第19話 災禍の呪い(1)
九大災禍によって振り撒かれた呪いは、まれに生物の身体へ受肉し、変化をもたらすことがあった。
放置された死体、重度の呪いを受けた犠牲者、呪いの残滓が残った大地など、彼らはありとあらゆる場所から突発的に発生した。
彼らは肉体を得た呪いそのものであり、その意思を支配するのはただ一つの感情――殺意だけだった。
彼らは生物がうとましいから、存在が許せないから、その形を破壊し、命を奪う。
命無き彼らに食欲はなく、ゆえにその殺意にも終わりは無かった。
ただひたすらに、思うがままに殺戮を行う彼らを恐れ、いつしか人々は嫌悪を込めて彼らのことをこう呼ぶようになった。
災いを振りまく災禍の獣。禍獣と――。
小さな岩を駆け上がり反対側へと転がり降りる。態勢を立て直しすぐに横へ駆けた。
カウルは村から出たことがほとんどない。しかし、外の出来事はよく父から聞かされていた。
荒野で獣と遭遇した時、最も気を付けなければならないのは背を向けることだった。獣は本能的に逃げる得物を追いかける習性があり、背を向けることでその習性に切っ掛けを与えてしまうことになるからだ。
だから獣と相対してしまった時は、荷物を投げ捨て獣の興味を逸らし、何の感情も籠らない目を向けたままゆっくりと後ろに下がる。それが最善の策だと。
しかしその常識は生きた獣に対してのみの話であり、禍獣には当てはまらない。彼らは食欲で追いかけているわけではないのだ。獲物が逃げようが立ち向かおうが関係もない。ただ生物がそこにあることが許せない。それだけなのだから。
禍獣と遭遇した場合の有効な手段は、すぐさま逃げ自身の姿を隠し、禍獣が離れるのを祈ること。八割が死に二割の可能性で生き残れる。それが村の常識であり、事実、それ以外の選択肢を選んだ者が村に帰ってくることは決して無かった。
目の前に複数の小さな岩が乱立している。カウルは呼吸も忘れ全力でその間へ滑り込んだ。直後、激しい物音と共に禍獣が岩を飛び越え、先ほどカウルが降りた場所へ着地した。
岩の背に隠れながら、カウルは手で口をがっしりと掴み声を押し殺した。
禍獣はカウルを探すように頭を動かし、血走った眼球をぎょろりと左右に動かした。
あの髑髏と筋肉が逆転したような異様な体。幾重にも飛び出した背中の突起。村人たちが骸拾いで集めた死骸の中で何度も目にしたことがある。
――赤剥(かくむ)……!
カウルは心の中でその禍獣の名を呟いた。
剥き出しの赤い筋肉からついた呼び名。グレムリアの荒野でもっとも頻繁に目撃されている禍獣。
赤剥は死門によって命を吸われた人や獣が、体に残留した呪いによって変質した禍獣だ。
その体躯は人の倍はあり、俊敏な手足と鋭利な爪を持ち、何よりその筋力は人の首を小枝のようにへし折れると言われていた。
全身から滝のような汗が流れる。
刻呪を初めて目にした時はその圧倒的な存在感と異質さに恐怖を抱いたが、赤剥から感じるのはそれとはまったく別種の生物的な危機感だった。
溢れるような明確な殺意。自分の命が狙われていると、殺されると、ひしひしと実感する。
刻呪を殺すために旅に出た。けれど今のカウルにはまだ何の知識も技術もない。赤剥とまともに向き合って生き残れるわけがなかった。
カウルの気配を感じたのか、赤剥がこちらを向いた。そのまま真っすぐに近寄ってくる。
――くっそ……!
あまりにも突然の遭遇に思考が纏まらない。カウルは混乱状態に陥りながらも何とか別の岩間へ逃げ込んだ。二つの岩が寄り添った細い隙間だった。
何かをすり合わせるかのような、耳障りな呼吸音がすぐ近くで聞こえる。音を立てるべきではないにも関わらず、勝手に膝が笑ってしまった。
これが禍獣。
命を殺すためだけに生まれた肉の塊。
聖騎士や退魔士は日常的にこれと戦っているというが、一体どうすればこんなものに打ち勝てるのだろう。全く想像ができない。
――頼む。早く消えてくれ。お願いだから……!
