第21話 災禍の呪い(3)

 森の中で小さな窪みを発見した。

 それは大地をえぐるように、不自然な半球状の跡を形成していた。

 黒いドレスのすそを持ち上げ、ネメアは身を屈めた。窪みの中に手を伸ばすと、ほんのりとざらつく感触が走った。まるで無数のひだのように逆立った波の跡だった。

 自然の光景とは思えない。明らかに呪術による損傷だ。それも相当高度な。

 記憶はないはずなのに、自然とそう確信できる。ネメアが顔を上げると、大地に同じような窪みがいくつも点在していた。

 誰かが争っていたのだ。呪術を扱える誰かが。

 ここはネメアの記憶に残るもっとも古い場所。呪いに侵され歩き続けたいた道の延長線上にある場所。状況から考えて、この光景が自分と無関係だとはとても思えなかった。

 ネメアは大地から手を離し、付着した土をほろった。ぱらぱらと渇いた小粒が靴の横に落ちる。

 呪術という言葉から真っ先に思い浮かんだのは、マヌリスの顔だった。

 この戦闘跡。それに呪いを受けさまよっていた自分。近くに彼女が居たのは、果たして偶然なのだろうか。

 彼女は命の恩人だ。呪いを除去し、介抱までしてくれた。けれどだからといって自分の味方であるとは限らなかった。悪意は時に善行を経由することだってありえるのだから。

 呪術。……呪術師。九大災禍の代行者……。

 何か思い出せないかと窪みを見つめていると、突然頭の奥に痛みを感じた。

 鈍い痛みだ。ネメアは苦痛に耐えるように眉間に手を当てた。

 呪いの後遺症がまだ残っているのだろうか。一瞬視界の中に切れ目のようなものが入る。

 ふらつく体を支えるために近くの木に寄りかかったところで、脳裏にある光景がよぎった。

 灰色の外套をまとった誰かの姿。それが鮮明に浮かび上がる。

 これは記憶? ……私の?

 痛みに耐えるネメアの中でさらに映像が進む。

 外套の人物の周囲にはいつしか奇妙なものが溢れていた。半透明の青白い透き通った肌。おぼろげな輪郭。明らかに人間の姿ではない何かが、数えきれないほどその場に漂っていた。

 外套の人物が何かを呟いた。声は聞こえない。しかし確かに言葉を発したと理解できた。

 ネメアは突然強い動悸と悲しみに襲われた。今すぐに動かなければならない。どこかへ行かなければならない。そんな感情が溢れかえる。しかしそれが何かも、どこかもまったくわからなかった。

 視界の切れ目が正常に戻り、目の前に緑の森が広がる。

 ネメアは木に縋りつくように体を寄せながら、何とか心を落ち着かせようとした。

 呼吸を繰り返しながら、思い出す。

 今の感覚には覚えがある。確か、マヌリスの庭園で目覚める直前に見た夢に、似たような男が居たような……。

 酷く感情がざわついているはずなのに、その原因が理解できない。何かが引っかかって取れないような、得体のしれない気持ち悪さがあった。

 長い赤毛が頬に張り付く。ネメアはそれを片手で横にずらした。

 無意識のうちに胸の前の服を握りしめ、大地に空いた複数の窪みを見下ろす。

 あの人物が自分の記憶を奪ったのだろうか。でも一体なんのために……?

 いくら考えても答えは見えない。何か恐ろしい事実を知っていたような気がするのに、それが何かもわからない。

 怖い。わからない。何もかも。

 世界でたったひとりになってしまったような気分だった。

 木に寄り添ったままネメアは無意識のうちに呟いた。

「……一体私は、誰なの……?」

 しかし当然、その問いに答えてくれる者はどこにもいなかった。


 


 緑の森の中にひっそりと作られた小さな庭園。

 その中心にある日傘の下で、マヌリスはいつものように本を読んでいた。

 ネメアが近づくと彼女は特に驚いた様子もなく顔を上げた。

「……どこに行っていたんだい?」

「森へ。何か記憶の手がかりがあるかもと思って」

 ネメアはあえて正直に答えた。

「命知らずだね。この森は別に安全地帯ってわけじゃないんだ。いつ禍獣や野盗に襲われてもおかしくはないってのに。まあ自殺願望があるのなら、あたしは別に止めはしないが」

