第58話 夜戦(4)
禍獣の目を見ると、いつも思う。
彼らは九大災禍の呪いが物体に受肉した存在。
知性も意識も存在せず、ただ命ある者に害を成す。それだけのために行動し、反応するもの。
感情なんて無い。そんなことはわかっている。
わかっているけれど、どうしてだろう。どうして彼らの目の奥にはいつも、底知れぬ苦痛と怒りの火が灯って見えるのだろうか。
カウルにはそれが理解出来なかった。
“老人”がさらに一歩前へ踏み込む。死煙を吐き出させるまでは不用意に近づくわけにはいかない。カウルはアベルと“老人”から距離を取るように、後ろへ数歩下がった。
これまで“老人”が死煙を発動したと考えられるのは、恐らく二回。一回目は避難民の馬車を襲撃した際。そして二回目は、カウルとアベルたちが初めて“老人”と遭遇した直後。どちらも複数人の獲物が“老人”の周りに分散している状態だった。つまり一定時間攻撃を受けずに二人で“老人”の周りをうろつき続ければ、あれが死煙を発動する可能性は非常に高い。問題はそれまでどうやって時間を稼ぐかなのだが――。
“老人”が目の前のアベルに向かって突撃する。巨体が地響きと共に迫るその姿は、まるで肉の岩壁が目の前に現れたかのような圧迫感だった。
アベルは“老人”とすれ違うように、斜め前へ転がり込んだ。一度跳躍していた“老人”は着地地点を変えることは出来ず、まんまとアベルの足元への接近を許す。退魔師としての基本にのっとった完璧な回避だった。
ここで斬りつけることは可能だったが、今傷を与えても致命傷にはならない。ただ死煙を漏らしこちらが危険になる状況を増やすだけだ。アベルはそのままあえて何もせずに“老人”の股下を潜り抜けると、カウルと反対の位置へ陣取り、足を止めた。
アベルに逃げられた“老人”は今度はカウルへと狙いを変えた。あらかじめ岩壁の前に移動していたカウルは、先ほど目にした“老人”の動きと間合いから動きを予測し上手くそれを回避する。目が悪く知能の無い“老人”は頭から壁に激突し、動きを止めた。
その間に距離を取り、何とか“老人”から離れようとするカウル。死煙の発動はアベルが囮をしている時でなければならない。極力自分に意識が向くことは避けたかった。
立ち上がった“老人”は近くをうろつくアベルを煩わしそうに睨みつけ、全身のウツボのような穴から血管を周囲に伸ばした。死煙を放つ気なのだ。
来た……!
カウルは前衛をアベルに任せ、さらに“老人”から距離を取った。“老人”の伸ばした血管には気泡のような球状の膨らみが次々に移動し、その先端が肥大化していく。縦横無尽に広がった血管の網は、真っ赤な大木をカウルに連想させた。
こちらの思惑通り“老人”は溜め込んだ死煙を一気に開放する。おびただしい量の赤黒い煙が吹き出され、一瞬にしてアベルの姿が見えなくなる。地面に落ちた死煙は大地に沿うように周囲に拡散し、トカゲや虫などの生物が次々に身動きを止めていった。
カウルは唖然とした思いでその光景を眺めた。意味が無いとわかっていつつも、思わず手で口を守る。とんでもない攻撃だ。あんなものを目の前で放たれれば、どうあがいても死はさけられない。
津波のように地面の上を伝わっていた死煙は、ある程度の距離まで伸び切ると、蒸発するかのように発散した。あの距離が攻撃範囲の限界値らしい。
これで体内に貯えていた死煙は全て吐き出された。今なら攻撃してもあれが漏れ出すようなことは無いはずだ。
カウルは死煙が完全に晴れた瞬間を狙い、“老人”目掛けて走り出した。血管を全身のウツボの中へ収納しようとしていた“老人”はカウルの接近に気が付くと、すぐに体勢を整え飛び掛かろうとする。
カウルは恐怖に耐えながらも、ぎりぎりのところまで“老人”の動きを観察し、左へ飛ぶふりを見せて逆方向へと飛び込んだ。
“老人”の巨大な拳が大地を砕き、膝が岩盤をえぐる。飛び散った小石が矢のように全身に降り注いだ。
何とか足元へ入り込むことが出来たカウルは、体を起こす勢いのまま“老人”の膝裏に向かって剣を横なぎに振り払った。岩のような分厚い皮膚。だがしかし傷の呪いを帯びた刃はするすると皮膚を破き肉の間へと割り込んでいく。
腕を振り切ると同時に赤黒い血しぶきが円形に飛び散る。死煙の漏れは無い。やはり予想通り、先ほどの放出によって体内にため込んだものは全て吐き出されたのだ。
膝裏を切り裂かれた“老人”は支えを失ったように体勢を崩し、片膝を地面に着いた。
ここだ――……!
