第20話 災禍の呪い(2)
鈍く重い感触が腕に走る。
黒ずんだ血液が宙に舞い灰色の岩壁に点を散らした。
カウルは赤剥の腕を切り落とすつもりだった。だが刃は彼の表皮を切り裂いただけだった。
赤剥の身体が強靭なのかそれともナタの切れ味が悪過ぎるのか。切っ先は紅の肌を撫でるように滑り降り、地面につく。
一瞬息がつまる。しかしここで諦めるわけにはいかない。
自分が叫んでいるのか、泣いているのかもわからなかった。とにかくカウルは必死にナタを振り続けた。何度も何度も何度も。
みんなを救ううんだ。俺がみんなを。……帰るんだ。あの家に……!
激情と恐怖がごちゃまぜとなり頭の中で暴れ狂う。
今ここで腕を止めてしまえば、二度と赤剥には立ち向かえない。二度と恐怖に打ち勝つことはできない。そんな気がした。
カウルの決意が籠ったのだろうか。繰り返し振り下ろされた刃の一太刀が赤剥の腕の肉にめり込んだ。じんわりとそこから黒血が湧き出る。
浅いが血が出るということは切れるということ。そして切れるものであれば、殺せるということだ。
赤剥の流血を見て心の中にかすかな希望が灯る。カウルはそのまま攻撃を続けようとして、
「あっ……!?」
いきなり半身に構えた体が大きく前に傾いた。赤剥が刃の刺さったままの腕を後ろへ引いたのだ。
手に力を込めるも刃は抜けない。カウルは慌ててナタから手を離そうとしたが、すぐに気が付いた。今この武器を失えば自分には戦う手段がなくなってしまうことに。
迷いを覚えたその刹那。赤剥のもう一方の腕が岩の隙間へ差し込まれた。
赤い手は傾き前に出ていたカウルの肩を握りしめ、爪を肉に食い込ませた。痛みが爆発したような衝撃が脳髄を満たす。しかしそんなことなど気にする余裕も無かった。掴まれた勢いのまま岩間の外へ引きずり出されてしまったからだ。
灰色の土が頬に乗る。
遠くの方で夜を割る様に赤く染まり始めた空が見えた。
地面に打ち付けられた衝撃でナタが赤剥の腕から抜けた。カウルはすぐ立ち上がろうとしたが、それよりも早く赤剥がその太い腕を振り下ろした。
考えている余裕はなかった。思考よりも先に体が動きナタを顔の前へと持ち上げた。
力に押され歪む刃。直後、物凄い衝撃が手首に伝わり腕を弾き飛ばす。ナタを手放さずに済んだのはただの偶然でしかなかった。
赤剥は地面に横たわったカウルに向かって逆の手を突き出した。防ぐ時間は無い。カウルは間一髪のところで首を横に動かし、赤剥の黒ずんだ爪から逃れた。
目と鼻の先に赤剥の顔があった。生まれて初めて動く禍獣の顔を目のあたりにする。
血走り濁ったおぞましい瞳。これは既に死んでいる。生物ではない別の何か。にも関わらず、そこには確かに殺意が満ちている。
一体何がこれを動かすのか。何かそこまで生命を憎ませているのか。カウルにはわからない。けれど死体であるはずの赤剥の瞳に、確かに意思のようなものが映っている気がした。
赤剥が口を開き、幾重にも並んだ歯を振り下ろした。防ごうとしたが右手は先ほど弾かれたままだ。間に合わない。鋭い痛みが肩に響き、激痛が流れる。
昔本棚の角に小指をぶつけもだえ苦しんだことがあったが、これはそんな比の痛みではなかった。灼熱だ。噛まれた場所を中心に筋肉が発火したかのような熱と刺激を感じる。全身の感覚全てが傷口に集中し、痛みを感じることに特化してしまったかのようだった。
――ここまでか。ここで死ぬのか――……。
馬乗りにされた状態で逃げ出すことはほぼ不可能。どれだけ足掻いても、どれだけ歯向かっても筋力の差は覆らない。けれど――。
