第59話 夜戦(5)

 カウルが落下した位置は、燃え尽きた灰や瓦礫が積もった場所だった。

熱さこそ感じるものの、辛うじて服に火が燃え広がることは避けられようだ。

 カウルは崩れた馬車の支柱の一つを掴み、何とか立ち上がった。足元で灰になった木片が音を立てて崩れていく。

 火の粉が舞う視界の中、近づいてくる“老人”の位置を確認する。

 歩こうとしたところで靴先に何かが当たった。黒い柄に銀色の鍔。自分の剣だ。刃は根元の付近からぱっくりと折れてしまっている。これではもう役に立ちそうにはない。

 何か使える物はないか周囲を見渡したところで、“老人”の肩に輝くものが見えた。先ほどアベルが叩きつけ、そのまま肉に突き刺さっていた彼の剣だ。他に武器は見当たらない。どうやら勝つためにはあれを引き抜くしかないらしい。

 アベルは未だ“老人”に掴まったまま。剣を得るためには一人で接近するしかないが、今の状態で接近しても、先ほどの二の舞になるのは目に見えていた。

 これほどの窮地に陥るのはいつ以来だろうか。四年間の退魔師生活の中で様々な経験をしてきたが、脳裏に浮かんだのは、初めて赤剥と対峙したあの時のことだった。

 何の訓練も摘んでいなかったにも関わらず、錆びたナタ一本と気合のみで挑み、そして打ち勝った。それは傷の呪いのおかげだとか、才能があったからだとか、そんなことが原因ではない。ただ必死に足掻いたから。死にたくないと。生きたいと。命を諦めなかったからこそ、辿り着くことが出来た結末だ。

「……生きようと思わなければ、……生き残ることは出来ない」

 既に古い記憶となった母の言葉を繰り返す。カウルは命の危険を感じつつも、なお虚勢を張る様に“老人”を睨みつけた。それこそが今の自分にとって最大の武器だとでも誇示するように。

 血管を縦横無尽に伸ばし、距離を詰める“老人”。カウルに攻撃が届くまで、あと二~三歩といった距離だった。

 “老人”に近づくための最大の脅威は、血管からの死煙放出。斬っても斬っても切断面から死煙が吹き出るため、防ぐ手段はないが、血管の動きに意識を集中すれば、短時間なら避けられるかもしれない。その一瞬の間に何とか膝裏の傷をこちらの呪いで広げ完全に破壊することが出来れば、剣に手が届く。

 無謀だが一割でも確率があるのなら諦めるわけにはいかない。自分にはやらなければならない事があるのだから。

 前に伸ばされた“老人”の血管が膨張し、先端からうっすらと赤黒い煙が漏れ始める。一か八か、その真下へ飛び込もうとしたところで、――突然どこからか、妙な笑い声が響いた。



 注意を引かれたように“老人”の動きがゆっくりと止まる。

 声はかなり近い場所から発せられていた。掴まれ、骨を砕かれ、もう動くことは出来ないと思っていたはずのアベルの口から。

「まさか――……まさかこんな日が来るとは……! カウル。一体君は何だ?」

 それはカウルが彼と会ってから初めて目にする、満面の笑みだった。

「傷が一瞬、俺の呪いを凌駕した。命に届きかけた。不死であるこの俺の命に。

 こんな感覚は初めてだ。祈祷術……――いや、呪術ですらない。……君のその力……それが君の秘密か?」

 声の主がアベルだと気が付いたのか、“老人”がアベルの方に顔を向けた。

「ずっと諦めかけていた。ずっと救えないと思っていた。だが君のその力なら、一つの可能性がある」

 救えない? アベルは一体何を言っているんだ?

 訳が分からず困惑するカウル。

 “老人”がアベルの体を地面へ叩きつける。鈍い音が鳴り響き土煙が舞い上がった。再度持ち上げられたアベルの首には骨のようなものが突き出ていたが、その顔には変わらず、心底嬉しそうな笑みが浮かんでいた。