今なら急所に手が届く。
カウルは“老人”の足を踏み台にし、その背中に向かって跳躍しながら剣を振り下ろした。
傷の呪いを帯びた刃。防ぐことは出来ない。必ず心臓を貫通する。と、確信を抱いたのだが――。
切っ先が肌に触れる直前、“老人”が大きく体を前に傾けた。ぎりぎりのところで空を斬る刃。間合いをずらされたカウルは、そのまま“老人”の背に衝突し、滑る様に下へ落ちる。
くそっ――!
本能的に危険を察知したのだろうか。それとも白面のように、獲物の動きを感知する器官でも備わっているのだろうか。
悪態をつくカウルを他所に、“老人”は腰を回しこちらを振り返った。
“老人”の膝は地面についたまま。まだ終わったわけではない。
カウルはこの機になんとしても“老人”を倒そうと意気込んだ。顔面目掛けて振り下ろされる拳を真横に跳躍することで避け、“老人”の腕が上がろうとした隙を狙って斬り上げる。刃は“老人”の脇腹を左下から右上に向かって大きく裂き、赤黒い血液がカウルの顔に降り注いだ。
やはり“老人”は足元から攻撃されることが苦手のようだ。カウルの追撃によってさらに腹部へも切傷を負う。
心臓か首を。そこにさえ刃が届けば――……!
次の拳を避けた直後。腕が伸び切った瞬間なら急所にもこちらの攻撃が届くはずだ。“老人”の動きをしっかりと確認しながら最後の一撃を合わせようと試みる。しかしいざそれを行動に移そうとしたところで異変が起きた。死煙をすべて吐き出したはずの“老人”の全身から再び血管が伸び始めたのだ。
――まさかもう溜まったのか?
予想よりもはるかに速い。
カウルが愕然とした直後、“老人”の伸ばしていた血管の一本から、局所的に死煙が放出された。
カウルは首を傾けながら横へ足を滑らせることで何とかそれをかわしたが、こちらの動きに合わせるかのように別の血管が目の前で膨らみ始めた。
死煙を溜め込み爆発的に放出するには時間がかかる。だが生成された死煙を一部の血管からその都度放出するのであれば、溜め込むまでそう時間はかからない。身の危険を感じた“老人”が本能的に戦い方を変えたのだ。
今度は避け切れない。死の気配を直感したところで、土煙の中からアベルが飛び出した。
彼は跳躍した勢いのまま手にもっていた剣を“老人”の肩に叩きつけ、深く肉をえぐる。痛みから声を上げ背をのけ反らせる“老人”。おかげでカウルの顔面の前にあった血管は軌道がそれ、放出された死煙の塊は顔の真横を通過し、後ろへと流れていった。
近距離はもはや安全圏ではない。カウルは無意識のうちに後方へと飛び退き、“老人”から距離を取る。
“老人”は体を振って強引にアベルを振りほどいた。アベルは勢いに負け剣を“老人”の肩に差したまま手を離し、カウルの真横へと飛ばされる。
死なないとわかっていても、思わずアベルに視線が向く。彼は平然とした表情で“老人”を見上げた。
ウツボのような穴から縦横無尽に広がり蠢く血管。いつどこから死煙が発射されるかもわからないこの状況は、溜め込み一撃で大量の死煙を放出されるよりも、はっきり言って厄介極まりなかった。
“老人”はカウルに斬られた足に力を入れ、強引に立ち上がる。
先ほど作った“老人”の傷口からはまだ死煙が漏れ出してはいない。局所的な死煙だろうと、放出させ続ければ体内に死煙を巡回させる余裕は無い様だ。なら難易度は跳ね上がるが、やることは変わらない。懐に潜り込んで足を攻撃し、急所へ一撃を入れる。それだけだ。
“老人”の隙を作るためにアベルが駆け出した。
“老人”は背から伸ばした血管を膨らませ、左右から交互に死煙を吹き出す。普通の生物であれば触れた瞬間に即死する呪いだが、不死のアベルは気にせず死煙の中を突き進み、“老人”の目の前へと飛び出した。
続けざまに振り下ろされる拳を避けながら、アベルは“老人”の肩に突き刺したままの剣を見つめた。どうにかあれを回収しようと考えているようだ。
アベルは“老人”の拳が振り下ろされた直後を狙い、相手の膝に足を乗せた。
――駄目だ……!
