第45話 死門(4)

 また号令が響いた。

 野太い兵士の声。剣呑で、億劫で、それでいて威圧的な聞くに堪えない不快な音。

 しかし逆らえば何をされるかわかったものではない。これまでと同じように、イザークはただの道具として作業に集中した。

 砦の中央に並べられた無数の禍獣の死骸。それを三列に並んだ囚人たちが小さな刃物で解体し続ける。

 灰夜の国グレムリアでは俗に骸拾いと言われる行い。死門の訪れる機会の多い南部の一部の村に伝わる生業だ。その一端を、この砦では囚人に強いている。

「あっ……!?」

 隣の男が声を上げ自分の腕を持ち上げた。見ると、彼の手には黒い斑点のようなものが浮かび上がり、徐々に、徐々に体全体へと広がっていった。

 禍獣は受肉した呪いであり、その種類や部位によっては触れるだけで呪いの影響を受けることがある。骸拾いの解体など本来は熟練の作業者にしか出来ない行為。慣れない囚人が扱えば、こうして呪いに侵される者が出るのは必然だった。

「た、助けてくれ! 祈祷師を……祈祷師を呼んでくれ!」

 隣の男は必死に兵士に呼びかけるも、彼らは男をいちべつしただけで動こうとはしない。むしろ、わずらわしそうに顔をしかめてすらいる。

「騒ぐな。作業を続けろ。鞭で打たれたいのか」

 どんどんどす黒く染まっていく腕を抱え涙を見せる男を前に、冷徹にそう言ってのける。男は絶望したように目の光を失い、震える手で落とした刃物を拾うとし、そのまま前に倒れ込んだ。

「っち。またか。……おい誰か、そいつを蟲底へ放り込め」

 蟲底とは、この砦の端にある四方を壁に囲まれた空間だ。出口は無く一度でも落とされれば決して這い出ることは不可能な場所。囚人の遺体を捨て禍獣化させることで、安全に禍獣の遺骸を手に入れるための悪辣極まる設備。あの囚人はきっと数日間、何度も苦痛による気絶と絶望を味わった後に死に、運が悪ければ禍獣として蘇ることになるのだ。

 自分にも良心はある。もし数年前であれば、目の前で呪いに侵された人間が居れば、可能な限り助けてやろうとはしたかもしれない。だが今は、そんな倫理観など冷め切ってしまった。

 震えながら蟲底へと運ばれていく男。それを横目で見ながら淡々と解体作業を終える。まさか呪術師としての知識がこんなところで役に立つとは思ってもいなかった。まったく皮肉にもほどがある。

 しばらくして兵士の声が響く。いつもと同じ。昼休憩の時間だ。イザークは解体用の刃物を兵士に返し、目立たないように他の囚人たちと同様の暗い顔を浮かべ、自身の牢へと連行された。

 扉を閉めるとすぐに兵士が去っていく。

 足音が無くなったことを確認し、イザークはため息を吐きながら地面に座り込んだ。

 嫌なものを目にしたせいでどっと疲れが押し寄せてくる。この数年で一気に十は歳を取った気分だった。

「また蟲底行きが出たみたいだな」

 牢獄の奥から声を掛けられる。格子窓の影にぼさぼさの金髪と髭を生やした男が立っていた。自分がこの牢獄に囚われたきっかけ。不老不死の呪いを受けたなどとほざく得体のしれない変人――アベルだ。自分よりも一足先に牢に戻っていたようだった。

「骸拾いの数が急に増えたせいさ。それに合わせて、囚人が呪いに触れちまう確率も上がちまった」

「例の村が無くなったおかげで、死骸の回収数が上がったのだろう。昔はただの小遣い稼ぎ程度のものだったらしい」

「……兵士なら動く禍獣を狩れってんだ。死骸ばっかり拾ってきやがって。元退魔師だっているだろうに」

 イザークは怒りを込めて毒づいた。そのまま壁際に座り込み、ため息を吐く。

 アベルは影から一歩踏み出すと、格子窓の外へ目を向けた。何が面白いのかは知らないが、彼はこうして暇さえあれば外の景色を眺めることが好きだった。特に例の村のあるあの黒く染まった空を。

