第36話 造影の魔女(3)

 夕焼けに染まった森の中。がたがたと荷車の音だけが響き渡る。

 老馬の上から暗い木々の根元を見据え、ネメアはこれからのことについて考えを巡らせた。

 マヌリスはおよそ一か月以上も前から村々を訪れ人形を売っていた。ブルーノによれば、あの人形たちには呪術が込められており、持ち主の恨みや辛みをため込むことで黒く染まり、相手に害を与えるらしい。人々は人形が染まる度に新たなものを買い求め、マヌリスはその都度捨てられた人形を回収した。

 どんな目的があってそんな真似をしたのかはわからない。けれど確実に言えることは、マヌリスは最初から村人たちがこうなることを知っていて人形を売っていたということだ。それは、明確な悪意と言っても差し違えはない。

 ネメアは深いため息を吐いた。

 マヌリスは自分にまとわりついていた呪いを祓い、衣食住まで提供してくれた。彼女には恩があり、感謝もしているが、はたして村々を破滅へと導いた呪術師が何の見返りもなくそんな真似をするだろうか。

 庭園の北にある開けた場所を思い出す。呪術師と呪術師が争ったような妙な跡地。そしてそこから記憶を失い歩いてきた自分。

 あの時あの場所でマヌリスと出会ったのは、やはり偶然とは思えなかった。彼女はきっと、最初から自分のことを知っていた。どうして命を助けてくれたのか。どんな関係だったのかは定かでない。けれどブルーノたちの村のことを考えれば、それが純粋な善意から来るものであるとはとても思えなかった。このままマヌリスと行動を共にしていては、いつかきっとひどい目に遭う。そんな予感がするのだ。

 ネメアは背後をちらりと振り返った。今逆方向へ進めばマヌリスから遠ざかることはできる。だがそんなことをしたところで、彼女から逃げ切れはしないだろう。この近辺から離れれば禍獣や猛獣が溢れているし、頼りの馬もかなりの高齢だ。身を守るためには必ずどこかで村々を経由し退魔師を雇う必要があるが、そんな真似をすればすぐに足が付く。それに彼女をここで見逃せば、自分の正体への重大な手がかりを一つ、捨てることになってしまう。

 歩んできた地面にはくっきりとした足跡が長く続いていた。蹄を挟むように車輪の跡も深く残っている。それを見て、ネメアは再びブルーノの言葉を思い返した。

 彼は黒煙騎士団がマヌリスを探しているようだと言っていた。自分と同じように彼女に不信感を持つ者たちが報告したのだろうと。

 黒煙騎士団とはアザレアの治安維持を一身に引き受ける戦力の要。白花の国の聖騎士、灰夜の国の退魔師のように、この国の象徴とも呼べる存在だ。呪術師の集まるアザレアを守るために、彼らのほとんどが呪術に関する深い知識と技術を身に着け、その実力は聖騎士にも引けを取らないと聞く。マヌリスの実力がどれほどのものかは知らないが、呪術の専門家である黒煙騎士団と相対すれば、きっと無傷では済まないはずだ。

 ゆっくりと目をつぶる。マヌリスが悪人なのは明らかだ。それは疑いようがない事実。だがこれまでの彼女のとの会話を思い返すと、やはり心苦しいものがあった。 

 ――もう今更後に引くことはできない。

 静かに手綱を握りしめる。

 ジュリアとの別れ際、ネメアは庭園の場所を彼女に教え、黒煙騎士団に伝えるようにお願いした。

 黒煙騎士団がいつマヌリスの存在を認知したのかは知らないが、少なくとも以前ネメアが村を訪れた日よりも後のことだろう。そうでなければとっくに庭園は見つかっているはずだ。

 ジュリアの情報は彼らにとって無視できない手がかりとなる。情報を伝えれば必ずすぐに動くだろうと考えた。

 これは一つの賭けだった。

 力の無い自分に出来る唯一の選択肢。黒煙騎士団に掴まるか、マヌリスと共に行動するか。どちらの方が危険度が高いか天秤にかけた結果、ネメアは前者の方を選択したのだ。

 老馬が小さくいななく。

 暗くなってきたことで、不安になったのだろうか。

 ネメアは彼女を安心させるように、その背をそっと優しく撫でた。



 

 夜空に星々が輝いている。

 星は三神の力と世界の虚無が衝突する狭間のこと。暗い夜の世界においても無数に輝く星を見上げることで、人々は三神の恩恵を信じ、生きることへの希望を失わずに済んでいる。

