第五章 暗躍

 同時刻、中野区の東中野駅近くにある尾澤中学校は、すでに帰宅時間を過ぎて人影もまばらになっていた。この日は週に一回ある部活の休止日で、普段以上に生徒がいなくなるのが早い。

 同校国語教師の花村宗助は、そんな人気のない校舎の中を見回っていた。すでに日の光も黄昏に染まり始めており、物音一つ立たない校内はどこか不気味な雰囲気を醸し出している。

「まったく、何で俺が見回りなんか……」

 花村はそうぶつくさ呟きながら一つ一つ教室を確認していく。本来なら別の教諭がこの見回りをやるはずだったのだが、その教諭が体調不良で早退してしまったため花村にそのお鉢が回ってきたのだ。明日の授業のための教材作りもあるのに、と心の中で不平不満をぶちまけながらも、花村は確認作業を進めていく。

 三階まで巡回が終わると、花村の足取りは重くなった。これからこの巡回で一番嫌われている四階の巡回に行かなくてはならない。花村はあからさまに嫌そうな表情をしながら階段の方へと向かった。

 そもそも、この巡回が義務化されたのは三年前。四階の踊り場で一人の女子生徒が転落死したのがきっかけだったらしい。事件は殺人事件と判断され、当時の担任が犯人と判断されたらしいが、その際に遺体の発見……つまり事件の発見が事件翌日とかなり遅れた事が非難され、以後こうして教師による放課後の巡回が制度化されたらしい。それだけに、事件現場になった四階の階段は普段から心霊スポットとして生徒の間でも有名で、教師の間でも巡回の際にあまり長くとどまりたくない場所として評判であった。

 もっとも、事件後にこの学校に赴任してきた花村にとってはあまりぴんとこない話ではある。とはいえ、あまり気味のいい話ではないので、この日も花村はさっさと巡回を終えるべく、足を速めていた。

 だが、三階の階段の前まで到達したところで花村の足が止まった。

「ん?」

 四階へと続く階段の踊り場に誰かがいる。すでに薄暗くなりつつある踊り場に溶け込むように、その人物はジッとその場に立ち尽くしていた。

「誰だ?」

 花村が呼びかけると、踊り場の人物は緩慢な動作で三階の階段下にいる花村を見下ろした。それでようやく、花村にもその人物の仔細がわかった。

 若い女性だった。見た感じは高校生くらいだろうか。見た事もないほど真っ黒なセーラー服を着込み、その左手には同じく黒のキャリーバッグが握られている。明らかにこの学校の生徒ではない。花村の顔に緊張感が漂った。

「き、君は一体何者だ! どうしてここにいる?」

 だが、相手は花村の呼びかけを無視するかのように小さく微笑んだ。逆にそれが場違いで、花村の背筋に悪寒が走る。

「……ここが、吉倉美亜さんが殺害された現場でございますね?」

 不意に、少女はそのような問いを発した。見た目に反して飴玉を転がすような可憐ささえ漂う声であったが、それだけに何とも不気味である。

「何を言って……」

「どなたかは存じ上げませんが、ここの教師の方のようでございますね。ちょうどよかった。あなた様に見せて頂きたい物がございます」

 一方的にそう言われて、花村は不気味さを通り越して怒りさえ覚えた。なぜ自分がこんなわけのわからない子供の指図を受けなければならないのか。花村は沸きあがる不安を無理やり押さえ込むと、階段を駆け上がって踊り場にいる少女へと詰め寄った。

「君、いい加減にしないと……」

 だが、その次の言葉を言う前に、相手は無造作に右手を花村の腹部へと押し当てた。冷やりとした硬いものが花村の腹部に当たる。

 それが一本のナイフだと気がついたのは、不覚にも突きつけられてから数秒後の事だった。あまりに自然な動作すぎて、気づくのに遅れたのだ。刺さってはいない。が、少しでも動けばそのまま刺されてしまうだろう。そう思うと、花村はその場から一歩も動けなくなってしまった。何より、人にナイフを突きつけるという動作を何のためらいもなく笑顔のままごく自然な動作で行えるこの少女に対し、一種の恐怖のようなものまで感じていた。

