、帰宅直前に恵さんが事務室に鍵を返した形跡はありますが、その後恵さんが再び事務室で鍵を借りた形跡はありません」

「それが、何か?」

「何かではございません。もし、恵さんが忘れ物目的で戻ってきたのだとすれば、鍵を開けるために事務室に顔を出す必要があるはずでございます」

 詠江はハッとした表情をする。出雲は一気に畳み掛けた。

「にもかかわらず、恵さんは鍵を借りずに新聞部室に向かい、そこで殺された。なぜか。答えは、恵さんが最初から知っていたからです。自分より先にこの部室に誰かがいる事を。だからこそ、恵さんは鍵を借りなかった。その人物が、すでに鍵を開けている事を知っていたからでございます」

 出雲ははっきり告げる。

「ここから最後の疑問にも答えが出ます。すなわち、被害者は忘れ物のように自主的に戻ったわけではない。明らかに誰かに呼び出されて戻ってきた、と」

 詠江が唇を噛み締めているのが、出雲にもよくわかった。

「さて、事務室の記録には恵さんが帰宅直前に鍵を返して以降、誰かが鍵を借りた形跡はございません。しかし、私の推論では現場はこの新聞部室でございます。そもそも、今から殺人をするつもりの犯人が自分の名前を残すような事はしないはずです。ならばどうやって鍵を開けるか。答えは、今のあなたでございます」

 詠江は答えない。いや、答えられないのだ。代わりに、出雲が切り込んでくる。

「あなたは、今どうやってこの部室に入ったのでございますか?」

 詠江の顔が赤くなった。出雲は最初から答えを気にしていないのか、自分で質問に答える。

「合鍵、でございますね。おそらく、自分で型を取って勝手に作ったものでございましょう。最初から殺人目的で作ったかどうかはわかりませんが、少なくとも今こうしてこの場にいる以上、あなたがその類のものを持っているのは明らかな事実でございます」

 そして、出雲は詠江をさらに追い詰めにかかる。

「さて、ここで今更な疑問に移りましょう。すなわち、あなたはなぜ今ここにいるのか?」

「そ、それは……」

「私は警察を使って犯人を罠にかけました。その罠にあなたは引っかかったというわけでございますが、あなたの目的は何だったのでございましょうか」

 知っていながら出雲は聞いてくる。詠江の精神を着実に崩していく。

「それに対し、私は最初にこう申し上げました。『殺人の証拠』を隠滅するためである、と。今までの推論では、この部室は恵さんが殺害された現場そのものでございます。つまり、警察の家宅捜索が行われては困るような証拠……あなたが犯人である証拠がこの部室のどこかにあるという事になります」

 出雲は息つく暇もなく推理を叩き込む。

「被害者はかなり抵抗しています。それは首に残された吉川線が証明しています。その抵抗の痕跡が残っている凶器……つまり備品の紐がどこかにあるはずでございますね。おそらく、顕微鏡で分析すれば被害者が引っかいた痕が見つかるでしょうし、引っかいた際に付着した被害者の皮膚片も検出されるかもしれません」

「そんなもの、犯人だったらとっくに処分しているはずだと思いますが」

 詠江の反論に、出雲は首を振る。

「処分したくともそう簡単に処分できなかったのでございましょう。この紐はこの部活の特注品で、しかも昨日聞いた話では、事件前に在庫が切れています。しかも人の首を絞めるとなるとそれなりの長さは必要でございましょう。なので、凶器に使ったからといっておいそれと捨てるわけにはいかないのです。そんな事をすればそれなりの長さの紐がなくなっている事が部員にばれてしまい、ここから本当の凶器、さらには真の現場や犯人が顔見知りである事まではっきりわかってしまいますから。さらに、新たな在庫が届いたのは今日の事。ゆえに、今の今まで紐を代える事ができなかったのでございます」

 そこで、出雲は詠江を見やった。

「あなたは事件の日、備品の在庫が納入されていると思っていたはずでございます。帰宅直前に馬淵さんがその事を言いにきて、交渉した恵さんが校門を出る直前に『今日中に備品が搬入される』と言っていましたから。だから、あなたは紐を凶器として利用しても問題ないと判断していた。凶器として使った紐の代わりに、その在庫から新しい紐を取り出して巻いておけばいいのでございますから」

