第35話 造影の魔女(2)
村の端にある古びた柵の前に、汚れた人形が置かれていた。見覚えのある小さな輪郭。間違いなくマヌリスが売っていたものだ。
真っ白だったはずの人形の肌は黒く染まっていた。汚れだろうか。まるで内側から泥を絞り出したかのように、まんべんなく滲んでいる。
「これで二十五個目……」
そっと肩にかけた荷袋へ人形をしまい、ひもを締める。
捨てられている人形を全て回収するようにマヌリスから言われていたが、予想よりも遥かに多い量だった。あんなにも大事そうに買われていたというのに、この扱いはどういうわけなのだろうか。若干人形がかわいそうにすらなってくる。
ため息を吐きながらざっと周囲を見渡す。他に捨てられている人形はこれ以上見られない。
既に食料は買い終わり、村もここで三つ目。あとは庭園に戻るだけだ。ネメアは馬を停めている厩舎(きゅうしゃ)を目指して歩き始めた。
久しぶりに訪れた村の様子は以前とは大きく変わっていた。
初めてこの村を訪れた時、人々には活気が溢れ、明るく暖かい空気が満ちてた。だが今はどこを見渡しても、暗く陰湿な表情をした人間しか目につかない。
一体なぜこうなってしまったのだろうか。盗賊の襲撃に遭ったわけでも、禍獣が入り込んだわけでもなさそうのに。まるで村全体が病にかかってしまったかのように見える。
「……ねえ、あなた。マヌリスさんのとこの娘でしょう。あの呪術師の……」
不意に声をかけられた。ネメアがそちらを向くと、目の下にくまを作った青白い顔の中年女性が立っていた。
「今日は人形は売ってないの?」
「ごめんなさい。今日は買い物に来ただけなんです」
ネメアは遠慮がちに答えた。
「そう。また売りにきてちょうだいね。あたし、あの人形が大好きでぇ。あれがないともう駄目なの。お願いねぇ?」
笑顔でそう言う女性。しかしネメアはその表情に、ぞくりとする何かを感じとった。
「ええ。是非また買って下さいね」
愛想笑いを浮かべ答えると、女性は満足したように手を振った。
当たり障りのないごく自然な会話。けれどどことなく何かがおかしかった。
道を曲がると、生肉を焼いたような強い匂いが漂ってきた。灰色の煙が上がっている。集会場の前でわらの上に置かれた木箱が燃えていた。 数人の村人がそれを囲むように立ち、見下ろしている。あの雰囲気。どうやら葬式を行っているようだった。
立ち話をしている主婦の声が耳に入る。
「また葬式かい。あそこは確かマーテルさんの家だったろう。今度は誰が亡くなったのかねぇ」
「そのマーテルさんらしいよ。食あたりらしくてね。下痢をまき散らしながら亡くなったそうだよ。悲惨だねえ」
人が死んでいるというにも関わらず、実に慣れたような態度だった。
この規模の村で死者が出た場合、普通は村人全員で死者を弔うのが常識だが、道を歩く村人たちは誰一人葬式会場へ近寄ろうとはしなかった。ただひそひそと噂話を続けている。
道の上を数匹のネズミが駆け抜けていく。ネメアは何だか怖くなり、早足で厩舎へ向かった。
見慣れた屋根が見えてくると、ネメアの荷車の前に人影が見えた。荷物の見張りを頼んでいた馬番ではない。ネメアはその男にどこか見覚えがあるのを感じた。確か、初めてこの村を訪れた時に、妙な視線をマヌリスへ向けていた男だ。
その男はネメアの目の前で手に持った蝋燭を荷車へと近づけ始めた。
一体何の真似だろうか。
今あの荷車には先に回った二つの村で回収した人形たちと、大量の食糧が置かれている。
ネメアは慌てて走り出し、男に向かって叫んだ。
「何しているの! 止めて!」
人形の一つが燃え上がり真っ赤に輝く。声でネメアに気が付いたのだろう。男はネメアの顔を鋭く一瞥し、素早くその場から逃げ出した。
ネメアは近くに置いてあった掃除用の水桶を掴み荷車に振りかけた。白い蒸気があがり、明るく輝いていた火はそれで消える。
何でこんなことを……!
