第24話 聖騎士と退魔師(1)

 もう何日こうして歩き続けているのだろう。

 服は汗と土、血で汚れ果て、体からは悪臭が漂っている。最初のころはあまりの臭いにうんざりしたものだけれど、今ではもう鼻がマヒして、何も感じなくなってしまっていた。

「……腹減った……」

 うつろな目で荒野の先を見つめながら、カウルは静かに呟いた。

 水も、食料もほぼ尽きた。たっぷりあったはずの果実は全て食べきり、偶然見つけたトカゲの肉ももう無い。今禍獣に襲われればなすすべもなく殺されてしまう自信があった。

 道中見つけた木の枝を支えに、倒れそうになる体を支える。赤剥に噛まれた肩が傷んだが、歯を噛みしめて足を動かした。

 あの日。赤剥を倒した後。カウルはそのまま倒れるように意識を失った。狼がはびこる荒野。昼まで生き延びることができたのは、おそらく赤剥の血のおかげだろう。獣は本能的に呪いを恐れる。赤剥の返り血をびっしと浴びていたおかげでそれが皮肉にも獣除けとなっていたのだ。

「あ……――」

 荒野の先に、殺意をまき散らして歩く赤剥の姿を発見した。こちらには気が付いていないようで、のしのしと左方向に向かって歩いている。

 またか……。

 カウルは心の中で毒ついた。

 赤剥を目撃するのは、この数日間で三度目のことだった。村を出た直後はほとんど姿が見られなかったはずなのに、日に日に数が増えていっている。

 幸いにもこの近辺の草は長い。下手に逆方向へ逃げたり走り出せば、逆に察知されたり他の禍獣と遭遇する危険がある。カウルは息を殺し、その場にうずくまった。

 しばらくして赤剥の姿が完全に消えたのを確認すると、カウルはゆっくりと立ち上がった。できればもう二度と、あれと正面から向かい合いたくはなかった。

 ぼろぼろの体を引きずり、草垣を掻き分ける。遠くに見える山だけが唯一の指針だった。

 半刻ほど歩き続けたところで、急に手が空を切った。どうやら草垣が終わってしまったらしい。

 開けた場所に出れば禍獣から身を隠せる機会は極端に少なくなる。カウルは落胆しかけたのだが、顔を上げた時に目に入ったものを見て、表情を一変させた。

 大きな灰色の建造物。それが草原を挟んだ向こう側に長く、長く広がっている。あれは壁だ。荒野と断絶し、禍獣から身を守るための最大の盾。人類の英知の結晶。

 その向こう側にはいくつもの綺麗な屋根がそびえ立ち、細い煙のようなものが上がっていた。

「あ――ああ……」

 声にならない声が漏れる。やっと、やっとついたのだ。

 木の枝を地面に突き刺し、息を吐きだす。そびえ立つ壁と建物の塊は、まさに灰色のサンゴ礁と呼ぶにふさわしい景観だった。

「あれが……王都グレイラグーン」

 安堵を込めて、カウルはその都市の名前を呟いた。


 

 馬車が止まった。

 急に周囲が賑やかになり、雑音や人々の声が耳へと飛び込んでくる。

 窓の外に目を向けると、周囲を囲むように複数の建物がそびえ立ち、多くの町人が道を行きかっていた。彼らの様子を見て、行商人はようやく自分がまともな人間の世界に帰ってこれたのだと実感した。

「やっと着いたか。……本当に長い旅だった」

 今回の旅はいつも以上に危険な目に遭った。禍獣が目覚める前に戻ってこれる予定だったのに、問題が色々と重なったせいで、こんなにも時間がかかってしまったのだ。立ち寄った村の骸拾いの数が少ないからと、無理をして遠出したのが悪かった。あれさえなければもう少し早く戻ることができたはずなのに。

「おお、着いたか。いやよかったよかった」

 向かいに座っている退魔師の男が満足げに笑う。その屈託のない笑顔を見て、行商人は彼の頭をかち割りたくなった。

 そもそも、彼がまともな退魔師であれば、ここまで苦労することは無かった。まともな退魔師であれば、禍獣が出にくい道を選んだり、禍獣が出ても何らかの対処を行うことが可能だったはずだ。しかしこの赤ら顔の男は、あろうことか禍獣を目にした瞬間、悲鳴を上げ自分に抱き着いてきた。逃げ切ることができたのは、ひとえに馬の脚が良かったからだとしか言いようがない。

「何が良かっただ。さっさと出ていけこのペテン師め。お前のせいでどれだけ酷い目に遭ったことか」

「何を言ってんだ。俺はちゃんと仕事をしただろ。あんたらは素人だ。俺が陰ながらに行っていた努力に気が付いていないようだが、俺がいなければ、もっと多くの禍獣と遭遇していたんだぜ。ほらちゃんと報酬をくれよ」

