第18話 目覚め(5)

 灰色の木々に果物がなっている。

 カウルは手を伸ばしそれをもぎ取った。赤色の綺麗な果物だった。

 葉も枝も灰色なのに、何故実はこれほどまでに真っ赤なのだろうか。不思議に思いつつも、空腹を我慢することができずそれを口に含んだ。果肉を歯で砕く感触と共に、微かな酸味と程よい甘さが口の中に広がった。

 あっと言う間に果物を平らげたカウルは、すぐに枝から二個目をむしり取った。かぶりつこうと口を開けたものの、木に実っている残りの数を考え、思い留まる。

 腹は減っている。大した食事もとれずに数日間歩き続けていたのだから当然だ。しかしここで欲望のまま果物を食べつくすのは、あまりに考えが無さ過ぎると思った。荒野の中に僅かに密集していた小さな森。そこでようやく発見できた果物なのだ。動けるうちはいざというときのために蓄えていた方が、きっと後々助かるかもしれない。

 カウルは背負っていた荷袋を広げ、そこに取れるだけの果物をしまった。荷袋の中には甘い香りが充満し、唾液が口の中に溢れたが、必死の思いで我慢する。

 どこかの村に寄れば食べ物にありつくことは可能だろうが、ロファーエル村から離れるまではあまり人里に寄るわけにはいかなかった。小さな村々で子供の旅人、それも退魔士の護衛もいない人間なんて目立って仕方がないからだ。せめて王都のような大きな町に着くことができれば、守護騎士団に足取りを掴まれる危険は無くなるのだが。

 カウルは腰に付けた水袋を上にかざし、中身を喉に流し込んだ。道中発見した川で汲んだ水だが、こちらも残りは僅かだった。

 前に父から聞いた話だと、ロファーエル村から王都までは馬で五日ほどかかるらしい。既にかなりの距離を歩いてきたから、位置的には近い場所まで来ているはずなのだが、未だに文明の影すら見えない。

 木から背を離し立ち上がると、カウルは横に立てかけていたナタを取り腰に括り付けた。ロファーエル村から出る直前、見張り役の駐屯所から拝借したものだ。それほど切れ味のいい代物ではないが、無いよりはマシというものだろう。

 食料も水もほとんどない。状況的にはかなりまずい。だがカウルはそれほど絶望してはいなかった。今まで村の外に出たことはなかった。こうして外の空気を吸って、見たことの無い場所を歩いて、自分で食べ物を確保することに新鮮さを感じていた。自分が生きていると強く実感することができた。

「さて……そろそろ行くか」

 ずっと一人で歩いていると妙に独り言が多くなる。いつもは思ったことを声に出すことなんてめったにないのだけれど、ここ最近は気が付けば声を発してしまっていた。本能的に寂しさを感じてしまっているのだろうか。両親の姿を思い浮かべそうになり、カウルは頭を横に振った。思い出に甘えてしまえば弱気になってしまう。彼らを助けるためにも、今は無理にでも明るく振る舞うべきだと思っていた。

 果物を入れて重くなった荷物を背負いながら、ただひたすら森の中を進む。どれだけ歩いてもどこを歩いても見えるのは灰色の岩や木々。唯一空だけが青い海原を広げてくれている。

 カウルにとってはもはや見慣れた光景だが、これはどうやらグレムリアだけの特徴らしかった。

 いつからそうなったのか、それとも元々そうだったのかは知らない。村の祈祷師は、樹木が灰色なのは死門の影響で変質したからだと説明していた。グレムリアの樹木は死門が訪れる度に根へ生命活動を移し仮死状態になる機能があるからだと。死門を浴びても形を崩さないように、石化にも似た状態を作っているらしい。