 禍獣。呪いが受肉した存在。そういえば確かに森の中で遭遇しなかった。あまり気にしていなかったけれど、そう言われると恐ろしい真似をしていたことに気が付く。

「失念してました。今度から気を付けます」

「別にあんたの勝手だ。あたしに謝ることじゃない」 

 マヌリスは興味無さげに答えた。

 ネメアは自分でも不思議に思った。過去の記憶はないが、禍獣の恐ろしさは知っていたはずだ。それなのになぜ意識すらしなかったのだろうか。どことなく禍獣が近くにいないと、そう妙な感覚があったせいかもしれない。

 ネメアが椅子の横に移動すると、マヌリスはつり上がった鋭い目でネメアを観察した。

 深い闇色。黒水晶のような瞳だとネメアは思った。

「それで、成果はあったのかい?」

「争いのあった形跡を発見しました。地面が爆発したみたいで、呪術によるものだと思うんですけど。マヌリスさんなら何かわかりませんか」

「現場を見てみないと何とも言えないが、まあ呪術の系統くらいは予想がつくだろうね。……ただ、そんなものが分かったところでお前の記憶の手がかりにはならないよ。時間の無駄さ。……本気で記憶を取り戻したいのなら、ノアブレイズへ行くべきさね。あそこは呪術師の楽園だ。記憶に関する専門家だっているかもしれない」

 ――ノアブレイズ。呪術大国アザレアの王都。

 ネメアの頭の中に知識が浮かび上がった。

「ノアブレイズまではここからどれくらいかかりますか」

「馬で二週間ってところだね。運が良ければたどり着けるかもしれないよ」

 二週間……か。ネメアは心の中で舌打ちした。

 健康な馬が一日に走れる距離は、人の足で大体五万歩程度の距離。二週間と言うことは、馬なしで移動すれば七十万歩以上も歩き続けなければならない。しかもそれはあくまで順調に進めた場合の話であり、禍獣との遭遇、天候などのことを考慮すれば、徒歩での移動はさらに時間がかかるはずだ。

 今のネメアには金もなければ伝手もない。身を守るためには退魔士だって雇う必要がある。王都へ向かう馬車に同伴することができればいいのだが、そんな都合の良い相手は中々見つかることはないだろう。見つかったとしても戦う術も身分もないネメアには大きな代償と危険が伴う。現実的に考えて、今一人で王都へ向かうのはかなり難易度が高かった。

 ネメアが考え込んでいると、マヌリスがぱたんと本を閉じた。

「そんな深刻そうな顔をするもんじゃないよ。せっかくの美人が台無しじゃないか」

 そう言って、小さな笑みを浮かべる。

「……あんたついてたね。本当に偶然なんだが、あたしは元々ここでの仕事が終わり次第、ノアブレイズに行くつもりだったんだ。もう少し待てるって言うのなら、連れて行ってやってもいい」

「ノアブレイズに行くんですか」

 ネメアは驚いた声を出した。

「ああ。あそこにある叡智の塔で調べたいことがあるのさ」

「叡智の塔……?」

「この世界にあるあらゆる呪術的な記録が集まっている場所だ。歴史本や呪術書まで何でも揃っている。調べ物にはもってこいのところだよ」

 自慢げに説明するマヌリス。

 ネメアは彼女の様子を伺いながら、その提案の効果について考えた。

 マヌリスは呪術師だ。どれだけ実力があるのかは知らないが、こんな場所で一人で行動しているということは、それなりに心得はあるのだろう。もし本当にマヌリスがノアブレイズまで同行してくれるのなら、それは大いに心強い。道中の護衛や道案内を雇う必要が無くなるし、呪術師の小間使いという肩書があれば、出会う人間に怪しまれる可能性も低くなるはずだ。誰かが少女を追っている話がないか、誰かがどこかで争ったかなど、世俗的な情報を得るにも適している。何より自分を呪った犯人候補である彼女から離れる必要がなくなるのは、ありがたかった。