 だが、出雲は首を振る。

「しかし、実際に犯行を終えてみれば、あるはずの備品の在庫……すなわち、予備の紐は部室のどこにもなかった。馬淵さんの説得にもかかわらず、あくまで支払い後の引渡しにこだわる購買委員会の委員長が首を縦に振らなかったからでございます。あなたは、凶器を部屋に残すしかなかった。幸い、事件後の捜査では通り魔説が大半を占めていた事もあってか恵さんの机周辺しか調べられませんでした。それは幸運ではあったものの、あなたとしては部室が再び怪しまれる前に一刻も早く凶器を交換する必要がございました。ですが、皮肉にも事件の影響と三年生引退に伴う混乱で、備品納入は先送りにされ続けてしまいます」

 詠江は小さく拳を握って出雲を睨む。が、出雲は気にする様子もなく話を続けた。

「そして、ようやく備品が納入されて紐を交換できると思った矢先、今度は警察の家宅捜索の可能性が出て参りました。単に被害者の机を捜索しただけの事件直後の捜査と違い、今回予想される家宅捜索は部室全体が対象でございます。なので、このままでは凶器は発見されてしまいます。家宅捜索がいつ行われるかわからない以上、何としても明日の朝までには紐を交換しなければなりません。しかし、肝心の備品が納入されたのは警察が帰った直後、すなわち帰宅直前で、さすがのあなたもこれには手が出せなかった。ゆえに、あなたはわざわざ夜の学校に忍び込んでまで、凶器の紐を交換する必要性があったというわけでございましょう。それが、あなたが今ここにいる理由そのものでございます」

 詠江は答えない。一方、出雲はゆっくりと詠江の足元を指差した。

「盗聴器から聞こえていた音の強弱から推察するに……おそらくはその辺りの冊子を縛っている紐が凶器でございましょう。それを調べれば、犯人が新聞部員である事は明白な事実となります。そして、新聞部員が犯人という事になれば、アリバイの観点から犯人の資格足りうるのは、先程の話から橋中詠江さん、あなた一人なのでございますよ」

 そして、出雲は結論付ける。

「凶器の隠蔽とアリバイ工作……これであなたが犯人であるという証明は充分にできたた考えますが、いかがでございましょうか。お望みならば、まだ証拠を挙げることは可能でございますが」

「……まだ何かあるのですか?」

 詠江はかろうじてそう答える。出雲は小さく笑うと再度証拠をぶつけにかかった。

「現場から不自然になくなっていたものが一つございます。恵さんの通学鞄……現在に至るまで、これは発見されておりません。ですが、通り魔にせよ顔見知りにせよ、犯人通学鞄を持ち去る理由などないはずでございます。では、なぜ持ち去ったのか。これを考えるに当たって、一つの事実を考える事にいたしましょう。すなわち、犯人はどうやって恵さんをこの部室に呼び出したのか」

 出雲はその場から一切動かず、口調も変えないままなおも推理を続行する。

「携帯電話のメールなどには記録がございませんでした。ならば可能性は一つしかございません。紙媒体の手紙、もしくはメモでございます。だとするなら、犯人にとってこの手紙は必ず回収しなければならないものであるはずでございます。このような呼び出しである以上、呼び出し人がはっきりしない限り恵さんはやってこないはずだからです。ですから、この手紙には必ず呼び出した人間の名前が書かれているはずなのでございます」

 出雲は流れるように論理を導き出していく。詠江は口を挟む事もできない。

「そして、その手紙がある場所として考えられるのは、被害者のポケット、もしくは通学鞄でございます。警察の調べでは被害者のポケットからは携帯電話しか発見されていません。なおかつ、犯人が通学鞄を持ち去った事を考えれば、手紙は通学鞄の中にあったと考えるのが妥当でございましょう」

「……たとえ手紙が鞄の中にあったとして、わざわざ持ち去らなくても、その場で確認すればいい話ではないですか。手紙さえ抜き取れば、後はその場に置いておいても問題はないはずです」