時間の感覚が狂う。一秒が一時間かと思えるほどの地獄だった。
身体から流れた汗が服をびしょびしょに濡らしていく。このまま干からびてしまうんじゃないかと思いかけた時、ようやく禍獣がその場から離れた。
カウルは心の底からほっとした。数年分の幸運を使い切った気分だった。
……早く離れないと。ここから。
時間はまだ深夜。荒野を歩けば狼に襲われる可能性があるが、このままここに居てはいつまた禍獣が戻ってくるかもわからない。
慎重に足を動かし半身を岩場の外へ出す。そのまま一気に荒野へ向かおうとして――ふいに強い血の香りを感じた。
禍獣の姿は見えない。しかし本能的に嫌な予感がした。身体を岩の隙間へ戻し様子を伺おうとした直後、突如真っ赤な爪が目前の空を切った。
「うわぁっ!?」
叫び声が漏れる。岩の隙間の上部。そこから逆さまになった赤剥が腕を垂らしていた。離れたと見せかけて、背後から岩に上っていたようだった。
耳をつんざくような雄たけびが放たれる。赤剥は逆さまの態勢のまま、再度岩の隙間へ腕を伸ばした。
あれに抉られれば肉など粘度のように吹き飛んでしまう。カウルは死ぬ思いで奥へ逃れようとしたが、いくらあがいてもそれ以上進むことはできなかった。人の体では通れないほど幅が狭くなっていたのだ。
伸びた赤剥の爪がカウルの服に引っ掛かる。
まずいっ――!
カウルは慌てて踏ん張ったが、赤剥の筋力には歯が立たず、あっさりと前側へ引きずられてしまった。
腐敗した食物のような悪臭が鼻に飛び込み、地割れのような唸り声が耳を突き抜ける。それはカウルの恐怖心を煽るには、十分過ぎるほどの情報だった。
赤剥の口が開き、突起の生えた舌と二重になった鋭利な歯が見えた。それが振り下ろされる直前、急にカウルは身体の軽さを感じた。生地が古かったおかげで赤剥の爪が服を切り裂いたのだ。
カウルは全力で隙間の奥へと体を戻した。
心臓が爆発するように脈動し全身の神経が落雷を受けたようにひりつく。自分の身体が自分のものでは無いようだった。
白い髑髏に縁どられた赤剥の血走った眼球が、岩の隙間からこちらを覗き込んだ。
これまで禍獣の骸は何度も見てきた。村に持ち込まれた禍獣の解体を手伝ったことだってある。
村の外に出た時。カウルは正直、禍獣のことを軽く見ていた。刻呪を見てしまった今、その他の禍獣なんて恐れるに足らないと。何度も骸拾いで目にしてきた程度の生き物でしかないと。しかしこの目を見た瞬間、殺意に満ちた意識を感じた途端、それが間違いであると存分に気が付かされた。
何をうぬぼれていたのだろうか。ただ特異な呪われ方をしただけで、自分がどこにでもいる田舎の子供であることは、変わらない事実のはずなのに。
気が付けばカウルは悲鳴を上げていた。自分でも知らないうちに声が喉から漏れ出していた。
赤剥の爪が隙間から伸びカウルの顔の横の岩を削り取る。それはカウルがいくら叫ぼうと暴れようと気にもせずの差し込まれ続けた。何度も何度も何度も――……。
禍獣は諦めない。
禍獣は逃げない。
禍獣は殺意を振り撒き続ける。
得物が死ぬその瞬間まで。
――遠くの方で狼の遠吠えが聞こえた。その声でカウルは我に返った。いつの間にか、放心してしまっていたらしい。
激しく岩を削る物音と呼吸音。どうやら赤剥は身体の大きさのせいでそれ以上隙間の中へは踏み込めないようだった。手だけを必死に伸ばし続けている。
どれくらい時間が経ったのだろう。岩の隙間には微かな光が差し込んでいた。赤剥ごしに空が赤らんでいるのがわかった。
神経を張り詰めさせられ過ぎて、感覚がマヒしてしまったのだろうか。カウルは暴れ続ける赤剥をぼうっと他人事のように見つめた。
あの醜悪な姿。吐きそうなほど気持ちの悪い臭い。そして自分への殺意のみを宿した二つの血走った瞳。
彼がここから退くことは決してありえない。カウルが自ら進みでてその爪の餌食になるか、飢え死にするまで。
――誰かいないのか? 誰か……。
グレムリアは退魔士が多い国だ。荒野を移動する退魔士だって数多くいる。このままここで籠城していれば、いつかは誰かが気づいてくれるかもしれない。いつかは誰かが助けてくれるかもしれない。待っていれば、きっといつか誰かが……。
そこまで考えたところで、カウルは自らの考えに苦笑いした。
グレムリア南部は広大な面積を誇る。護衛のために退魔士が行き来することはあるが、国道を経由しない限り出会えることなどめったにない。こんな人里離れた荒野ならそれは尚のこと。いくらカウルが助けを求めようと、いくら泣き叫ぼうと、都合よく誰かが手を貸してくれることは絶対にありえないのだ。
