第44話 死門(3)
村の正門近くを一体の赤剥が徘徊している。
カウルは近くの小屋の屋根の上で息を殺したまま、真下の道へ瓦礫を投げ捨てた。
静まり返っていた村の中に重い衝撃音が響く。赤剥はすぐに首の向きを急変させ、音の発生した方向を捉えた。
喉の奥で唸り声を鳴らしながらカウルが落とした瓦礫に向かって大股に近づく。身の毛のよだつ相貌が真下に見えた途端、カウルは抜いていた剣の切っ先を向け、屋根の上から飛び降りた。
刃が首の真後ろに突き刺さり赤剥の肉へ食い込む。しかし強靭な筋肉に邪魔をされ、貫通はしなかった。
赤剥は雄叫びを上げ体を左右に激しく揺らす。カウルは振り落とされないように何とかしがみつきながら、突き刺さった剣へ傷の呪いを伝搬させた。それは傷であれば何であれ触れ続けている限り増幅し、進行、拡張させていく死の呪い。刻呪と呼ばれる怪物から広がり、全ての村人を封印せざる負えなくなった元凶。それを渾身の力で腕に込める。
次の瞬間、刃はあれほど硬く抵抗感のあった赤剥の筋肉をずるずると突き抜け、そして反対側へと飛び出した。
禍獣は生き物ではない。死んだ生物に呪いが受肉し、強制的に体を改変され彷徨っている存在だ。しかしその体を制御するための機能は元々の生物の構造に依存する。首の骨を絶たれ、膨大な黒い血液を体から吹き出した赤剥は、忌々しそうに濁った声を吐き出し、そのまま倒れ込んだ。
赤く充血した瞳から徐々に力が失われ、白く濁った何も映さない眼球へと還る。
「……もう大丈夫だよ」
カウルが声をかけると、先ほど救った少女が恐る恐ると言った調子で屋根の上から顔を出し、こちらを見下ろした。
村の中に入り込んだ禍獣はやはり三体だけだったらしい。
カウルが確認のために見て回っていると、禍獣の代わりに隠れていた数人の村人を発見することが出来た。
自分が退魔師であること、禍獣を倒したことを伝えると、彼らはカウルに感謝の言葉を述べたが、外の惨状を目にした途端、みな愕然としたように表情を凍らせた。
道のあちらこちらに飛び散る血や肉片。知り合いだった者たちの散乱した死体。
無理もない話だろう。三十人。いや五十人近くが住んでいそうな村だったのだが、今はもう両手で数えられるほどの人間しか生き残ってはいないのだ。
ここまでの被害を目にするのはカウルも随分と久しぶりだった。彼らの姿を眺めているうちにロファーエル村の惨事を思い出し、嫌な気分になる。
「ニナ!」
村の中央に生存者たちを集めていると、その中の一人の女性がカウルの後ろについていた少女に向かって大声を上げた。
少女を振り返ると、目に大粒の涙を浮かべ、その女性に向かって走り出す。母親なのだろうか。その女性に抱かれた少女は途端、堰(せき)が切れたようにわんわんと泣き始め、女性の服を濡らしていった。
――そうか。まだ生きている家族が居たんだ。良かった。
この状況で家族と再会出来たことは幸運以外の何物でもない。その光景を見て、カウルは少しだけ救われた気持ちになった。
「ほい。今回の報酬だ」
夕暮れ時の焔市場の中。古びた屋台の机の上に硬貨の詰まった袋が置かれる。数日前にあの村の人々が救いを求め、必死にかき集めた金だ。
村の半数以上が亡くなってしまった今、このお金をもっとも必要とするのは彼らだ。農場こそ無事だったものの、働き手の多くが居なくなってしまった今、食って生きていくだけでも一苦労だろう。
「どうした。早く受け取れよ」
馴染みとなった若い仲介屋が不審そうにこちらを見返す。カウルは若干の後ろめたさを感じつつも、重い袋を掴んだ。
「あの人たちはどんな様子だった?」
懐へ袋をしまいつつ、仲介屋へ質問する。
通常仲介屋は依頼達成の報告を受けると、仲間の人員を現地に飛ばす。依頼が本当に達成されたことを確認して、初めてそこで依頼票の所持者へ報酬を渡す決定が下されるのだ。
「全員村に残るらしいな。まあ農地はあるし、王都からも近い。祝福地としては機能しているんだ。せっかくだからひとつ提案をしといたよ。灰夜の国グレムリアに流れ、定住地を探している退魔師がちらほらいるが、そいつらに居住地を貸し出さないかってな。上手くいけば、禍獣対策も働き手もすぐに回復出来るだろうさ」
「……そうか」
退魔師が村に常駐してくれれば、少なくとも今回のような多数の被害は免れたはずだ。あの少女の顔を思い出し、なるべく腕の立つ退魔師が住み込んでくれることをカウルは切に願った。
北側の方から騒がしい声が聞こえる。あそこは聴聞師が旅で目にした情報を売る場ではあるが、今日はいつも以上に盛り上がっているらしい。そういえば、戻ってきてから少しだけ焔市場の空気が違っている気がした。どことなく皆ざわついているというか、落ち着きが無いと言うか。
「何だか今日は騒がしいな。面白い出来事でもあったのか」
ただの興味本位の質問だったのだが、仲介屋の答えはカウルの冷静さを失わせるのに十分過ぎる内容だった。
「何だ。お前さんまだ聞いてなかったのか。大事件が起きたんだよ。大事件」
