第32話 孤老の女剣士(4)
「あれは何だ……?」
目の前の光景が現実のものだとは信じられず、イザークは思わず唾を飲み込んだ。
まるでそこだけ世界から切り離されたかのように、何かが侵食しているかのように、青空の中にぽっつりと闇が広がっている。
明らかに異様な光景。明らかに常軌を逸した状況。こうして遠目に見ているだけで寒気が溢れてくる。
「イザーク」
岩場の下から名前を呼ばれる。雇った退魔師の一人が、馬に乗ったままこちらを見上げていた。
「本当にあそこに近づく気か。何だかやばい気がするんだが」
恐怖でひきつった顔。今すぐに引き返したいという感情がありありとそこに浮かんでいた。
「ここまで来て今更戻るわけにもいかないだろう。これは……想像以上の大ネタだ。とんでもないことが起きている。絶対に逃すわけにはいかない」
身の危険を感じているのは同じだが、聴聞師としての責任がそれを押しとどめた。これほどの事態が起きているのに話題にすらなってはいないのだ。今情報を集めて王都へ戻れば、きっと多くの客を集めることができるだろう。せっかく大金を稼げる機会なのに、それをみすみす見逃す手はない。何より黒陽の国アザレアの斥侯としても、これほどの事態を放っておくわけにはいかなかった。
イザークの返事を聞いて、雇った三人の退魔師は微妙な表情を浮かべた。あからさまに乗り気ではなさそうに見える。しかし彼らの背後にいた金髪の男、アベルだけは、神妙な顔で闇に染まった空を見上げていた。
「……あんたはどうする? これだけの事態が起きているんだ。あんたが探してたメイソン・ラグナーは間違いなくあそこにいると思うが、まだついてくるかい?」
問いかけを受けたアベルは、馬をイザークへと近づけた。岩に飛び乗らせ、真横へとつく。
「昔、同じような光景を見たことがある」
「同じ光景?」
イザークは聞き返した。
「ああ。アザレアにある九大災禍――無明が地に落ちたときだ」
こいつは気でも狂ったのだろうか。イザークは男の台詞がまったく理解できなかった。
「何を言ってるんだあんた?」
「俺が目を覚ました時に感じたのは、あれなのか。確かに似ているが……」
こちらの声などまったく聞こえていないとでも言うように、ぶつぶつと何かを呟くアベル。元々変な男だとは思っていたが、より一層不気味さを感じた。
「……とにかく、あんたは一緒に行くってことでいいんだな」
「ああ問題ない」
平然と答える男。あの空に対する恐怖はまったく持ち合わせてはいないようだった。
一体この男は何者なのだろうか。大司教メイソンを追う理由に興味を持ち同行を許したが、言動から考えてあの空の状態にも何らかの情報を持っている様にも思える。三神教の関係者、もしくは災禍教の人間か。どちらにせよ、動向は常に注意しておくべきだと思った。
「よし行こう。暗くなる前に調査を終わらせないと。ま、あそこの下はどっちみち真っ暗みたいだがね」
軽く冗談を言ってみたのだが、笑う人間は一人もいない。イザークはのりの悪い連中だと苦笑いし、馬の歩みを再開させた。
闇空の下に向かって馬を走らせていると、進路の先に動くものが目に入った。ごつごつとした骨の外殻に、むき出しとなった真っ赤な筋肉繊維。赤剥だ。イザークが舌打ちをすると、向こうもこちらに気が付いたように体の向きを変えた。
「退魔師さん方。禍獣だ。対処できるか」
通常禍獣と戦う場合、囮を使って罠のある場所に引き付けるか、不意打ちで一気に仕留めるのが定石だが、こうなってしまってはその手は使えない。イザークの呼びかけを聞いた退魔師たちは緊張感を高め、それぞれ武器を手に取った。
一人が弓を引き絞り、それを離す。飛び出した矢が赤剥の肩に突き刺さり、白い煙が立ち上る。祈祷術で清めた聖水が塗られているのだろう。赤剥は怒りに満ちた雄叫びを上げた。
次々に放たれる矢。何本かは命中したが赤剥はひるまずに前進してくる。このままでは倒しきる前に接近戦に持ち込まれてしまいそうだった。