 イザークは無言で彼を見つめた。その姿を見ていると、たまに思うことがあるのだ。もしかしたらアベルは、聖騎士に見つかった時点で、こうなることを予想していたのではないだろうか。

 四年前のあの日。退魔師たちに裏切られ荒野で告発された時。二人にはまだ逃げる機会が残っていた。それなのにアベルは自ら進んで拘束を受け入れた。

 聖騎士の前から逃亡すれば、重要参考人として追われ続けることになる。グレムリアの兵士たちの警戒網もかなり厳しくなるだろう。そうなればもう二度とあの村へ近づくことは叶わない。自ら拘束されることで、アベルはあえてその状況を外したのだ。掴まったことで聖騎士たちと会話をする機会を得て、こうして警戒されることも無くあの村を監視できる位置に陣取った。この砦の兵は練度が低く、ご機嫌さえ取れば簡単に情報を流してくれる。彼の目的があの村の監視だと言うのであれば、それは十全に達成されているのだから。

 通路の方から足音が聞こえた。いつものように唯一の食事である昼食を給仕担当の兵士が持ってきたのだ。

 足元にある格子の隙間から二人分のパンと芋をが差し出される。味付けも何もない質素なものではあったが、それを見た途端、イザークは口の中によだれが溢れるのを感じた。

「たまには違うものを出してくれないかい。こんなもんばかりじゃ栄養不足で死んじまう」

 芋にかぶりつきながら軽口を叩くイザーク。何度も会話をしているうちに、この給仕の兵士だけは二人に友好的な態度を取ってくれるようになっていたのだ。

「贅沢は言うなよ。それでも十分配慮してやってるんだ。囚人の中には俺らの機嫌を損ねて、飯を食えねえ奴だって居るんだぜ」

 給仕の兵士はイザークたちの牢の床にある黒い染みを見下ろした。その意図は深く考えるでもなく理解することが出来た。

「早朝、何人かの兵士が旅支度をして出ていったようだが、何かあったのか」

 落ち着いた声でアベルが聞いた。兵士はわずかに眉を上げ、アベルを見返した。

「何の話だ?」

「ずっと窓の外を眺めていれば嫌でも目に入る。ここの兵士があんな長距離装備で出かけるなんて、中々あることじゃないからな。それに、作業の見張りの顔ぶれも変わった」

 兵士は少しだけ迷った素振りを見せたが、話したい衝動を抑えきることが出来なかったのか、それとも大した情報では無いと判断したのか、少しだけ間を置いた後に口を開いた。

「東の方でとんでも無い事件があったんだよ。そのおかげで王都近くの砦には兵士の招集がかかってな。兵長は人手不足って理由で何とかやり過ごそうとしてたんだが、何分しつこくてよ」

 グレムリアの東と言えば海しかないはずだが、強力な禍獣でも現れたのだろうか。しかし人手不足とは……いつも昼間から酒を飲み、賭け事興じている連中の癖に。

 イザークはつい毒を吐きそうになったが、何とかそれを口の中に押しとどめた。

「とんでもない事件とは? 教えてくれないか」

 兵士の物言いに興味をそそられたらしい。アベルは肩眉を上げて、質問を続けた。

「それが聞いて驚くなよ。あの九大災禍“死門”が突然、行動を停止させたんだ。ずっと海の上で停滞しているらしい」

「死門が止まった……?」

 珍しく、アベルの顔には驚きが見て取れた。イザーク自身も兵士のその言葉に驚愕する。

「なぜだ? 何があった?」

「さあな。詳しくはわからねえ。俺たちは伝令兵から連絡を受けただけだからな」

「……九大賢者が災禍となって以降その動きを止めたのは、黒陽の国アザレアでの無明の例のみだ。あの時は魔女のせいだとされていたが……そういった連中がまた現れたのか?」

「だから知らねえって。俺たちも混乱しているんだ。こんな僻地の兵士まで駆り出しやがって。せっかくのびのびと過ごせてたのによぉ」

 死門は通過した場所の命を吸いつくすが、同時に呪いを振りまく。恐らく停滞してしまったことで、より濃い呪いが境目に残留し、禍獣が発生しやすくなってしまったのだろう。この南部の兵士まで増援で呼び寄せるほどに。呪術師という観点から、イザークはそう予想した。

