第56話 夜戦(2)

 ほとんど周囲が見えなくなるまでに、それほど時間はかからなかった。

 月明り一つない夜。それも大峡谷という崖や岩場に囲まれた場所。その闇はより一層深さを増し、視界を覆いつくす。

 これでは安全な場所を探すことなど無理に等しい。カウルは一端足を止めると、手探りでティアゴの尻に括り付けた荷袋の中を漁った。

 漆黒の闇の中、風から渓谷を通り抜ける鋭い音とティアゴの息遣いだけが耳に聞こえる。

 いつどこから何に襲われるかもしれない恐怖が鼓動を加速させる。夜中に森や荒野を歩いた経験なら幾度かあるが、やはり何度経験しても心地のいいものではない。

 ――あった。

 カウルは目的のものを引き当てると、それを荷袋から取り出した。周囲を警戒しながら手綱を離し、両膝で器用にそれを抑え込む。長い円柱状の筒の中に乾燥した煮魚と油を密閉させた非常用の食料。カウルは円柱の蓋を開け口に咥えると、続けて火打石を取り出し、器用に筒の中に向かって火花を打ち込んだ。するとほんのりと筒の頭に明かりが灯り、微弱な光が顔を照らす。ベルギット――いやイーダから教わった非常時に光を灯すための技法だった。

 ほんのわずかな光だが、足元が照らされ地面と岩壁が見えるようになる。

 明かりをつければそれだけ敵に見つかる危険も増すのだが、どうせ白面には視力が無いのだ。はぐれたアベルに対する目印にもなるし、何より明かりが無ければ自分自身の状況もわからない。どちらの危険を容認するか天秤に掛け、カウルは光を灯す方を選んだ。

 火打石を仕舞い荷袋を締める。トンバロの様子を確認し歩き出そうとしたところで、遠くの方から分厚い羽音のようなものが聞こえた。すぐにそれが白面のものであると気が付く。

 木々や生物の少ない大峡谷の中は本当に静かだ。音や空気の動きで獲物を捕らえる白面にとって、これほど有利な環境は無いだろう。

 息を殺し耳に意識を集中させる。しばらくして白面の気配が遠ざかったのを確認すると、カウルはようやくティアゴの腹を押し歩き出した。

 辛うじて見える視界を頼りに必死に洞窟を探す。昼間はあれほど目に付いたはずなのにいざ探そうとすると、どうしてか中々見つけることは出来なかった。

 時々白面の羽ばたきが聞こえる度に足が止まる。緊張で大量の汗が服の下ににじんだ。

 大きな戦闘音はもう聞こえない。あれからアベルはどうなったのだろうか。呪いか何かの影響でかなり頑丈な肉体を持ってはいるようだが、流石に死煙をまともに受ければ無事では済まないはずだ。この静寂さが逆に心を不安にさせる。

 歩き続けている内にいつの間にか峡谷の上の方に来てしまっていた。本能的に明るい場所を目指していたからかもしれない。今まで空を覆い隠すように広がっていた岩壁が少なくなり、久しぶりに本物の空が目に入る。残念なことに曇り空のため明かりは無いに等しかったが、それでも上空が開けているのと閉じているのではこちらの気分が大きく違う。下を覗くと黒い海のような大峡谷の溝が辛うじて視認出来た。

 大峡谷は洞窟状の地形が多い場所だ。岩壁に沿って歩いていれば、いつかは必ず何かしらの空洞へと出る。カウルはほんのりと明かりのついた非常食の筒を右手に持ち、同じ手で壁に指を当てながら進んでいたのだが、その指がふと空を切った。

 冷たい空気が指に触れる。非常食の筒を傾けると、縦二メートルほどの小さな洞窟の入口がそこにあった。

 ティアゴから降り中を確認するも、禍獣の気配は感じられない。隠れるには最適な場所のように思えた。

 ――何とか助かった。

 カウルは手綱を引き、トンバロを乗せたままのティアゴを先にその洞窟へ押し入れた。冷気が気になったのかティアゴが小さな鼻息を漏らしたが、特に抵抗するような素振りは見せない。きっと彼もここが安全地帯だとわかっているのだろう。

