第39話 ベルギット(2)

 大地に強く肩をぶつけ全身に衝撃が走ったが、痛みに苦しんでいる暇は無かった。

 視界の先に見えた岩の突起がゆっくりと動き、二対の鎌のような腕として輪郭を成したからだ。

 ――蛇鎌……!

 このままでは殺されると思ったカウルは、助けを求めてベルギットに目を向けた。しかし彼女はこちらを見下ろすばかりで、その場から動こうとはしない。最初からあそこに蛇鎌が居ることを知っていて、あえて自分を突き落したのだと、カウルは気が付いた。

 最終試験と彼女は言った。今の自分が蛇鎌に勝てるわけがないことなどわかりきっているのに、こんな真似をしてどういうつもりなのだろうか。自分はまだ何の剣術も戦い方も教えられてはいないのに。

 立ち上がった蛇鎌の体色が徐々に灰色から深い緑へと変色していく。細い管に強い風を送り込んだような呼吸音が轟き、網目のような複眼がカウルに狙いを定めた。

 くそっ……!

 悩んでいても仕方がない。今は生き残ることだけに集中するのだ。禍獣は決してこちらの都合など配慮してはくれない。

 数か月間もの間焔市場に通い続け、様々な仕事を請け負ったが、こうして真正面から禍獣と相対するのは、ガナヘルという退魔師に囮に使われたあの日以来のことだった。

 殺意しか存在しない視線を見た瞬間、殺されたハルカスの姿が脳裏に蘇る。カウルは恐怖に押し潰されないように、必死に己を鼓舞した。

 ――俺は一度赤剥を倒した。倒したんだ。今更禍獣一匹くらい……!

 気が動転していてはすぐに殺される。カウルは素早く深呼吸を繰り返し、何とか冷静さを保とうと蛇鎌を見つめた。

 あの二本の長い鎌のような腕。相手を斬ることよりも捕らえることに特化したそれは、形状の特性状、上から下に獲物を挟むような動きをするしかない。ならば蛇鎌よりも高い位置に獲物が上がれば、相手を捕らえることは難しくなるはずだ。

 幸いにも、この谷間には大きな岩が複数転がっていた。それらを利用して蛇鎌よりも高所に立てば、何とか戦うことは出来きるかもしれない。

 蛇鎌が体を伸ばし真っすぐにカウルへと突撃する。その前にカウルは横の岩場を駆け上がり、間一髪のところで攻撃を回避した。

 岩壁に衝突したものの、すぐに体を起こしこちらを見上げる蛇鎌。その大きな二対の複眼にカウルの怯えた顔が写り込む。

 脳内に焔市場で学んだ知識が駆け抜けた。蛇鎌の複眼は遠くのものが見えない代わりに、近くのどんな動きも捉えることが出来る。蛇鎌と遭遇した場合は絶対に正面には立たず、距離をとって遠距離から攻撃するか、囮を使って不意打ちで仕留める。それが定石だと。

 岩に上ったまま、カウルは何とか蛇鎌の背後へ回り込もうと様子を伺ったが、些細な動きの全てを蛇鎌の目に捉えられ、どのように動こうとしてもすぐに蛇鎌の向きが追従してきた。カウルは気圧されるようにじりじりと後ろ手に岩を昇り、一番上まで追い詰められていく。

 ナタを……! 攻撃するんだ。いくら見えていても、高所にいるこちらの方が有利。今なら傷を与えられる……!

 そう思い焦る手を腰のナタに伸ばしかけたところで、眼前に蛇鎌の顔が急接近した。尾に力を籠め体を垂直に立たせたのだ。

 カウルは咄嗟に後ろに身を投げ、後転するように岩から転げ落ちた。蛇鎌の腕はカウルの鼻先をかすめ岩場へと突き刺さる。

 一瞬判断が遅かったらと思うと、ぞっとする。ものすごい速度だった。

 巻き付くように岩場を上がり、カウルを見下ろす蛇鎌。細長い息の音が重く降り注いでくる。

 その音を耳にすると恐怖で足が止まりそうになる。カウルは慌てて立ち上がり、死ぬ思いで駆けだした。

 

 