 ネメアはこれからのことについて、小さく三神へ祈りを捧げた。別に三神教の信者ではないのだが、今は少しでも何かにあやかりたい気持ちだった。

 木でできたアーチ状の門が見えてくる。やっと庭園に着いたのだ。門を潜り敷地の中へ入り込むと、左手にある家の窓から微かな蝋燭の光が漏れているのが見えた。どうやらマヌリスは室内にいるようだ。

 ネメアは家の前で老馬から降りた。荷車の固定具を外していくと、老馬は大きな目でネメアを見返し疲れたように鼻を鳴らした。

「ごめんね。もう休めるから安心してね」

 優しく声をかけ倉庫へと誘導する。乾燥したわらの上であぶみや手綱を外すと、老馬は安堵したように体を震わせた。

 ネメアは入り口の近くに積んでいた乾草を桶の中に入れ、老馬の前に差し出した。餌を目にした彼女はすぐに歯茎をむき出しにし、それをむしゃむしゃとほおばり始める。

 しばらく眺めていると、なんだか自分も強い空腹を感じてきた。食料の残りは少なかったので、おそらくマヌリスも調理をしてはいないだろう。買い込んだ食料で早く何か作らないと、怒られてしまうかもしれない。

 ネメアは立ち上がり、倉庫を出ようと振り返ったのだが、そこでぎょっと目を見開いた。

 馬小屋の前にマヌリスが立っていた。

 一体いつから居たのだろうか。暗い闇の中でさらに暗いドレスを纏った彼女の輪郭がはっきりと目につく。

 ネメアが唖然としていると、マヌリスは静かな声をこちらに差し込んだ。

「遅かったね。寄り道でもしてたのかい」

 突然の顔合わせに思わず息がつまる。ネメアは必死に己を落ち着かせ答えた。

「その、道に迷ってしまって。昼と違って山の位置が見えづらかったので」

「そうかい。禍獣にやられたのかと思って心配したよ。あたしの渡した呪鈴を落としたのかってね」

「いえ、大丈夫です。禍獣にも獣にも遭遇はしませんでした」

 ネメアは腰に付けた小さな鈴を見せた。少し前にマヌリスからもらった獣除けの呪具だ。狼や猩々の嫌がる音を発する効果があり、短時間だけなら禍獣すら退ける呪術が組み込まれているらしい。これがあるおかげで、ネメアは単独行動を許されていた。

 マヌリスはじろりと鈴を見下ろし、目を離した。

「それで、仕事は無事に終えたのかい?」

「はい。食料の買い込みも、人形の回収も終わりました」

 ネメアの報告を聞いたマヌリスは、背を向け荷車の方へ歩き出した。無言の圧力に押され、ネメアもその後へ付いていく。

 マヌリスは荷車に乗せられていた黒い人形を手に取り、舐め回すようにじっくりと観察した。

 呪術の成果を確認しているのだろうか。少しためらった後に、ネメアは質問した。

「その人形、どうする気なんですか」

 マヌリスはこちらに背を向けたまま、

「せっかく作ったんだ。捨てるのはもったいないだろう」

 穏やかな声で答える。

刃物を向けられたわけでも、呪言を口ずさまれたわけでもない。しかしその言葉を聞いた瞬間、ネメアは自分の中に強い恐怖心が沸き上がるのを感じた。何故かはわからなかった。

「ごくろうだったね。これで王都ノアブレイズへ出発できる。あんたもようやく記憶を取り戻す旅に出れるってわけだ。……人形の整理はあたしがしておくから、夕食の用意をしてくれないかい。明日は出発の準備で忙しくなるよ」

 黒い背中の奥からそんな言葉が聞こえる。

 人形についてもう少し情報を集めたかったが、これ以上粘るのは得策ではない。どの道、数日の内には黒煙騎士団がやってくるはずなのだ。

 ネメアは頭の中でそう言い訳をした。

「わかりました。すぐに用意します」

 逃げるように扉のノブをつかみ家の中へ足を踏み入れる。

 そのまま扉を閉めようとして、無意識のうちにマヌリスへ視線が向く。

 荷車に並べられた人形を見下ろし満足げにほほ笑む彼女の横顔。それは何故か一瞬、人ではない異質な何かの塊のように見えた。

 

 