――仕方がない。
「援護する」
イザークは片手を手綱から離し、口の前に当てた。赤剥を見据えたままこの場でもっとも適した呪言を唱える。
言葉を当てた手を横に広げ投げるように前に動かすと、呪いの乗った風が僅かに紫色に染まり、前方へと吹き荒れた。
紫の風が当たった赤剥は、急に体が重くなったように速度を落とし、爪を地面に食い込ませる。それを見てアベルが横で呟いた。
「呪術師か」
「護身術程度だがね。俺は黒陽の国アザレアの出身なもので。さあ、今のうちに矢を」
退魔師たちの矢が次々に赤剥に命中してく。ところどころから白煙が上がり、赤剥は苦しそうに声を上げた。
飛び交う複数の矢。その内の一本が頭に突き刺さり黒い血と白煙をまき散らす。赤剥の足が止まったのを見て、退魔師の一人が叫んだ。
「留めだ!」
別の退魔師が勢いよく馬を翔らせる。そのまますれ違いざまに剣を大きく赤剥の首へと叩きつけた。血の残滓が飛び散り草を染める。禍獣にとって毒である聖水を何度も体内へ打ち込まれ、首まで切り裂かれたのだ。これで勝負はついたとイザークは確信しかけたのだが――そこで、剣を握っていた退魔師の馬が横転した。
耳をつんざくような不快な唸り声。赤剥が馬の足を掴み、強引に倒したのだ。
退魔師は激しく体を地面に打ち付け転がる。それを目掛け、矢に塗れた赤剥が一気に飛びかかった。
「まずいぞ、倒された!」
別の退魔師が叫び手綱を引くも間に合わない。赤剥の爪が倒れた退魔師の肩に突き刺さり悲鳴があがる。
やられたか、そう思った時だった。
走る勢いのまま、アベルが馬から飛び降り赤剥に体当たりした。視覚外から力を加えられた赤剥は踏ん張ることができずそのまま押し飛ばされる。
アベルは倒れた退魔師の前に立ち素早く退魔師の剣を拾った。
禍獣と正面から相対するのは自殺行為でしかない。イザークはすぐにアベルを助けようと呪言の詠唱を始めたが、間に合わなかった。跳ね起きた赤剥がアベルに向かって突撃し、その爪を突き立てる。心臓の位置。間違いなく致命傷だった。
「止めを……!」
血を吹き出しながら声を絞り出すアベル。胸を穿たれると同時に突き出していたのだろう。彼の剣は赤剥の胸を見事に貫いていた。
詠唱を終えたイザークは手を振り、紫の風で赤剥の体を包み込んだ。体が重くなり動きを鈍らせる赤剥。その隙に向きを反転させてきた二人の退魔師が剣を赤剥の背中へ突き立てた。
刃に塗られた聖水と赤剥の呪が中和し白煙が爆発するように広がる。赤剥はそれでもなお逃げ延びようとあがいていたが、アベルが最後の力で胸から剣を抜き下あごから脳天に向かって突き上げると、そこでようやく動きを止めた。
アベルの腕がだらんと下がる。そのまま力尽きてしまったようだった。
興奮した馬を何とかいさめる。イザークは静かに膝をついているアベルへと近づいた。
――くそ、もう少しで目的地だったのに……!
王都からここまでうまく禍獣を回避してきたというのに、なんてことだ。
これではこの男が何者なのかも、どんな情報を持っていたのかもわからなくなってしまった。せかっく見つけた面白そうな人間だったのに。
もう少し早く赤剥に気が付いていれば、彼の犠牲は無くせたはずだった。自分の不注意さを嘆くも、既に時は遅い。
馬の蹄が彼から流れた血だまりを踏みつけ水音を鳴らす。
イザークはせめて彼の顔をよく覚えておこうと思い、あぶみから足を外そうとしたのだが、――そこで、何事も無かったかのようにアベルが顔を上げた。
「何とかなったな」
酷く落ち着いた声。口から血を流し、胸を赤剥の爪に貫かれている男のものとは思えない顔だった。
イザークや退魔師たちが唖然とした目で見つめる中、彼は胸から赤剥の爪を引き抜くと、すっと立ち上がった。
「お、お前……?」
意味が分からない。何でこの男は立ち上がれる? 何でまだ生きているんだ?