 顔を真っ青にして少年が逃げ惑っている。

 真っ向からでは危険だと判断したのか、蛇鎌が近づく度に岩や崖を利用し上手く距離を離す。

 危険な場面は何度もあったが、その度に少年はぎりぎりのところで攻撃を回避し続けた。

 すぐにけりがつくと思っていたベルギットは、少年のその健闘を見てまたもや驚かされた。どう見ても素人の子供が必死に逃げ惑っているだけなのだが、妙なところで勘の鋭さを見せる。剣術の腕も技術も立ち回りも未熟そのもの。しかし生きることに対する執念だけは、相当なものだった。

 確かにまともに剣を振れるようになれば、いい退魔師になるかもしれない。そんなことを思いかけ、ベルギットは慌てて自分の思考を振り払った。剣を教えないためにこんな真似をしているというのに、一体何を考えているのだろうか。

 少年は蛇鎌から逃げつつ岩の上から跳躍し、岩壁に手をついた。そのまま谷を上るつもりのようだ。

 蛇鎌は谷底から腕を伸ばしたが、苦手な上方向に少年が居るため、上手く攻撃を届かせることが出来ず苛立ったように声を上げている。このままいけば、少年は見事に谷から五体満足で脱出してしまいそうだった。

 彼が谷を上がってしまえば、怪我を言い訳に山を下ろすことが出来なくなる。這い上がってくるのを妨害すべきだろうか。

 少年は恐怖に満ちた形相を浮かべていたが、その目には絶対に命を諦めないという覚悟が見えた。生きてここから出ると、やらなければならない事があるという覚悟が。

 ぎゅっと唇の端を結ぶ。顔つきも性格もまるで違う。けれどあの少年の足掻く姿を見ていると、何故か息子の顔が脳裏に浮かんだ。遥か昔に殺され失ってしまった、たった一人の息子の顔が。

 ――何故今更。……もう何年も思い出せなかったというのに……。

 鞘を握りしめる手に力が籠る。ベルギットは忌々し気に黒剣を見下ろし睨みつけた。

 ――お前が見せているのか。お前が……――。

 大きな石が転がり落ちる音。続いて耳鳴りのような鋭い鳴き声が響いた。顔を上げると、崖を登ろうとしていた少年の上方に、腕を地面に叩きつけ威嚇する蛇鎌の姿が見えた。別の個体が騒ぎを聞きつけてやってきたのだ。

 逃げようとして手を滑らせ、せっかく上ってきた崖を落ちていく少年。地面に体を打ちつけ悶える彼のそのすぐ目の前に、崖下にいた蛇鎌が迫った。

 ――まずい……!

 これは想定外の事態だ。いくらあの少年でも、二体の蛇鎌に挟まれては逃げようがない。

 あのままでは殺される。眼下の光景を前に、ベルギットは強い焦りを覚えた。

 


 蛇鎌の地面を這う音が間近で聞こえ、視界の端に深緑色の体皮が映り込む。

 落下した衝撃で全身に痛みが走っていたが、そんなものに構っている余裕は無かった。カウルは両手を地面に押し付け立ち上がった。

 ぎょろりとした複眼が食い入るようにこちらを見下ろす。この距離では逃げ切れない。

 ナタを抜き素早く構える。背後からは小石の転がる音が鳴り、もう一体の蛇鎌も迫ってきているのがわかった。

 ―まずい。まずいぞ……!