遠目に見ていたからこそ、カウルは一瞬早く気が付いた。
死煙のせいで相手の左手の動きが見えていない。今飛び上がっては――、
“老人”の逆の手が飛び上がろうとしたアベルの腰をがっしりと掴む。アベルはしまったといった表情を浮かべた瞬間、そのまま強烈に地面へと叩きつけられた。
何度も何度も、あの巨大な手で、力で、岩壁や地面へと衝突し続けるアベル。
恐らく全身の骨が砕かれたのだろう。いつの間にかアベルの手足はめちゃくちゃな方向へと曲がり、皮膚の所々からは骨が突き出し、全身を真っ赤に染めていた。まるでボロ雑巾のような姿。あまりの凄惨な光景にカウルは思わず顔をしかめる。
いくら死なないとは言え、痛覚はあるはずだ。痛みのあまり意識を失っていてもおかしくはない。カウルはすぐにアベルの安否について確認しようと試みたが、近づこうとしたところで、想定外の事態が起きた。
“老人”の手がアベルを掴んだまま離さないのだ。
夕方の戦闘も含め、これまで何度殺しても復活してくるアベルを見て学習したのだろうか。知性を持たないはずの禍獣の行動にカウルは愕然とする。これではもうアベルに囮をしてもらうことは出来ない。
“老人”はその白濁した瞳をカウルへ向けると、アベルを握りしめたまま、強引に拳を振り下ろした。
カウルはすぐに足を滑らせ、“老人”の内側へ潜り込むように避ける。続けざまに左から血管の束が飛び出し、死煙が放出される。膝を屈ますことで辛うじてそれを回避した。
膝裏に切傷を与えたおかげで先ほどまでのような突撃は無い。しかし拳と血管による死煙の局所的な放出は、安全圏であったはずの近距離をもっとも危険な場所へと変えた。
攻撃する余裕も、隙を探す暇も無い。ただカウルは己の命を守り、攻撃を回避することだけで精一杯となった。
アベルの協力が無い今、“老人”の攻撃は全て自分に集約する。一人でこの怪物の攻撃をさばき続けることは、先ほどまでとは比べ物にならないほどカウルを疲労させた。
息は切れ、手には汗が溢れる。今にも剣を滑り落としてしまいそうだ。
このまま続ければ確実にこちらが負ける。体力があるうちに傷を与えて離れなければ。
浅く呼吸を繰り返しながら、目だけは“老人”の動きを観察し続ける。どんな生物も、攻撃の打ち終わり後には隙が生じる。右拳が振り下ろされた直後を狙ってカウルは“老人”の肘裏を狙った。刃が肉を裂き黒い血が飛ぶ。しかし距離のせいで浅い。僅かに切傷を与えただけだ。
勢いのままさらに一歩踏み込む。上半身には届かない。ならばせめて内臓に損傷を与えられれば――。
カウルの動きを目にした“老人”は自身の体を守るように、アベルを握りしめた左手を前に動かした。カウルはすぐに軌道を逸らそうとしたが、既に遅かった。傷の呪いを帯びた刃は“老人”の人差し指を拭き飛ばし、そのままアベルの胴体へと命中する。
不死の肉体。どんな傷を受けようとも、どれほど血を流そうとも、必ず再生し、命を留める呪い。だがしかし、そこでカウルは初めて気が付いた。
傷の呪いは物体だろうと呪いだろうと、カウルが傷だと認識したものを増幅する。綻(ほころ)びがある限り、必ずそれを広げ破壊していく。もし傷の呪いが不死の呪いを超過することがあれば、カウルの刃はアベルの命に届きうるのではないだろうか。
アベルの表情は見えない。悲鳴も何も聞こえない。
“老人”が素早く逆の拳を振り下ろす。
動きは見えている。前後の動きなら横に飛べばかわせる。そうわかっているのに、動揺と疲労のせいで足が思うように動かない。
辛うじて剣を前に差し込む。巨大な拳が衝突し、刃が大きくたわんだ。数年間使い続けてきた剣。元はどこぞの盗賊の遺体から回収したものだが、それなりに頑丈で切れ味も良く、大事に扱ってきた。それが、目の間でひび割れ真っ二つに折れる。
――剣が――。
事態を理解する暇も無く拳に体が押され、後方へと吹き飛ぶ。衝突の瞬間に足で地面を蹴ったのは、ほとんど無意識の行動だった。
燃え盛る馬車の残骸に背中から落ちる。飛び出した材木が肌を打ち、太い刃で叩きつけられたかのような痛みが背中に走った。
短く悲鳴を上げる。痛みのせいで意識がかき乱される。必死に全身に力を入れ、歯を食いしばった。
衝突によって割れた木片が降ってくる。まるで火によって作られた雪のように、きらきらと輝いて見える。
おぼろげな視界の中、とどめを刺そうと馬車へ近づく“老人”の大きな体が瓦礫の隙間から薄っすらと目に入った。
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