第40話 ベルギット(3)

 傷が治ってから最初に教えられたのは、受け身の取り方と身のかわし方だった。

 前転、後転、横跳び、飛び込み、ひたすらその繰り返しだ。

 素晴らしい剣技を教えてもらえると思っていたカウルにとって、ベルギットのその指導は少々期待外れなものだった。自分は何回も禍獣と遭遇し生き延びてきたのに、なぜ今更こんな練習をしなければならないのだろうか。少しだけ苛立ちすら覚える。

「不服そうな顔だな」

 地面の上を転がり続けるカウルを見て、切り株に腰を下ろしたベルギットが心を読んだように言った。彼女の手には指導用に削った棒が握られている。

「回避技術は対禍獣戦闘の基本中の基本だ。何より大事と言ってもいい。あまり馬鹿にするな。その動きが出来るか出来ないかで、生死を分けることが多々あるんだぞ」

「……馬鹿にしてなんていません。ただ、もう何日もずっとこの練習だけです。たまには剣を振らせて欲しいと思って」

「教えを乞いた以上、私のやり方に従え。不服ならいつ帰っても構わない」

 棒を地面に軽く当て、ベルギットはカウルを睨みつけた。それが冗談でないことは、よくわかっている。

 カウルが黙っていると、ベルギットはため息を吐き、言葉を続けた。

「剣技とは本来、人と人が争う場合を想定して作られた技術だ。その動きの多くは相手が二本の足で立ち、二本の腕で武器を持って攻撃してくることを想定している。だが禍獣が相手の時は、その想定で身に着けた常識が通じない。違いをよく理解して対応に当たらなければ、凄腕の剣士だろうとあっさり殺されてしまうことになる。

 筋力、攻撃の種類、体の大きさ。間合い。差異は無数にあるが、最も気を付けなければならない点は、禍獣は人と違い、恐怖を抱かないということだ。

人の場合、剣を防がれればそれで足は止まるが、禍獣はそんなことなど気にせず直進し続ける。そして力も重さも違う禍獣に強引に押し切られれば、人間同士の争いのように防いだり鍔迫り合いをしようとしたところで、禍獣の突撃の勢いに巻き込まれ技のほとんどが機能しなくなってしまう。

 だから禍獣との争いの時は、なるべく大きく遠くへ攻撃を回避する必要がある。そして逆に人間が相手の時は、隙を作らないために最低限の小さな動きで回避し、細かく立ちまわらなければならない」

 カウルは赤剥と蛇鎌との戦いを思い返した。無我夢中で逃げていたが、確かに自分は常に転がる様に身をかわしていた気がする。もしあの時に剣士を気取って綺麗に避けようとしていたら、確かに命は無かったかもしれない。

 ベルギットのその説明は、ある程度納得できるものだった。

「……わかりました」

 カウルはしぶしぶ練習を続けようとして、

「そんな気の籠らない状態だからいつまでたっても終わらないんだ。一回一回が本気の実践だと想定して転がれ。じゃなければ練習をする意味がない」

 冷たい声でベルギットに怒鳴られる。

 せっかく剣を教える気になってくれたのに、あまり彼女を不機嫌にさせるわけにはいかない。彼女の実力は確かなのだ。内心不満はたくさんあったものの、それを押し殺し、今は馬鹿になって指示に従うしかなかった。

「円を描くように体を転がせ。衝撃を逃がすんだ。それじゃあ骨を痛めるぞ」

 体の向き。手の付き方。視線の動き。ただ受け身をとるだけという単純な行為に対して、ベルギットの指摘は実に細かく妥協を許さなかった。

 時には棒で攻撃し、時には大きさの違う石を投げ、回避の使い分けを試した。

 ひたすら転がり、受け身を取り、相手の動きを観察し続ける毎日。

 カウルが実際に剣を持てるようになったのは、結局、それから三か月後のことだった。

 


 山草で作った煮汁をひびの入った深めの皿に入れ、ベルギットへ差し出す。暗い夜空の下だったが、彼女は正確にそれを受け取り足元の台座へと置いた。

 しばらくの間、二人がスプーンと皿を動かす音だけが響く。正直ってあまり旨いとは言えない出来だったが、ベルギットは文句を言わなかった。

 口元にスプーンを運びながら、カウルは何となく彼女を盗み見た。特段、理由があったわけではない。

「何をじろじろ見ている」

 ベルギットがいつものように不機嫌そうに言った。カウルは慌てて口の中に入れた煮汁を飲み込み、言葉を探した。

「その……ベルギットさんって、何でこんな森の中に一人で住んでいるんですか。街の中に住もうと思えば、いつでも住めるだけの実力はあるのに。あれだけ焔市場で名を馳せていれば、有名な退魔師団からだって引く手数多ですよね」

「一人の方が好きなんだ。街の中は人が多くて疲れる。私にはこの生活の方が性に合っているのさ」

 鍋から煮汁を自分の皿にすくい、淡々と答えるベルギット。それが嘘だとは思わなかったが、カウルには何か別の理由がある気もしていた。

 再び煮汁をスプーンで飲みながら、彼女に向かって尋ねる。

「ベルギットさんて、ここに来るまで何をしていたんですか。どうやってあれだけの剣技を学んだんです? 灰夜の国の騎士たちが扱う剣技とはだいぶ系統が違う気がしますけど」