 非常食の筒を掲げ左右を確認し、カウルはそのまま自分も洞窟の中へ入ろうとした。疲労は溜まっていたが、油断は決してなかった。むしろ暗闇のせいでいつも以上に用心していた。そのはずだったのだが、

「なっ……!?」

 突然肩に、万力で締め付けられたような痛みと衝撃が走った。思わず手の力を緩め、非常食の筒をその場に落としてしまう。硬い岩場に筒がぶつかった音が鳴り、ほんのりとした明かりが一瞬相手の姿を照らす。目の無い顔に長い爪。考えるまでもなくそれが白面であることはわかった。

 いつから狙われていたのだろうか。まさかあれほど警戒をしていたにもかかわらず不意を突かれるとは。

 足が地面から浮く。空中へ持ち上げるつもりなのだろう。カウルはすかさず腰から剣を抜こうとしたが、肩の痛みのせいで腕が上手く動かない。鈍い悲鳴が自分の口から漏れる。

 必死に抵抗し体を揺らしても、白面の足はびくともしない。強力な羽の勢いにつられ、さらに体が上昇する。

 無理に剣を抜けば食い込んだ爪のせいで筋繊維が裂ける。しかしかといってこのまま空中に持ち上げられれば、それこそ終わりだ。

 恐怖で全身の筋肉が固まる。必死にもがくも効果は一切無い。暴れるなかで頬に白面の足が頬に当たった。

 ほとんど反射的な行動だった。

 カウルは無我夢中で頬に触れた部位に噛みついた。奥歯に力を込め渾身の力で歯を押し付ける。どうやらそれはちょうど指の位置にあたる部位だったようだ。左肩の白面の握力がわずかに緩み力が抜ける。カウルは少しだけ楽になった左腕で胸の前に差した短刀を抜き取ると、それを全力で白面の右足へ叩きつけた。

 手首を回し抉る様に刃を差し込む。すると痛みに耐えかねたかのように、白面の右足の指が離れた。

 いきなり落下するカウルの体。まだ二メールほどしか上昇していなかったのだが、暗闇のせいで地面の場所がわからず受け身が上手く取れなかった。体を打ち付けた痛みで思わず悶絶するも、それに苦しんでいる時間は無い。

 激しい羽音が頭上から響く。カウルは短刀を胸の鞘へしまい、膝を立てるると同時に腰の剣を抜いた。

 白面の姿は見えない。だがかなり近い位置から羽音だけが耳に届く。強い危機感を抱いてはいたが、闇雲に剣を振るうような真似はしなかった。見えていてもあれほど回避されたのだ。この状況で適当に放った斬撃が当たるとは到底思えない。

 焦りに押しつぶされない様に注意しながら、何とか思考を回転させる。

 もっとも勝率が高いのはトンバロとティアゴを隠した洞窟へ自分も逃げ込むことだが、白面に空中へ持ち上げられたせいで正確な位置が分からなくなってしまった。地面に転がっている非常食の筒を拾って探せば見つけることは出来るだろうが、どこから攻撃を受けるかわからないこの状況でそんな隙を見せるわけにはいかない。

 ――くそっ……!

 視力は役に立たない。頼りになるのは音だけだ。

 少しでも白面に掴まれる機会を減らそうと、屈んだまま必死に耳をそばたてる。

 背後から微かな空気を切る音。カウルは咄嗟に剣を後ろへ振るったが、手応えは何も無かった。避けられたのだ。

 今は洞窟の中と違って空に高さの制限も無い。あれほどの機動力を持つ白面なら、目の見えない獲物の攻撃を回避することなど朝飯前だろう。

 再度羽音が正面から響く。白面が急停止する瞬間を予測し、一拍時間をずらした攻撃を試みたものの、難なくかわされ逆にすれ違いざまに脇の下を爪で切り裂かれた。見えないが服の下に血が滲むのを感じる。