 一体彼はどうしたのだろうか。頭を打ち過ぎて気が狂ったのか。元々変な奴ではあったが、流石に様子がおかしすぎる。

 黙っているカウルを見て、アベルはさも不思議そうに言葉を続けた。

「どうしたカウル。もはや俺に遠慮する必要はない。それほどの力があるのなら、さっさとこの禍獣を倒してしまえ。君になら容易だろう」

 傷の呪いに気が付いたのだろうか。何だかよく分からないが、彼はこちらの力を相当に過信しているらしい。カウルは戸惑いながらも答えた。

「武器を失ったんだ。打つ手が無い……!」

 アベルへの攻撃が無意味だと悟ったのか、こちらに顔の向きを変える“老人”。カウルは痛む体を抑え、身構えた。

「武器がどうした? 勝機はそこにあるものでは無く、作り出すものだ。よく考えろカウル。君の力なら、打開策はいくらでもあるだろう」

 “老人”の腕の中からアベルの声が響く。まるで人ごとのような言い方だったが、今の台詞には聞き覚えがあった。

 足を踏み出す“老人”の動きがゆっくりに見える。刻一刻と時間が失われていく中、頭の中に過去の経験が浮かんでは消え、巡っていく。そして――カウルの脳内にとある記憶が蘇った。

 


 肉塊となった禍獣の死体から刃が抜かれた。

 黒い血液が土の上に広がっていく。

 漆黒の刃を持つ細身の剣。大量の血を吸ったそれは、いつも以上に輝き生き生きしているように見えた。

「今のは危なかったな」

 ベルギットは自身の剣を確認しながら、

「私が助けなければ死んでいた」

 どこか馬鹿にするようにカウルを振り返った。

 カウルは禍獣がぴくりとも動かないことを確認すると、落ちていた自身の剣を拾い立ち上がった。そして口惜しさに押されるように彼女へ言い返した。

「初めて目にする禍獣だったんです。仕方ないじゃないですか」

 頭と肩が同化したような滑らかな頭部。目が無い代わりに顔の全体に伸びた縦長の口。その全身は硬い鱗に覆われ、何度斬りつけようとも一切の斬撃を無効化する。

 カウルはこの禍獣に傷を与えることが出来ず、ベルギットが助けなければ死ぬ一歩手前のところだったのだ。

 ベルギットは小さなため息を漏らした。

「お前は死んでからもそんな言い訳をするのか。世界を旅していれば、動きや対策を知っている禍獣と遭遇することの方が稀(まれ)だというのに」

 そのまま周囲の荒野を見渡しながら、疲れたように近くの岩の上に腰を下ろした。

「いい経験だと思って一人で戦わせてみたが、この依頼はまだお前には早かったようだな」

 落胆されていると、カウルは焦りを覚えた。

「ちょっと油断してしまっただけです。もう二度と隙は見せません。今度は上手くやります」

「言い訳をするなと言っただろう。退魔師の生活は生きるか死ぬか。結果が全てだ。それ以上でも、それ以下も無い」

 怒鳴るでもなく、突き放すようにでもなく、落ち着いた声のままベルギットは言った。

「今お前に必要なのは、安い自尊心を満足させることではなく、反省することだ。何が駄目だったが、どこで判断を謝ったか。事前に出来たことは無いのか。それを行い次に活かせなければ何度挑んだところで、同じことを繰り返すだけ。今回の敗因が何か私に説明してみろ」

 鋭い目で見つめられ、カウルはわずかに後ろめたい気持ちになった。土に膝を付けたまま、絞り出すように声を出した。

「攻撃が効かないとわかったのに、無理に何度も斬りつけたことです。何とか相手に傷を与えようとむきになってしまいました」

「こういった禍獣に対する典型的な失敗例だな。異変を悟った時点で、お前は一歩下がるべきだった。あれでは禍獣の良いように動かされていただけだ」

 カウルは倒れている禍獣の死体を見下ろした。それの胸部には深い切り傷があり、溢れた黒い血液が深く土の中へとしみ込んでいた。

「ベルギットさんはどうやって傷をつけれたんですか。普通に剣を振ったようにしか見えなかったのに」

「ただ答えを聞くだけじゃあ、また初見の敵に遭遇した際に同じ目に遭うぞ。結果から推測してみろ」

 カウルの質問をベルギットは冷たくあしらった。

 ベルギットほどの実力があれば、単純な技量と速度で禍獣の肉を絶てたとしても不思議ではない。それなのに今のような言い方をしたということは、きっと何か意図があるはずだ。