「よく言うわ。禍獣が出る前に帰ってこれそうだったから退魔師を名乗ってあやかろうとしたんだろ。お前になんか金を出せるか」

 図星を突かれたのか退魔師の顔がさらに赤くなる。彼は腕のすそをめくり、盛り上がった筋肉を見せつけた。

「旦那。契約違反だぜ。危険な旅に同行したんだ。金を払わねえって言うのなら、腕ずくでも出してもらうぞ」

 何だ。街中に戻った途端たいそうな変わりようだ。禍獣の前ではあれほどに泣きっ面を浮かべていたというのに。

 行商人は怒りで額の皮膚がはち切れそうになったが、そこで退魔師の横に座っていた金髪の男が口を差し込んだ。

「こんな狭い場所で暴れないでくれ。暑苦しいじゃないか。金が欲しいのなら、これでどうだ?」

 金髪の男は手を広げると、指に刺していた金色の指輪を抜き取った。

「森で盗賊から盗んだものだ。資金確保のために持っていたが、お前にやろう」

「盗賊……?」

 退魔師は疑いの籠った瞳でそれを摘まみ、太陽の光にかざしながら念入りに確かめる。遠目ではあるが、行商人の目にはそれが本物の純金のように見えた。

「へっ。……旦那。ついてたな。気前のいい兄ちゃんを乗せられてよ」

 退魔師の男は馬車の扉を開け放ち、振り返ることなく降りていく。

 行商人は思わず金髪の男を見返した。

 金なんて貴族でしか目にすることのない貴重品だ。もし本物であれば、こんな旅の護衛なんて十回しても足りないくらいの価値がある。

「おい、いいのか。あんな奴にあれを渡して。あんた、あれの価値をわかっているのか」

「どうせ拾いものだ。それにおそらく盗品だろう。売れば金にはなるが、すぐに貴族連中に調べられて足が付く」

 さも何事でもないかのように金髪の男は言った。

「それよりも、世話になった。馬車のことは申し訳なかった。もし機会があれば、お礼をしたいと思う」

 そのまま立ち上がり、全裸のまま街中へ出ていこうとする。

 行商人は唖然と彼を見つめていたが、その背が陽光に包まれるのを見たところで我に返った。

 金髪の男の腕を引き、強引に馬車に戻す。

「何をする?」

「それはこっちの台詞だ。あんた全裸のまま街中に降臨する気なのか。すぐに守備兵に捕まるぞ」

「服が無いんだ。仕方がないだろう」

 金髪の男は不思議そうに眉をしかめた。

 騎手の男が業者席から降り、開け放たれたままの扉からこちらを覗き込む。何をもめているんだと言いたげな表情を浮かべていた。

 この男がどうなろうと関係はない。牢獄に入れられようとどうでもいい。だが、ここで全裸の男を解き放てば、多くの衆目の目に就く。この男の性格から考えるに、きっとまたどこかで問題を起こすだろう。そして調べられれば、この男の体が特異であること、自分たちの馬車に乗っていたことはすぐに明らかになってしまう。