顔を上げると、村の奥へと遠ざかっていく男の背中が見えた。
燃えた人形を手に持ち眺める。爛れたそれはまるで本当に火傷を負った人間のようですらあった。
ただの憂さ晴らしの暴挙ではないだろう。あの男は明らかにネメアの荷車に狙いを定め、火を付けていた。
異常なほど人形を求める人々。日に日に朽ち果てていく村。
マヌリスは数日中には王都ノアブレイズへ向けて旅立つと言っている。男の目的がどうであれ、今ここを離れればもう二度とこの村を訪れることはない。ないが……。
何となく直感で、ネメアはあの男を追うべきだと感じた。今村で起こっていることの原因が、この焦げた人形に込められている気がしてならなかったのだ。
放火した男は既にこの場から姿を消していたが、彼は走り去る際に数人の村人とすれ違っていた。
狭い村だ。村人たちの大半は顔見知りであり、誰もがお互いにその名前と家を把握している。ネメアが尋ねると、村人たちはあっさりと男の素性を教えてくれた。彼はブルーノという名前で、村の周辺の祝福地を中心に狩りをして生計を立てている人物とのことだった。
この村でマヌリスの弟子を無下に扱う者はほとんどいない。何度か聞き込みを繰り返し探し回った結果、ネメアはすぐに先ほどの男を見つけることができた。
男は村はずれにある羊小屋の壁沿いに一人座り込んでいた。恐らくネメアが村から出ていくまでそこで息を潜めておくつもりだったのだろう。
ネメアは男へ近づこうとしたが、彼の様子を見て足を止めた。血走った目に指を噛むような仕草。明らかに普通の状態ではない。
彼はマヌリスに敵意を抱いている。そんな人間に彼女の弟子とされる自分が近づいたところで、正直に事情を説明してくれるだろうか。下手をしたら逆上されて殺されてしまうかもしれない。
ネメアは小さく舌打ちした。
恐らくマヌリスには最初からわかっていたのだ。いずれ彼女に敵意を持つ者が村に現れることが。
マヌリスはネメアをあえて自分の弟子だと偽った。そのせいでマヌリスへ疑いを持った者がいたとしても、ネメアに近づこうとは決してしない。むしろマヌリスへ敵意があることが露見することを恐れ、距離を離すはずだ。
怯えた表情でうずくまる男。それを眺め、ネメアは考えるように顎に手を当てた。
「ブルーノ。こんなところで何をしているの」
不意に声を掛けられる。顔を上げると、村のパン屋で働くジュリアが立っていた。
ブルーノは慌てて周囲を見渡したが、他に人の姿は見られない。ただ背後で羊の声が響くだけだ。
ほっと胸を撫で下ろしジュリアへ向き直る。ブルーノは平然を装い彼女に答えた。
「べ、別に。ちょっと休んでただけだ。何か……用か」
「村でマヌリスの弟子があんたを探し回ってるみたいだよ。荷車に火を付けられたって」
ジュリアはわずかに皺の浮かんだ頬を膨らませ、心配そうに聞いた。
あれだけ大声で叫ばれたのだ。誰かに見られていてもおかしくはなかったが、まさかこんなに早く特定されるとは。
マヌリスの弟子が自分を探している。あの放火の罪を償わせるために。ブルーノはその事実に強い不快感を覚えた。
「人違いじゃないか。お、俺はずっとここに座っていた。マヌリスの弟子なんて知らない」
「あんたはそう思ってても、向こうは違うみたいだけどねぇ。見てた人が居たんだって」
ジュリアは確信を持った目でブルーノを見つめた。
「……一体何でそんなことをしたの。少し前まではマヌリスのことを美人だなんだのって褒め称えてたのに。呪術師を怒らせたら、ただじゃ済まないよ」
どうやらごまかせそうにはない。ブルーノは不安から声を荒げた。
「俺は、気づいたんだ。あいつらがやっていることに。この村で起きている恐ろしい事実に。あいつらは……ただの呪術師なんかじゃない。もっと邪悪な何かだ」
それを見たジュリアは驚いたように目を見開いた。
「何があったか話しておくれよ。昔からのよしみじゃないか」
ジュリアの目にはこちらを気遣うような色が見えた。
ブルーノはどうするべきか悩んだ。
この村で生まれ育って三十数年。彼女はブルーノがやんちゃをしていた子供時代も、狩人を継ぐのに抵抗して父親ともめたときも、妻が数週間前に死んだときも、いつもこうして親身に接してくれていた。ジュリアなら、自分の話を信じてくれる気もする。
いい加減一人で抱えるのも限界だった。親戚や友人に話しても誰も相手にしてくれなかったが、ジュリアだけは違う気がした。彼女は他の村人たちのように、マヌリスの人形に熱を上げていなかったはずだから。
すがるようにジュリアを見上げる。彼女の青い瞳を見つめているうちに、堰(せき)が切れたように勝手に口が動き出した。
「俺も……素晴らしい呪術師が来たと喜んでいたんだ。美人で博識で、どことなく神秘的で。ただ禍獣に怯え過ごすだけの毎日に飽き飽きしていた俺にとって、マヌリスの来訪は楽しみの一つだった。
