待ち人 います

樹 亜希 (いつき あき)

第1話

 僕は今日もスタジオに向かう。

 駅までは自転車で、そこから先は電車に乗って、いつもの見慣れた顔。

 僕の心の中にあった笑顔は出かける時に家にいつもあったのに、もう僕を見送る笑顔はどこを探しても、もう、ない。涙がまなじりに溜まるのは哀しみか寒さなのか、それとももう花粉症が始まってきたのかも知れない。

 ぞっとするような、寂寞の気持ちをぐっと強く奥歯で噛みつぶして僕は路地を歩いて、いつもの録音スタジオに一歩、また一歩と進んで行く。


 おはようございます。

 ドアをあけて中に入ると消毒液で手をこすり合わせた。マスク越しのスタッフのスミレちゃんが頭を下げる。彼女の顔をもう忘れそうだ。マスクをする日常の二ヶ月後に出会ったものだから、正直言うとどんな口の形だったのかも覚えていない。きっとチャーミングな笑顔の二十三歳でシングルマザーの訳ありなスミレちゃん、そんな話をしたのはもう一年ほど前で、その時は驚いたが

何に驚いたのかそれも、思い出せない。

 十代の頃に恋をして、その男に騙されていたが妊娠しており産んだ子供がもう四歳だとスマホの写真を見せてもらったはず、丸い顔の大きな瞳が印象的な男の子の母親であるスミレちゃんは懸命に母子二人で、今の時代を生きている。


「後藤さん、あそこでいいですか?」

 スタッフの女の子がいつものブースを指差す。

「はい、もう始めるのかなあ」

「ええ、蔦丘さんが入られたら、監督がGOすると思います」

 そこにはもう6人のメンバーがスタンドインしていた。ドリンクとタオル、台本などめいめい手にするものは違う。僕は悠奈(ゆうな)にもらったカエルの刺繍された黄緑のハンドタオルと、蜂蜜の入ったドリンクを持ち込んでいた。

 一口だけ含むと、最後にトイレに立った。それぐらいの時間はあるだろう。

 しばらくはブースからは出ることはできない。


 トイレで手を洗い、なんとなく大きな鏡を見た。

 疲れた三十歳過ぎの男が映る。黒いシャツに洗いざらしのGパンは洗濯していないな。明日にでも換えないと。長い時間座ったり立ったりするので同じ洋服が着心地よくて買い換える気持ちにならない。

 もう何年になるだろうか。このGパン。

「おい、行くぜ。何をぼんやりしてるんだい、しんちゃん」

 声の主は蔦丘さん、いつもの響く声が僕を連れて行く。この声に憧れて同じ事務所の門を叩いた。その人は今、僕と同じ空間で信じられないほどの絶対的な声量で僕たちを作品世界に引きずり込む。

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