――生きようと思わなければ、生き残ることはできない。
カウルは母の言葉を心の中で繰り返した。決して自ら命を手放そうとはしなかった。
涙目のまま大声を上げ、自分にかみついた赤剥に向かってナタを切り付ける。元々切れ味の悪い刃。それもこの態勢では大した力など込めることはできない。刃は赤剥の薄皮を削る効果しかなく、赤剥の噛む力はより一層強くなっていった。
温かい液体が首元を伝わり灰色の視界を鮮やかに染めていく。
こうして首元を噛まれていると、嫌でも思い出してしまう。あの身の毛もよだつ三つの金色の瞳を。
傷の呪い。触れたものの傷をどこまでもどこまでも増幅し、死へと至らしめる呪い。ロファーエル村の人たちを殺し、カウルの家族や友人が封印されることになった元凶。
‶……でも不思議ね。何でカウルだけ呪いの影響が出ないのかな〟
頭の中で母の言葉が流れ過ぎる。
血を吹き出し倒れた見張り役の男。
次々に死んでいく村人たち。
封印を割った黒いひび割れ。
そして聖騎士の天幕前の地面を抉った爪痕。
霞みかけた視界の中に刻呪の残滓が映ったナタの刃が見える。
半ば無意識に、カウルはそれを赤剥に向かって叩きつけた。
刃は腕に命中し小さな傷を作った。赤剥は煩わしそうに爪を振り、カウルのナタを振り払おうとする。
だがカウルは手を離さなかった。刃を押し付け続けた。それが自分に出来る唯一の抵抗だったから。それが自分の生きる意思だったから。最後の最後まで諦めない。それが母の、家族の教えだったから。
赤剥がカウルの肩から口を離し、今度は喉元に向かって歯を向ける。
今度こそ死ぬ。もう逃げようがない。カウルがそう直観した時だった。
ふと、手の中にあった抵抗が消えた。
頬に当たる生暖かい液体。迫っていたはずの口元はどこにも姿が見えない。
なぜか、赤剥が悲鳴を上げていた。強い痛みを感じるように仰け反り、その頭を上げている。
カウルは刃が赤剥の腕に埋まっているのを見つけた。
表皮を削ることがやっとだったはずのなまくらなのに、どうしてか腕の半分ほどまで刃が進んでいる。
吹き出す赤黒い血。広がる傷。傷。傷。赤と白に縁どられた肉の断面が視界に飛び込んでくる。
――傷……傷の呪い。
それは傷を広げ続ける。
呪いが存在する限りどこまでも。
得物が死を迎えるまで。
その瞬間、カウルは己が何をするべきか悟った。
吠えるように声を上げる。
カウルが手に力を籠めると、赤剥の腕はいとも簡単に地面に落ちた。雨のように黒い血液が飛び散り、周囲を染める。
赤剥が仰け反っていたおかげで僅かに隙間ができていた。カウルは左手で地面に手を突き身体を支え、がむしゃらにナタを切りつけた。それは赤剥の肩に当たり僅かな亀裂を生む。
「斬れろ――!」
祈る様に叫ぶカウル。その瞬間、亀裂はみるみる広がり赤剥の肩から胸部に大きな太刀傷を作った。
何かがおかしいと察知したのだろう。カウルの前から飛びのき、態勢を立て直すように四つん這いになる赤剥。
まともに打ち合えば勝ち目はない。相手が怯んでいるこの隙を逃すわけにはいかなかった。
カウルは飛び起きた勢いのまま渾身の力を込めてナタを前に突き出す。赤剥はカウルの動きに合わせすかさず爪を繰り出したが、片腕を失ったせいで重心を上手く取れなかったらしい。爪はカウルの頬を掠め、小さな切り傷を作っただけだった。
赤剥の胴体に刃が当たり固い感触が手の中に木霊する。しかしカウルは諦めなかった。全身全霊で意識をその切っ先に集中させた。
――開けっ……開け開け開け!