だから妻が、コーデリアが人形を買った時も、俺は止めなかった。幸運を呼ぶ人形だって評判だったから。
最初は確かにいいことが連続したさ。俺の狩った猪肉の売り上げが伸びたり、欲しかった家具が手に入ったり、コーデリアに嫌がらせをしていた主婦が家から出なくなったり……何もかもが上手くいってた」
そこでブルーノは一端言葉を切った。
「なあジュリア。前に旅の行商人が来たとき、その中に呪術師が居たことを覚えているか」
「ええ。中年の酒飲みの男だったよね。あんたが意気投合してた」
「そうだ。俺はあいつと馬が合ったから、よく一緒に酒を飲んで冒険譚を聞かせてもらったんだ。あいつは呪術師だけに、話の内容も呪術に関することが多かった。
幸福を呼ぶ人形。それを売るマヌリスという女。幸せなことが続くうちに、俺は何故かあの酒飲みの言葉を思い出した。心のどこかで不安に思っていたのかもしれない。こんな都合のいいことが続くはずがないって。
呪術にできることは、負の感情を増長させることのみ。九大災禍から振りまかれる命を奪えという指向性の制御こそが、呪術の本質。あの酒飲みは確かそんなことを言っていた。
コーデリアは次第にマヌリスの人形に傾倒していった。あの人形が無ければ不幸が訪れると、あの人形がなければ幸せにはなれないと。他の人間には気が付けなかったようだが、狩りで長期間森へ出てる俺にはあいつの異変がすぐにわかった。
森から家に帰ると、コーデリアは明らかにおかしくなっていた。いやコーデリアだけじゃない。マヌリスの人形を買った多くの人間が異様にあの人形に執着するようになっていたんだ。
俺は妙な胸騒ぎを覚えた。あの人形が呪術によるものなら、それで幸運になることはおかしいんじゃないかって。呪術が悪意を増長させるものなら、必ずその悪意を受ける相手が存在するはずなんじゃないかって。
だから俺は調べた。幸運なことが起きた裏で、何か不幸な出来事が起きていないか。誰かが大きな被害を受けてはいないのか。すると恐ろしいことが発覚した。
猪の売り上げが伸びたのは、他の狩人が狼に襲われ大怪我を負ったからだった。欲しかった家具が手に入ったのは、それを買おうとしていた村人が家の金を盗まれたからだった。コーデリアと仲の悪かった村人が家から出なくなったのは、突然階段から転げ落ちて足の骨を折ったからだった。
もしかしたらただの偶然かもしれない。たまたま不幸が連なっただけかもしれない。人形を買った者たちは他にもいる。そいつらにも同じことが起きていなければただの偶然で済むと、そう思い込もうともした。けれど調べれば調べるほど、人形を買った者たちの周囲でありとあらゆる不幸が頻発していた。村人たちが人形を買えば買うほど不幸は増し、知らず知らずのうちに村のあちこちで死者や事故が多発するようになった。そしてとうとうコーデリアも……」
気が付けば、ブルーノの目からは大粒の涙が流れていた。それは止まることなく頬を伝わりブルーノの服を濡らしていく。
「……それ、本気で言ってるの? 人形が村人を不幸にしているって? マヌリスの人形が?」
「間違いない。コーデリアは殺されたんだ。誰かが人形に込めた願いによって。いやマヌリスという呪術師のせいで。
……ジュリア。知っているか。あの人形たちは、買ったばかりの頃は白く美しいけれど、時間が経てば立つほどに黒く汚れて行くんだ。まるで持ち主の恨みを溜め込むように。
人形が黒くなるたびに村人たちはそれを捨て、新たな人形を買った。マヌリスは村を訪れる度に、捨てられた人形を回収していた。それに一体どんな目的かはわからない。だがあの呪術師は恨みの籠った人形にこそ価値を見出しているように思えるんだ」
体を突き破るように次から次へ言葉が溢れてくる。まるでやっと何かから解放されたような気分だった。
息を吸いながらジュリアを見返す。彼女は悩むように、困ったように羊小屋の方に目を向け、視線を揺らしていた。
自分の話を信じてくれたのだろうか。それとも頭のおかしな男だと思っているのだろうか。それならそれでもかまわない。今の自分にはこの村で誰にどう思われようが、守りたいものなんてもうどこにも存在しないのだから。
顔を下げたまま目だけを上に向ける。ジュリアはそんなブルーノを見て、小さなため息を吐いた。
「言いたいことはわかったよ。正直、まだ半信半疑だけど」
「……信じてくれるのか?」
「半信半疑って言っただろ。――……でも確かに、最近の村がどこかおかしいってのは、わからなくもないよ。マヌリスが人形を売り始めてからってのも、あながち間違いじゃない気がする」
「ジュリア――……」
ブルーノは神を崇めるような目でジュリアを見上げた。まさか肯定的に聞いてくれるとは、思ってもいなかったのだ。