「もう一度申し上げます。見せて頂きたい物がございます」

 微笑みを崩さないまま発せられたその言葉に、花村は頷くしかなかった。額に冷や汗が流れ落ちる。

「ありがとうございます。では、まずは新聞部の部室へ案内して頂けますでしょうか。先程から探しているのでございますが、見当たらないのです」

 だが、その問いに対し、花村はこう答えた。

「新聞部は……この学校にはない」

「ない、とは?」

 少女は特に動揺する様子もなく軽く小首を傾げて尋ね返した。

「三年前の事件で部員と顧問が死んで、それがきっかけで廃部になったんだ。俺が入った時には影も形もなかった。今は部室も別の部活の部屋になってる」

「……そうでございましたか。では、そのときの新聞部の備品は?」

「俺は知らない。本当だ! 俺は事件の後にこの学校に赴任してきたんだ! だから、あの事件については噂程度しか知らない!」

「それでは、そうした備品がありそうな場所に心当たりはございますか?」

 少女の問いに、花村は必死に考えていたが、

「四階の隅の部屋に使われていない備品室があるから、そこならもしかしたら」

「案内して頂けますか?」

 有無を言わせぬ口調だった。同時に少女は素早く体勢を変え、腹部に突きつけていたナイフを背中へと回す。その慣れた手つきに、花村はこの少女が只者ではないと悟っていた。

「お、お前、何者なんだ?」

 咄嗟に尋ねた問いに対し、少女は少し考え込むような仕草をした後、

「『黒井出雲』と申します」

 と、その名を名乗った。が、花村としては名前を名乗られても、少女の正体がわからないことに変わりはない。

 結局、そのままの体勢で二人は四階の備品室に向かった。部屋の前に立つと、出雲は涼しい表情で花村に告げる。

「鍵はお持ちですね?」

「……あぁ」

 巡回のためにマスターキーは持ち歩いている。もっとも、使用されていないこの部屋の鍵は今まで開けた事がない。花村は震える手で鍵穴に鍵を差し込んだ。カチャリ、という音と共に鍵が開く。ドアが開き、二人はそのまま部屋の中へと入り込んだ。

「鍵をかけてください」

 言われるままに花村は内側から部屋の鍵をかける。これでも逃げる事はできない。改めて部屋を見回すと、電気もついていない薄暗いこの部屋は、長い間使われていない事もあってか全体が埃まみれだった。出雲も部屋の中をサッと確認する。

「……あれでございますね」

 出雲が目をつけたのは部屋の一番隅にある棚だった。その棚にはいくつものダンボールが置かれており、それぞれのダンボールに「文芸部」「茶道部」「美術部」「吹奏楽部」などの文字が確認できる。出雲は棚に近づき、目的のダンボールを探し始めた。

 やがて、棚の一番奥、一際目に付きにくい場所にそれを見つけた。下手な文字で「新聞部」と書かれたそれは、長い間誰も手をつけていないのか、古びてカサカサになったガムテープでしっかり封をされている。出雲は花村に命じてその箱を近くの机の上に出させた。

「ど、どうしてそんなものを……」

「あなたには関係ございませんよ。さて……」

 出雲がそう言った瞬間だった。突然花村の首筋に激痛が走った。

「がっ……」

「少々眠っていただきます」

 首筋に手刀を打ち込まれた。そう気づいたときには、花村の足元はまるで粘土の上を歩いているかのように頼りなくなり、意に反して体が崩れ落ちると、そのまま意識が急速に真っ黒になっていった。

 そして、床に倒れこんだ花村をしばらく眺めていた出雲は、やがてダンボールのテープに手をかけて一気に剥がしとった。中には古びた臭いのする紙の束やノートが納められている。大半はそれまでに発行された新聞の保存版といった風だが、その中に出雲の目的のものがあった。

