第29話 孤老の女剣士(1)
蹄の音が響き、弾き飛ばされた土が宙に舞う。
力んだ足が馬の腹を打つ度に、呼応するように視界が激しく上下に揺れた。
耳をつんざくようなきりきりとした唸り声。それが矢のように背中を貫く。
赤剥が迫っている。カウルとハルカスを狙って。その命を刈り取るために。
「走れ! 早く」
追いつかれれば間違いなく死ぬ。傷の呪いがあろうと、いくら何でも三体もの赤剥が相手ではどうしようもない。
激しく体が揺らされ何度も振り落とされそうになる。老馬の恐怖が手綱ごしにひしひしと伝わってきた。
悲鳴がほとばしる。前を走るハルカスの声だ。彼は半狂乱に陥りつつあった。何度も執拗に馬の腹を蹴りその背に爪を立てている。
「ハルカス前を見ろ! 落ち着け!」
カウルは彼に向かって叫んだが、ハルカスにはすでにカウルの声など全く聞こえてはいないようだった。ただ恐怖に押されるがままに泣き叫んでいる。
すぐ背後に赤剥が迫っている。彼らの爪が土をえぐり、木々の幹を砕き、飛び跳ねる音が聞こえる。
――くそっ! 退魔師がやられたのか?
それ以外に赤剥がこの場に現れる理由が考えられない。だがそんなことがありえるのだろうか。
何か、何か変だ。何かおかしい。
極限状態なのはカウルも同じだったが、一度赤剥と遭遇し、それを撃退していたことで、かろうじてまだ冷静さを保つことができていた。今の状況に言いようのない違和感を抱く。
仲介屋の話ではガナヘルたちは熟練の退魔師ということだった。そんな彼らがこんなあっさりやられたりするのだろうか。それも赤剥なんて、もっとも一般的な禍獣に。
赤剥も退魔師もそれぞれ別の場所にいたはずだ。たとえ負けたとしても、その場で殺されるだけ。姿すら見られていなかったカウルたちの下に三体の赤剥が同時に表れるなんて、どう考えてもおかしい。
「嫌だ! 死にたくない! 死にたくない!」
ハルカスの嗚咽が前から流れてくる。カウルはその声を聴き、なんとも言えない気持ちになった。
このまま馬を走らせ続けていても、赤剥から逃げ切れるとは思えない。やつらは獲物が死ぬまで絶対に諦めない。絶対にその殺意を切らさない。
「……ハルカス! 道を外れるんだ。退魔師がまだ生きているなら、戦ってくれるはず。ガナヘルたちを探そう」
今生き残る道があるとすれば、それ以外に方法はない。この小道を進んでいけばすぐに荒野に出る。そして荒野に出れば、今以上に隠れる場所が無くなってしまう。
カウルは必死に呼びかけたが、ハルカスにその声が届くことはなかった。ただひたすらに馬にしがみつき、神に祈りを捧げている。
もはや生き残るにはハルカスを見捨て森に入るしかない。命が惜しいのならすぐにそうするべきだ。そうわかってはいたのだけれど、どうしても、カウルは泣き叫ぶあの少年を見捨てることができなかった。
小道が終わり森を抜ける。目の前に灰色の荒野が広がり、一気に世界が明るくなった。
くそ――このままじゃ……!
若い馬なら赤剥から逃げ切ることはできたかもしれない。けれど不運なことに、カウルたちが乗っている馬は酷く老いた馬だった。どれだけ腹を蹴ろうと、急がせようと、着かず離れずの距離を維持するのがやっとだ。
考えろ。考えるんだ……!
戦うのは無理だ。今のカウルたちでは赤剥にはかなわない。ならば逃げるしかないが、馬に乗り続けても追いつかれるのは目に見えている。
背後の森がどんどん小さくなっていく。カウルは手綱を握りしめながら、死ぬ思いで頭を働かせた。
赤剥が命を追いかける。それは人間だろうか動物だろうが変わらない。ならば、視界から隠れた瞬間に馬から飛び降りるのはどうだろうか。上手く行けば、赤剥はこちらに気づかずに老馬を追い続けて離れてくれるかもしれない。
それ以外に妙案は浮かばない。いやそれしか生き残る道はない。カウルが周囲を見渡すと、斜め前方にちょうど良い高さの草が生えた草原が見えた。確か数日前に、赤剥をやり過ごすのに使った場所だ。
カウルはハルカスの右側へ馬を移動させると、わずかに馬を左へ寄せて走らせた。ハルカスに声は届かないが、衝突を嫌がったハルカスの馬がそれで勝手に左側へとそれていく。
問題は馬から飛び降りる時だ。馬から落ちた後にハルカスが叫び声を上げれば、全てが台無しになってしまう。飛び降りる直前にハルカスに飛び掛かり、その口を塞ごうと考えた。
草原に向かう馬の速度が落ちていく。そろそろ彼らの体力も限界のようだ。 カウルは馬の背に膝を乗せ、横へ飛ぶ準備を始めた。
草原に入り姿がわずかに隠れる。今なら赤剥の視界には馬の頭部しか映ってはいないはずだ。
カウルがハルカスに抱き着くように飛ぼうとしたまさにその時、突然、ハルカスの姿が消えた。短い馬のいななき。どうやら岩か何かに足を取られたようだった。
考えている暇はなかった。カウルは反射的に馬から飛び降り、土の上に体を転がせた。痛みに耐えながら必死に声を殺し、体を地面に押し付ける。
走り去っていくカウルの老馬。それを追うように、荒い呼吸音が真横を通り過ぎていく。
心臓が張り裂けそうに高鳴る。足音が完全に遠ざかったのを確認し、カウルは体を起こした。
――ハルカスは? 無事なのか……!?