「でも、いくらマヌリスの企みを邪魔するためとは言え、人形を焼いたのはまずいだろう。これであんたはマヌリスに目を付けられることになっちまった。今からでも村長とかに相談すべきだよ」
「村長はマヌリスの人形にぞっこんだ。俺の言うことなんて聞いてくれるわけがない。どうしても我慢が出来なかったんだ。間抜けな顔で人形を回収しているあの弟子を見ていたら、コーデリアの最後の顔を思い出して……」
ブルーノは憎悪を込めるように、眉を寄せた。
「どうするのさ。あんたの話が真実なら、多分、マヌリスはあんたを許さないよ」
「……――お、俺だって何の考えも無しにそんな真似をしたわけじゃない。
少し前、狩りに出るふりをして、俺は北の町へ行ったんだ。黒煙騎士団にに助けを求めて。俺以外にも同じような報告があったのかは知らないが、彼らは既にマヌリスを探しているみたいだった。きっと数日もすれば、マヌリスは捕縛される」
「黒煙騎士団がマヌリスを……?」
ジュリアは驚いたように目を丸くした。どこか困惑しているようだった。きっと自分の行動力に驚いたのだとブルーノは思った。
「なあジュリア。この村の連中はみんなあの人形のせいでおかしくなっちまったんだ。俺は……かつての平和な村を取り戻したかった。コーデリアと一緒に笑って過ごしてたあの頃の村を……」
暖かな村人たち。貧相な暮らしだけど、幸せに満ちた光景。自分に向けられていたコーデリアの屈託のない笑顔。もう一度あの日々を取り戻したい。あの暖かい村の姿を。それだけが、今のブルーノが持つ唯一の願いだった。
夕焼けが羊小屋の周囲を照らす。
流石にこの時間になればマヌリスの弟子も帰っただろう。そうジュリアに説得され、ブルーノは自分の家へと向かっていった。
彼の姿が完全に見えなくなってから、ジュリアは周りを見渡し、羊小屋の裏へと回った。糞や泥に気を付けながら壁際まで行くと、そこに黒いドレスを来た赤髪の少女が屈んでいた。彼女の前には一匹の羊が足を止めており、興味深そうに彼女の手を舐めている。
ジュリアは愛想笑いを浮かべ、少女に話しかけた。
「どう? 上手くできたと思うんだけど」
「ありがとうございます。おかげであの人の話を聞くことが出来ました」
少女はこちらを見ることなく答えた。
「まったく疲れたよ。気を使いながら話すってこんなに大変なんだね。がらじゃないよ。あたしには」
ジュリアは肩を小さく回した。
「あなたは、ブルーノさんの話を信じないんですか」
淡々とした声で少女が聞いた。
呪術を込められたマヌリスの人形と、それによってもたらされた村の衰退。初めは一体何の与太話かと思ったが、最後まで聞き終えると納得できないこともなくはない内容だった。確かにマヌリスが人形を売り始めてから、この村は狂い始めた気がする。
自分の協力を疑っているのだろうか。ジュリアは少女の言葉をそう判断した。
「……愛想のいい妻と結婚して、昼間は村から出てるブルーノにはわからなかったのさ。村の中では村なりに色々と問題があったんだ。誰もが他人を羨んで、妬んで、心の中では悪口を並べていた。もちろんコーデリアもね。あの人形を持てばそれだけであたしたちは満たされることができた。短い時間だろうと、つまらない日常で幸福を感じることができたんだ」
あの人形がおかしいのは薄々感じていた。呪術師の売る人形がまともなものであるはずなんてない。わかっている。わかっていたけれど、あの幸福を知ってしまった今、もう戻ることなんて、どう頑張っても無理な話だった。
「それよりも早く報酬をおくれよ。あんたの言う通り、ブルーノに近づいて話をさせたんだ。約束だろう」
全てはそのために協力したのだ。ジュリアは早く目的のものに触れたいと、手を震わせた。
少女はどこかがっかりしたような顔を浮かべたものの、静かに懐(ふところ)から人形を取り出した。少しだけ黒ずんではいるが、まだ綺麗な新しめの人形だった。
奪い取るようにその人形を受け取り、手の中に抱く。
「ああ。これだよこれ。やっとまた手に入れることができた」
これでまた自分は幸福になれる。またいい思いができる。そう考えると不思議と万能感が溢れ笑みがこぼれてくる。
「次はいつ人形を売りに来るの? これだけじゃすぐに効果がきれちまうよ。あたしゃ、この人形のためならいくらだって払うからさぁ。早く持ってきておくれよ」
人形が売れることは、マヌリスやこの娘にとってもいいことだろう。彼女たちはそのためにこの呪具を制作しているのだから。
嬉々として尋ねるジュリア。だが赤毛の少女はどこか憐れむようにこちらを眺め、それ以上、言葉を返してはくれなかった。
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