 やはりこの状況で真っ向から白面と相対するのは無謀でしかない。時間が経てば経つほど、不利になっていくのは明白だ。

 かすかに手が痺れる。恐らく爪にある毒のせいだろう。アベルの話によると、白面は獲物の身動きを封じる麻痺毒を持っていたはずだ。

 両肩と脇下。自分は既に三か所白面の爪を受けている。これ以上攻撃を受ければ戦うことすら出来なくなってしまいかねない。

 カウルは奥歯を噛みしめた。はたから見れば限りなく無様な手段だが、もう残された手は一つしかない。これしか勝ち目が無い。

 自分の体の中心線上に剣を構え、利き腕である右肩の上に掌を上にして左手の腕を乗せる。

 何度か周囲で羽音が聞こえるも、構わずにひたすらそのまま丸くなる。しばらくして、一向に身動きをしないカウルにしびれを切らしたのか、ひと際鋭い羽音を響かせ白面が接近した。左肩と右肩に乗せた腕に灼熱のような痛み。白面の爪が肉に食い込んだのだ。

 強力な力で持ち上げられるカウルの体。このまま空中へ運ばれ地面に叩きつけられれば間違いなく命は無い。足が地面から浮き締め付けられた肩と腕の痛みが増す。

 だがカウルはこの瞬間こそを待っていたかのように目を見開いた。

 高い飛翔能力を持つ白面を暗闇の中で捉えるのは、どう考えても不可能だった。だから仕方が無かったのだ。この瞬間でしか白面の体に触れることが出来なかったのだから。

 左肩に乗せた腕は白面の爪に握りしめられていたが、カウルは握り返すように白面の足首を右手で掴んだ。そのまま強引に肩から白面の足を離し、自由になった右腕で剣をまっすぐに構える。

 技術もくそもない自滅覚悟の力技。ベルギットが目にすれば激怒するような行為。けれど今は、そんな誇りなど気にしている余裕など無かった。

 傷の呪いを刃に込め、全力で上方へ打ち抜く。身の危険を察知した白面は直ちに旋回しようとしたが、足を掴んだカウルの左手がそれを許さなかった。

 突き刺さる鋼の刃。肉を切り裂く重い感触が手に伝わる。心臓を貫こうが貫いていなかろうがどちらでも構わない。傷の呪いを帯びた刃は一度でも相手の体に張り込めば、例えどれほど頑丈な肉体だろうとそれを両断する。

 力を込めると同時にこねた小麦粉のように切断される白面の体。空中へ持ち上げようとしてた白面の力が支えを失ったかのように無くなり、カウルの体は再度地面に向かって落下した。



 痛む体を抑え、ほのかに光る非常食の筒を拾う。

 今の白面は倒すことが出来たが、まだ油断は出来ない。他の個体が居ないとも限らないからだ。

 先ほどよりも慎重に周囲を警戒しつつ、近場の岩壁を調べる。耳を澄ましているとティアゴの息遣いのようなものが聞こえ、カウルはそちらへと向かって坂を這い上がった。

 洞窟の中へ入るなりに、ティアゴの大きな顔がぬっと姿を見せる。カウルは彼の頬を優しく撫で、そのままその場へへたり込んだ。

 全身に広がる白面の麻痺毒。もう限界だった。一歩も体を動かすことが出来ない。心なしか意識も遠くなってくる。

 早くトンバロの治療をしなければならない状況だというのに、体の制御が効かない。カウルはついうとうとと、そのまま目を瞑ってしまった。



 誰かに体を揺さぶられているような気がする。

 柔らかでそれでいて力強い腕の感触。まるで父に触れられているような――。

「カウル。聞こえるか。カウル」

 聞き覚えのある声。父ではない。まどろんでいた意識が急に現実へ引き戻されていく。

 目を開けると、微かな明かりの中に金髪をなびかせた三~四十代ほどの男の髭面が見えた。

「よし。生きているな」

 アベルはカウルの眼の動きを確認し、満足したように手を離す。カウルは何か言おうとして、自分の体が上手く動かないことに気が付いた。

「白面の毒にやられたようだな。心配するな。あれの麻痺毒は毒としてはかなり弱い。十分もすれば動けるようになるだろう」

 アベルは何事も無かったかのようにこちらを見下ろす。カウルは別れた時のことを思い出し、口を開けた。

「どうしてここが……」

「たまたまだ。“老人”の後を追っていたら崖の上に微かな光が見えてな。試しに上ってみたら君たちが居た」

 アベルは今にも消えそうな非常食の筒を持ち上げて見せた。

「“老人”……あいつも近くに居るのか」

「ああ。どうやらアレは臭いで獲物を追尾する特性があるらしい。俺の姿が見えなくなると迷わずに君たちが逃げた方向へ進み始めた。視力はよく無いのか、峡谷の迷路に足を取られているみたいだが、いずれここまでたどり着くのも時間の問題だろう」

