第55話 夜戦(1)

 波打つように広がっていく赤黒い煙。瞬く間にそれはカウルの眼前へと迫った。

 ――駄目だ! 間に合わない……!

 カウルが息を飲み諦めかけた直後、何かがカウルの体を横へ突き飛ばした。アベルだ。

 カウルはアベルともつれる様に倒れ込み、地面に手を付く。視界の端で岩壁に衝突する赤黒い煙が見える。どういうことだろうか。岩壁に生えていた雑草がそれに触れた瞬間、一瞬で枯れ果てしなびれてしまった。

「立て!」

 アベルが肩の服を掴み引き上げる。煙の拡散はまだ終わってはいない。カウルは何とかしびれた手足を動かしその場を離れた。

 ――今のは……――。

 何度も目にしたことのある光景。間違いない。あれは死の呪い。触れたものの生命を吸いつくし奪う、九大災禍“死門”の呪いそのものだ。

「どうして禍獣が死門の呪いを……?」

 赤黒い煙の中心に立つ“老人”を見上げ、恐れおののくカウル。カウルの肩から手を離したアベルは、いつになく真剣な顔で答えた。

「死門の特質を受け継いだんだろう。呪いが蓄積しやすい場所や要因のせいで特定の九大災禍の影響を過剰に受けた場合、ごくまれにああいった禍獣が発生することがある」

 ――そんな厄介な禍獣もいるのか。

 アベルの言葉にカウルは驚きを覚えた。

 赤黒い煙――この際“死煙”とでも呼ぼうか。大気中に維持できる時間は短いのか、拡散した死煙はすぐに晴れていく。再び姿を現した“老人”は全身の穴から飛び出していた血管を収縮させると、のそりとこちらを振り返った。

 ――……くそっ……!

 落ち着いて考えろと、自分に言い聞かせる。

 あの死煙、確かに厄介で危険なものであることは変わりないが、発射にはわずかな溜め時間を要した。気を付けてさえいれば、直撃は避けられるはずだ。

 息を吐きながら、横目で倒れているトンバロとティアゴの姿を確認する。トンバロはピクリとも動かない。同じ位置にいるティアゴが何とか立ち上がろうと足を立てているから、死煙を受けたわけではないはずだ。恐らく意識を失っているのだろう。

「動けるか」

 アベルがカウルの全身を眺めるように聞いた。

「まだ少し痺れているけど、大丈夫だ。とりあえず、あいつをトンバロたちから離さないと」

「――……心配せずともこちらに釘付けのようだな」

 “老人”はカウルたちを見据えたまま、膝を深く落とした。何をしているのかと思った瞬間、一気に地面を蹴り、跳躍する。

 あれほどの巨体がこれほど高速で突進してくるのは、それだけで大きな脅威だった。カウルたちは水に飛び込むように体を横に投げ、何とかそれをかわす。

 まるで岩が転がってきたかのようだった。下手に剣を当てようとして体が接触すれば、あの勢いに巻き込まれ潰されてしまいかねない。

 足を止めた“老人”は回れ右をすると、すぐにこちらを見据え二度目の突撃を開始する。カウルは咄嗟に前に飛び出し斜め前に転がることで、何とかそれを回避した。

 退魔師の常識として、怖いほど前に出ろという言葉がある。

 自分より大きな相手が向かってくる場合、後方へ逃れることは悪手でしかない。相手にとっては下がられた方がより視認しやすくなるし、攻撃の方向を調整する猶予が生まれるからだ。カウルはあえて接近することで、“老人”の視界から身を隠し、反応する猶予を奪った。