 こちらの答えを聞くまで、ベルギットは何も発言する気はないらしい。

 カウルは彼女が倒した禍獣の前に屈みこむと、その死体を観察してみることにした。

 幸運なことに、禍獣の死体を調べる事には慣れている。何せ、故郷のロファーエル村はそれで生計を立てていたようなものなのだ。

 しばらくの間剣の腹や切っ先を使い、傷口周りの鱗をいじってみると、あることに気が付いた。ベルギットがとどめを刺した切傷。その傷のつき方が、カウルが付けた他の傷と異なるのだ。ベルギットの作った傷は、鱗の内側のみについているように見えた。

 試しに鱗の向きに逆らうように後ろから刃を押し当ててみると、面白いように刃が通り、血が漏れ出した。

 カウルが答えを見つけたと悟ったのか、背後に座っていたベルギットが口を開いた。

「川魚の調理をするとき、鱗を尾びれ側からこそぎ落とすだろう。あれと同じ原理だ。この禍獣の鱗は逆立って隙間も多かったからな。気が付けば、大したことじゃない」

 わかってみれば実に単純な方法だ。けれど、命を狙われる戦闘中によくこんなことを思いつく。カウルは羨望と共に、自身の力の無さに対する口惜しさを感じた。

「どうやったら、ベルギットさんみたいに戦えるようになるんですか。俺はただ怖くて、逃げ惑うことしか出来ませんでした」

 珍しく落ち込んでいるカウルを見て、意外に思ったのだろう。ベルギットはちらりとこちらを見返すと、ほんのわずかだけ眉間の皺を緩めた。

「私とお前との一番の違いは、単純になれと意識の差だ。

 人間は脆い。筋力も、頑強さも、全てにおいて身体的に優る禍獣に打ち勝つには、工夫と戦略を凝らすしかない。そしてその戦略を正しく構築するためには、観察することが何よりも重要だ。相手の禍獣だけではない。地形、天気、気温、体調。その場に存在する全ての物事が、膨大な意味を持っている。

 いいかカウル。どんな禍獣だろうが生物を元にしている以上、完璧なものなど存在しない。隙や得意不得意は必ずある。大事なのは、癖を作ることだ。

 自分自身と周囲を常に俯瞰(ふかん)し、いついかなる時も考えることを止めるな。そうすれば、必ず状況を打開するための手立てはあるはずだ。弱点や勝機はそこにあるものでは無く作るもの。少なくとも私は、そうやってこれまでの数十年、生き延びることが出来てきた」

 ベルギットの言葉を、カウルは頭の中で反芻(はんすう)した。

 思い返せば自分は、何とか禍獣の動きに対応しようと、それだけに意識を集中させていた。中途半端に知識と技術を身に着けたせいで、立ち回りだけに気が向き、もっとも必要な行動を忘れてしまっていたのだ。初めて禍獣と相対した時は何もかもかなぐり捨てて、ただ必死に生き残るために、相手を観察することだけに徹していたというのに。

 これを教えるために、あえてこの禍獣を相手にさせたのだろうか。彼女の指導はいつも実践優先だ。一度自分に体験させてからその意味を考えさせ、道がたがえそうになれば、答えに辿り着けるように補足する。口ではぶっきらぼうだが、いざ教えを乞うてみると、実に丁寧で親切な師である。カウルは彼女の気持ちに感謝した。

 立ち上がったカウルを見て、

「お前は剣術の才は凡庸だが、こと生き残ることにかけての能力はずば抜けている。本気で鍛錬を続ければ、きっと私よりも優れた退魔師になれるはずだ。今私が教えたことを、決して忘れるなよ」

 ベルギットは指導において不必要な嘘は決してつかない。叱るときは厳しく叱るし、ほめる時は本気でほめる。彼女は心からそう考えてくれているのだろう。

 早く強くなりたいと思った。

 早く彼女に追いつけるように。

 みんなを救える力が身につくように。

「……もう一度挑戦させて下さい。他にも、まだ遭遇したことの無い禍獣はは近くにいますか?」

 カウルが聞くと、ベルギットは満足そうに、小さく笑った。

 


 あれはいつの頃だっただろうか。

 もう何年も前の出来事のはずなのに、はっきりと彼女の言葉が蘇える。

 武器を失い、目の前に迫る“老人”。絶望的な状況は何も変わらない。けれどベルギットのことを思うと、自分の頭が冷静さを取り戻していくのがわかった。

 燃え盛る馬車を背にしたおかげで周囲が明るい。

 蠢く無数の血管。

 近づく巨体。

 火を灯し散乱した木片。

 折れた剣の刃。

 その場に存在するあらゆるものが、急速に鮮明に見えるようになった。

 “老人”がほとんど目の前に到達する。巨大な腕が火の付いた木片を踏み砕き、小さな火花が散った。熱によって“老人”の皮膚が微かに焼ける。それを見た瞬間、カウルは何故か“老人”の火傷から目が離せなくなった。