 願ったりかなったりの提案。しかしあまりに都合が良すぎる気もした。

 いつものように余裕のある微笑みを浮かべ、こちらを眺めるマヌリス。

 彼女には自分を守る理由も建前もない。それでも同行を提案してくれるのは、単純な善意なのかそれとも別の意図があるのか。

 全てを見通しているかのようなマヌリスの瞳が嫌になり、ネメアは視線を下ろした。

「出発はいつ頃になりそうですか。仕事が終わり次第とのことですが」

「なに。一か月もかからないさ。あんたも知っての通り、あたしは人形作りを生業としている。そこの小屋にあるものが全て売りきれれば、旅の資金も身軽さも整うってわけだ」

 マヌリスの言葉を聞き、ネメアは小屋を振り返った。部屋の中には美しい人形が何十体も飾られていたが、あれを全て一か月で売り切ると言うのだろうか。この近隣に大きな町はない。いくら素晴らしい人形だろうと、わざわざ高い金を払って購入する村人たちがそんなにもいるとは思えなかった。

「心配するな。あたしの人形はそれなりに人気でね。どこだろうと飛ぶように売れるのさ。まあ、あんたもついて来ればわかるよ。本当に価値があるものには、たとえいくらだろうと金はしぶらないもんさ。どれだけ貧しい生活をしていようとね」

 口を半開きにし、マヌリスは喉の奥で小さな笑い声を漏らした。それは妙に含みのある笑顔だった。



 翌日。マヌリスが近場の村へ人形を売りに出ると言うので、ネメアは同行を申し出た。

 これ以上森を彷徨っていても手がかりは得られそうにないし、何より村人たちから最近の出来事について噂話を聞けるかもしれないと考えたからだ。

 マヌリスの指示に従い人形を荷車に詰め込むと、まるで生きた子供たちがその場に居るような錯覚をしそうになった。

 何だか気味の悪さを感じ、ネメアは逃げるように荷車の蓋を閉じた。

「申し訳ないが、あんたには歩いてもらうよ。ついこないだ若い馬が禍獣に殺されちまってね。今はこいつしかいないんだ」

 荷車の前にはまだら模様の灰色の馬が繋がれていた。いつも庭園の隅にある小屋で大人しく座り込んでいたやつだ。マヌリスは馬の上から無遠慮にそう言った。

「構いません。歩くのには慣れていますから」

 馬はかなり高齢のようで、酷くやつれて見える。ネメアの体重はそれほど重くはないが、二人で乗ればすぐにでもつぶれてしまいそうだった。

 半円状の柵を潜り庭園から森に出ると、ひもで引かれた荷車ががたごとと唸る様に揺れた。ネメアは荷車が壊れないか心配になったが、マヌリスはたいして気にしていないようだった。

 差し込む木漏れ日に、風の音。森の中は気持ちの良い穏やかさに満ちていた。

 普通なら、居住地から出るのは命がけだ。外の世界は九大災禍によって振りまかれた呪いで溢れ、絶えず禍獣が徘徊している。にも拘わらず、この森にはその影がまったく無かった。

 歩きながらネメアは先ほどのマヌリスの言葉を頭の中で繰り返した。馬が禍獣に殺されたと、彼女は話した。最初は何にも思っていなかったのだが、今になって考えると一つ気になる点があった。

 マヌリスは一人で行動している。あの庭園の様子を見るに、滞在していたのは数日や数週間という話ではないだろう。彼女の話が真実なら、馬が襲われた時、彼女自身の身も危険にさらされたはずだ。それはつまり、彼女はたった一人で禍獣と遭遇し、生き延びたということを意味している。

 この数日間。ずっと森の中で禍獣の姿を見ないことを不思議に思っていた。たまたま近くに居なかったのだとしても、あまりに運が良すぎると。

 禍獣を狩るのは聖騎士や退魔士の役目だが、それは別に呪術師が彼らに劣っているからというわけではない。ただ単に禍獣を殺すことを生業とするか、しないかの違いでしかないのだ。

 ネメアはゆっくりとマヌリスの顔を見上げた。

 年齢不詳の麗美な横顔。自分の命を救ってくれた恩人。

 ネメアは彼女のことを頼もしく思ったが、同時に、どこか得体の知れない恐ろさも感じていた。





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