激しく暴れ続ける赤剥。彼の姿を横目に、カウルは何となく、ロファーエル村で囚われた時のことを思い出していた。自分を元気づけるために、母が話してくれた思い出のことを。
「……まだ私が若かった頃にね。家出をして村から出た事があるの」
「家出? 母さんが?」
「うん。信じられないでしょ。でもね。本当なの。ロファーエル村みたいな小さな村は、結婚相手を親が決めることも多くてね。当時の私は両親が選んだ相手がどうしても嫌で、二人と喧嘩して衝動的に村から飛び出したの。村人たちはもう私は死んでしまっただとか、退魔士を雇って探しに行こうとか話し合っていたみたいだけど、お父さんだけは違った。たった一人で荒野に出て私を探し回ったの。
本当に偶然、奇跡みたいな話なんだけれど、お父さんは荒野で禍獣に怯えてうずくまっていた私を見つけてくれた。びっくりしたよ。確かに仲はいい方だったけれど、まさか助けに来てくれるとは思ってもみなかったから。
それから何度も危ない目にあったけれど、死を覚悟するたびにお父さんが必死に励ましてくれて、最後は隣町までたどり着くことができた。結局私もお父さんもこっぴどく怒られたんだけど、それが切っ掛けで私の婚約は無くなったの。どうもお父さんが必死に私の両親を説得してくれたらしくてね。それが切っ掛けでお父さんのことを意識するようになって、あなたが生まれた。
だからね。外に出る怖さはよく知ってる。そして生き延びる方法も。強い意思を持って諦めなければ何とかなるものだよ。人間本気でやれば出来ないことなんてないんだから」
「……わかったよ。確かに何もしないでここで死ぬよりはずっといい」
「そうだよ。物事は意思によってしか動かない。生きようと思わなければ生きる事なんて出来ないんだから」
目元から涙が流れる。
母はここにはいない。ロファーエル村の中に封印されてしまった。けれどどうしてだろう。カウルは彼女に強く叱責されているような気持ちになった。
「生きようと思わなければ、生き残ることなんてできない。生きようと思わなければ……」
彼女の言葉を無意識のうちに口に出す。か細い囁きのような声。けれどその言葉は確かに、カウルの心を勇気づけた。
母も父も。自分と同じような年齢の頃に一人で外に出ていたのだ。それもこんな死門が通り過ぎたばかりの安全な時期じゃなく、もっと禍獣が溢れる危険な時に。
その中で、あの二人は戦った。生き延びた。お互いを守るために。お互いを救うために命を懸けて。
僅かに村での決意が蘇ってくる。カウルはぎゅっと己の拳を握りしめた。
自分は一体何をしているのだろう。みんなを救うと誓ったはずなのに。刻呪を殺すと決めたはずのなのに。戦いもせずに諦めて、訪れることのない奇跡に縋ろうとしている。
分かっていたことじゃないか。一人で荒野に出ればこうなることくらい。いつかは禍獣と相対しなければならないって。わかっていたはずなのに。
夢で見た両親と、親友二人の姿を思い浮かべる。
自分はまだ何もしていない。戦ってすらいない。勝手に恐怖して、勝手に己を卑下して、勝手に相手を強者にして。勝手に死のうとしていただけだ。戦えば、例え万が一でも生き残れる可能性はありえるのに。
「……生きようと思わなければ、生き残ることなんてできない」
カウルは再度、母の言葉を口に出した。
それは呪文のように、カウルに力を与えてくれた。
腰に差していたナタを右手で引き抜き、半身のまま構える。
この岩に挟まった体勢では大した力は出せない。けれど逆に言えば、腕を伸ばし続けている赤剥も簡単にこちらの攻撃を避けられないということだ。
荒野であの素早い赤剥を捕らえることは至難の業だ。しかしここならば、確実に刃を当てることができる。
怖い。それは変わらない。息が苦しい。胸が、喉が、自分自身の身体によって強く締め付けられている。けれど――先ほどまでよりははるかにマシだった。
「生きようと思わなければ――……」
やすりを強烈にすり合わせたかのような、赤剝の声が岩間に響き、赤い腕が岩壁に深い爪痕を刻んだ。それはカウルの頭のほぼ真横だった。
カウルは真っすぐに赤剥の濁った眼を見返し、そして、
「 ――生き残ることはできない……!」
全力でナタを振り下ろした。
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