 勢いのまま振り返る“老人”。このまま同じ行動を続けられれば、いずれ回避しきれない時が必ず訪れる。どうするべきか、カウルは濡れた土に手を付きながら必死に考えた。

 “老人”は足元にいたアベルに狙いを定めると、続けざまに拳を振り下ろした。アベルは辛うじて直撃をまぬがれたものの、老人の執拗な追撃で今にも頭を砕かれそうになる。

 助けに入らなねばとカウルが思った直後、アベルの体は“老人”の振り回した腕に押し飛ばされ大きく空中に舞った。はたから見てもまずい一撃だ。肋骨が複雑骨折していてもおかしくはない。カウルはすぐにアベルが落下した位置へと急いだ。

 横たわるアベルに駆け寄り顔を覗き込む。最悪の状態を覚悟していたのだが、アベルはぱっちりと目を開けこちらを見返した。

「すごい衝撃だな。体が真っ二つになったかと思ったぞ」

「あんた……?」

 遠目に見てもまずい一撃だった。死んではいないまでも、無傷でいられたはずが無い。しかしアベルは何事も無かったかのように立ち上がり、蒸気の上がる自身の胸をさすった。

 どういうことだ? 何かしたのか?

 呪術や祈祷術を使う素振りは無かったはずだ。確実に攻撃は当たっていた。カウルが不信感に溢れた目で見ていると、アベルは落ち着いた表情で答えた。

「少々特別な体をしていてね。あの程度の攻撃であれば、命まで届くことは無い」

 そう言って剣を持った手首を回転させ、

「白面戦では君に迷惑をかけた。今度は俺が囮をやろう。幸いにもここは狭い峡谷の中だ。やつがあの勢いで壁に衝突すれば、動きは止まる。その隙をつけ」

 やはりどこからどう見ても怪我は負っているようには見えない。

 呪術でも祈祷術でもないなら、残る可能性は呪いだろうか。人狼のように身体能力そのものを強化する呪いなら、確かに先ほどの一撃を耐えられた可能性もなくはないが……。

「出来るのか」

 あえて体のことには踏み込まず、カウルは聞いた。

「心配するな。こういうのは得意分野だ。君の方こそ、機会を逃すなよ。君が奴を殺せなければ、俺にも打つ手はない」

 自信に満ちた様子で前に出る。

 確かに今は他に妙案も無い。アベルの体がこれほど頑丈なら、囮になってもそう簡単に即死することは無いだろう。

 カウルは彼を信じることにし、後ろへと下がった。

 アベルは“老人”へと近づきつつ崖壁へと寄った。既に準備を終えていた“老人”はすかさず地面を蹴り彼に向かって跳躍する。巨大な腕が振り下ろされ押しのけられた空気が風を生んだ。すれすれのところで身をかわし攻撃を回避するアベル。“老人”は頭から突っ込む形で崖壁に衝突し、大きな振動が地面に走った。

 直前から、カウルは既に駆け出していた。衝撃によって崖の上にぶらさがっていたつららが一斉に振ってくる。“老人”はすぐにカウルに気が付き体を起こそうとしたが、その前にカウルが腕を振り抜いた。

 傷の呪いが乗った刃が老人の首に向かって跳ね上がる。老人は嫌がる様に体を傾け、刃はその下の胸部を大きく切り裂いた。

 ――くそっ、届かない……!

 体が大きいせいで、僅かな体重移動でも位置をずらされてしまう。カウルはすぐに追撃を試みようとしたが、足を前に踏み込んだところで異変に気が付いた。先ほど傷つけた“老人”の胸部。そこから赤黒い煙が噴き出したのだ。

 一瞬にして嫌な予感が脳裏を駆け巡る。間一髪のところで身をひねり直撃をかわす。地面の上に這うように広がる死煙を見たカウルは、急いで後ろへ飛びその場から離れた。

 あの死煙は呪術のように発動する時だけ効果を発揮する呪いだと思っていた。しかし今の現象を見る限り、どうやら違うらしい。血液のように“老人”の体内を循環しているのだ。

 カウルは思わず舌打ちした。

 動かれると攻撃の隙はなく、止めると死煙を発射する。そして傷をつければつけるほど、そこから死煙が漏れ出す。ここまで面倒な禍獣と相対するのは、生まれて初めてのことだった。

