第38話 ベルギット(1)

 岩場の中で、一人の老婆がこちらを見つめていた。

 一体いつからそこに立っていたのだろうか。全く気配を感じ取ることが出来なかった。

 ぼろぼろの外套に、後ろに束ねられた真っ白な長い髪。一見すると乞食のようですらあったが、明らかに纏っている空気が違う。彼女が自分の探していた人物だと、カウルは確信を持った。

 岩に刺さった黒剣。そこへ伸ばしかけていた腕を下ろし、彼女へと向き直る。

 どう事情を説明すればいいのか迷っていると、先に老婆が口を開いた。

「お前も、金品目当ての野盗か」

「野盗? 違います。俺は……」

 そういえば焔市場で若い仲介屋が、彼女の報酬を狙う者たちが居ると言っていた。自分もその一人だと思っているのだろうか。

 老婆の紺色の外套がゆらりと揺れる。直感で危険を感じ、カウルは慌てて事情を説明した。

「俺は、野盗じゃありません。あなたの噂を聞いて、是非教えを乞いたいと思い、ここに来たんです。ベルギットさん……ですよね」

 老婆はカウルの顔を見つめ、しかし答えなかった。

 ゆっくりと歩み、こちらに向かって突き進む。カウルが体をずらすと、彼女は岩に突き刺さっていた黒剣を抜き、それを鞘へとしまった。

「……また手放しそこねたか」

 何だかよくわからない台詞を呟く。

 このまま立ち去る気なのだろうか。彼女が背をこちらに向けたので、カウルは慌てて食い下がった。

「お願いです。ベルギットさん。俺に剣を教えてくれませんか。どうしても強くなりたいんです」

「弟子は募集していない。他を当たれ」

 老婆――ベルギットは突き放すように答えた。こちらを振り替えすらしない。

 やっと見つけた実力者なのだ。絶対に彼女を逃すわけにはいかない。カウルは恥を捨てて頼み込んだ。

「お願いします。俺にはあなたの力が必要なんです。あなたしか――……」

 重度の呪いを受けた人間は祈祷術を扱うことが出来ない。傷の呪いを持つ以上、カウルが聖騎士になることはどうあがいても不可能だ。これまでの出来事を思い出し、嫌でも声に力がこもる。本当に実力があるのかはまだわからない。けれど今のカウルには、彼女以外にすがれるあてがなかった。

 ベルギットは心底面倒くさそうにため息を吐いた。もう立ち去れと言わんばかりに首を軽く左右へ振る。

「ベルギットさん……! 待ってください」

「――くどいぞ」

 流石にいら立ちを覚えたようだ。彼女は横目で鋭くカウルを睨みつけた。脅しではない。これ以上何かを言えば本気で殺されてしまいそうな冷たい瞳だった。

 少し前までのカウルなら、ここで諦めて帰っていたかもしれない。しかし今のカウルには背負うものがあった。

 自分があの偽祈祷師の言葉に乗ったから、生きたいと願ったから、村人たちは傷の呪いを受け聖騎士に封印された。自分が諦めることはロファーエル村の全員を見殺しにすることと同じなのだ。それだけは例えどんな目にあっても許されるわけにはいかない。

 カウルは恐怖を押し殺し、敵意の籠ったベルギットの視線をまっすぐに見返した。

 ベルギットの眉が僅かに動く。気のせいか、少し驚いている様にも見えた。

 しばらく無言で見つめ合っていると、ベルギットが怪訝そうに聞いた。

「……なぜそこまで私にこだわる? 目的は何だ」

「それは……」

 傷の呪いを放つ刻呪には、同じく傷の呪いを持つカウルしか近づくことが出来ない。だからベルギットのように一人で戦える技術が必要なのだが、それを説明すればおのずと自分が呪われていることについても話さなければいけなくなってしまう。もし聖騎士に自分の存在が知られてしまえば、いつまたあの封印の中に囚われてしまうかもわからない。今の時点ではまだ、そこまでベルギットを信用するわけにはいかなかった。

 どう言い訳をすれば納得させられるのだろうか。カウルが言いよどんでいると、何かを悟ったように先にベルギットが口を開いた。

「……復讐か? お前のような奴が一人で戦える力を得たいなどど無謀なことを言うには、そんな理由しかないからな。退魔術や祈祷術でなく剣技にこだわるということは、相手は人間だろう」