「とにかく、そんなわけで今グレムリア中は大騒ぎなんだ。へたしたら、この砦の兵士のほとんどが派兵されることになるかもな。そうなりゃお前らも別の砦へ移送されるか、殺処分だ」

 今この砦の囚人たちが生きて居られるのは、労働力として必要とされているからだ。砦の兵士が居なくなれば、わざわざ囚人を警護して移送するなんて真似、ここの兵士たちがするとは思えない。イザークは若干の焦りを覚え、鉄格子を掴んだ。

「なら解放してくれよ。もう四年もここに居るんだ。元々誤解なんだ。いい加減自由にしてくれたっていいだろう」

 兵士は不思議そうにイザークを見返すと、思い出したように目を動かした。

「――……ああ。そういや、お前らは聖騎士から受け取った囚人だったな。忘れてたよ。残念だが、ここに来た時点でお前らの人生は終わりさ。この砦は絶対に囚人を開放したりはしない。貴重な労働力なんだ。それに掴まってる奴の大半はごろつきやコソ泥だ。もし解放してまた同じような事件を起こされたら面倒だからな。危険物は倉庫の奥にしまい込むに限る。まあそもそも、解放されるほど長生きする奴なんてめったにいないが」

「はあ? ふざけるなよ。俺は王都ノアブレイズに家があるんだ。国に確認さえしてくれれば必ず証明は出来るのに……!」

「何度も言わせるな。諦めろ」

 給仕の兵士は面倒くさそうにあくびをし、イザークの言葉を振り払った。この砦へ連行された時点で、囚人たちを人間とは思っていないのだ。どれだけ仲良くなろうと、ご機嫌を取ろうと、その価値観だけは変わらない。

「聖騎士たちは? まだロファーエル村に居るのか?」

 落ち着いた表情のままで質問するアベル。不老不死だからだろうか。先ほどの兵士の脅しもまったく効果がないようだった。

「さあ。あの村にいる連中ならまだ残っていると思うぜ。何分、封印指定地に指定されたんだろ? 最近はめっきりこっちに来ることも無くなったが……」

 アベルとイザークが拘束された当初、居残った聖騎士たちは偶に話を聞きに来ていたものの、あまり得られる情報が無いと判断したのか、ここ一~二年はほとんど姿を見せなくなっていた。あの村で何があったにしろ、二人が王都から来たことは行動を共にしていた退魔師たちが証明している。重要参考人の枠から外れてしまったということなのかもしれない。

 飯をくれと他の牢の囚人たちが騒ぎ始めている。昼の休憩時間は限られているから当然だろう。給仕の兵士は面倒くさそうに頭を掻き、

「俺はもう行くぞ。精々。解放されるように三神様に祈りを捧げとくんだな」と二人に背を向けた。

 本当にここから解放されることはあり得ないのだろうか。イザークはすがる思いで兵士を見たが、彼は早々に牢から遠ざかり、その姿はすぐに見えなくなった。



 二皿分の食料を平らげると、イザークは冷静さを取り戻してきた。

 不老不死のアベルは食事を取らなくても生きていくことが出来るから、いつもこうして配られた食料をイザークへ与えてくれるのだ。

 木の皿を手でもてあそびながら、イザークは何となしに呟いた。

「さっきの話、本当なのかねぇ」

 もし本当に死門が停滞したというのなら、それはとてつもない大事件だ。呪術的な観念から見れば、この世界は九つの強大な呪いの均衡によって成り立っている。一つの九大災禍が動きを止めることは、その均衡が大きく崩れてしまうということだ。何か起きて世界にどのような影響が生まれるのか、まったく予想することが出来ない。きっと今頃は、黎明の塔のお偉いさま方も大慌てて原因の究明に勤しんでいることだろう。こんな牢獄にさえ掴まっていなければ、自分も役に立てたのにと悔しく思う。

 アベルを見ると、彼は黙り込んだまま牢獄の隅に座り込んでいた。何を考えているのかは知らないが、いつになく真剣な表情を浮かべている。

「なんだいどうした? 糞でも詰まったような顔を浮かべて」

「……この数百年。人々は禍獣に怯えつつも平穏に過ごすことは出来ていた。それが、立て続けにこの異常だ。三神教の大司祭が数か月駐在しなければならない程の呪いがロファーエル村に発生し、今度は九大災禍の一角が動きを止めた」