 詠江が久しぶりにまともな反論をぶつける。が、出雲はそれに対してあっさり切り返す。

「事件発生は夕刻七時前と推測されます。すでに日は落ちている上に、電気をつけるわけにはいきませんから、新聞部室や工場跡地は相当薄暗かったはずでございます。そんなところで鞄のどこにあるのかもわからない手紙を探すのはリスクが高すぎます。辺りが薄暗い中で中身を出さずに鞄の中身を探るのはあまりにも時間がかかりすぎますし、だからといって一度鞄の中身をすべてぶちまけるとなると、今度は出した物の回収作業が大変になってしまいます。その上、暗闇でございますからうっかり一度出した鞄の中身を回収し忘れるなどという事にもなりかねません。新聞部室でそれをやってしまえばあっという間に本当の現場が特定されてしまいます」

「なら、工場跡地で探せばよかったはずです。工場で中身をぶちまけて手紙を探した後は、そのまま中身を散らかしたまま放置しておけばいいと思いますけど」

 詠江は必死に反論する。だが、これに対して出雲は意外な反応を見せた。

「……確かに、それはあなたの言う通りでございます」

「え?」

 否定されなかった事に当の詠江自身が驚く。

「ですが、実際に犯人は通学鞄を持ち去っています。あなたの言うように、手紙を探すのであるならば工場で中身をぶちまけて捜せばいい話でございます。にもかかわらず、犯人は通学鞄を持ち去った。なぜでございましょうか?」

 これに対し、出雲は自分ではっきりと答えた。

「答えは至極簡単でございます。手紙が通学鞄から見つからなかったからです」

 この答えに、詠江は首をひねった。

「言っている事が矛盾していませんか? あなたは先程、『手紙は鞄の中にあった』と言ったはずですが」

「……失礼いたしました。どうも言葉が足りなかったようでございますね。私が言いたかったのは、『犯人は手紙が鞄の中にあると信じて疑わなかった。ゆえに。鞄を持ち去った』という事でございます」

 出雲はしれっと答える。

「手紙がある場所として考えられるのは、彼女のポケットか鞄の中。犯人が鞄を持ち去っている以上、犯人がポケットに手紙がないと判断していたのは確実でございます。残るは鞄でございますが、犯人が持ち去っている以上、犯人が鞄の中に手紙があると考えたのは間違いございませんでしょう。しかし、先程あなたの言ったように、その確認は工場で行えば問題ないはず。にもかかわらず、犯人は鞄を持ち去った。ここから導き出される論理は一つでございます。すなわち、犯人は工場で中身を確認したが手紙を見つける事ができず、しかしそれでも手紙は鞄の中にあるに違いないと考えて鞄を持ち去るざるを得なかったというものでございます」

 まるで犯人の心理状態をすべて把握しているといわんばかりの問答に、詠江は反論する事ができなかった。

「何しろ現場は薄暗い工場跡地。いくら中身をぶちまけたとしても、犯人がその場で手紙を見つけられなかった可能性は高いと思われます。しかし、犯人としてはもう一方のポケットにない以上は鞄に手紙がなければならない。ゆえに、犯人はもっと確実な場所で手紙を見つけるために鞄そのものを中身と一緒に持ち去らなければならなかったのでございます。残していくわけにはいきません。手紙があるかないかわからない鞄を置いておくわけにはいきませんから」

 と、そこで出雲は小さく笑みを浮かべた。

「さて、ここで疑問でございます。鞄を持ち去っている以上、犯人がこの場でその手紙を見つけられなかったのは明白でございます。では、果たして犯人は最終的に手紙を見つける事ができたのでございましょうか?」

「……候補はポケットか鞄で、ポケットになかったというのがあなたの推理ですよね。残った鞄を持ち帰っている以上、持ち帰った先で見つけたと考えるのが普通では?」

 だが、出雲はこんな事を言った。

「もし仮に、手紙が本当に鞄の中になかったとすれば、どうでございましょうか?」

「……おっしゃっている意味がよくわかりませんが」

「呼び出し方法が手紙だとするなら、犯人はその手紙をどうやって恵さんに渡したのでございましょうか。さすがに手渡しという事はないでしょう。しかしだからといって、教室や部室の机の上に置きっぱなしにするというのも得策ではございません。他人の目に触れてしまう可能性がございますから。ゆえに、手紙を受け渡したのは恵さんだけが目を通す場所と考えるのが筋でございます。また、部活前に手紙を渡してしまうと、当の部活中に恵さんから何かを聞かれる危険性がございます。この危険性を避けるなら、手紙を受け渡すのは部活からの帰宅直前が望ましいという事になります。さて、この条件に合致する場所があるでしょうか」