 ゆっくりと体の向きをこちらへ変える“老人”。その胸元からは赤黒い死煙が垂れ流しになっている。

 これ以上傷を増やせばまともに近づくことすら不可能になってしまうだろう。まだ死煙の漏れが少ない今の内に、何とか首を一撃で切り取るしか勝ち目は無い。

 アベルの姿を探し、再び囮をお願いしようと思ったところで、カウルは彼が自分のすぐ近くまで戻ってきていることに気が付いた。

「引くぞ。限界だ」

 神妙な表情で、そう言われる。

「限界? 何がだ。これ以上傷が増える前に倒さないと、勝ち目が無いんだぞ。今ならまだ急所に近づくことが――……」

 そこまで言ったところで、カウルははっと気が付いた。朱色に輝いていたはずの空の大部分がいつの間にか闇に侵されている。山の向こうに日が沈むまであとほんの僅かといった状況だ。

 視界の悪い夜に禍獣と戦うのはただでさえ自殺行為。もし闇の中で死煙を吹き出されたら、それに気が付く間も無く死を迎えてしまってもおかしくはない。

「俺がまた奴を引き付ける。お前はトンバロを連れて安全な場所に身を潜めろ」

 “老人”を見据えたまま、落ち着いた声でそう言うアベル。カウルは思わず彼を見返した。

「ふざけるな。死ぬ気か。別れたらお前を助けることはもう出来ないんだぞ」

「状況を考えろ。他に手は無い。それにさっきも言ったが、俺は丈夫だ。簡単に死ぬことはない」

 咆哮を上げ、地面を蹴る“老人”。アベルは突き飛ばすようにカウルを押しやった。“老人”の姿で視界が遮られ、アベルの姿が見えなくなる。しかし何かに気を取られたように、すぐに“老人”の顔が反対側を向いた。

 ――くそ……!

 横たわったまま動かないトンバロと、怯えた様子で立っているティアゴを振り返る。誰かのために他の誰かを犠牲にすることなんて大っ嫌いだったが、確かにこのまま夜になれば、彼らの命を守れる保証はない。

 仕方がなく、カウルは“老人”に背を向け、トンバロたちの下へと駆け寄った。

 カウルの顔を見たティアゴは嬉しそうに小さく鳴く。カウルは彼の背を撫でながら身を屈ませ、トンバロの状態に目を向けた。

 息はしているようだったが意識は無い。よく見ると腹部が赤く染まっていた。急いで服を掻き分け確認する。大きな傷口。鋭利な岩壁にでもぶつかったのかそれとも老人の爪にやられたのか、腹部が縦に切り裂かれている。

「……くそっ――……!」

 出血は酷くは無い。位置的にも重要な臓器は逸れている。だがこのまま放置すればすぐにでも悪化し、命を脅かすだろう。

 冗談ではない。ここまで来てトンバロを死なせてたまるか。

 カウルは急いでティアゴの腰に括り付けていた荷袋から紐と布を取り出し、トンバロの腹部を止血した。そして慎重に彼をティアゴの背に乗せ、自分も後ろに跨る。

 既に視界はかなり暗くなり、数歩先の景色すら見えずらくなっている。

 この暗闇の中で白面と遭遇すれば、きっとなぶり殺しにされる。限られた時間内で安全な場所を確保しなければ、トンバロも自分も恐らく命は無い。

 アベルと“老人”の姿を振り返る。暗闇のせいであまりはっきりとは見えないが、まだ戦いは継続しているようだ。

 普通に考えれば彼が生き残ることはかなり難しい。だがアベルのあの表情から見て、本当に死ぬ気はないように思える。“老人”の攻撃が直撃しても無事だったあの体。何か秘策があるのだと、そう信じたいが――。

 視界は刻一刻と悪くなっていく。カウルは口惜しさを噛みしめながら“老人”から顔を背け、ティアゴの腹を蹴った。




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