「大事件?」
「ああ。死門がグレムリアに来る時期なのは知ってるだろ」
「もちろん。最近は東部の村での避難やら食料の確保に関する護衛の依頼が増えていたからな」
カウルは机の上に腕を乗せ、仲介屋が並べている依頼票を見下ろした。
「その死門が停止したんだ。グレムリアに上陸する直前でな」
「停止? 停止ってどういうことだ」
「文字通りの意味だよ。世界を常に巡回しているはずの九大災禍がその進行を止めたんだ。今死門はグレムリア北東の海上で停滞しているんだと。まるで黒陽の国アザレアの無明のように」
噂話が好きなのか、若い仲介屋は興奮したように言葉を続けた。
「現地は大変な騒ぎらしいぜ。本来は長くても一か月ほどで通り過ぎるはずの死の呪いがずっと吹き荒れるんだ。付近の植物や動物は死に絶えるし、逆に死門から離れた死体は呪いの影響を受けて頻繁に禍獣化しているらしい。流石のグレムリア王家も、禍獣に対処するために兵を出したほどだ」
死門が止まった? そんなことがあり得るのか。
カウルは信じられない思いで聞き返した。
「本当なのか。一体何があったんだ。九大災禍が動きを止めるなんて」
「原因はわからない。けれど、死門が止まる直前で地元の漁師が妙なものを見たらしい。いわく、白と黒の稲妻を放つ巨大な何かが死門の中で暴れまわっていたとか。そいつには三つの金色の瞳があったとか――」
その瞬間、カウルの脳内を強烈な衝撃が走り抜けた。動揺で思わず声が震える。
「三つの金色の瞳……?」
「ああ? 聴聞師の話だとな。何でも獣みたいな姿をしてたとか。死門の呪いの中を平然と突き進んでいたとか。ちょっと胡散臭い話だけどさ」
仲介屋は馬鹿にするように笑みを浮かべたが、カウルはとても笑えるような心境では無かった。あの黒い雨の降る真っ赤な空の光景が、金色の瞳でこちらを眺める刻呪の姿が鮮明に蘇り、背筋をぞっと逆撫でる。
「……その三つ目の獣って、まだ死門の中に居るのか?」
「さあ? そこまで詳しくは知らないよ。俺も今朝話を耳にしただけだし」
カウルの真剣な表情に面食らったのだろう。仲介屋は戸惑ったようにそう答えた。
喜び、期待、不安、恐怖。様々な感情が雪崩のように渦巻き暴れ狂っている。
白と黒の雷を操る三つの金色の瞳。確証は無い。だがそうとしか思えなかった。刻呪だ。ロファーエル村を地獄に突き落とし、カウルに傷の呪いを与えた元凶。
なぜ死門の前に現れたのか、なぜ死門が動きを止めたのか、目的はさっぱりわからない。だがもしそれが刻呪なら、ずっと探し続けてもまったく手がかりを得ることの出来なかったあれが、ようやく手の届く場所に姿を見せたということだ。
「その仲介屋ってまだいるのか」
「ん? ああ。あいつにとっては稼ぎ時だからな。しばらくは王都グレイラグーンに滞在していると思うぜ」
「そうか。わかった」
早々に仲介屋との会話を終わらせると、カウルは居ても立っても居られず、そのまま聴聞師の下へ走った。何人かの前を聞いて回り、それらしき講談を終えた直後の聴聞師を捕まえ、話しかける。聴聞師は面倒そうにしいていたが、カウルがいくらかの硬貨を手渡すと、態度を変え嬉しそうに説明をしてくれた。
死門が停滞したときに謎の化け物を見た村と漁師の名前。その漁師が目撃したという小舟に乗った黒衣の男。話を聞けば聞くほど、カウルの心臓は早鐘を打っていった。
刻呪は偽祈祷師によってカウルを媒介にし、封印の中から解放された。ロファーエル村の人々を虐殺した後あれは姿を消したが、状況から考えて偽祈祷師が何らかの手段で手札にしている可能性が高い。
やはり間違いない。あれがようやく姿を見せた。
じんわりと掌に汗が浮かぶ。
カウルは聴聞師の下から離れると、すぐさまその村へ行こうと考えた。食料や装備など、瞬時に必要なものを頭の中で組み立てる。
聞いた村の場所は馬に乗ればここから数週間で辿り着ける距離だった。急いで向かえば、まだ手がかりを得られるかもしれない。早く買出しを済ませてベルギットに伝えよう。ベルギットに……――。
そこでカウルは足を止めた。
脳裏に現在の彼女の姿が浮かぶ。
年老いた老婆。年々衰弱し、今ではほとんど寝て過ごすことが多くなってしまったカウルの剣の師。命の恩人。
もし海岸の村で刻呪の手がかりが掴めれば、カウルは迷わずそれを追い続けるだろう。そうなれば、もう生きている彼女には二度と会えないような気がする。
彼女には剣を教えてもらったという大恩がある。彼女のおかげで自分は禍獣と戦えるだけの力を得た。けれど、ここで刻呪の痕跡を見逃せば、次いつまたこんな機会が来るかもわからない。
焦り慌てていた気持ちがいっきに静まり、冷さを感じる。
ベルギットに話さなければならない。自分の目的と、これからのことを。
カウルは複雑な思いで奥歯を噛みしめ、朱に染まった空を見上げた。
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