 どこか知ったようにそう決めつける。

 カウルは彼女に返答しようとして、言葉を止めた。

 偽祈祷師に対する憎しみがないかといえば、嘘になる。どうにか見つけ出して懲らしめてやりたいと思っているし、一方的に村を封印した聖騎士たちにも怒りはある。だがそれが復讐心かといえば、違う気がした。

 目を閉じると頭に浮かぶのは、いつも同じ光景だ。笑顔で食卓を囲む父と母の姿に、一緒に村の中を駆け回るゴートとモネ。カウルはただ、もう一度彼らに会いたいだけだった。それだけが唯一ある望みだった。

 ぎゅっと背負った荷袋の紐を掴み、慎重に言葉を選ぶ。

「……復讐では、ありません。教えを乞いているのに失礼かもしれないですけど、理由は言えないんです。ただ、どうしても、――どうしても俺にはあなたの剣技が必要なんです。祈祷術でも呪術でもなく、この体一つで戦えるようなそんな力が……。教えてくれるまで、俺は絶対に諦めません。例え斬りつけられても、あなたにお願いし続けます」

 了承してくれるまで絶対にここから立ち去らない。そう覚悟を持って言う。ベルギットは煩わしそうにカウルを眺め、ため息を吐いた。

 


 黒い短髪の利発そうな少年が、歯を食いしばる様にじっとこちらを見ている。自分が何を言おうと、どうあっても諦めるつもりはないようだ。この分では例え夜になろうと帰ってくれはしなそうだった。

 ――……さてどうしたものか。

 ベルギットは困った。何やら訳ありのようではあるが、自分には、他人と一緒に行動していたくない理由がある。

 いっそこの少年を斬り捨ててしまえれば楽なのだが、それはベルギットの矜持(きょうじ)に反する行為だった。この黒剣を手にした時に、子供だけは殺さないと約束していたからだ。

 適当に話を合わせ、隙を見て逃げるべきだろうか。しばらく山を離れていれば、違う場所へ移動したと思って諦めてくれるかもしれない。……いや、こんな山奥にいる私を訪ねてくるくらいなのだ。少年はきっと焔市場へ出入りをしている。私があそこへ通う以上、待ち伏せされたら結局振り出しに戻るだけだ。何よりこの山は気に入っている。こんな子供一人のせいでここを失うのは、あまりに損な気がした。

 眉間にしわを寄せ考え込む。しばらくしてベルギットはとある案を思いついた。多少手間はかかるが仕方がない。少年を納得させるにはこれ以上の策はないだろう。

「……そこまで言うのであれば、少し試させてもらおうか」

「試す?」

 少年は怪訝そうに聞き返した。

「一か月間だけ、様子を見てやる。ここでの生活についてくることができれば、剣を教えてもいい」

「えっ、本当ですか……!」

「ただし、お前が禍獣に襲われようと、崖から落ちかけようと、私は決して助けはしない。食料も寝床も自分で確保し、勝手に生き延びろ。それが条件だ」

 王都に近いとはいえ、ここには多くの禍獣や猛獣がいる。祝福地なんて便利なものは一つもないし、例え熟練の退魔師ですら生きていくのは容易ではない。一か月と言ったものの、それはあくまで建前だ。この森で立て続けに無理難題を押し付け危険な目に遭わせれば、すぐに辛くなって勝手に逃げ出してくれると思った。

「ありがとうございます。出来る限り頑張ります」

 心底嬉しそうに答える少年。恐らく状況を理解できていないのだろう。

 ベルギットは憐れみの目で少年を見返し、そう考えたのだが――後ほど、彼女はこの提案を深く後悔することになるのだった。



 少年はベルギットが住む小屋の近くにある、大きな岩場の隙間に寝床を構えた。地面から少しだけ高い場所に位置するそこは、周囲を見渡すことが出来るため、禍獣を察知し身を隠すことに適した場所だった。