 彼女の実力はあまりに人間離れしている。カウルは無遠慮だと思いつつも、つい質問し続けてしまった。

 ベルギットはじろりとこちらを見つめたが、怒り出したりなどはしなかった。ただ静かに問いかけに答える。

「元々は、青影の国ロズヴェリアで兵士をしていた。……そこでわけあって退魔師になってな。今の剣技は全て実践で身に着けたものだ。見覚えが無いのは、我流だからだろう」

 世界の最北端に位置するロズヴェリアは、雪山と氷山に囲まれた氷の国であり、三神教よりも古代の精霊信仰を未だに維持しているという稀有な国だ。その国民はいくつもの部族から構成され、たとえ農民だろうと有事には剣を持って戦う戦士の国であり、知人同士の結束が強い分、旅人や他国の人間に対しては実に排他的で有名な国だった。

「どうして退魔師になったんですか? 兵士の方がいい暮らしが出来そうですけど」

 ほんの興味本位の質問。しかしカウルがその台詞を口に出した途端、ベルギットの眉間に一瞬皺のようなものが刻まれた。何かに耐えるような、苦いものを飲み込むような、そんないびつな変異。

 ベルギットは少し黙った後、むすっとした表情のまま答えた。

「個人的な事情だ。あまり詮索するな」

 何か嫌な思い出でもあるのだろうか。気になったが、これ以上深く聞くのは流石に無遠慮すぎる。カウルはベルギットの表情を見て、それ以上の追及はすべきでないと判断した。

 焚火に組んでいた薪が弾け、火花が散る。灰となり支えを失った薪がごとりと下に落ちた。

 ベルギットは焚火を見つめながら、カウルへ問いかけた。

「答えてやったついでだ。そろそろお前のことについても教えてくれないか。私が焔市場に出向くたびに、お前は必ずついてきていたな。お前は仕事を受けるでもなく、ただひたすらに仲介屋や調聞師の間を走り回っていた。一体何を確認していた? お前が私に剣技の教えを乞いたことに関係があるのか?」

 カウルに剣技を教えつつも、ベルギットは生活費を稼ぐために定期的に焔市場へと出かけていた。カウルはそのたびに彼女に同行し、彼女の戦いを見て学ぶと同時に、焔市場で聞き込みを行っていたのだ。ロファーエル村や偽祈祷師について新たな出来事は無いか、どこかで刻呪が現れたりしてはいないのか。結果は、いつも同じだったけれど……。

 真実を話したところで、ベルギットが聖騎士へ告げ口をしたり、呪われているからとカウルを卑下するとは思えない。しかしどうしても、自分の身に起きた出来事について話す気にはまだなれなかった。何故かは自分でもよくわからない。

 ベルギットはしばらくの間カウルの心を読もうするように顔を見つめていたが、途中で飽きたように目を逸らした。

 黒剣を抱えたまま立ち上がり、カウルに背を向ける。

「だいぶ寒くなってきたな。年寄りにこの寒さはこたえる。お前も片づけをして早めに寝ておけ」

 明日からは剣を持つことを許されている。ベルギットの言葉を聞いたカウルは、そのことを思い出し、深く頷いた。

「はい。そうします」

 小屋の扉を開け、暗い室内へと入っていくベルギット。普段は厳しく刃のように鋭い空気を纏っているのに、こうして寒さに背を曲げている姿を見ると年相応のおばあさんにしか見えない。自分の祖父母はとっくの昔に亡くなってしまったけれど、いっしょに生活していたらきっとこんな感じだったのだろうか。何となくそんなことを思った。



「――いいか。戦いにおいてもっとも重要な事は、咄嗟の反応だ。目の前に刃がひるがえった時、禍獣の牙が迫った時、複雑な戦略を考える余裕など無い。その時に現れるのは、体に覚え込ませた反射的な動作だけだ。

 剣技とはつまるところ、いかにその反応の種類を増やし、相手の細かな隙に応じた動きが出来るか。いかにその細かな隙を見出せるかだ。強くなりたいのなら、まずはその動きを徹底機的に体に覚えさせろ」

 晴れ空の下。灰色の木々と岩場の中で。ベルギットの声がなだらかに響き渡った。

 カウルは彼女に言われた通りの構えで剣を持ち、慣れない手つきで素振りを開始した。以前狼の巣から回収してきた古い剣だったが、ちょうどいい重さで手にしっくりとくる。

 なるべく素早く振る様に頑張っていると、

「――……速さはまだ意識するな。まずは姿勢と剣筋が正しい位置にあるかだけに集中しろ。剣技は全て基本的な動きの延長からなる。基本が間違っていれば、そこから伸びた枝の全ても狂ったままとなってしまうぞ。その差は実力が付けばつくほど、如実に影響を大きくする」

 あれほど弟子入りを嫌がっていたにも関わらず、ベルギットの教えはとても丁寧だ。何かを教える際には必ず理由を話し、時にはカウル自身に考えさせた。

 最初はどうなるのか不安だったものの、こうしていざ剣を触れるようになると、一日一日が経つごとに、ベルギットの指摘を直すごとに、カウルは自分が前に進んでいるのだと実感できた。強くなっていると思えた。

 それはロファーエル村を出てから、カウルが初めて感じることの出来る充足感だった。





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