 一体でも厄介な蛇鎌が二体。それも前後を挟まれるという最悪の状況だ。

 汗でナタを滑り落としそうになり、慌てて掴み直す。心臓が、肺が、緊張で張り裂けそうなほどの悲鳴を上げていた。

 攻撃の速度では蛇鎌には勝てない。ならばあえて腕の一本を挟ませ蛇鎌の攻撃をしのぎ、その隙にナタで首を狩る。それしかない。

 背後の蛇鎌が崖を下り切り、とぐろを巻く音と独特な呼吸音が頭の後ろを刺激する。同時に、カウルは震える足を力ずくで押し出し、左手を顔の前に持ち上げた。

 正面の蛇鎌の腕が一瞬揺れ、視界から消える。次の瞬間、鞭で叩かれたような衝撃と熱が左腕と右足に走った。

 カウルはすかさずナタを振ろうとしたのだが、それよりも早く体が蛇鎌の下へと引き寄せられた。

「――あっ……」

 防御をする間も無かった。視界の大部分が一瞬にして蛇鎌の顎で満たされる。

 ――死ぬ――。

 思考がその言葉に支配される。カウルはほとんど無意識の内に、傷の呪いを発動させていた。

 カウルの腕をつかんでいた鎌腕が突然血を吹き出し、力を抜く。運がよくカウルのナタが当たり小さな傷を作っていたのだ。

 手が自由になったカウルはすぐさまに足を拘束している鎌腕にも切りつけた。接触の大きさよりもはるかに深い傷を負いながら、そちらの鎌腕も離れる。

 地面に転がったカウルは逃げようとしたが、挟まれた肉が強烈な痛みを発し、筋肉を強張らせた。

 体勢を戻した蛇鎌は足元で身動きを止めたカウル目掛け、鎌を突き刺すように腕を振り下ろす。

 腹に穴が開いた。カウルがそう思いかけた直後だった。甲高い音が響き土煙が目の前に立ち上がった。

 目を動かすと、黒い刃が灰色の鎌を受け止めていた。カウルの顔の直前で二つの切っ先が交差している。

 はためく紺色の外套。その隙間から、カウルの体をまたぐように立ったベルギットの姿が見えた。



 助けてくれたの、か――。

 カウルは安堵しかけたが、すぐにその感情も不安にかき消された。背後に降り立った蛇鎌が唸り声を上げて急接近してきたからだ。

 相対した相手には絶大の強さを誇る蛇鎌。それが前後からベルギットに襲い掛かる。風を斬るような高速の一撃。避けられないと、そう思った瞬間だった。

 正面の蛇鎌が腕を振るとほぼ同時に、ベルギットは最短の動きで黒剣を前に持ち上げた。陽光を反射した刃の側面が蛇鎌の腕を受け流し、そのまま手首を返す動きで一気に前にすり抜ける。

 耳障りだった独特の呼吸音が途絶え、カウルの頭の横に何かが落ちた。複数の窓から構成された不気味な目に、飛び出した二重の顎。それは斬り落とされた蛇鎌の生首だった。

 黒い血が降り注ぎ全身を濡らすも気にしている暇はない。すぐに背後に居た蛇鎌が腕を振り抜く。しかしベルギットは蛇鎌の攻撃に重ねるように黒剣を振り、途中から軌道を変化させて真一門に蛇鎌の胴体を切り裂いた。

 一瞬の出来事だった。

 さらに攻撃を加えようとした蛇鎌は、その動きのまま上半身が下半身の上から滑り落ち地面に着地する。粘着質な水音と共に広がる黒い血液の水たまり。それっきり、蛇鎌が動くことはもう無かった。

 カウルは自分の目を疑った。一体何が起きたのか理解が追いつかなかった。

 ベルギットは黒剣を宙で一振りし、付着した血液を払った。飛んだ黒い血液が岩場に飛ぶ。

 正面から勝つのは至難の業だと言われる蛇鎌を、それも前後を挟まれた状態で二体とも倒した。凄まじいほどの腕前だ。今見たものが現実なのかと一瞬疑いそうになる。

 動揺と緊張で思うように思考がまとまらない。カウルがそのまま倒れていると、ベルギットはゆっくりとこちらを振り返った。手を差し出してくれるのかとも思ったが、彼女は何故か冷たい目でカウルを見下ろしていた。まるで獲物を眺める獣のような瞳。普段のベルギットとは別人のような表情だった。