 ――火傷。傷……傷の呪い……。

 傷の呪いはカウルが傷だと認識した事象を増幅する現象。切傷だろうと火傷だろうと、それが傷である限り例外は無い。

 剣は無い。無いが、もしかしたら、まだ武器はあるかもしれない。

 素早く足元から先端の燃えている木片を拾う。

 もし火傷を急速に増幅することが出来れば、あの細い血管なら発射口を塞げるのではないだろうか。カウルは固く木片を握りしめ、傷の呪いの力をそれに伝搬させた。

 “老人”の血管が右から迫る。カウルはすぐに膝を屈ませ、前乗りに倒れるように中へ踏み込んだ。

 続けざまに振り下ろされる巨大な右拳。足を横に滑らせ何とか避けるも、拳はカウルの頬と胸をかすり胸部の軽装鎧をくぼませながらもぎ取っていく。カウルが思わずよろけると、その隙をつくように伸ばされる左側の血管。

 血管が膨らみ今まさに死煙を吐き出そうとした瞬間、カウルはそこに火の付いた木片を押し当てた。

 分厚い筋肉と皮に囲まれた“老人”の肉体とは違い、血管は細く柔らかい。木片が接触した瞬間、“老人”の血管は先端の発射口から本体に向かって膨れ上がる。体内から送られてきた死煙は出口を失ったように血管の中で詰まり、そのまま少し手前で弾けた。

 ――やった……!

 予想通り“老人”の血管は火傷に弱い。直撃さえ避けることが出来るのであれば、回避することは容易だ。カウルは必死に“老人”の足元に食らいつき続け、膝に向かって手を伸ばそうとした。

 何かを感じ取ったのか、“老人”がアベルを持ったままの左腕を振り上げる。カウルはすかさずそれを回避しようとしたが、最悪なことに小石を踏んだことで足を滑らせてしまった。

 普段のカウルであればすぐに体勢を戻すことは出来たはずだった。しかし疲労の限界値に達しているせいで、思うように体が動かず一歩動きが遅れる。

 ――駄目だ。避け切れない。

 急速に視界の中で大きくなっていく拳。

 絶望を抱きかけた瞬間、どうしてか知らないが“老人”の動きが鈍った。命中するかと思われていた拳は逸れ、カウルの真横の地面をえぐる。

 視界の端に笑みを浮かべ、白い何かを“老人”の腕に突き刺しているアベルの姿が目に入った。どうやら叩きつけられたときに首に刺さっていた木片を、武器として使用したらしい。

 “老人”が地面に下ろしていた拳に力を入れる。せっかく生まれたこの千載一遇の機会を逃がすわけにはいかない。カウルは“老人”の膝に正面から手を当てると、全力で傷の呪いをそこに放った。

 元々裂けていた傷口はカウルの傷の呪いの影響を受け血を吹き出していく。まるでたった今斬撃を受けたかのように肉が弾け、“老人”の膝ががくっと落ちた。

 ――今だ……!

 最後の力を使って飛び上がり、“老人”の肩に突き刺さっていたアベルの剣の柄を握りしめる。

 片足が持ち上がらないことを悟った“老人”は血管を伸ばしてきたが、左手の燃える木片を押し当てると、再び発射口が焼け焦がされ、血管の途中で死煙が破裂し、遠ざかった。

 カウルは“老人”の肩に刺さったままの剣に傷の呪いを込めると、そのまま全力で下に振り下ろした。次々に傷が増幅され開いていくおかげで、力を籠めずとも刃は肉を絶ち下へ抜ける。

 黒い血液をまき散らし、大きくのけ反る“老人”。

 カウルは左手の木片を投げ捨てその手で“老人”の首周りに伸びた毛を掴むと、振られる勢いのまま一気に刃を心臓に向かって叩きつけた。

 いくら三~四メートルの巨体と言えど、心臓を貫かれればひとたまりもない。“老人”はおびただしい血液を口と心臓から流し、動きを止める。

 濁った瞳から潜んでいた憎悪が消える。だがそれは、“老人”の意識が薄れたというよりは、彼の体に繋がっていた何かが途切れたというような、そんな印象を感じさせるものだった。




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