 出雲はあっさりと答えを出した。

「一つございます。この部室棟の入口にある下駄箱です。あの日、あなたは馬淵さんと交渉していた恵さんよりも先に下駄箱に行っています。そこでこっそり恵さんの下駄箱に問題の手紙を入れておけば彼女以外に手紙を読む人間はいません。ですが、あなたはここで一つ大きな見落としをされていたようでございます」

 その言葉に、詠江は不安そうな表情をする。が、出雲は遠慮なく言葉を続けた。

「次期部長に内定していた恵さんの事でございますから、その新聞部員としての取材に対する能力は高かったと考えるべきでございましょう。そして、手紙の内容からこれが極秘にすべきものである事も即座に察知できたはずでございます。そんな人間が、呼び出しの手紙を後生大事に持ち続けるでしょうか? 答えは、いいえでございます。取材対象者のプライバシーに配慮して、手紙をすぐに処分するはずでございましょう。ですが、そのままゴミ箱に捨てるなどという軽率な行為を恵さんが採るとも思えません。では、恵さんはどうやって手紙を処分したのか? その答えが、下駄箱のすぐ近くにあったはずでございます」

 その言葉に、ようやく詠江の何か気づいたようで、その表情が一気に青ざめた。

「ま、まさか……」

「下駄箱の脇にあったはずでございます。印刷室……コピー機などの印刷関連器具が設置されている場所でございますが、確か昨日の会話ではここにシュレッダーがあるという話をされていました。当然、これは恵さんも知っていたはずでございます。となれば、彼女がとる行動は一つ。手紙をこの部屋のシュレッダーにかけるという方法です」

 その指摘に、詠江は眩暈のようなものを感じていた。

「そして、昨日の話では確かこうも言っていました。あの部屋のシュレッダーは安物であるため、企業などに設置されているシュレッダーに比べれば切れ目が粗く、近々買い替えが検討されているという事。そして、印刷室は事件直後から水道管工事のために、現在まで立ち入りが制限されているという事。すなわち、あの部屋のシュレッダーには、事件直後に裁断された問題の手紙がまだ残っていてもおかしくはないのです」

 詠江は反射的に息を呑んだ。だが、出雲はそんな読江に更なる絶望を突きつける。

「今更どうにかしようと考えても遅うございます。私がすでに印刷室に潜入して、問題のシュレッダーを調べさせて頂きましたから。切れ目が粗いという事は、やろうと思えば簡単に復元ができるという事。どうやら、最後の最後、詰めが甘かったようでございますね」

 そう言うと、出雲はポケットからセロテープで復元された一枚の紙を取り出した。それを見て、今度こそ詠江は完膚なきまでに打ちのめされていた。

『高原恵さんへ 記事に関して極秘に話したい事があります。この後、七時前くらいに部室まで来てください。お待ちしています。 橋中詠江』

 その紙には、パソコンで印字された文字でそうはっきりと書かれていたのだ。

「ご覧の通りでございます。あぁ、事件よりも前の日の呼び出し文かもしれないという言い訳はなしでございます。確かあのときの話では、このシュレッダーはあなた方が下駄箱に行った際、すなわち恵さんが下駄箱で手紙を見つけるよりも前に、整備委員が裁断された紙をゴミとして出しています。つまり、あのシュレッダーに残っていた紙とすれば、それは恵さんの捨てたもの以外にありえないのでございます」