 素人にしては中々に理にかなった選択である。たった一人でここまでたどり着けるくらいなのだ。それなりに知恵は回るのだろう。

 普通にしていては意外と長く持ちそうだ。ベルギットは無理やりにでも、少年を危険な目に遭わせようと考えた。

 黒剣を腰に差し小屋を出る。すぐにこちらの動きに気が付いた少年が岩場から降りてきた。

「こんな夜更けに出かけるんですか」

「夕食の準備をしてなくてな。その確保だ」

 剣を教える条件はベルギットと行動を共にし、一か月耐え抜くこと。当然、少年もベルギットの後に付いてい来る。

 近場に果物や小動物の住処がある場所を知っていたが、ベルギットは遭えて険しい道を進み小屋から離れた。まさか夜中にこれほど歩かされるとは思ってもいなかったのだろう。少年は慣れない山道と夜の移動に苦労しているように見えた。

 ある程度進んだところで、ベルギットは前を指さした。

「あれが見えるか」

 灰色の木々の間で草を食べている鹿。少年はそれを見つめ不思議そうにこちらを見上げた。

「鹿……ですか」

「ああ。最近肉を食べて無くてな。あれを確保したい。お前、狩りは得意か」

「正直いって、あまり得意とは言えないですけど」

「ならちょうどいい。もし剣を教えることになれば、食事の用意はお前の仕事だ。練習だと思って、あれを狩ってこい。出来るまで戻ってくるな」

「え、俺がですか……?」

「一か月間、私の指示には逆らわないという約束だぞ。もう破るつもりなのか」

 幾多の禍獣が徘徊する山。それもこんな夜中。死刑宣告にも等しいベルギットの言動だったが、少年は悔しそうに表情を歪ませたものの、逆らいはしなかった。

 腰に括り付けたナタの柄を握りしめ、額に汗を滲ませながら歩き出す。ここで諦めてくれれば楽だったのだが、少年は真面目に鹿を捕まえにいくつもりのようだった。

 暗がりの中を丸まった背中がおっかなびっくり進んでいく。ベルギットは少年の行く先を見届けることなく身をひるがえした。これでもう少年には会わなくて済むかもしれないと、そう思いながら。


 ――彼が帰ってきたのは、三日後の昼だった。

 丸太に座り黒剣の手入れをしていたベルギットは、背後に人の気配を感じ素早く振り返った。また金銭目当ての野盗かと思ったのだが、目の前に立っていたのは、自分が山奥に置いてきたあの少年だった。

 彼の肩にはしっかりと大きな鹿が担がれていた。すでに血抜きは終えているらしく、生臭い匂いが鼻につく。

 まさか本当に狩ってくるとは……。

 この山の中で素人が禍獣を避けて動物を狩り、しかもそれを抱えて戻ってくるなんて、かなり難易度の高い真似だ。血の臭いをまき散らせていれば猛獣も寄ってくるだろうし、この少年にそれらを撃退できるほどの技量があるとは思えない。一体どんな手を使ったのだろうか。

 よく見ると、少年の体には茶色の汚れのようなものが大量に付着していた。鼻をもがれそうになるほどの悪臭。この臭いはよく知っている。禍獣の死臭だ。どうやら少年は禍獣の亡骸の血肉を全身に塗りたくることで、猛獣を回避してきたようだった。

 確かにこの山には私が倒した禍獣の亡骸がいくつもあるが……まさかそんな手を使うとは。呪われるのが怖くないのか。例え亡骸とは言え、禍獣の肉体には九大災禍の呪いが宿っているというのに。

 少年は鹿を地面に下ろすと、満足げな笑みを浮かべ、そしてそのまま崩れ落ちた。ベルギットが見下ろすと、微かに背中が上下して見える。外傷は見られない。単純に疲労で倒れただけのようだった。

 ここで倒れられたら自分が世話をするしかない。悪臭を放つ少年を見下ろしベルギットは苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべた。



 それからも、ベルギットは理不尽なお願いを少年に与え続けた。

 三つほど離れた山にある珍しいキノコを取って来させたり、狼の住処から野盗の持っていた剣を回収させたりと、思いつく限りの嫌がらせをしてみた。

 しかし少年は決して諦めることなく、その度にぼろぼろになりながらも機転を利かせ、この小屋へと戻ってくる。実力も経験も無い。しかし根性と知恵だけで何とか生き延び続けた。

 そんな生活をしばらく続けている内に、気が付けば、約束のひと月まで残り三日というところまで迫ってしまっていた。それはベルギットにとって完全に予想外の結果だった。まさかここまで少年がついてこれるとは夢にも思ってはいなかったのだ。