「ベルギット……さん?」

 蛇鎌に挟まれた肩と足の傷が波のように痛む。カウルが歯を食いしばりながら見返すと、ベルギットははっとしたように目を見開き、黒剣を鞘にしまった。

 鍔が鞘とぶつかる金属の音が、静かにその場に響く。

 顔を上げた彼女の表情は、いつもと同じ、不愛想な老婆のものへと戻っていた。

「……痛むか」

 ベルギットはどことなく暗い顔で聞いた。

 カウルは約束のことを思い出し、痛みに耐えながら愛想笑いを浮かべる。

「少し。でもこんなの大した傷じゃありません」

 前に赤剥にやられた傷はもっと深く大きかった。蛇鎌の腕は相手を素早く拘束することに特化している分、その殺傷力自体は低いのだ。

 カウルは無理に立ち上がろうと腕に力を籠め、そして痛みで小さな悲鳴を上げた。

「その傷ではもう私に付いてこれないだろう。すぐに街で治療を受けるべきだな。山を下りるというのなら、手を貸してやってもいい」

 その場合、約束は破棄ということなのだろうか。ベルギットの表情を見て、カウルはすぐにその事実を悟った。

 冗談じゃない。ここまで耐えて。ここまで来て。あと三日だけだったのに、何で諦めなけれなならないのだろうか。嫌だ。先ほどの剣技。間違いない。この人は本物だ。本物の実力者だ。間違いなく今まで焔市場で見てきたどの退魔師よりも強い。

 この人についていけば強くなれる。それが分かったのに、こんなところで負けるわけにはいかない。

 腕と足は燃えるよう熱く、少しでも動かすだけで悲鳴が漏れそうになる。けれどカウルは歯を食いしばり、必死にその痛みに耐え体を起こした。

「――おい」

 ベルギットが止めようと声をかけるも、構わずに立ち上がる。蛇鎌の腕の棘に穿たれた穴から血が噴き出し、肌を伝って地面に落ちた。

 ほんの僅かな差だが、今の自分の肉体は傷の呪いによって強化されている。三日。たった三日なのだ。近くには川もある。退魔師として活動すれば、こんな怪我など日常茶飯事のはずだ。こんな怪我で泣き言を漏らしていては、あの刻呪と戦うなんて、夢のまた夢だ。俺は絶対に帰る。あの村を取り戻すんだ。こんなところで諦めて溜まるか。

 ナタを地面に突き刺しそれを支えに仁王立ちする。顔を上げると、困惑した表情のベルギットと目が合った。



 正気ではないと、ベルギットは思った。

 何故この少年はここまでして自分の剣技を学びたいのだろうか。一体何がそこまで少年を駆り立てている?

 腕と太ももから血を垂れ流し、今にも倒れそうな体を必死にナタで支えている。こんな状態ではもはや数週間はまともに走ることすら出来ない。残り三日を禍獣が溢れるこの山の中で過ごし自分と行動を共にするなんて、あまりに馬鹿げた行いだ。

 少年は真珠のような黒い瞳でこちらを見上げている。そこには甘えも期待も何もなく、絶対に残り三日間を耐え抜くという決意が見られた。

 本気だ。彼は本気でやり遂げる気なのだ。

 ベルギットは唇の端をぎゅっと結んだ。

 今強引に街へ帰しても、少年は決して納得はしないだろう。それは少年の意思によるものではなく、約束を破ったことにはならないからだ。きっと何度でもここを訪れて剣を教えてくれと頼み込んでくるに違いあるまい。しかしだからと言って、このまま放置すれば禍獣や猛獣の餌になることは目に見えている。

 少年の怪我は彼が自らの責任で負ったものではない。自分が陥れてつけさせた傷だ。この傷で少年が死ぬことは、自分が殺すのと何も変わらない。

 子供は殺さないと誓った。誓ったのだ。しかしこれでは――……。

 ぎゅっと黒剣の鞘を握りしめる。冷たい木の感触が手の中いっぱいに広がった。

 じっとこちらを見返す少年の顔が、自分を慕い、そして殺された息子のものへと重なる。

 ――くそっ……――。

 うめくように、ベルギットは声を漏らした。


 

 小屋の隙間から風が忍び込み、体を撫でていく。その心地よさを感じながら、カウルはゆっくりと体を起こした。

 あくびをしながら布の撒かれた上腕部を撫でる。穿たれた当初は常に燃えるように熱く、まともに動くことすら辛かったのだが、今はもうだいぶ楽になっていた。やはり傷の呪いを受けたことで、体の何かが変わったのだろう。少しだけ再生力が以前よりも増しているようだった。