 どこまで行っても灰色の世界。まるで常に灰色の夜の中に居るような国。ゆえに灰夜の国グレムリアと、ここはそう呼ばれている。

 しばらく進むと森が開け、再び荒野が見えてきた。荒野に出れば陽射しを避けぎる木々の盾はもうない。どうやらここからはまたあの暑さに耐えなければならないようだ。

 カウルは背中からフードを取り出し頭にかぶると、小さなため息を吐いて歩き出した。



 日が僅かに落ちてきた。そろそろ寝床を探したほうがいいだろう。

 まだ夕方にすらなっていない時間帯だったが、見える景色の中で一番大きな岩場を探す。

 完全に夜になれば人間の目で確認できる世界はほんの僅かだ。暗くなる前にある程度の目星をつける必要があった。

 何とかして火を焚けば見えないこともないが、夜間のたき火はあまり良い手段とは言えない。火は盗賊や好奇心旺盛な獣を呼び寄せる効果がある。よく獣は火を怖がると言うが、それは一度火に触れたことのある獣だけだ。痛みを知らない獣は熱や揺れに気を取られ、逆に近づいてくる場合もあるらしい。骸探し中の父の冒険譚から、カウルはそのことを口酸っぱく教わっていた。

 右方向には走り回る牛の群れと、それを追いかける狼の一団がいた。死門の徘徊期間が明け、他所の土地から移動してきたのだろうか。

 距離はあるが、彼らの足であれば自分に追いつくことなど造作もないだろう。ましてや夜になれば、近づいていることすら気が付かづに喉元へ噛みつかれるかもしれない。

 骸拾いの死骸で狼はよく目にしていたが、こうして生きて走り回っているものを目にするのは初めてのことだった。カウルは恐怖心を抱き、彼らから離れるように逆方向を目指した。

 空が赤らんできたところで、カウルはちょうどよい岩場を発見した。僅かだが木々が生い茂っている様子から考えるに、水場もあるのかもしれない。

 慎重に遠くから観察したが、狼や他の獣が巣くっている様子はない。空の明るさから残り時間も考慮し、カウルはその岩場を本日の寝床へと決めた。

 近づくと大きな三つの岩が支え合うように立っている場所だとわかった。その下にカウルの身長ほどの小さな岩が複数転がっている。

 カウルはできるだけ高く狭い隙間を探すと、そこに体を滑り込ませた。腰を落ち着けると、どっと疲れが溢れてくる。

 視界がまだはっきりしているうちに水袋に残った最後の水分を喉に流し込み、荷袋に入った果物を平らげる。果物の芯は臭いで虫やネズミを呼ばないように、できるだけ遠くへと投げ捨てた。

 夕日が顔を照らす。橙色の輪郭と真っ白な中心。それは青かったはずの空から光を奪いつつ、ゆっくりと岩場の影へと沈み込んでいった。

 


 顔が冷たい。頬が水に浸かっているようだ。

 瞳を空けると真っ黒な水面が広がっていた。どこまでもどこまでも。先が見えないただ暗いだけの地平線。ここは……――。

 頭上には深紅の空が重々しくふところを広げ、その中央には足元の水と同じような太陽が輝いている。すぐに黒い雨が全身に降り注ぎ、カウルの髪や肌を冷たく濡らしていった。

 ――助けて……。

 どこからともなく声が聞こえる。

 ――開放して……。

 救いを求めるような。酷い苦しみの中にいるような。

 ――痛い。痛いよ。いつまでこんな目に……。

 水面の上に灰色の霧が広がっていた。カウルが目を凝らすと、そこに人に見える影が薄っすらと映り込んでいる。いくつも、いくつも。数えきれないほど。

 カウルはまるで呼び寄せられるように、その霧へ近づいた。足を一歩進める度に、声が大きくなり、その絶望が、苦しみが、振動のように肌に伝わっていく。

 霧をかき分けるように手を動かす。影は目の前に居たように見えたのだが、どれだけ進んでも実体を掴むことはできなかった。ただ声だけがカウルを囲むように周囲から聞こえ続ける。