 捕ってきた魚を焚火にかざし、よだれを我慢しながら昼食を作る少年。いつの間にか、ベルギットの食事の用意も少年が行うようになっていた。

 ベルギットは焦りを覚えた。このままでは確実に少年は約束を守り切る。すぐに逃げてしまうと思っていたのに、逆にこの一か月のせいで、よりたくましく成長してしまった。彼の根気に呆れすら覚える。

 焼けた魚の香ばしい香りが鼻につく。

 今か今かと魚の出来を待つ少年を眺めて、ベルギットは複雑な気持ちになった。

 剣を教えること自体は、嫌いではない。

 自分の剣技はかなり高い領域にあると自負しているし、それを引き継いでくれる者がいることはありがたいことだ。しかし今の自分が剣を教えると言うことは、少年に重荷を与えることになる。彼のその後の人生の全てを犠牲にしてしまいかねない大きな重荷を。

 ちらりと腰に差した黒剣を見下ろす。それはいつものように鈍く輝き、ベルギットを見返していた。

 ――そうだ。弟子は取れない。取るべきではないのだ。

 例え、どのような手を使っても。

 嬉しそうに魚が焼けたことを報告する少年。それを眺めつつ、ベルギットはとある覚悟を決めた。



 昼食を食べ終え一息ついた後、ベルギット片づけをしている少年に向かって話しかけた。

「少し山の奥へ行くぞ。ついてこい」

「また狩りですか」

 少年はもう慣れたように聞き返した。手に持ったくしを燃え尽きた焚火へ放り込み、足で奥へと寄せる。

「いや、薬草を集めたくてな。いい場所を知っているんだ。量が欲しいから手伝ってくれ」

「わかりました。荷袋を持ってきます」

 すぐに返事をし、岩場の上からぼろぼろの荷袋を持ってくる。一度破れたものを繋ぎなおしたのか、所々に布の不揃いさが目立つものだった。

 小屋のある山頂付近から南下し岩場を抜ける。川を渡って灰色の森へ踏み込むと、所々から禍獣の気配を感じた。彼らと遭遇しないように慎重に道を選びながら、森の中を進み続け隣の山を越える。そのうち小さな谷になっている場所にたどり着き、崖沿いに沿って歩いた。

「その薬草ってどこら辺に生えているんですか」

 あまり来ない場所だったからだろうか。気になったように少年が聞いてきた。

「そう離れた場所じゃない。この近くだ」

 適当に相槌を打つ。

 道中禍獣が居そうな場所はいくつかあったが、逃げ場を塞ぐという意味では、やはりこの谷のほうが都合がいい。手を出すにしても、一部始終を眺めるにしても。

 崖下を確認しつつ歩を進めていると、ちょうどよく岩に擬態している蛇鎌を発見した。谷のこちら側は断崖絶壁というよりは緩やかな坂になっており、ここなら例え転がり落ちたとしても、命を失うほどではない。

「どうしました?」

 急に足を止めたベルギットを見て、少年が後ろから尋ねる。

 ベルギットは前を向いたまま、最後の覚悟を決めるように、短く息を吐いた。

「最終試験だ」

 ぼそりと呟き、振り替えざまに少年の胸を押す。

「――えっ?」

 完全に油断していた少年は、抵抗する間も無く足を踏み外し、そのまま宙に飛び出した。彼の視線が素早く崖下からベルギットの顔へと移り恐怖に染まる。

 すぐに少年の姿が目の前から消え、坂の上を転がり落ちていく。悲鳴を押し殺したような小さな声が響いた。

 普通に生活していれば、あの少年は間違いなく残り三日を耐えきる。しかしベルギットはそれを望んではいなかった。

 一か月間生活を共にし、耐えきるという約束を破らせるには、もうこの手しかない。

 岩壁にぶつかり苦悶の表情を浮かべる少年。彼の近くで擬態していた蛇鎌がその気配を感じ、ゆっくりと丸めていた両腕をほどくのが見えた。

 子供を殺すつもりはない。しかし怪我をする程度であれば、許容することは出来る。治療師の処置が必要になれば、流石の少年も山を下りざる負えないはずだ。

 ベルギットは黒剣の柄に手を当て、冷たい瞳で崖下を見下ろした。

 




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る