 咄嗟に言うとした言い訳を封じられて、詠江はその場で固まってしまう。さらに出雲は追い討ちをかける。

「それともう一つ。犯人が持ち去った恵さんの鞄でございますが、これもまたおそらく捨てられていないと考えます。この手紙がここにある以上、鞄から手紙が見つかるはずがございません。しかし、犯人は印刷室の事を考えに入れていない以上、この鞄のどこかに間違いなく手紙があると考えているはずでございます。そんな鞄を簡単にその辺に捨てるわけにはいきません。ものが鞄である以上は通常ゴミとして出すわけにもいきませんし、その辺に埋めるなり捨てるなりするにしても、犯人の心理的に見つかったときの事を考えるはず。確実に手紙の所在がはっきりするまでは鞄を捨てられずにいるはずでございます。つまり、犯人は鞄をまだ持っている。あなたの家を調べてみれば、面白いものが見つかるかもしれませんね」

 その皮肉めいた言葉に、出雲は返す言葉もない。

「さて、呼び出しの手紙に凶器の紐。おまけにアリバイの工作。これ以上の証明は必要ないと考えますが……いかがでございましょうか?」

「……」

 二人は無言のまましばらく対峙した。だが、詠江の表情はどこか青白い。完敗。少なくともそれを悟ってはいるのだろう。だが、ここで負けるわけにはいかない事もよくわかっている。それだけに、詠江はこう言葉を返すしかなかった。

「……動機は、何なんですか?」

 挑戦的なこの発言に、出雲は黙って先を促す。

「何回も言うように、私には高原さんを殺害する動機がありません。それを明らかにしない限り、私は負けたつもりはありません」

「すでにあなたが犯人である事は立証されたと考えますが?」

「『なぜやったのか』を立証できない限り、完全な立証とはいえないのではありませんか?」

 最後の最後まで、詠江は諦めが悪かった。犯行のすべてが明らかにされた以上、もはや、彼女の防衛線はこの『動機』という一点に託されている。だが、同時に詠江には、この動機だけは絶対にばれないという自信があった。詠江はすがるような視線で、目の前に立ちふさがる出雲を見つめる。


 だが、『復讐代行人』は、その最後の希望さえも容赦なく打ち砕く。


「……わかりました。では、あなたの動機を解明いたしましょう」

 その言葉を聞いた瞬間、詠江の血の気がサッと引いた。それに構わず、出雲は今までと同じ調子でこの推理対決の最終章に突入していく。

「今回の事件に関して私も色々と調べましたが、確かに、高原恵さんとあなたとの間に直接的な動機になりそうな事象は存在しませんでした。それはあなたの言う通りでございます」

 そう言ってから、出雲は鋭い視線を詠江に向けた。

「ならば、今になって急に殺害の動機が発生したという事に他ならないでしょう。そこで、私は高原恵さんが死の直前まで調べていた事……文化祭用の記事の内容に着目いたしました」

 そう言うや否や、出雲は軽くキャリーバッグの下の部分を蹴る。すると、キャリーバッグの隙間から一通の封筒がトースターのように飛び出してきた。出雲は手馴れた手つきでそれを片手でキャッチする。

「これは高原さんが生前調べていた記事の資料でございます。あなたもよくご存知では?」

「ど、どうしてそれを、あなたが……」

 詠江はなぜそれが出雲の手の中にあるのかわからず混乱状態だ。だが、もはや出雲は説明する気もないらしい。

「さて、彼女はこの中である都市伝説に伝わる殺し屋について調べていました。その過程で、その殺し屋が関与した疑いのある過去の事件をピックアップして、それぞれに関する調査をしています」

 ですが、と出雲は言葉をつなげた。

「この資料、少し不自然なのでございます。目次でピックアップされていた事件は全部で五つ。なおかつ実際に調べられていたのは最初の二事件だけでございます。ところが、目次をよく見ると、三つ目の事件の欄に一度消した痕跡が確認できるのでございます。当然、三つ目の事件の詳細な調査記録もございません。そこで、この消された事件が何だったのかを調べてみる事にいたしました」

 その発言に、詠江はビクリと肩を震わせる。

「その筋の専門家に依頼をいたしまして、消された文字を解読していただきました。結果、ここに書かれていたのは、三年前に中野区の尾澤中学というところで起こった女子中学生の転落事件だった事が判明しました。当然、この事件の事はあなたもご存知でございましょう。何しろ、被害者は当時のあなたの同級生でございますから」