 ――カウル。

 後ろからモネの声が響いた。

 カウルは体が反応するがままに振り返る。

 霧に浮かぶ影たちの中。そこに数人の見慣れた形が見えた。バンダナを撒いたようなあの頭部は、父だろうか。その横には寄り添うように柔らかな女性の影が見える。

 ――カウル。

 今度はゴートの声。

 両親と思わしき影の横に少年と少女の影が立っていた。

 カウルは彼らに駆け寄ろうとした。必死に手を伸ばそうとした。けれどやはりどれだけかき分けても影の実体を掴むことはできない。

 ゴートの名前を叫ぶ。母の影に呼びかけるも、彼らは答えない。彼らは見えない。

 いつしかカウルは霧が晴れた場所に出ていた。

 まるで台風の中心のように、そこだけ空と水面がはっきりと姿を見せている。

 強い悪寒。身を引き裂くような強烈な殺意。目の前にあの化け物が座っていた。

 それは三つの金色の瞳でカウルを見下ろしつつ、ゆっくりと立ち上がる。

 やめろ。来るな!

 カウルは叫んだ。カウルは逃げようとした。

 しかし足は水に捕らわれたかのようにピクリとも動かず、声は霧に吸われたように喉の前で発散する。

 大きく口を開ける三つ目の化け物。白い稲妻にも似た帯が水面を弾き切り裂いていく。

 視界いっぱいに鋭利な牙が見える。

 やめろ! やめてくれ!

 恐怖で心臓が破裂しそうになる。大地を失ったように足に力が入らない。

 白い帯に触れたカウルの腕が、肌が、血まみれになって裂けていく。

 三つ目の化け物はカウルを冷たい眼で見据え、そして牙を下ろした。

 

 

 弾かれたように飛び起きる。

 岩に腕が当たり鈍い痛みが走った。視界は闇に覆われていたが、うっすらと自分の腕を見ることができる。黄色い光。月明かりが上空から降り注いでいた。

「夢……」

 汗で体がびっしょりになっている。勝手に激しく呼吸が繰り返された。

 本当に、夢だったのか。

 あの赤と黒の世界。感じたモネたちの気配はあまりに生々しくて現実的だった。まるですぐそこに今でも存在しているようなそんな感覚がする。

「ち……くしょう……」

 岩場の隙間に腰を下ろしたまま、腕を額に当てる。酷い悪夢を見た。それもここ数年で類を見ないほどの。

 心を落ち着かせるためにカウルは水袋を取り出したが、いくら逆さまにして見ても水滴は落ちなかった。既に中身は空っぽになってたのだ。

 カウルは水袋を地面へ投げ捨てた。袋の原料となっている猪の皮が岩に当たり弾力のある音が響く。

 ただの夢。それはわかっている。わかっているけれど、カウルは酷く皆に責められているような気がした。いつまでこの苦しみを続けさせるのかと。いつまで自分たちを閉じ込めるのかと。

 刻呪を殺すと、一人で戦うと、そう覚悟を決めたはずなのに。村で目覚めた時の悔しさと無力感が蘇ってくる。カウルは泣きそうになるまぶたをこすり、必死に心を落ち着かせようとした。

 どこかで鳴く虫の声が、歌のように何度も流れ過ぎていく。

 しばらくして、カウルはようやく冷静さを取り戻した。散らばっている自分の荷物を眺め、深いため息を吐く。

 明日は朝からまた移動を始めるつもりだったのに。完全に目が覚めてしまった。これでは寝付く頃には朝日が拝めてしまいそうだ。

 空の水袋を拾って荷袋へと詰め込むと、中に入っていた果物が転がり落ちてしまった。カウルは慌てて手を伸ばしたが、あと一歩というところで掴み損ねた。真っ赤な果物はするすると岩の隙間から大地へと落下していく。