初めは小さな削り跡。それが次第に亀裂となり、一気に割れる。
傷の呪いを帯びた刃は瞬く間に赤剥の胴体に侵入し、そして反対側へと突き抜けた。
もはや自分の血なのか赤剥の血なのか判断もつかない。全身がぐっしょりと濡れ、手足を重く圧迫していた。
確実に何らかの臓器を穿っていた。普通の生物であれば悶絶し苦しむか、生を諦めぐったりと項垂れるほどの傷だ。それが‶命〟を持つ生き物であれば。
耳元で赤剥の咆哮が放たれる。
カウルは赤剥の裏拳で吹き飛ばされ、背後の岩場に背を打ち付けた。
ナタは赤剥の腹に刺さったままだ。今のカウルには何の武器もない。
肩の傷が激しく存在を主張し意識をもぎ取りにかかる。呼吸は乱れ、今にも肺が破裂してしまいそうだった。
普通ならば絶望する場面。全てを諦めて安らかな死を願うべき状態。だがカウルは諦めなかった。諦められない理由があった。
血に塗れた顔の中で、まだ光の消えない目を赤剥に向ける。
左手を失い、胸部と腹部には深い切り傷。ここまでやって、ここまで追い詰めて、こんな状況で諦めるなんて馬鹿な真似。カウルにできるわけがなかった。
怒りなのだろうか。
赤剥は喉の奥で声を回転させ、猛烈な勢いでカウルへ飛びかかった。
もし赤剥が万全の状態であれば、あれを回避するのは至難の技だっただろう。だが幸いなことに今の赤剥は体を大きく損傷していた。カウルがその状態を作り出した。
大きく振りかぶられた爪が宙に投げられる。カウルは前のりに倒れるようにそれを目と鼻の先でかわした。
爪が岩を砕き破片を飛ばす。人間では不可能な真似。恐ろしいほど強靭な筋力だ。
赤剥は勢いに任せるまま、カウルに向かって右腕を振り続けた。
攻撃を避ける度に。爪が体にかするたびに、命を刈り取られるような冷たさと恐怖を感じる。まるで赤い暴風雨の中に飛び込んでしまったかのような気分だった。
生半可な動きではとてもじゃないが赤剥の爪を避けることなどできない。カウルは恥を忍んで全身全霊で転がる様に赤剥から逃げ続けた。
吹き飛ぶ地面の土。
抉られる肌。
切り裂かれる荷袋。
宙に舞った赤い果実の間を割る様に赤剥の爪が飛び出す。
避ける暇はない。が、かといって防ぐためのナタもない。
とっさの判断でカウルは切り裂かれた荷袋を前に回した。僅かに残っていた果実が赤剥の爪に砕かれ甘い香りが吹き上がり、背中が再度岩にぶつかる。
荷袋を突き抜けた爪の一部がカウルの胸部に届き、僅かに肉に食い込んだ。
カウルは痛みに顔を歪めたまま、最後の力を振り絞って赤剥の腕に手を乗せた。
傷の呪いはありとあらゆる傷を増幅する力。
例えナタを握っていなくとも、触れてさえいれば相手の傷を広げることはできる。
強く思い返す。あの忌むべき三つ目の悪魔を。あのおぞましい存在感を。
自らの手に乗せて。
歯をむき出しにしかぶりつこうとする赤剥。しかし次の瞬間、彼の全身から盛大に黒い血が噴き出した。カウルに触れられたことで、これまでできた傷全てが倍々的に広がり続け、限界を迎えたのだ。
赤く血走った瞳の中に宿る得体の知れない憎悪。
それは真っすぐにカウルを捕らえ、そして――ふっと、掻き消えるように姿を消した。
泥人形が崩れ落ちるように、地に伏す赤剥。カウルはそれを茫然と見下ろした。
風に持ち上げられた砂が赤剥の身体にかかる。黒く溢れた血に灰色のかさぶたができた。
死んだのか? 本当に……?
禍獣は既に死んだ存在。例え致死量の傷を負っても何が起きるかはわからない。
カウルは赤剥の生死を確認しようとしたものの、立ち上がろうとして、そのまま膝を地面についてしまった。
頭がくらくらする。呼吸が苦しい。
無意識のうちに息を止めて動いていたのだろう。肺と顔が尋常ではないほど熱かった。
肩では赤剥に噛まれた傷が大きく口を開けている。今すぐに応急処置をしなければと思ったものの、もはや体を動かす気力もなかった。
身体を後ろに倒し、足を前に投げ出す。
朝日が昇っていた。橙色の激しい光が地平線の奥から手を伸ばしている。光に照らされた赤い果実が美味そうに輝いていた。
――……拾わないと。
このままここに座っていては、血の臭いを嗅ぎつけて狼たちが寄ってくるかもしれない。
だがカウルは動けないかった。ただじっと座り込み朝日を見上げていた。
まるで祈祷術の祝福のように、暖かな光だった。
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