 まさか解読されるとは思っていなかったのだろう。詠江は何も言えずに呆然としている。その態度に、出雲も確信を持ったように告げる。

「やはり、これを書き換えたのはあなたでございましたか。筆跡が微妙に違うという事でございましたので、本人ではなく第三者が書いたのは予測がついていました。それに、修正箇所の上から書かれた事件はその殺し屋絡みの事件とはまるで関係のないものでございましたから、少なくともこれを書いた人間はその都市伝説の事を詳しく知らないと推察できました」

 出雲は詠江を見据える。

「さて、本人が生きているうちにこれを書き換えるわけにもいきませんので、書き換えが行われたのは被害者の死後と推察できます。つまり、あなたはわざわざ被害者殺害後にこの記事の書き換えを行った事になります。では、なぜあなたはこの事件を隠したがったのか。私は、そこに今回の事件の動機があるのではと疑っているのでございますよ」

 そう言うと、出雲は本格的に動機の追及を開始する。

「事件は新聞部に所属していた吉倉美亜という二年生が階段の上から突き落とされて殺害されたというものでございました。事件後、美亜さんの父親である吉倉英造が担任教師の迫平光雄を犯人と決め付けて殺害し、事件はそれで決着しています。ですが、本当にこの事件は英造が推測したように迫平の犯行だったのでございましょうか。そもそも、英造はなぜ迫平を犯人だと断定するに至ったのでございましょうか」

 そう自問自答すると、出雲は封筒を恵の机に置いて、再び軽くキャリーバッグの下の部分を蹴った。今度は一冊のノートが飛び出し、出雲はそれをキャッチする。

「原因はこれでございました。当時被害者と同じ尾澤中学新聞部に所属していた江崎コノミさんの取材ノートでございます。これは尾澤中学に保管されていたものでございますが、昨日の話ではコノミさんは取材ノートを部室用と自宅用の二冊用意するのが習慣だそうでございますね。おそらく、英造は美亜さんの友人だったコノミさんを訪れた際に、自宅に保管されたこのノートの写しを見てしまったのでございましょう」

 出雲はノートを開く。

「このノートの最後には、コノミさんが美亜さんから教師のテスト問題横流し疑惑を調べてほしいという依頼され、それを調べて美亜さんに報告したところまでが書かれています。そして、この件に関するこのノートの結びは、迫平教諭にその疑いがあるという一文で締められているのでございます。つまり、このノートを読んだだけでは、まるで迫平がテスト問題横流しの犯人で、秘密を知った美亜さんを殺害したようにも読めるのです。英造もそう考えて、迫平への復讐に走ってしまったのでございましょう」

 と、出雲はノートを閉じて封筒の上に置くと、またしてもキャリーバッグの下を蹴った。すると、別のノートが飛び出してくる。

「ところがです。同じく尾澤中学に保管されていたこの美亜さん本人のノートにはコノミさんの報告を受けて行われた彼女自身の調査記録が記されていて、それによれば、迫平教諭への疑いは完全に晴れているのでございます。つまり、迫平教諭はテスト問題の横流し犯ではなく、したがって美亜さんを殺害する動機もございません。英造の推理は成立しないのでございます」

 詠江は何も言えず、空ろな視線を出雲に向けるだけだ。

「すなわち、迫平は吉倉美亜殺害の犯人ではない。では、美亜さんを殺害した真犯人は誰なのか。実は、今回の事件はすべてここが発端となっているのでございます」

 そして、出雲は美亜のノートを広げた。

「当時、美亜さんは里中星代さんが参加していた生徒会選挙の不正を追っていました。このノートも、それに関する調査内容で埋め尽くされています。ですが、注目すべきはその内容ではございません」

 そう言うと、出雲は文字ではなくイラストの部分を指差した。

「問題なのは、このイラストなのでございます」

「……それが何だっていうんですか?」

 詠江がやっと反論を返す。が、その声はどこか弱々しい。

「話をずらしますが、あなたは中学時代美術部に所属し、賞を受賞した事もあるそうでございますね。このノートのあった部屋には美術部の備品も保管されていて、そこにあなたのデッサンも残されていました」