 小屋の中にベルギットの姿は見えない。どうやら外に出ているらしい。カウルは壁に手をつき、寄り掛かる様に立ち上がった。

 ――あの日から、三日が経った。

 蛇鎌によって傷を負わされた直後、カウルはベルギットに見捨てられると思っていた。彼女が口に出した“最終試験”の内容が蛇鎌に勝つか逃げ切るかということであれば、殺されかけ彼女に命を救われた自分は間違いなく失格になるはずだった。けれど意外なことに、彼女はカウルを街に返すようなことはしなかった。それどころか治療を施し、小屋で寝泊まりすることを許してくれたのだ。

 腐りかけ歪んだ扉を開け外に出る。強い日差しに瞼を細めながら顔を上げると、切り株に座り、黒剣を研いでいるベルギットの姿が見えた。

 激しく動けないカウルの代わりに朝食をとってきてくれたのだろうか。焚火跡の横に真っ赤な果実が二つほど置いてある。カウルは緊張感を高めながら、彼女に話しかけた。

「おはようございます」

「……ああ」

 ベルギットはちらりとこちらをいちべつし、短く答えた。

 カウルは痛む足を引きずるように彼女へ近づき、慎重に言葉を選んだ。

「――ベルギットさん。今日で約束の一か月です。これで、俺に剣を教えてくれますか」

 カウルの言葉を耳にしたベルギットは、ゆっくりと手の動きを止めた。眉間には大きな皺が刻まれている。

 そっと黒剣を木の机の上に置き、見つめる。苦しそうに、それでいてどこか自嘲するように、ベルギットは小さなため息を吐いた。

「……約束は約束だ。いいだろう。剣は教えてやる」

 それは、カウルがこの一か月間、ずっと待ち望んでいた言葉だった。思わず笑みが浮かんでくる。

「あ、ありがとうございます……!」

 これでようやく、剣を学ぶことが出来る。ようやく、村のみんなを救う足がかりが出来るのだ。

 村を出てからずっと苦しかった。何も出来ない自分が憎かった。退魔師たちに馬鹿にされ、騙され、親しくなった相手を助けることすら出来なかった。けれどもう、そんな生活も終わりだ。ベルギットの実力は間違いなく本物だ。彼女に教えを乞えば、きっと強くなれる。きっといつか、父を、母を、みんなを救い出すことが出来る。

 傷がずきずきと痛んだが、そんなことなどもはや気にならない。感情が高ぶったせいで、思わず目じりも熱くなる。

 ベルギットはそんなカウルを見て、釘を差すように言った。

「ただし、あくまで基礎的なことを教えるだけだ。長々とお前に付き合うつもりは無いぞ」

「それでも十分です」

 いつどこで偽祈祷師と刻呪の噂が聞こえるかもわからない。カウルにしても、ここで何年も時間を使うわけにはいかなかった。

 基本的な戦い方さえ身に着けることが出来れば、あとは実践で実力を付けていけばいい。素人感情でそう安易に考える。

「……そうだ。短い間なら大丈夫なはずだ。短い間なら……」 

 何やら小さな声でぶつぶつと言葉を繰り返すベルギット。カウルが気になり視線を向けると、ベルギットは気まずそうに視線を逸らした。

 そのまま地面を睨みつけるように、言う。

「――……一つだけ約束しろ。私のこの剣には、何があっても決して触れるな。これを破れば、いつどんな状況だろうとお前に剣を教えるのはそこでまでだ」

 ――剣?

 カウルは机の上に置かれているザナジール鋼の黒剣を眺めた。いつもベルギットが肌身離さず手に持っていたものだ。

 身なりは汚くぼろぼろのベルギットだったが、確かにあの黒剣だけは綺麗に磨き、頻繁に手入れを行っていた。よほど大事なものなのだろうか。誰かの形見か、それとも家宝なのか。カウルは気になったが、今はあえてその理由を聞かないことにした。せっかく剣を教えてもらえることになったのに、ここで彼女の気分を害したくないと思ったからだ。

「わかりました。肝に命じておきます」

 カウルが答えると、ベルギットは満足したように頷いた。

 朝日がよく出ているからだろうか。

 その時カウルの目にはなぜか、鈍く輝く黒剣がじっとこちらを見つめているような錯覚を覚えた。

 まるで獲物を眺めるような、そんな視線を――。




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