 彼らが訪れたのは、太陽がもっとも高い位置に到達する直前だった。

 ネメアとマヌリスは旅に持っていく荷物を整理していたのだが、そこで突然、家の外に掛けられた鈴の音色が聞こえた。

 どれだけ強い風が吹いても、どれだけ扉を激しく開け閉めしても決して揺れることが無かったのに、今は打ち上げられた魚のごとく激しく音を鳴らしている。

 それを耳にした途端、マヌリスが手を止め呟いた。

「……何か来たね」

 初めて見る警戒の瞳。それだけで、ネメアは事態を悟ることができた。

 手を止め二人して家の外に出る。すると、ちょうどよくアーチ状の門の方から五人の騎士たちが庭園の中へと入ってきた。

 漆黒の鎧に蝙蝠の頭部を思わせる鋭利な兜。その中央には視界を確保するための縦長の穴が複数穿たれている。予想していたよりずっと早いが、間違いない。黒煙騎士団だ。

 彼らはみな右手の腰に円錐状の槍を括り付けており、背中にはアザレアの国証である黒い太陽が描かれた盾を乗せていた。

 主と同じように黒い鎧を纏った騎馬たちが足を止める。この部隊の隊長だろうか。一人だけ兜の横に赤い羽根のようなものを付けている男が、こちらを見下ろし声を発した。

「マヌリス・マヌマリリスとは貴様のことか」

 分厚い皮筒に息を吹き込んだような声。顔は見えないが、それなりに年を食った男なのだろう。放たれた音は肌の上を駆け上がり、ネメアの体を委縮させた。

 マヌリスは隊長らしき男を見上げた。

「あたしがそうですが、黒煙騎士団の皆様が一体何の御用ですか」

「近隣の村々から報告が上がっている。貴様の売った人形のせいで死者が出ていると」

「死者? どういうことです?」

 マヌリスはらしくない程卑屈な態度を見せた。

「人形を調べさせてもらったぞ。あの人形には、所有者の憎しみを呪いとして固定化し、呪術へと変換する術式が刻まれていた。所有者の憎しみが強ければ強いほど、あれは強力な呪いを発し対象を傷付ける。貴様、あれらの人形を回収していたそうだな。目的は多様化した術式の獲得か。低俗な呪術師が考えそうなことだ」

 黒煙騎士団は総じて呪術の専門家だ。彼は決めつけるようにそう吐き捨てた。

「そんな……。確かにあたしは呪術師で人形を売ってはいましたが、あれは善意からですよ。村人たちは獣や盗賊に悩まされていると聞きましたので、護身のためにと売った次第です」

「あくまで白を切る気か」

 冷たい声でため息を吐く黒煙騎士団の隊長。完全にマヌリスが黒だと決めつけているようだった。

「貴様がどう取り繕うと関係はない。我々の仕事は村人の訴えた呪術師を裁判集会へ引きずり出すことだ。反論も言い訳も全てはそこで行え。ここでの貴様に選択の権限など無い」

 不機嫌そうに片手を上げる隊長。それを見て、彼の背後に並んでいた四人人の黒煙騎士が馬を前に進めた。

 この状況。マヌリスはどうするのだろうか。このまま大人しく掴まってくれればありがたいのだが、彼女がそんな真似を受け入れるとは思えない。 

 ネメアが成り行きを見守っていると、マヌリスは困惑したような表情を浮かべ、か弱い少女のように手を震わせた。

「裁判だなんて。あたしは何もしていません。勘弁して下さい」

 いつもの毅然とした態度はどこへやら、黒煙騎士を恐れるように顔を青くして見せる。

 一人の黒煙騎士が馬から降り、マヌリの手に縄を掛けようとする。あまりにあっけない結果に、ネメアは拍子抜けした。

 ――本当に大人しく掴まる気なのか。あのマヌリスが。黒煙騎士団を恐れて? そんな馬鹿な。

 黒煙騎士団が実力者ぞろいであることはわかっている。だがこれではあまりにも不自然だ。

 ネメアはマヌリスの顔を見つめた。彼女は大きな帽子を被ったまま俯いており、表情は見えない。

 町に連行されて裁判を受ければ、罰を受けるのは目に見えている。彼女の立場からすればここはもはや逃亡するか黒煙騎士を倒すかしか道がないはず。相手は馬持ちだ。逃げ切ることはかなり難しいだろう。死を偽造するための策があるなら別だが、黒煙騎士にそんなものが通用するとは考えにくい。ならば残るは彼らを殺す選択肢のみとなるが――。

 黒煙騎士たちはみな槍を腰に抱えている。いくら実力があろうとマヌリスは呪術師だ。呪いの発動には呪言を口ずさむための時間が必要となり、真っ向から打ち合えば、手の速さで負けることは目に見えている。