 そう言うと、バッグから別の紙が一枚飛び出してくる。それを、ノートを持つ手と反対の手で広げると、そこには鉛筆で書かれたデッサンが描かれていた。隅にはちゃんと詠江のサインもある。

「この両者を、その筋の専門家に見て頂きました。結果は……おわかりでしょう?」

「わざわざ……見せたんですか……」

 詠江はそう言うのが精一杯だ。代わりに出雲が結論を述べる。

「ノートのイラストとこのデッサン……両者とも同じ人間が描いたもので間違いないそうでございます。まさか、あなたが美亜さんのノートのイラストを描いていたとは思えません。私はその逆……つまり、美亜さんがデッサンを描いていたと考えています。美亜さんはあなたのゴーストライターだった。これが私の結論でございます」

 そして、出雲ははっきりと告げた。

「そして、そんな美亜さんを殺害したのも、詠江さん、実はあなただったのではないかと、私は考えているのでございます」

 その告発にも、詠江は反応できなかった。長時間の心理戦に、もう思考が追いついていなかったのだ。

「おそらく、ゴーストライターに関するトラブルが殺害の原因だと考えられます。具体的な理由に関してはさすがに私もつかめていませんが、ゴーストライターを続けるか否か、もしくはゴーストライターの件を告発するかどうか、といった辺りではないでしょうか。この手の事件の動機といえば、このくらいしか考えられませんので。いずれにせよ。事件は起きた。あなたは美亜さんを階段から突き落として殺害してしまったのです。そして、いくつかの偶然が重なった末に、事件は英造が迫平を犯人と誤解して殺害するという結末を迎え、警察もその推理を信じたためあなたは罪から逃れる事になった」

 出雲は淡々と事実を述べ連ねていく。

「もっとも、罪を逃れる代わりにあなたは美術の道を諦めざるを得なかった。ゴーストライターの美亜さんは死んでしまいましたし、今更美術の勉強をやり直すわけにもいかない。確か、あなたがスランプに陥ったのは事件直後からでございましたね。結局、あなたは美術の道を諦める他なくなってしまったのでございます」

 出雲はさらに言葉を続けた。

「それから三年後、あなたはあまりにも意外すぎる形で過去と向き合う事になった。すなわち、恵さんが取材の過程で、三年前の事件を調べ始めてしまったのでございます。取材内容に関して、恵さんはそのテーマについて凛さんにしか話していない上に、その凛さんにも具体的な取材方法については話していませんでした。ですから、あなたがこの事実を知ったのは、取材情報の覗き見という手段だったと考えています。それ以外にありえませんから。あの合鍵も、そのために作ったものだったのでございましょう」

 出雲は手に持っていたノートやデッサンを机に置くと、すでに置かれていた封筒を軽く手で叩いた。

「おそらくきっかけは興味本位だったと思いますが、内容を見たあなたは腰が抜けるほど驚いたはずでございます。何しろ、自分が関与している事件を彼女が調べ始めていたからです。相手は次期新聞部長に内定しているほどの取材能力をもつ人物でございます。このまま調べられれば、もしかしたら三年前の真実を明らかにされてしまうかもしれない。だから、あなたはそれを隠すしかなかった」

 出雲はいったん言葉を切ると、はっきり告げる。

「たとえ、それが二回目の『殺人』という手段になろうとも」

 詠江は何も言わなかった。

「あなたは恵さん殺害後に、彼女のデスクに置かれていた資料からこの事件の名を消して別の適当な事件の名前に書き換えました。その際、彼女が調べていたこの事件の調査記録も抜き出したと考えています。調べていた事件の資料が最初の二つだけというのは少々考えにくいので、実際はすべての事件に関する調査記録がすでに存在していたのではないかというのが私の見解でございます。ただ、三番目の事件の記録だけなくなっていると不自然に思われるので、三番目の事件以降の資料すべてを抜き出し、二番目の事件までしか調査が終わっていなかったかのように見せかけたのでございましょうが」

 出雲の視線が詠江を刺し貫く。

「いかがでございましょう。これで、あなたの動機は立証できたと考えますが……まだ続けますか?」

 もはや、詠江に反論の余地など、残されてはいなかった。

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