 『取材ノート』。そう書かれたノートの束がダンボールの奥底に眠っていた。それぞれのノートには名前が書かれており、どうやら廃部当時に所属していた部員の取材ノートがそのまま保存されているらしい。事件と廃部の混乱で持ち主返却できないままになっていたようだ。出雲はそのノートの中から一冊を抜き出す。

 そのノートに書かれている名前は『吉倉美亜』であった。

「やはり、ここにありましたか……」

 出雲はそう呟くと、そのページをめくった。しばらくめくっているうちに目的のページ……すなわち、彼女が死んだ辺りの日付に行き着く。冒頭にその時期に行っていた取材活動のテーマが書かれているのだが、そこにはこう書かれていた。

『生徒会選挙における不正疑惑についての調査』

 中を見ると、当時行われていた生徒会選挙に関する疑惑が、かなり上手なイラストつきで詳細に書かれている。記事にする事を前提に書かれているためか、文体はやや堅苦しい。出雲はサッとその内容に目を通した。


『今年九月に実施予定の生徒会選挙において、不正の疑惑が噂として流れている。今年度は昨年度生徒会書記の長良春也君と、放送部部長の歌川剛一君の二人が生徒会長候補として立候補し、それぞれが独自に生徒会役員候補を推薦している。そんな中、校内である噂が流れるようになった。その噂によると、生徒会候補者(これは会長候補の長良、歌川両名だけではなく、彼らが推薦する生徒会役員候補も含む)の誰かが教師の誰かから定期テストの問題情報を買い取り、それを生徒に提供する見返りに自陣営への投票を依頼しているのだという。これが本当なら由々しき事態である。私はこの一件に関し、独自に調査を行う事とした』


 次のページをめくると、その後行われたらしい調査記録が書かれていた。


『調査記録……最初の数日の調査の結果、少なくとも当の会長候補である長良君と歌川君がこの不正を行っている可能性は否定された。彼らにとってこんな事をしてもメリットはない。動機、機会共に慎重にうかがったが、当の二人は一年の頃から仲のよい親友同士でもあり、少なくとも彼ら自身がそんな事をするとは考えにくかった。ゆえに、可能性があるとすれば、取り巻きが生徒会役員になるために勝手にやっているというものである。役員募集枠は副会長、書記、庶務、会計の四部署なので、それぞれに候補となっている候補者は四人。ゆえに両陣営あわせて八人が調査対象である』


 その記述と同じページに、浮かび上がった八人の似顔絵が書かれていた。どうやら吉倉美亜はかなり絵心があったらしく、それぞれの絵も特徴が捉えられていてわかりやすいものだった。

 そして、その似顔絵の中に、出雲は一人見覚えのある人間を見つけていた。すなわち、歌川陣営の副会長候補……現・中谷高校新聞部部長の里中星代である。出雲は黙って次のページをめくる。


『調査記録2……一通り調べたが、疑いが強い人間という事で何人かをピックアップした。その中でももっとも疑わしいのは、歌川君が生徒会副会長に推薦している里中星代さんと考える(あくまで噂が事実であると仮定した場合であるが)。実は、彼女には一年生の頃からカンニングの疑惑があり、実際に何度か呼び出しを受けているようなのである。もちろん、これも単なる噂である。単に彼女の成績をねたむ人間が流した悪質なデマの可能性もある。それだけに、慎重な調査が求められる。

 一方、肝心のテスト情報を売り渡している教師に関する調査は、信頼できる部員に依頼して本件とは別に平行して進めている。今のところ彼女には詳細を伏せて調査してもらっているが、いずれ記事にする際は情報共有をして一つにまとめられればと考えている』


 そこまで読むと、出雲はいったん小さく息をついてノートから目を離して机に置くと、改めてダンボールの中を探った。やがて別のノートを手にとって表紙の埃を払う。そこにはこう書かれていた。