ナタの柄に手をかけながら、慎重に草をかき分ける。すると少し離れた位置で、何かが動く気配を感じた。くちゃくちゃと、粘着質なものをかみ砕く音。その瞬間、嫌な予感が脳裏を駆け抜けた。
やめろ。近づくな。見るな。見ちゃ駄目だ……。
頭の中で警告が流れるも、勝手に足は前に進む。次第に強い血の臭いが周りに溢れてきた。
草の隙間から白い手が見えた。何かの振動に合わせ、上下に動いている。それがハルカスのものであることは、すぐにわかった。
唸り声と共に血しぶきが跳ねる。赤剥は獲物が死んだのを確認したことで、それから興味を失ったようだった。カウルは叫びだしそうになる口を必死に抑え、その場にうずくまる。醜悪な臭いと小刻みな呼吸音。その赤剥はしばらく気配を伺うように周囲を見渡していたが、遠くで響いた馬のいななきに反応し、顔を上げた。ゆっくりとそちらへ向かって移動を始める。
赤剥が完全に居なくなると、カウルは恐る恐る血溜まりへ近づいた。鮮やかな深紅の池の中に、青白い死体が転がっていた。少し前まで、ハルカスと、そう呼ばれていた少年の亡骸だ。
横たわった馬の尻には、大きな爪痕があった。カウルは岩につまずいて倒れたのかと思ったが、どうやらあれは赤剥に飛び掛かられ、横転したようだった。
ハルカスは何が起きたのかわからないといった表情を浮かべていた。おそらく一撃で喉を切り裂かれたのだろう。恐怖には染まっていたが、その顔に苦痛の色は見られなかった。
ほんの少しの差だった。ほんの少しカウルが早く飛んでいれば、ほんの少し馬が早く草原にたどり着けていれば、ほんの少し馬が早ければ。
病気のお母さんを助けたいと、そのために頑張るんだと、そう言っていたのに。
あの明るく人懐こいハルカスの顔を思い出すと、自然と目元が熱くなる。カウルは血で泥となった地面を深く握りしめた。
ハルカスの遺体を眺めたまましばらくその場に座り込んでいると、ふすふすと、怒りの感情が沸き上がってきた。
これは不幸な事故なんかじゃない。明らかに最初から計算された結果だ。経験の浅い新人二人。そして足の遅い老馬。突然現れた三体の赤剥。全てが計画的に考えられていた。
熟練の退魔師だろうと、禍獣と戦うのは命がけだ。どれだけ実績があろうが、どれだけ強かろうが、不意を突かれればあっさり死ぬことだってあり得る。ガナヘルたちはその危険を避けたのだ。彼らが受けた依頼は祝福地の森から禍獣を追い出すことだった。森から赤剥の姿が消えさえすれば、わざわざ身の危険を犯して戦う必要なんてない。そのためにカウルたちを利用したのだ。
彼らは戦うふりをして、赤剥をカウルとハルカスの下へ誘導した。そして逃げ出すカウルたちのために、年老いた馬を与えた。
若い馬なら赤剥から逃げ切る可能性があったが、体力の無い老馬なら程よい距離を保ちつつ赤剥を森から引き離し、そして最終的にはその犠牲となることが分かっていたから。
ガナヘルたちはハルカスとカウルという撒き餌を使うことで、最低限と犠牲と労力で依頼を達成させたのだ。
口惜しさと憎しみが沸き起こってくる。
これが退魔師のやることなのだろうか。人々を救い、呪いを戦う退魔師の。いくら何でもあまりに酷い所業じゃないか。
カウルはぎゅっと自分の唇を結んだ。見開かれたままのハルカスの表情に耐えられず、そっと彼のまぶたを撫で下ろす。
頭上ではすでに血の臭いを嗅ぎつけた鳥が集まり始めている。このまま遺体を放置すれば、彼の体はついばまれ、呪いに侵され、いずれ禍獣へと変貌してしまうかもしれない。
カウルはハルカスの遺体を岩場の近くまで運び、枯れ草を集めると、火打石でそれに火をつけた。
強く癖のある香りが周囲に溢れ、ハルカスの肉と血を燃やしていく。
煙に交じって立ち上る炎と火の粉はまるで、ハルカスを夕焼けの中へ溶け込ませているようにも見えた。
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