 月明かりが出ているとは言え、外は未だ闇に包まれている。できれば降りたくはなかったが、あのまま放置していればすぐに虫や小動物にたかられ食えない状態になってしまうかもしれない。まだ余分があるとはいえ、貴重な食料には変わりない。仕方が無くカウルは落ちた果物を探しに行くことにした。

 岩の隙間から大地を覗き込むと、月に照らされた草が見えた。その間に先ほどの果物が存在感たっぷりに鎮座している。

 カウルはゆっくりと岩壁を降りると、静かに果物を拾った。落ちた時に衝撃で窪んでしまったのか、若干形が歪んでいたが、食べれないわけではない。付着した土を足の布地でこすり払い、そのまま先ほどの岩の隙間へ戻ろうとしたのだが、そこでどこからともなく粘着質な物音が聞こえた。

 小さな岩の下。上からでは見えない位置に、何かの影が見えた。それが小刻みに上下に動くたびに、水気のある音が岩場に響き渡る。

 カウルの全身に寒気が走った。とっさに腰に据え付けたナタの柄を掴み身を低くする。

 ――くそ、なんてこった。こんな近くに居るなんて……!

 緊張からどっと汗が流れ始める。

 狼だろうか。それにしては見える影が不自然だ。狼にはあんな複数の突起は生えていない。

 岩山に向かってじりじりと後ろに下がりながら、最悪の事態が起きてしまったのだと悟る。

 村を出てからここまで平和だったから。一度も命の危険に合わなかったから。完全に油断してしまっていた。死門が過ぎ去ってから既に三週間。狼の姿を目にした時点で、警戒しておくべきだったのだ。

 それが激しく頭を振ると、何かが目の前の地面に飛んできた。頬にぴしゃりと生暖かい液体が付く。

 長い鼻に、細かく並んだ歯。そして未だ血を流し続ける赤黒い断面。狼の頭部が足元に転がっていた。

 腹から叫びそうになるのをカウルは必死に我慢した。気を抜けば今すぐにでも背を向けて走り出してしまいそうだった。

 ――まだ気づかれていない。まだ……。

 カウルは奥歯を噛みしめたまま下がり続け、小さな岩に足を乗せようとした。先ほどの岩の隙間まで登って隠れていれば、そのうちどこかへ消えてくれるかもしれないと、そう願って。

 だが残酷にも自然はカウルの味方をしなかった。それは鼻をすするような音を響かせ、そして振り返った。

 目が合う。

 闇の中に、小さな二つの眼球が浮かんで見えた。血走り充血した瞳の中心にある、小さな黒い虹彩が、無感情にこちらを捕捉している。

 雲が移動し、月明かりがそれの姿を照らした。

 最初に目に入ったのは、髑髏だった。人か獣か定かではないが、むき出しになった頭蓋骨が端からうっすらと輪郭を表す。カウルは最初、それが哀れな犠牲者のものだと思った。だが違った。眼球はそこから覗いていた。窪み闇に埋もれた眼窩の中心にぽっつりと目が浮いて見える。

 長い手を前に垂らし、二本の後ろ脚で体を支えているそれは、全身の筋肉と骨の構造を入れ替えたかのようにいびつで、むき出しの赤い繊維が帆を張る様に骨の中で隆起していた。まるで骸に肉が巻き付いているようだった。

 もはや元々どんな生き物だったのか、想像もつかない。

 それは背中に生えたいくつもの突起を動かし立ち上がった。猿とも狼ともとれる前傾姿勢。髑髏型の口が笑うように開き、歯茎と鋭利な複数の歯が光を反射する。まだ噛み切ってはいなかったのか、狼の肉と毛の残骸がそこに見えた。

 全身の毛が逆立つ。今すぐに逃げなければ殺される。本能的な恐怖が電流のように背中を駆け抜ける。

 カウルが足に力を籠め身をひるがえしたのと、それが耳をつんざくような絶叫を上げたのは――ほとんど同時だった。





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