『取材ノートA 江崎コノミ』

 それは、当時美亜と同じ新聞部に所属していたというコノミの取材ノートだった。そのノートを開けると、そこにはこう書かれていた。


『調査記録……先日、美亜ちゃんからの依頼である調査をする事になった。美亜ちゃんが言うには、教師の誰かが生徒に対して定期テストの問題情報を売っているという噂があるのだという。美亜ちゃん自身は別件の調査にかかりきりで時間がなく、この一件の調査を私に頼んできたのだった。でも、美亜ちゃんの口ぶりでは美亜ちゃんの調べている内容とこのテスト問題の横流しはどこかでつながっているみたいだった。何より、私自身も興味があったので、私はこの一件について真剣に調べてみる事にした』


『調査記録2……テスト問題の横流しの件について、私はこの噂が正しいと考えた上でそれを実行しそうな教師がいるかどうかを考えた。結果、何人かの教師がピックアップされたのでここにリストアップをしておく』


 そのリストの中に、またしても見覚えのある名前があった。

『迫平光雄』

 新聞部の顧問であり、なおかつ美亜の担任だった男。そして、後に美亜の父親である吉倉英造によって美亜殺害の犯人として殺害された人物である。さらにページをめくると、更なる調査結果が書かれていた。


『調査記録3……先日リストアップした調査対象の教師について調査を実施したが、最終的に大半の教師が容疑から外れる事となった。そんな中、一人だけグレーゾーンの教師がいる。何を隠そう、この新聞部の顧問でもある迫平先生その人である。迫平先生は意外にもギャンブル好きで、一時期競馬にのめり込んでいた事も確認されている。それゆえにお金を欲していたのは間違いない様子だった。この点だけが少し引っかかる。ただし、これはあくまでもグレーの疑い程度のものでしかない。私はここで一度調査結果を美亜ちゃんに報告し、今後どうするかに関して相談してみるつもりだ』


 そこでノートの記述は終わっていた。一通り読むと、出雲はコノミのノートを閉じた。

「そういう事でしたか」

 出雲は何か納得したように頷き、少し考えをまとめるように思案したが、今度は再び美亜のノートに目を移した。


『調査記録3……コノミちゃんの調査の結果、あえて疑わしい教師を挙げるとするなら迫平先生がそれに当てはまるのではないかという調査報告を受けた。そこで、私はすぐに迫平先生に対する追加調査をする事にした。しかし、調査の結果は『白』だった。いくら調べても迫平先生にテスト問題の横流しをする動機もなく、またその機会もない。コノミちゃんの調査は正確で、迫平先生が違うなら他の先生がやっているとも思えない。以上から、少なくともテスト問題の横流しに関しては悪質なデマである可能性が非常に高いと結論付ける。さて、そうなるとこのテスト問題横流しをネタにしている不正投票のネタの真偽も怪しくなってくる。さらに突っ込んだ調査が求められる』


『調査記録4……あれからさらに慎重に調査を進めたが、要のテスト問題横流しがデマと判明した以上、不正投票に関してもデマである可能性が高いと言わざるを得ない。もちろん、事が事であるので私も真剣に調査をしたが、いくら調査してもそれらしい根拠は出てこなかった。有力容疑者だった里中星代さんのカンニング疑惑も彼女の成績をねたむ人間が腹いせに流したデマだという事がこの度の調査で判明し、また彼女自身がそうした不正票捜査を行ったという証拠も出てこなかった。思うに、この噂はどちらかの陣営の誰かが他陣営の評判を落とすために流したデマ情報ではないかと思う。以上結論を持って今回の調査は終了するが、これを記事にするかどうかに関しては今一度検討の余地があると考える』


 そこで美亜の側のノートの記述も終わっていた。出雲は静かにノートを閉じる。と、同時に床に倒れている花村が小さく呻き声を上げた。

「この辺が潮時でございますね」

 出雲はそう呟くと、黙って二冊のノートをキャリーバッグの隙間に滑り込ませ、今一度部屋全体を大きく見回した。

「さて、いま一つの手がかりは……」

 出雲は不気味に微笑んだ。


「……きろ……起きろ!」

 呼びかけられるような声を聞いて、花村は意識を取り戻した。

「よかった、目が覚めたか」

 顔を上げると、職員室に残っていた同僚の顔である。慌てて周囲を見渡すと、そこは備品室ではなかった。出雲と名乗った例の少女と出会った三階の階段前に倒れていたようである。すでに時間はあれから一時間以上経過している。