目の前でアベルの胸から流れ続けていた血が止まり、胸の傷が内側から再生していく。とても現実のものとは思えない光景だった。
「あんた……本当に人間か?」
退魔師の一人が恐る恐る質問する。
アベルは穴の開いた服を摘まみながら、つまらなそうに答えた。
「――……人間だよ。間違いなく」
暗闇の広がる空の真下には、岩場に囲まれた小さな村があった。
村の外周部には銀色の鎧や外套をまとった者たちが見張りに立ち荒野に目を光らせている。遠目で断定はできないが、恐らく聖騎士だろう。こんな状況であの空以外、大司教メイソン・ラグナー率いる守護騎士団が南部に訪れる理由は想像がつかない。
「これ以上は気づかれるな。馬を降りよう。草に紛れれて進むぞ」
イザークは地面に足を下ろし、手綱を近場の木に括り付けた。アベルもそれに続き馬から降りる。しかし同行していた退魔師たちは足を止めたままだった。
「どうした? 腹でも痛いのかい?」
イザークは冗談交じりに聞いた。
「あの村の周りにいる連中。どう見ても聖騎士だろ。聖騎士と事を構えるとは聞いていない」
大柄の退魔師が慎重に答えた。
「ちょっと村の様子を見てくるだけさ。別に戦おうってわけじゃない」
「見つかれば間違いなくただではすまない。あんたの話じゃ、大司教がいるんだろう。そんなやばい場所に突っ込むなんて、死んでもごめんだ。俺たちの依頼はあくまで禍獣からの護衛だった。あの報酬でそれ以上の仕事をする気はない。……それに怪我人の治療もある」
背後の仲間を振り返る大柄の退魔師。確かに、肩を貫かれた彼の体調は悪そうに見えた。
聖騎士が見張っている村の中であれば、禍獣が出現する可能性はかなり低いだろう。発見されずに侵入し様子を確かめるためにも、人数は少ない方がいい。短い時間で思考をまとめ、イザークは返答した。
「わかった。じゃあここで待っていてくれ。すぐに戻る。もし日が落ち始めても戻らなければ、近くの村へ行っても構わない。それでどうだい?」
「報酬はどうする。あんたが戻らないと仲介屋は支払いを渡さない。せめてここまでの分はくれよ」
ここで報酬を支払えば、退魔師たちは間違いなくそのまま街へ戻ってしまうはずだ。それでは帰り道で禍獣との戦闘に耐えきれない。
「駄目だ。契約違反になる。それに、今は手持ちがなくてね。待機していてくれ。王都についたら、倍の額を払うから」
退魔師は金にがめつい。こういえば逃がさないと確信があった。
案の定、大柄の退魔師は悩む素振りを見せ、
「……日が落ちるまでだぞ。それ以上は何があっても俺たちは帰る。それでいいな」
「ああ。十分だ」
片目の眉を上げ笑顔を見せる。親愛の証のつもりだったが、退魔師たちの反応は何も無かった。
「話はまとまったか。なら行こう」
太陽の位置を見ながら率先して草村の中へと入っていくアベル。それをどこか恐怖の籠った眼で退魔師たちが見送った。
胸を貫かれて死なない人間なといない。そんな真似ができるのは、死霊術で蘇った死体か魔女だけだ。イザークには彼らの気持ちが痛いほどわかったが、ここではあえて言及しないことにした。アベルは先ほど退魔師を守った。ならこちらに敵対するつもりはないはずだ。少なくとも今は、あの空の闇の方が圧倒的に重要だ。
アベルに続き草村へと踏み込むイザーク。
その後姿を退魔師たちが暗い目で見つめていたが、二人がその視線に気が付くことは無かった。
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