「……よく無事だったな」

 この暗闇の中、臭いで追跡する禍獣を撒きつつその後を追いかけるなんて、どう考えても至難の業だ。白面の死体を被れば気配は消せるだろうが、見る限りアベルの体には死体を被ったことによる汚れは見えない。いやそれどころかあれほどの敵を相手にしていたにも関わらず、傷一つ見当たらない。明らかに不自然だとカウルは思った。

 アベルはしばらく考え事をするようにこちらを見つめた後、ため息を吐きながら説明した。

「特別な体をしていると言っただろう。俺は昔、強い呪いを受けたせいで不老不死になった。どんな傷を負っても再生するが、その再生速度は自由に操作することが出来る。禍獣は生きた獲物にしか興味がないからな。死んでいるのと変わらない状態を維持すれば、やり過ごすことは容易だ」

「は? 不老不死……?」

 自分はまた寝ぼけているのだろうか。相手の言葉が理解できず、聞き返してしまった。

「とりあえず今後の方針について話をしよう。起きれるか」

 肩を叩き、手を差し伸べるアベル。

 痺れはまだ抜けていなかったが、まったく動けないほどではない。カウルはアベルの手を握り返すと、持ち上げられるまま何とか体を起こした。



 状況は相変わらず切迫している。

 トンバロの様態は悪く、なるべく早く治療を施さなければ死に至るだろう。しかしかと言ってこの暗闇の中ではまともに歩くことすら出来ない。

「最悪なのはそれだけではない。今はまだ遠くにいるが、“老人”がこちらに追いつくのは時間の問題だ。奴がどれほどの嗅覚を持つのかは知らないが、もし追尾し続けることが可能となれば、ルシード街まであいつを引き連れてしまうことになる。そうなればどれほどの死者が生じるか想像に難くない」

 まるでこちらの思考を読んだかのように、アベルは淡々と説明を続けた。

 ルシード街には多くの退魔師や兵士もいるが、“老人”が相手では討伐までにいくらかの時間はかかるはずだ。その間に街中であの死煙を放たれれば、確かに死者はゆうに数十人を超えるだろう。

「つまりこういうことか。この暗闇の中、たった二人であの“老人”を倒し、なおかつトンバロが死ぬ前に迷わず大峡谷を脱出し、街へ到達する必要がある、と」

「そうだ」

 何でそんなに冷静なのかと疑問に思えるほど、アベルはあっさり答えた。

 非常食の筒につけていた火が消える。油が切れてしまったのだ。暗くなった洞窟の向こう側をカウルはぼうっと見つめた。

 どう考えても無理難題だ。とても現実的な話だとは思えない。だがかといって、そうしなければ先が無いこともまた事実だ。あまりの状況の悪さに、少しだけ気分が悪くなる。

 カウルは疲れを感じ肩を落としたが、しばらくして、諦めたように顔を上げた。

「何か打開策はあるのか」

「案はある。この大峡谷を脱出する上でもっとも大きな障害は、闇だ。だからまずは光を確保する」

「どうやって? ここには火種になるような枯木も少ないのに」

「自然に生えているものならそうだ。だが俺たちは道中、ちょうどよい火種を目にしただろ」

「ちょうどいい火種……?」

 そんなもの有っただろうか。ゆっくりと記憶を探ってみる。

 ところどころに生えた枯れかけた木々と、湿気でぬれた草木。白面の死体に――。

 そこでカウルの脳にある光景が浮かんだ。

「まさか……」

「ああ。――馬車と、六人の死体を燃やす」




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