「俺は……」

「戻ってこないから様子を見にきたらここに倒れていたんだ。階段から落ちでもしたのか?」

 意識が戻ってホッとしている同僚に対し、花村は自分がここにいる事に恐ろしさを覚えていた。

「あいつはどこへ行った?」

「あいつって?」

「黒いセーラー服を着たあの女だよ!」

 花村は無我夢中で叫んでいた。が、同僚は当惑した表情を見せる。

「誰かは知らないが、俺が来たときにはお前一人だけだったぞ」

 花村は咄嗟に体を起こした。首筋がズキズキと痛み、思わず顔をしかめる。

「おい、大丈夫か? 一応、病院に行った方が……」

 どうやら、同僚は自分が階段から落ちたものと思っているらしい。確かに、客観的に見れば間違いなくそう見えるだろう。まさかわけのわからない女に脅された挙句、手刀を食らって気絶したとは誰も考えない。

 ここに至って花村は背筋が寒くなった。自分が経験した事を証明する方法がない。つまり、あの不気味な少女に会ったという事実を立証できないのである。まさに、この階段で死んだ少女の幽霊か何かに逢ったようなものだ。

「ああ……なんでもない」

 花村はそう言うしかなかった。これ以上話したところで自分がおかしいと思われるだけだ。ただ、そう言いながらも、花村には気になる事があった。

「悪い、少し気になる事があるから、先に戻っていてくれ」

「あぁ、それは構わないが……」

 返事を待たずに、花村は階段を上ってさっきの部屋……備品室へ向かった。部屋は不気味な静寂に包まれており、確かめてみたが鍵もしっかりかかっている。花村は小さく息を呑みながら鍵を開けて中に入った。

 部屋の中はがらんとして人気はない。すでに日は沈みきり、部屋の中を闇が多い尽くそうとしている。

 自分が見たものは幻だったのか、それとも本当に死んだ少女の幽霊だったのか。この頃には、花村自身もその辺りの事に自信がもてなくなりつつあった。ただ、闇に沈む備品室を呆然と眺める事しかできなかったのである。


 同時刻、東京・神保町。日が沈む中でも賑わいを見せるこの街の片隅、古書店などの雑居ビルが立ち並ぶ区画の一角に小さな店が存在する。『鶴原骨董品店』。絵画や書籍などの骨董品を扱う老舗の店である。

 もっとも、それは表向きの姿であり、その実態は裏社会などで流通する美術品や希少本などの鑑定・取引を行う闇ブローカーである。主人は『鶴爺』という異名を持つ本名不詳の老人で、その目利きは裏社会の間では絶対視されていた。裏で流通する商品が贋作か否かの判別や書物の筆跡の鑑定など、この界隈におけるその筋の取引の際には必ず名前が出てくる人物である。

 その鶴爺は、薄暗くなりつつある店内に明かりをつける事もなく、店の隅に設けた机にかじりついて何かの商品の鑑定をしていた。ゆえに、店内の光源はその机に備え付けられているライトだけである。

 薄暗い店内は個人経営の古書店のような内装をしており、あちこちに鶴爺自身が各地から集めた美術品・貴重書が展示されている。もちろん鶴爺が鑑定しているだけあってすべてが本物だが、実際に店に出しているのは鶴爺自身が作った贋作で、本物は店の奥にある地下室に隠してある。

「ふーむ……」

 鶴爺は大きく息を吐きながら、老眼鏡をずり上げて手元を見やった。そこには何やら一束の原稿用紙が置かれている。戦前の推理作家・大阪圭吉の直筆原稿という事で持ち込まれた代物で、本物かどうかの筆跡鑑定をしていたところだ。だが、鶴爺は小さく首を振って欠伸をした。