「あの村の事件がそれほどの大ごとかい? 確かにあの空は異常だったけどさ……」

「兵士の話ではロファーエル村の空が暗く染まった直後、付近の村に逃げ込んできた者たちが居たそうだ。彼らは巨大な怪物の姿を目撃したと述べ、そして彼らに触れた者はみな一様に血を吹き出して死んだらしい。もしメイソン・ラグナーが手を打たなかったら、呪いが広まり続け甚大な被害が発生していたかもしれない」

 イザークに語り掛けてはいたが、アベルは自分で自分の考えを整理するように話していた。

「俺にはまるで、何者かの意思のようなものを感じるんだ……。二つの事件が無関係だとは思えない」

 一体何をそれほどまでに気にしているのだろうか。イザークにはアベルの懸念が全くわからなかった。

「はっ。何にせよここから出られなきゃ意味が無い。このままだと俺たちはじいさんになるまでずっとこのままだ。……まあ。あんたは歳を取ることは無いんだろうがな」

 イザークが皮肉を込めてそう言うと、アベルは何かを考え込むように黙り込んだ。元々伸びていた金色のひげを撫で、格子窓の外に見えるロファーエル村の空へ目を向ける。

 しばらくそうしていた後に、彼は覚悟を決めたように、口を動かした。

「なら――……脱獄しよう。今夜だ」

「はあ? 何を言ってるんだ?」

 思わず声を大きくする。

「死門の件。やはりどうしても気になる。かつて九大災禍――無明が停止した際、その空は黒く染まったと聞く。ロファーエル村しかり、恐らく死門の上空も同様の現象が発生している可能性が高い。もし原因が同じなら、何か世界にとって良くない出来事が起きているのかもしれない」

「そりや、出れるなら出たいが、どうやって出る気だよ」

 ここを出たいという気持ちは当然イザークにもあるが、それが出来なかったから何年も閉じ込められてきたはずだ。

 アベルは格子から外を覗き、兵士がいないことを確認すると、

「方法はある。もう少し賢く行きたかったが、この際仕方がない。少々強引な手段を講じるが、覚悟してくれ」

「強引な手段……?」

 一体どんな妙案があると言うのだろうか。イザークが聞き返すと、アベルは大真面目な表情で説明を始めた。そしてそれは案の定、頭がぶっ飛んでいるとしか思えない作戦だった。



 格子窓越しに三日月が見える。荒野は漆黒に染まっていたが、ほんのりと草木の姿を判別することが出来た。これなら例え外に出ても、辛うじてお互いの顔を目視することは出来るだろう。

「もう少し明るい方が良かったが、まあ十分だろう。ここの管理はずさんだからな。見張りの兵士は他の場所へ巡回へ行った。そろそろことに移ろうか」

 砦の兵士は怠惰極まるが、昼間は名目上の巡回を行い、荒野に兵士を走らせている。しかしあくまで名目上のため、監視するのは砦や自分たちが通う娼婦のいる村だけだ。つまり昼に外へ出れば、高確率で兵士の輪の中に捕捉される可能性が高い。夜であればほとんどの兵士は砦に籠り、享楽へと勤しんでいる。脱獄を試みるならば、夜に結構することが最も最適だった。

 地面に耳を離し、立ち上がるアベル。格子の隙間から他の牢を見ると、明日の激務に備え寝ている囚人もいれば、雑談をしている者もいた。イザークはなるべく声を落として話すように努めた。

「……本当に出来るのか?」

 祈祷術で呪術封じの付与がされた枷を持ち上げ、アベルに向ける。

「この枷はあくまでグレムリア軍本体からの支給品だ。この砦に祈祷術の達人がいるわけではない。かなり古く術の効率も落ちている。強力な呪いに接触させ続ければ、その機能は簡単に失われるだろう」

 彼はベッドの下に隠していた短刀を取り出すと、それを自分の腹へと当てた。いざという時のために解体用の備品から盗んだものだ。アベルの体内に突き刺す形でくすねたため、兵士たちも見つけることが出来なかったのだ。

