第2話

「信治ってさ、関西出身ってそんなわかんないね」

「そうですか? もう5年になりますが時々やばいって思うこと何回もありますよ」

 僕は大先輩の蔦丘さんと短い廊下を歩きながら言った。

「サラリーマンしていたんだよね。なんでこの仕事しようとおもったの?」

「そりゃ、蔦丘さんの声に憧れたからに決まってるじゃないですか!!」

「しんちゃん、よくいうぜ。そんな見え透いたお世辞」

 

 スタジオの中は加湿器のせいでかなり暖かい。

 監督がガラスの向こうに座っていた。さあ、これからはしばらく頭の中はこの台本の世界に置く。心のなかの迷いや今までのすべては扉の外だ。


「じゃ、スタートするよ」


 前の大きなモニターにはいつもの大人気アニメの16話が映し出される。

 僕の好きな漫画家さんの第二作にメインキャストとして声をあてる。

 悠奈、聞こえるか? おまえの好きだったアニメの続編だからな。ちゃんと聞いてくれよ。僕は懸命に画像について行く。台本など見ない。そんな仕事なら悠奈に笑われてしまう。きちんとキャラクターになりきらないと。


 悠奈は五年間の派遣社員をしながら僕が声優専門学校に通っていたことを支えてくれていた。三歳年下の悠奈とは大学のサークルで知り合った。演劇サークルで彼女が一年の新歓イベントに参加したとき、僕が一方的に好きになった。すぐに声かけることはしなかった。

 だが、丸い顔に眼鏡をかけた、地味な女の子が頬を赤くして女優さんに憧れていますと言った時に見せたはにかんだ笑顔は僕の心の中に深く入り込んだような気がしていた。

 

 出会いから一年して僕は卒業することになり、離ればなれになることが我慢できなくて、僕は彼女に告白した。

「このサークルはヤリサーの傾向が強めだから、悠奈ちゃんには向かないよ。大学公式の演劇部に入ったほうがいいよ。あと、よかったら、こんな時だけど、付き合ってくれないかな?」

「いつも、私が言いたかったのに、社会人になられる先輩には私なんて。きっと足手まといになるなと思っていました。私なんかでいいんですか?」

 悠奈は眼鏡を外して涙を拭いて俯いた。

「僕は悠奈ちゃんのその真面目なところが好きなんだ」


 卒業式の日に、僕の部屋で彼女は一晩中一緒にいてくれた。何もしないけれど、小鳥のようなキスをして、小さな布団を二枚並べて僕たちは手を握って眠った。安らぐ気持ちと不思議と沸き起こらない熱情に僕はどこかおかしいのかと思った。ただ、悠奈を大事にしたい気持ちだけが強かったのだろう、今思えば。

 

 会社の研修が始まり、慣れない毎日の連続で疲れている時に、悠奈の笑顔と夕食は僕を癒した。一緒に食べることのできる喜びはずっとこのまま続くのだと思っていた。

 そう、結婚して一緒に歳をかさねて子供ができたりして、いや、できなくてもいい。ずっと二人だけでも仲良くいつまでも、ずっといられるのだと思っていたのに。

 悠奈はあまりにもあっけなく僕の前から、まるで嘘のように一筋の煙になって消えてしまい、小さな壺の中の骨になって戻ってきた。

 大学の講義の後にセルフうどん屋でバイトをして、持ちかえりのおにぎりや唐揚げ、天ぷらを買って僕の部屋に自転車で帰るのが常だった。夜には見通しが悪いから、自転車は気をつけてと僕は何度も注意していた。

 悠奈もそんな事分かっていたのに、ライトの電球が切れていたのを忘れていたようだった。信号のない大きなカーブを渡ろうとして、トラックに巻き込まれてしまう事故に遭ったのは僕のせいだと彼女の両親に土下座をして詫びた。

 悠奈が僕のところに来なければ、僕と付き合うことがなければ。

 今も、大学生活を送り、卒論を仕上げて最後の演劇「ファウスト」のナレーションをして……。そして、そして、いつまでもそばにいてくれるはずだった。

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