 今は稼ぎ時なのだ。一日だって無駄にはしたくない。この男のせいで余計な拘束や問答に付き合わされるのはごめんだった。

 行商人は悩んだ末、荷台に手を突っ込み、安い服を取り出した。

「さっきの礼だ。着てけ。返す必要はない」

 騎手が驚いた目でこちらを見返す。まさか自分がそんな情けをかけるとは思ってもいなかったようだ。

「……感謝する」

 男は神妙な表情で礼を述べ、受け取った服にその場で着替えた。

「君たち、名前は?」

 袖に手を通しながら男が聞く。行商人は投げやりに答えた。

「僕はアート。そっちの騎手はベルモントだ。あんたは?」

 金髪の男は行商人と騎手を見比べたのち、

「そうだな。俺は……アベルだ」と答えた。

「……まるで僕とベルモントの名前を適当にくっつけたみたいな名前だな」

 明らかな偽名。だが行商人はそれ以上の追及を止めた。本名を知ったところで二度と会うことは無いのだ。それに興味もない。

「あんた。街を徘徊する前に、まずは風呂に入ったほうがいいぞ。酷い臭いだ」

 馬車から降りた金髪の男。自称アベルに向かってベルモントが助言する。彼は服の襟首をつかみ、何度か鼻を引くつかせると、

「わかった。苦言感謝する」

 小さく片手を上げ、そのまま街中へと消えていった。実にあっさりした態度だった。

「一体なんだったんだ。あいつは」

 不思議そうに街中を見つめながら、ベルモントが独り言を言う。アートもしばらく同じ方向を見ていたが、馬のいななきで我に返った。

「……さあ。商品を店に運ぶぞ。遅れを取り戻さなくては」

「ええ、今からですか。少し休みましょうよ」

「嫌なら騎手を止めてもいいんだぞ」

 ベルモントが悔し気な表情を浮かべる。

 ――文句をいくら言ったところで、断ることなどできはしないだろう。お前を雇ってやれるのなんて、僕くらいなものなのだから。

 ぐずぐずと文句を言うベルモントを尻目に、アートは馬車の扉をつかみ、そして何事も無かったかのように、そっと閉めた。



 左右へ広がる長い壁の中央に、大きな黒い門が見える。あそこがグレイラグーンの南門のようだった。

 街が近いから頻繁に騎士や退魔師が見回りをしているのだろう。付近にはもう禍獣の姿など全く見られない。カウルはほっとし、堂々と整えられた道を進んだ。

 門の前には二人の衛兵と、停車している馬車が見えた。行商人なのかそれとも国の高官なのか、街へ入るための取り調べを行っているようだ。

 カウルは自分の姿を見下ろした。血まみれの泥だらけ。果たしてこんな格好で中に入れてもらうことはできるのだろうか。傭兵の多いグレムリアでは街の入出管理はそれほど厳しくはないと聞いていたが、今のカウルには賄賂となるお金もない。もし拒否されれば、荒野で野垂れ時ぬのが目に見えていた。

 近づいて行くとより一層壁の高さと分厚さに驚かされた。馬を五、六匹、縦に積み重ねたくらいの高さだろうか。まるでそびえ立つように伸びるそれは、複数の石を積み重ねて作られているようだった。ところどころに引っ掻いたような跡が見えるのは、禍獣につけられたものだろうか。

 前に並んでいた二台の馬車が門の向こう側へと消えていく。カウルはごくりと唾を呑み込み、兵士の前に進んだ。

 ぼろぼろの姿のカウルを見つけた兵士は、その目を大きく見開いた。

「おい。大丈夫か」

 心配そうな顔。以外にも人情味のある人物のようだった。

「大丈夫です。汚れてはいるけど、傷は大したものじゃないので」

「お前、まさかこの荒野を歩いてきたのか。馬は? どこで襲われた?」

 流石の兵士も、まさかカウルがずっと徒歩で移動してきたとは思わなかったらしい。禍獣を警戒しているのか、その位置を特製しようと尋ねてきた。

「南のほうです。地図が無いので、細かくは言えません。父と骸を売ろうとしていたんですがその途中で禍獣に襲われて……」

 カウルは薬草と布を巻き付けた自分の傷をそっと押した。痛みで勝手に涙目になる。

 門番の兵士はそんなカウルに同情心を抱いたようだった。

「そうか。災難だったな。手持ちがないなら、三神教会を訪ねるといい。お前のような苦悩者が何人も保護されている」

 兵士は台帳のようなものを背中から取り出した。

「グレイラグーンへ入るためには名前と出身地を記帳する必要がある。それで入退管理と人口の把握をしているんだ。教えてくれるか?」

 カウルは一瞬悩んだ末に、答えた。

「カスカ村のカウルです」

 カスカとは、ロファーエル村とグレイラグーンの中間あたりに位置する村だ。村人が骸を売るために王都へ出向く途中、よく中継地点として利用していた場所である。

 兵士はつらつらと筆を動かすと、カウルの肩をそっと叩いた。

「ようこそグレイラグーンへ。ゆっくりと疲れを癒すといい」

 どうやら噂通り、グレイラグーンの門は緩いらしい。カウルはその温かい兵に礼を言い、黒い門の下を潜り抜けた。

 枝の杖で体を支えながら顔を上げる。門の前は半円状の広場になっていた。

九大災禍が彷徨うこの世界で、わざわざ旅行に出かける者はほとんどいない。広場には馬を止めるための馬小屋と、馬具を売る小さな出店があるだけだったが、それでも十分にロファーエル村の市場よりは大きな敷地を持っていた。

 広場の先。街の奥には高い建物が見えた。あの突き出た鋭利な屋根を見るに、あれが話に聞く城というやつなのかもしれない。

 疲労の限界にいたはずなのに、胸の奥が高鳴る。自分は本当に来れたのだ。この灰夜の国グレムリアの中心。王都グレイラグーンへ。

 どこを見渡しても見えるのは二階建て以上の高い建物ばかり。行きかう人々はみな小奇麗で、まるでロファーエル村の人たちとは別の人種のように見えた。

 早く街の中を見て回りたいと思ったが、同時に体の疲労も限界近かった。

 もう立っているのも辛い状態だ。まずはゆっくり休む必要がある。カウルは荷袋に詰め込んだ赤剥の骨を確かめると、老人のように足を動かしながら、換金屋を探して歩き出した。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る