 アベルは短刀を深く自分の腹に突き刺すと、ためらうことなく横に裂いた。

 瞬く間に夥しい血が溢れ、牢の床を濡らしていく。彼が不死身であるとわかっていつつも、イザークはその凄惨な光景に思わず目をつぶりたくなった。

 祈祷術は呪いに触れている限りそれを打ち払おうと反応を行う。そしてその反応はつまるところ呪いと祈祷術の強さによる力比べ。アベルの不老不死の呪いはとても強力なものだ。この程度の祈祷術であれば、絶対に祓うことは叶わない。つまり彼の体内に触れ続けることで、この枷は負荷に耐え切れなくなり効力を失うはずだった。

 どばどばと血を流す腹部に自分の手ごと枷を突っ込み、何食わぬ顔で立つアベル。鉄のような血液の香りが広がり、イザークの鼻を刺激した。

 しばらくして、何かが裂けるような音とともに、アベルの体内に入れていた枷にひびが入った。

「さあ、次はお前の枷も突っ込め。時間が無い」

 ぐいっと腕を引かれアベルの腹の中に手を押し込まれる。ためらっている時間すらなかった。

「うおっう……!?」

 生暖かい肉とびちゃびちゃとした血液の感触。あまりの衝撃に全身に悪寒が走ったが、何とか歯を食いしばりその感触に耐えた。しばらくして白い煙があがり、枷が物音を鳴らす。感覚で祈祷術が消失したのだと、すぐに察することが出来た。

「これで祈祷術は無効化した。もう呪術が使えるはずだ」

 イザークはいそいそと手を抜いて、

「少しは心の準備をさせろ! ……ああ。うねうねと腸が動く感触が……」

「イザーク。騒ぐな。手はず通り頼む」

「わかってるよ。くそっ……」

 この四年間。手枷のせいで呪術を使うことは出来なかったが、知識を失わないように毎日必死に頭の中で理論や呪言の復習を繰り返していた。氷炎系の破壊呪術は不得意だが、こういった補助的な呪術であれば、イザークのもっとも得意とする分野である。

 黒と薄桃色の煙がイザークの口から吹き出され、うっすらと天井に広がっていく。しばらくしてすぐに聞こえていた話声は止まり、静寂があたりを満たした。

「よ、よし。次は枷と牢の鍵だな」

 イザークは床に広がったアベルの血液に手を当て先ほどとは別の呪言を口ずさんだ。するとぽこりと血だまりの一部が盛り上がり、生き物のように流動し始めた。その塊はイザークの手を駆け上がり枷の鍵穴へと侵入する。少ししてかちっと言う音と共に鍵が開き、枷はすとんと地面に落ちた。

「――……黄泉雲派生の呪術か」

 関心したように目を細めながら、アベルが手首を前に差し出す。イザークは彼の枷も同じ呪術で外してあげた。

「器用貧乏が俺の持ち味だからな。強力な呪術は使えないが、その代わり簡易的なものならあらゆる分野のものをかじってる。大いに感謝してくれ」

 本当のことを言うと、一つの分野をある程度学んだところで、毎回超えられない壁にぶち当たった結果、他の分野ならばと模索した結果こうなっただけなのだが、あまりに格好が悪いため黙っておいた。

「君が有能な呪術師で助かった。元々は俺の体をばらして格子の向こう側で再生するつもりだったのだが、いい時間短縮になったよ」

 その場合、アベルの体をばらすのは間違いなく自分の役目になっていただろう。改めてイザークは自分が呪術を学んできたことに感謝した。

 続けて牢獄の扉にも受肉させた呪いを向かわせ鍵を開ける。廊下へ出て周囲を見渡すと、狙い通り他の牢の囚人たちはみなぐっすりと眠りこんでいた。

「他の囚人は……本当に助けないのか」

「ああ。数が多ければ多いほど目立つし動きが遅くなる。何より普通の人間では、荒野の移動には耐えきれないだろう」

 囚人たちは罪を犯した者ばかりだが、中には気のいい奴や優しい者もいた。イザークは残念に思ったが、確かにアベルの言うことはもっともだ。仕方がなく己を納得させるしかなかった。

 通路を進み階段の前に出る。見張り用の机が置かれていたが、兵士の姿は見えなかった。

 眠気の呪術で伏しているものと思っていたのだが、そもそも見張りすらしていないとは。アザレアの兵士と比べてあまりにずさんな管理。よくこれで砦と名乗れているものだ。これまでのうっぷんもあり、イザークは蔑むようにその机を見下ろした。