「くだらんなぁ。どこぞの三流が造った偽物じゃ。こんなもので騙せると思っていたのかのう」

 そう言うと、鶴爺は手元の原稿をあっさり近くの床へと放り投げる。

「まったく、最近は贋作の質も落ちて張り合いがなくなった。くだらん仕事が増えたもんじゃ」

 そう言って何気なく薄暗い店内を見回したが、不意にその視線が一ヶ所で止まった。

「……誰じゃ?」

 鶴爺は急にそう呼びかける。すると、店の闇の奥から、スッと一人の人間が姿を見せた。

「お久しぶりでございます」

「……なんじゃい。出雲の小娘か」

 鶴爺の吐き捨てるようなコメントに、人影……出雲は苦笑気味に答えた。

「また外れの仕事ですか?」

「あぁ。小娘と違って、こっちの業界は不況なもんでな。お前は性懲りもなくまだ殺しをやっとるのか?」

「ええ。それが仕事でございますから」

「ふん。で、今日は何の用だ? 言っとくが、わしは殺しに加担するような真似はせんぞ」

 出雲は黙って一冊のノートを取り出した。それは、先程手に入れた美亜の取材ノートだった。そのまま例の生徒会選挙不正に関する調査のページを開ける。

「……これがどうした?」

 すると、出雲はすぐに何かが書かれている別の紙を取り出した。そして鶴爺に向かってこう告げる。

「この二つが同じ人間によって作られたものかどうか、見て頂きたいのです」

「……なるほど、そっちの仕事か」

「いかがでしょうか?」

 だが、鶴爺は鼻を鳴らしてすぐにそっぽを向いた。

「くだらん仕事を持ち込むな」

「できない、という事でしょうか?」

「馬鹿をいうな。こんな簡単な仕事、わしをなめているのか?」

「では……」

「ちょっと見ただけですぐわかる。同じ人間が作ったもので間違いないだろうよ」

 出雲にとってはそれで充分だったようだ。

「そうでございますか」

「まったく、さっきの原稿といい、これといい、最近は胸が躍るような仕事がなさすぎる。わしにとっては生きにくい世の中じゃよ」

 鶴爺の愚痴に出雲は曖昧に微笑むと、ノートと紙を手馴れた手つきでキャリーバッグの隙間に滑り込ませ、代わりに懐から札束を取り出した。

「手付けで五十万円です」

「そんなにいらんよ。十万でいい。こんな仕事で五十万ももらうのは、わしのプライドに反する」

「……そうでございますか」

 出雲はあっさり引くと、札束から紙幣を十枚だけ抜きとって机の上に置いた。

「東の坊主もぼやいていたぞ。最近、お前の仕事使いが荒いとな。少しはいたわってやれ」

「心に留めておきましょう」

「……で、さっきからお前は何を聴いているんじゃ?」

 鶴爺は顔を机に向けて帳簿を書きながら聞いた。出雲は黒い小さなイヤホンを右耳につけていた。

「ああ、これでございますか」

「さっきからうるさくてかなわん。音楽を聴いているわけではないようじゃが」

「そんなものではございません。少し盗聴をさせて頂いています」

「盗聴?」

「昨日、ある場所に仕掛けさせて頂きまして」

 出雲はイヤホンを取るとボリュームを上げる。すると、そこから声が聞こえてきた。

『……鳥梨警視、これ以上の聴取はもう無理です』

『だが……』

『あのぉ、私たち、まだ帰れないんですかぁ?』

『もう、いい加減にしてほしいんですけど』

『僕もやっと備品費を払ってもらえたので、今日中にさっさと備品を納入したいんですが』

『……わかった。今日は引く。だが……』

 そこで出雲は再びボリュームを絞り、イヤホンを耳に戻した。鶴爺は表情を変える事なく帳簿を書き続けながら感想を述べる。

「盗聴器とは、随分なものを持ち出したな。しかも、今回は珍しく警察が動いていると見える」