 連行されるふりをして道中に仕掛けるつもりなのだろうか。彼女にとって必要なのは呪術を発動する時間だ。それさえ確保することができれば、戦うことはできる。

「室内に他にも仲間がいるかもしれない。確認しろ。……それと、そこの娘。お前はマヌリスの弟子か」

 隊長の視線がこちらを向く。

 弟子だと認めれば黒煙騎士の敵意を受けることになるが、かといってこの状況で無関係だと言っても信じてはもらえるわけがない。それに下手に黒煙騎士に胡麻をするような真似をすれば、マヌリスから疑いを持たれてしまう。勝敗がどちらに転ぶまでは、中立を維持したままのほうがいいだろう。

「……少し前に彼女に命を救われた者です。弟子ではありませんが、お世話をさせてもらっています」

 仕方がなく無難な返事をする。それを聞いた隊長は、しばし思案するようにこちらを見下ろした後、

「貴様にも同行頂こう。話を聞きたい。構わないな」

「はい」

 ネメアは神妙な顔で頷いた。

 三人の黒煙騎士が家の中へ入ろうと、馬から降りる。マヌリスに縄をかけ終わった黒煙騎士はそのままネメアに向かって歩み寄り、手稿甲に覆われた指で器用に縄を結び始めた。

 しばらくは様子を見るしかなさそうだ。マヌリスが何を企んでいるにしろ、自分に出来ることは何もない。ネメアがそう考えた矢先のことだった。

 突然、小奇麗な音が庭園の中に響いた。

 空気を染めるような、この場という画板に絵の具を落としたような、そんな存在感のある音だった。

 腰に震えを感じ、ネメアはそれを見下ろした。マヌリスからもらった獣除けの鈴。それが小刻みに震え音を鳴らしている。

 ――鈴が? 何で?

 この鈴は獣が接近した場合に鳴らすことで、獣を遠ざけることが出来る呪具だが、勝手に音を発することがあるとは聞いていない。

 ネメアが動揺すると同時に、前に居た黒煙騎士たちも警戒の色を見せた。

「え?」

 それは一瞬の出来事だった。

 銅色の小さな鈴。そこに穿たれた穴から黒い影のようなものが噴き出したのだ。影はネメアの目の前に立っていた黒煙騎士を吹き飛ばし、激しく蠢きながら大地に足を下ろした。

 流動する影でかたどられた四肢。それはまるで呪術で構築された狼のようだった。

「貴様…!」

 馬に乗ったまま隊長が叫び槍を構える。彼の部下たちの次々に武器を手に取った。まるでネメアが攻撃をしかけたとでも言うように、視線がこちらへ向けられる。

 ネメアは焦りすぐに両手を上げて誤解を解こうとしたのだが、そのときふと、視界の隅にマヌリスの姿が写り込んだ。

 小さな笑み。彼女は帽子の影の奥で一人、口角を上げていた。

 それを見てネメアは一瞬、囮に使われたのだと思った。自分にマヌリスという呪術師の名を押し付ける気なのかと。しかしすぐに気が付いた。黒煙騎士たち全員の視線がマヌリスから外れていることに。誰もがネメアの目の前に立つ影狼へ視線を向けていることに。

 槍を影狼へ向かって突き刺す者。距離を取って離れる者。黒煙騎士たちの動きは様々だったがその裏で、マヌリスの口が静かに言葉をつづるのが見えた。

 刹那、ネメアの背後から何から溢れ出た。

 扉を押しのけ、窓を破壊し、雪崩のよに中庭へ飛び出していく。

 黒、黒、黒、それはこれまでにマヌリスが回収した人形たちだった。

「くそ、隊列! 構えろ!」

 完全な虚を突かれたと言うのにも関わらずすぐに体勢を整え身構える黒煙騎士たち。飛び出した人形たちは、踊り狂うように彼らに降り注いでいく。

 先頭に居た黒煙騎士がネメアに向かって槍を突く。それを影狼が弾き、ネメアは影狼の尾に押され尻もちをついた。

 倒れながらマヌリスの横顔を再度盗み見る。してやられたと思った。彼女の狙いは最初からこれだったのだ。

 黒煙騎士たちからすれば攻撃を仕掛けたのはネメアだ。これではどう取り繕うと彼らの敵意を避けることはできない。マヌリスは黒煙騎士たちの注意を己から逸らすと同時に、ネメアがどさくさに紛れて一人で逃げる道を封じてしまったのだ。

 突き出される槍と飛び跳ねる人形。それらを横目に見ながら、黒衣の呪術師マヌリスは、一人、ゆったりと彼らから距離を取った。




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