 砦の外周部に位置する吹きざらしとなった見張り用の通路。兵士たちの目を掻い潜りそこに辿り着いたイザークは、暗闇の中に広がる荒野を見て気分を高揚させた。

「まさかこの光景をありがたがる日が来るとはねえ。思ってもみなかったよ」

 まだ脱出できたわけでは無いが、こうして外の風を全身に浴び、視界いっぱいに広がる荒野を眺めていると、本当に脱出できるのだという実感が沸いてくる。イザークは感極まって思わず涙すら浮かべそうになった。

 砦の中央部にある広場からは、笑い声と酒盛りの声が聞こえる。死門が停止し、援軍を求められている割には、随分とお気楽な様子だ。あの分ではしばらくの間はきっと、彼らが自分たちの脱獄に気づくことは無いだろう。

「……くそ。やっぱり高いな。足を滑らせれば、普通に足の一つや二つ折れ曲がってしまいそうだ。本当にやるのかい?」

「ああ。門を開ければ流石に兵士の目につかざる負えない。脱出するにはこれしかない」

 アベルは牢から持ってきた短刀を再び腹に向けると、またもや思いっきり横に裂いた。ぬめりと傷口から腸が飛び出すも、無表情のまま平然とそれをつかみ取り末端を切除する。事前には聞いていたものの、そのあまりに残酷な光景を見ると思わず吐き気を抱かずにはいられない。イザークは全力で目を逸らし、自分の口を押えた。

 再生しているのだろうか。アベルは腹部から煙を吐き出しながら、取り出した腸を壁の飛び出た部分へ巻き付け始めた。すぐに作業は終わり、いつもと同じ冷めた顔でこちらに声をかける。

「先に行くぞ。臭いは我慢してくれ。なに、食事など何年もしていないんだ。糞に触れることは無いさ」

 自分の腸をがっしりと掴むと、慣れた様子で壁を下りていくアベル。それを見て確信した。恐らく彼がこの手を使うのは初めてでは無いのだろう。いくら不死身とは言え、痛みはあるだろうに。一体どんな人生を送れば、こんなとてつもない境地に至れるのだろうか。不気味さを通り越して驚嘆すら覚えた。

 血と臓物の生臭い香りが強烈に鼻奥へと入り込んでくる。何とか我慢し壁を折りきると、柔らかな土の感触が足元に広がった。石でも木でもない土の感触。とうとう自分は脱出することが出来たのだ。

 付近に禍獣の姿が無いことは上から確認していたが、それでもこの漆黒の世界は恐怖心を掻き立てるにはあまりある。イザークは不安を隠すようにアベルに声をかけた。

「本気で森に向かう気なのか? 少し歩けば村もあるのに?」

「説明しただろう。脱獄が露見すれば、当然兵士たちも村へ出向く。徒歩で移動している俺たちより、馬を持っている兵士の方が村へ着くのは早い。なにより足がつき易い。目指すのは西の森だ。牢の中でそこを盗賊が根城にしていると聞いた。襲撃が常の盗賊ならば、馬の一頭や二頭くらいいるだろう。その馬で王都へ入り込みさえすれば、流石に兵士たちも俺たちの所在を掴むことは出来なくなる。やつらにはそれ以上俺たちを追う熱意なんて無いからな」

「やっぱり考え直さないかい? こんな夜中に禍獣の溢れる荒野を西の森まで突き抜けるなんて、正気の沙汰じゃない」

 生身の人間が徒歩で荒野を歩くなど自殺行為にも等しい行い。確かに普通に考えれば、誰もが脱獄者は村へ向かったと、そう思うことだろう。アベルの言う通り村へ向かえば掴まる可能性は高いが、だからと言って荒野を歩くのはあまりに無謀な行いだ。

 イザークはなおも文句を言ったが、彼の考えが変わることは無かった。

「……もし禍獣に殺されることになったら、必ず死に際にお前を呪うぞ」

 恨みを込めてそう言うも、

「心配するな。死ぬ時にそんな暇なんて無い」

 ごく自然な調子で、アベルは平然と言い返した。




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