「えぇ、まぁ。少し考えるところがございまして」

「盗聴器が見つかったらどうするつもりだったんだ?」

「今の様子では家宅捜索令状は出ないでしょう。警察は部屋の物品に手を出せないはずですので、見つかる可能性は皆無でございます」

 出雲はすべて計算通りと言わんばかりの口調で言った。鶴爺は顔を上げる事なく肩をすくめた。

「そうか。まぁ、ドジを踏まないように気をつける事だ」

「ご忠告痛み入ります。……では、今日はありがとうございました」

「もう行くのか?」

「これからもう一仕事ございますので。それでは、これで失礼させて頂きます」

 そんな言葉を残すと、出雲は店の奥の闇へと溶け込むように消えていった。が、鶴爺は気にする様子もなく作業を続ける。彼が声を発したのは、それからしばらくしての事だった。

「……あの様子だと、解決も近いのかも知れんな」


 午後九時。荻窪中央署には不穏な空気が漂っていた。

「成果なし、か」

 会議室の一番端の席で、落合がふてくされたように吐き捨てていた。その言葉は聞こえていないはずなのだが、正面に居座る鳥梨の表情もかなりいらいらしている様子である。その近くで、佐野が黙って鳥梨の様子を見つめている。野々宮の姿はない。

「だから無駄だと言ったんだ。何か証拠があるならまだしも、何の当てもなく学校を調べたところで何か出るはずないだろう。俺らだって一応一ヶ月前には捜査しているんだからな。現場を知らないエリート様にはわからないかもしれないが」

「しっ、聞こえますよ」

 隣に座る蓮が慌てて注意する。蓮としては出雲の一件を知っているがゆえに鳥梨のやった事も理解できるのだが、残念だがそれをこの場で落合に話す事はできない。

「お前はどうだったんだ? 佐野さんと一緒だったんだろ?」

「佐野さんを知っているんですか?」

「あぁ、ついさっき思い出した。神奈川県警時代はそれなりに有名だったからな。警察庁に移っているとは知らなかったが。で、どうだったんだ?」

「そうですね、鳥梨警視と違って黙々と仕事をするタイプの人でしたね」

 蓮は佐野に対する正直な感想を述べた。

「そうか……ま、どんなに有能でも、上司があれじゃあもどかしいだろうな」

 そう言ってから、落合はふと思い出したように言った。

「そうだ、お前の妹さんに会ったぞ」

「凛ちゃんにですか?」

「あぁ。おまえの事を随分心配していた。一度くらい、実家に顔を出してやれ」

「でも……」

「刑事は家庭を犠牲にする仕事だ。が、だからこそできる限り家族は大切にしないとな」

「……そうですね」

 と、何ともけだるい雰囲気が漂う捜査本部に、ドアを開けて誰かが入ってきた。見ると、今日一日姿が見えなかった国友警部である。鳥梨は国友の方を見て尋ねた。

「どうだった?」

「駄目でした。現状では家宅捜索礼状は出ませんね」

 捜査本部の雰囲気に対し、国友は淡々と落ち着いた表情で告げた。

「ちゃんと説明したのか?」

「していますが、裁判所も慎重でして」

「裁判所は事の重大さをわかっているのか?」

「ですから、昨日あれほど難しいと言ったのです」

 いらいらした様子の鳥梨に対し、国友はあくまで冷静な態度を崩さない。

「はっ、あの国友警部が裁判所へのお使いとはね。鳥梨さんも人の使い方を間違っているんじゃないのか?」

 落合が小さく吐き捨てる。

「でも、どうして……」

「要するにだ。鳥梨さんは国友さんに手柄を取られたくないんだ。階級こそ上とはいえ、国友さんは捜査一課一のベテラン。捜査能力においてどっちが上かなんて誰の目にも明らかだ。だから理由をつけて捜査から外した。そんなところだろう」

 確かに、佐野いわく鳥梨は功を焦っているようだ。だが、だからといって有能な刑事を捜査から外すのはどうなのかと、蓮は疑問に思った。

 それはともかく、昨日も話題になったが今日の捜査はあくまで任意捜査であって強制捜査ではない。ゆえに関係者への聴取が主目的で物証の押収などは行えていない。それをするには裁判所が発行する家宅捜索令状が必要になる。出雲が出現した新聞部室には彼女に絡む物証、もしくは事件にかかわる物証があるかもしれず、鳥梨自身もそれを欲しているのだが、現状では……少なくとも犯人の目星がつかない限りはそれも難しい様子だ。まさにどん詰まり状態だった。

 蓮はちらりと携帯を見た。凛からの連絡はない。昼間の捜査で何か事情があると判断したのか遠慮しているようだ。もっとも、もし電話されても話せる事など何もないのであるが。

 と、不意に佐野が立ち上がるとそのまま部屋を出て行く。その際、蓮に対して何かを促すような仕草を見せた。廊下に出ろという事らしい。

「あ、すみません。ちょっとお手洗いに行ってきます」

「あぁ、早く帰ってこいよ。警視様がうるさいからな」

 落合は特に疑う様子もなくそう言った。蓮は頭を下げるとそのまま廊下に出る。そこには佐野が難しい表情で立っていた。

「ここじゃまずい」

 そう言って、昨日連れてこられた第二会議室に入る。

「完全に後手に回っている」

 開口一番、佐野が発した言葉はそれだった。蓮は遠慮がちに言った。

「私も少し急ぎすぎたと思います」

「君でもわかるか。だとしたら、鳥梨さんもまずい手を打ったものだ」

 佐野は自嘲気味に笑った。そんな佐野に対し、蓮はこう問いかけた。

「佐野警部は今回の事件、どう考えていますか?」

「どう、とは?」

「犯人は校内の人間でしょうか。それとも……」

「可能性は二つだ。一つは出雲の見立て通りに校内に犯人がいるケース。もう一つは君の見立て通り、校内への調査は警察の目をひきつけるカモフラージュで、実際の出雲の狙いは外部の人間にあったというケースだ」

「でも佐野警部は、後者はありえない、と考えているんですよね?」

 蓮の言葉に佐野は頷いた。

「私は前者だと考えている。だからこそ国友警部ほどの人間がいながら一ヶ月も犯人逮捕に行き着かなかったと考えれば妥当だろう。だが、だとしてももう少し容疑者を絞ってから直接的な捜査に移るべきだった。おかげで完全に捜査が後手に回って停滞状況に陥っている。しかも国友警部を排斥して強引に捜査方針を変えたせいで、共闘すべき捜査本部の刑事たちとの雰囲気も最悪だ」

「これが出雲の狙いでしょうか? 警察の捜査を停滞させるためにあえて自分の存在をばらしたとか」

 だが、佐野は慎重だった。

「いや……それだけならまだ手はあったはずだ。出雲がこんな行動をするからには、何か理由があるはず。それこそ、自分の依頼を確実に遂行するための何かが」

 佐野は窓から外を眺める。

「今日一晩……せめて今日一晩、何もなければ、手の打ちようもあるが……」

 そんな佐野の表情に、蓮は何か言い知れぬ不安を抱いていた。何かが起ころうとしている。そんな、何ともいえない不安感がその場には漂っていた。



 様々な人の思いが交錯し、様々な策謀や思惑が渦巻く。だが、混沌の中に漂う真相という光はたった一つだけ。その光を探し出し、そしてその光をさらなる闇で打ち消そうとする人間がここに一人。

 『復讐代行人』黒井出雲は、誰も通らない漆黒の路上を、キャリーバッグを引きながら歩き続けている。不気味な静寂の中、カラカラとキャスターの音だけが響き渡る。

 その歩みに迷いはない。それを裏付けるかのように、出雲は誰に言うでもなくこう呟く。

「さて、そろそろ頃合でございますね」

 誰もが知らぬ中、今、事件は闇の中で大きな転機を迎えようとしていた。

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